◆幕引『始まりの物語』
今から話す話は、およそ10年前に起こったことだ。あのとき僕は、6歳だった。あまりに強烈な出来事だったので、今でもはっきりと思い出せる。あれは最悪の出来事で、預言的で、僕の人生を揺るがす人生の転機でもあった。
外で遊びまわっていた僕ら兄弟、2歳年下の妹・叶、5歳年上の姉・凛は、昼の鐘が鳴ったので、当時住んでいたマンションに戻ってきていた。今日の昼食のおかずを気にしながら、急ぎ足で階段を駆け上がる。
自宅がある5階まで来て、サングラスとマスクをしている怪しい男とすれ違った。
「何あの人……」
凛姉は眉を潜めてその男を睨みつけた。
次に言葉を発したのは、妹の叶だった。
「うちのドア、なんで開いてるの」
不審に思い、僕らは顔を見合わせた。
何だか分からないが、とにかく何か良くないことが起こっている、そんな嫌な予感を僕は肌で感じた。
僕たちは急いで中に入った。
――血まみれで倒れている両親の姿が目に入り、絶句する僕ら。目の前の状況が理解できず、涙さえ満足に出なかった。とんでもない恐怖が、身体を襲った。震えて足に力が入らなくなり、思わず腰が抜ける。
後から聞いた話だと、強盗が家の中に押し入って、金目の物を奪い逃げたらしく。宝くじで高額が当たった直後だったので、狙われたのではないかということだった。宝くじなんて、当たらなければ良かった。
凛姉ちゃんが警察に電話をかける。よく見ると、手が小刻みに震えていた。僕は隣の人を呼ぶように命じられ、隣の部屋に住んでいる大山さんを呼びに行った。
「おばさん! おばさん! 大山のおばさん!」
インターホンを押しながら助けを求める僕。年相応に要領を得ない説明をしたものの、なんとか僕らの家に連れてくることが出来た。
大山さんは僕らに軽く確認を取ってからリビングまで入り込むと、手を口に当ててしばらく少しも動かずに震えていた。 受話器を置いたところを見るに、ちょうど通報が終わったらしかった。
大山さんは僕らを部屋に迎え入れると、温かいココアを飲ませてくれた。
俯きながら出されたココアを飲む僕達。それでも身体の震えは止まらなかった。
よく見ると、大山さんは、どこかに電話をかけている。僕達はただ黙り込んでいた。
しばらくして、受話器を置く大山のおばさん。
「今うちの旦那呼んだから、絶対に部屋の外から出ちゃ駄目――あら……?」
大山さんの様子がおかしい。何故か血の気が引いたような顔をしている。やがて、部屋の中でせわしなく何かを探し始めた。
何をしているんだろう、そう思って凛姉ちゃんに目を向けると、血の気が引いているのがわかった。
僕ははっとして部屋の中を見渡した。
「叶……?」
何でこんなことに気付かなかったんだろうと、僕は思った。
各々が自分のことで精一杯だった状況下で、僕らは最悪の事態を想定してしまった。
「嘘……」
姉の目から輝きが失われ、一切の表情が無い状態で涙を流すのを、僕は見た。
「叶!」
僕が出て行こうとすると、おばさんに力ずくで止められた。
「今は危ないから絶対に部屋から出ないで! 私ちょっと外見てくるから!」
「嫌だ!嫌だ!叶!叶!」
──頬に鈍痛が走る。
──世界が揺らぐ。
──思わず床に倒れ込む僕。
それで僕の頭は一気に冷静になった。
「今は我慢しなさい……!」
一気に開け放たれるドア。
「凛ちゃん! この子絶対外に出しちゃ駄目だからね!」
おばさんはそう告げると同時、猛スピードで部屋を飛び出していった。扉の閉まる爆音が部屋の中に響き渡る。
すごすごと居間に戻る僕。再び静寂が部屋に訪れた。
ふいに、ドアのチャイムが部屋の中に鳴り響く。顔を見合わせる僕と凛姉ちゃん。
「私出てくる」
背伸びをしてドアスコープを覗く。
「大山のおじさんだ」
姉はドアを開け、大山のおじさんを迎え入れた。
「凛ちゃん、章君、大丈夫だったか!?」
本気で心配してくれている大山のおじさんの反応が嬉しくて堪らず、若干の笑みが零れる。
「もう大丈夫だ」
大山のおじさんは、そう笑い掛けながら、僕と姉ちゃんの肩に手を置いてくれた。大山のおじさんは、近くに居て安心出来る人だった。
おじさんから聞いた話だと、土曜日だったことが幸いして、おじさんはすぐに駆けつけられたらしい。
「おや、久枝はどうした? あと叶ちゃんは?」
僕と姉ちゃんは目を見交わし、おじさんの方に目を向けた。
「叶が居なくなって、それでおばさんが探しに……でも家に帰る途中で怪しい男の人とすれ違ったことに気付いて……」
答えたのは姉ちゃんだった。要領を得ない返答だったが、大山のおじさんは少し考えると、ちゃんと理解してくれたようだった。
「そういうことか……」
おじさんは何かを考え込み、立ち上がろうとしたり、座り込んだり、とにかくどう対処するか考えているようだった。
「おじさんはここに残るよ」
目を丸くする僕ら。
「叶ちゃんも心配だけど、残された君たちのことも心配だ。久枝はああ見えてかなりたくましい女だし、あいつならきっと大丈夫だろう。何よりも、君たちが自己判断で外に探しに行かれたら大変だからね」
おじさんの行動は今考えてもちょっと変わっている。とはいえ、かなり判断に迷いがあったようで、険しい表情をしながら掌を握り込んで正座していた。
「おじさん?」
こちらの声にも反応しない。
「章、ちょっと耳貸して」
何だろう、と思った。
「どうしても叶を捜しに行きたいの。章もそうじゃない?」
「え……でもどうやって?」
「今からお姉ちゃんが何とかして部屋を出るから、章は後から付いてきて」
「何とか……って……」
「……信じて」
「……何をこそこそ話してるんだ?」
おじさんの介入があったが、もう話は済んだ後だった。
「今話していたことを正直に言いなさい。怒らないから」
「でもおじさん、私ちょっとトイレ行きたくて……」
「はぁ……。行ってきなさい」
その時僕は思った。何か考えていたのだろうが、きっと失敗したんだろう、と。
そういう意味では、あまりに姉の動きが自然過ぎたのか、彼女がどう振舞っていたのかをよく覚えていない。
なんと姉はおじさんから一定の距離を取ると、一気にドアを開け、部屋から脱出した。
予想外の行動に、僕も大山のおじさんも怯んだ。
「何を考えているんだ!」
おじさんは迷わず姉を追った。恐らく、僕は普段大人しかったから、放っておいても大丈夫だと思ったのだろう。僕はしばらく残るべきか行くべきか葛藤し、勇気を出してドアを開け放った。
マンションの階段を降りようと思ったところで、姉ちゃんと遭遇した。おじさんを出し抜いた喜びからか、場違いな状況にも係わらず、その顔からは笑みが零れていた。
どうやら、上の階への階段をあえて上ったらしい。
僕達は大山のおじさんが敷地を抜け出したことを確認して、階段を降り始めた。
「手分けして探そう」
外で遊ぶことの多かった僕らは、大山のおじさんよりも土地勘があり、もし仮に見つかっても逃げ果せる自信があった。
僕は無心で走り回り、気が付くと、公園で叶を見つけていた。
「叶!」
僕は叶の手を掴んで、立ち上がらせた。
「よくわからないけど、今危ないんだ! 急いで帰るよ!」
僕は叶の手を引くと、走りだそうとしてーー。
振り返ると、そこには知らない男が居た。
「見つけた」
その時、僕はすぐに気付いた。
(さっきマンションですれ違った怪しい人だ……!)
「居たぞ!あいつだ!」
警官が公園に集まり始める。
男は舌打ちをすると、叶を抱え込んでナイフを突き付けた。
「近付いたらこのガキの命は無いぞ!」
震える膝。警官の怒声。これ以上無いくらいの恐怖に駆られた僕は、全速力で男と警官の間を走り抜けた。
「もう逃げ場は無いぞ!おとなしく投降しろ!」
警官の警告にも動じず、半笑いをする男。小声で警官たちが話し始めるのが聞こえた。
「発砲許可……ですか?」
「今は時間を……」
「でも今にも……そうな勢いですよ……」
「それでも何とか……しかないだろ……」
婦人警官が、僕の肩を持って擦ってくれている。
「もう大丈夫だからね。今私たちが絶対に妹さん助けてあげるからね」
僕はその時、頭の中が真っ白になっていた。何も考える余裕が無く、感情というものが湧かない。曖昧な視界と、原初的な感情――恐怖。僕はもう立っていられなかった。
記憶の混濁。
逃げきれないと悟った男が妹に手を掛ける。
僕の奥底から溢れ出るどす黒い怨念と研ぎ澄まされた殺意。
目の合う男と僕。
突然倒れ込む男。
そして、そんな曖昧な記憶が、ついに途切れた。
*
目を覚ますと、周りから人気が消えていて、僕は色の消えた世界に倒れ込んでいた。
起き上がると、目の前に不思議な格好の女性が居ることに気付く。黒のYシャツに紫のネクタイ、黒いスキニーに白衣を着ている。髪は後ろに高めで纏めていた。
ただ、顔つきだけが妙に思い出せない。
「誰……?」
僕は思わずそう尋ねた。
「私に名は無いよ」
即答だった。
「でも君が呼ぶ時は、“サエカ”と……そう呼んでくれ」
「サエカ……」
静穏で、温かくて落ち着くその声に、僕は確かな安心感を覚えていた。気が付くと、膝の震えが止まっている。
僕は立ちあがり、空を見上げた。
色の消えた空。ゆっくりと流れていく雲。黒い太陽。
「ここは何処?」
「『時に取り残された空間』さ。まだ実験段階だけどね」
「時に……取り残された……?」
「今の君に説明しても無駄だろう」
彼女は、見るからに博識で、冷静にも関わらず、冷淡ではなかった。
その雰囲気は、喩えるなら女流学者。
そして何より僕の印象に残ったのは、その全身から溢れ出る魔力にも等しい魅力だった。
「君は先ほど恨みの籠もった視線を投げかけた途端、殺人犯が気を失ったことに対してどう思う?」
意味がわからなかった。
当然だった。
“恨みの籠もった視線を投げかける”ことと、“殺人犯が気を失う”ことに何の繋がりも感じられないからだ。
「君には“邪視”の素質がある」
こちらの返答も待たずに、彼女は続けた。
「要するに、なんだ、君は恨みの籠もった視線を投げかけることで、その人を最悪、殺すことが出来る」
僕は思った。何を言っているんだろう、この人は。
「ただしその力を使うことで、不幸にはなっても、決して幸せにはならない。私が良いというまで、その力を絶対に使うな。いいね?」
初対面にも関わらず、僕は彼女のことを心から信頼していた。
彼女の溢れ出る魔力のようなものか、女流学者のような雰囲気、あるいは、その安穏たる声色がそうさせたのかもしれない。
とにかくその時、僕はその人のことを本気で信じられて、言葉の意味を大体理解したので、首を縦に振った。
「これからはこの眼鏡を遣え」
サエカは僕に青縁の眼鏡を差し出した。しかし、当時の僕は眼鏡の掛け方を知らない。
「あー、もう、これだから子供は嫌なんだ」
そう言いながらも、丁寧に眼鏡を掛けてくれた。
「さて、私は今から少し不思議なことを言おうと思う」
「さっきから言ってる」
サエカは目を丸くしたが、やがて腹を抱えて笑い出した。
何故笑い出したのか、僕にはさっぱりだった。
「君は面白い奴だな。いいよ、それでいい!」
こちらがうんざりするほど笑い通した後、落ち着きを取り戻したサエカは、再び言葉を紡ぎ始めた。
「いいか、よく聞け。君は10年後に、とんでもないことに巻き込まれる。でも君は必ず生き残る。信じろ。私は自分に嘘を吐くが、人に嘘は吐かない」
「…………」
彼女が予告した通り、確かに先程以上に訳の分からない言葉だった。
「さて、ここからは私のサービスだ。一字一句覚える必要は無いから、とにかく印象だけでもいいから、記憶しろ。いいな?」
そう言われたにも関わらず、僕は一字一句覚えるつもりでいた。
「過去は常に自分自身と共にある。もし君は過去へ戻りたいという誘惑に駆られることがあったら、その時は今から言う言葉を思い出せ。君が過去に戻って歴史を変えても、君自身の宿命を変えることは決してできない。だから、戦え。決して、逃げるな。でもどうしようもなくなったら、素直に逃げろ。一見矛盾しているが、生きる為ということに変わりは無い」
僕はサエカの目を真っ直ぐに見詰め、頷いた。
とんでもなく長い台詞だったが、大体こんな感じの内容だった気がする。
生死の境を彷徨うような経験をした直後の言葉だからこそ、喩え印象だけでも、僕の記憶に刻み込まれたのだろう。
「これで、私の言いたいことは全部だ。もう時間が来たようだから、私は失礼するよ」
僕は、なんとなく懐かしさを覚えるその女性との別れが、悲しくて仕方が無かった。過ごした時間は僅かだったが、僕は何故かその女性に惹かれていた。思わず、泣き始める僕。
「あーあー、そう泣くな。私は子供の啼泣に一番弱いんだから」
僕の涙を指で払うサエカ。
「そんなこと言われても……」
なかなか張ることの出来ない、緩んだ涙腺。
慈愛の籠もったその微笑みは、僕が今まで見たサエカの表情の中で一番美しかった。
どういう経緯だったか覚えていないが、僕は彼女とその灰色の世界を遊歩していた。僕は話した内容を覚えていないが、彼女の言葉だけは思い出せる。
“私はね、本当っぽい嘘と嘘っぽい本当を話すのが大好きなんだ。我ながら性格が悪いな”
“家族は居ないよ。全員私よりも先に死んじゃったからね”
“私はね、博識だとよく言われるが、それは長く生き過ぎたせいなんだ”
“もし仮に生まれ変われるのなら、苦しくても生き甲斐のある人生を送りたいと思っている”
やがて、別れの時はやって来た。
その時の台詞は、多分こうだ。
「いいか、君が生きている中で私と会うのはこれで最後だが、私はいつも君の傍で、君のことを見守っている」
「君が私の存在を感じることは間接的だが、直接的な干渉が出来るのは私の妹だけだ。しかもそれは10年後から。でもこれだけは覚えておけ」
僕の頭を抱え、決して目を逸らすことの出来ないようにするサエカ。僕は真っ直ぐに、瞳の奥を射抜かれた。
生
き
ろ
額に柔らかいものが当たる。温かな感触だった。
同時、大きな振動と共に轟音を放つ世界。
高層ビルが上部から、壊れた積み木のように舞い上がり、その破片が砂粒のようになって空へと蒸発していく。
やがて空に亀裂が出来、光が差し込む。
モノクロだった世界が色を取り戻した。
「今度こそお別れだ」
サエカは、背を向けて去っていった。
待って、待って――届かない、声にならない声。
いくら手を伸ばしても、追い掛けても、触れることは出来なくて。
空の亀裂から差し込んだ光が、世界を覆い尽くしていく。
やがて視界に意味が無くなり――。
――白。
最後に見た光景は、何物にも染まらない、白だった。
*
目蓋を開けると、見知らぬ白い天井が目に入った。
視界がぼやけて、よく物が見えない。しかも、なんとなく視界に違和感がある。
「章!」
姉ちゃんの声だ。
「姉ちゃん……?」
「良かった……」
「……ここは?」
「病院だよ」
「あー、病院か……」
僕には入院の経験がなかったが、何となくで、ここが病院なのだと、理解して頷いた。
「そうだ!叶!叶は?」
「元気にしてるわよ」
僕の方を擦ってくれた婦人警官がそこに居た。
「あの子気丈な子ね、さっきまで泣いてたと思ったら、しばらく経ったら元通りよ。今別の部屋に居るけど、4歳の子ってそういうものなのかしらね。ああ、そうだ、看護婦さん呼んでこないと」
そう言うと、名前も知らない婦人警官さんは、部屋から出て行った。
「もう何にも無くなっちゃったけど、叔母さんが引き取ってくれるって。これからも、頑張っていこうね」
「……うん」
そう言うと、姉ちゃんは手を持ってくれた。
「ところで章、さっきから疑問に思っていることがあるんだけど」
「何?」
「その青縁の眼鏡、いつから掛け始めたの?」
「え?」
僕は目元に触れ、気が付いた。
(見えるものが少し変なのはこれのせいか……)
「おかしいから外した方がいいわよ」
姉ちゃんが眼鏡を外そうとしたので、僕は抵抗した。僕の態度に、姉ちゃんは目を丸くした。
「章が抵抗するなんて珍しいじゃない」
「別に珍しくなんかないよ」
「それ、そんなに大事なものなの?」
僕はしばらく考えてこう言った。
「目を直すためのものだって、サエカさんが言ってた」
「はぁ?誰よ、それは」
「……わからないけど」
「わからないけど、何なの?」
「…………」
「なんとか言いなさいよ」
「……きっと…………」
「きっと、何?」
「…………きっと……神様だと思う」