◆第八話『愛妹の夢想』
気がつくと、僕は真っ白な世界に、ひとり佇んでいた。
何も物として存在しない、謎の温もりに溢れた世界。いつまでも居たいと思えるような、春の日差しのように暖かな場所。
僕がその子宮の中のような温もりを享受していると、ふいに、空から、心臓に響くように声が降ってきた。全てを許して安らぐことの出来る、優しげな声だった。
「君が望む願いは何?」
『不思議な存在』が話しかけてくる。朦朧とした意識の中で、僕は何故かその不可思議な状況に一切の疑問を感じることなく、返答する。
「僕は叶を蘇らせるんだ」
「……叶?」
「僕の妹だ」
「叶が居れば、幸せ?」
「ああ、もちろん」
僕は毅然とした態度で言葉を返した。
「……その為に身を削ってまで戦うの?」
「叶の為なら、戦える」
「それは、何故?」
自らの身を粉にするほどのその願望の強さに、彼は疑問を呈した。
「あの事故は、理不尽だった」
「あの、事故?」
「だから僕がそれをなんとしても修正することが、正しいことだと思うから」
「正しい、こと」
その『不思議な存在』は、まるで言葉を学習するかのように、僕の言葉を復唱した。
「君にとって、正義って何?」
「何よりも強い動機」
強く頷く、その『不思議な存在』。
「正義って、強さ?」
「違う。きっと強いのが正義なんじゃない、正しいことが強いんだ」
「君は正義の為に戦うヒーローなわけだ」
「……そうかもしれないな」
彼は、僕の返答に大笑いした。どこか威厳のある声だった。
「君が妹を蘇らせたら、この世界は嘘になるかもしれない。君だけが世界を移動するかもしれない。君はそれでいいのか?」
「それで、構わない」
「……本当に?」
「少し、しつこくないか?」
僕は、分かりきっていることを何度も聞いてくる彼に、多少の苛立ちを覚えた。
「なら妹が生きているとする世界軸を見せてあげよう」
この言葉を皮切りにして、その真っ白な世界は、目の奥へと吸い込まれていき、やがて、消失した。
そして気が付くと僕は、姉の凛の部屋に居た。
「お兄ちゃん、何ボーッとしてるの?」
はっとして僕は叶に向き直る。そういえば、数学を教えている最中だった。
ん? 姉ちゃんの部屋……? 僕は何を言っているんだろう。これは叶と姉ちゃんの部屋じゃないか。叶のことを忘れるなんて、僕はどうかしている。
「わけがわからないんだから、ちゃんと教えてくれないと困るよ~。ってお兄ちゃん?」
叶が僕の眼を覗き込んでくる。
「だいじょぶ?」
本気で心配そうな視線を向けてくる叶に、『可愛い妹に心配をかけさせるなんて、なんて情けない兄だ』と自身を叱り、自分の頬を叩いて気合いを入れる僕。
「大丈夫。どこだっけ?」
「四角二の括弧一、連立方程式の解法だよ。『二つやり方あるってどういうこと?』って今さっき聞いたよね?」
「ああ、そういうことか。どちらもこの二つの式を総合して得られた結果だから、同じ答えに行きつくんだよ」
「……つまり?」
「①の式の法則と、②の式の法則を両方満たす為には、この二つを組み合わせればいいんだ。代入法の方が楽だったら代入法、加減法の方が楽だったら加減法を使うといい」
「なるほど! さっすがお兄ちゃん頭いいね!」
「褒めても何も出ないぞー」
と言いつつ、少し乗せられている自分が居た。
叶は純粋なので、恐らく心の底から褒めてくれたのだろう。だが妹の手前、あからさまに照れるわけにもいかない。
「違う解法で同じ答えに行きつくんだよ。凄いだろ?」
「うーん、凄い……」
あまり乗り気ではない叶に、僕は少しだけ残念な気持ちになった。伝わらないか、数学の良さ。
しかし、妹が気を使って同意してくれたことに気付き、ああ、本当に良い子だと、機嫌を取り戻す僕。
「数学って、何が楽しいの?」
軽く哲学的なその質問に、僕は即答してみせた。
「パズルみたいなものだと思えばいいよ」
「パズル……? パズル……。パズルかぁ」
叶は僕の返答にとりあえず納得したようだった。
「じゃあ、続きやろうか」
「……はぁ」
叶は目に見えて疲れ気味だ。
「……少し休みたいな」
上目遣いでこちらを見詰めてくる叶だが、これで落ちていては兄兼特訓講師失格だ。
「じゃあキリの良いところまでやったら少し休もう。あと二問だけ」
「えー、なんでよぉ! ケチ!」
駄々をこねるのはいつもの光景だ。
でもきっと彼女の為になるから、少しは厳しくしないといけない。
愛情だけを与えれば、肥料をやり過ぎた植物のように、腐っていってしまうから。
「チョコパイが食べたいの!」
「そんなこと言われてもな……」
「大将様お願いします、ぐぁ」
机の上にひれ伏す叶。土下座を通り越した“土下寝”という技らしい。でも何故物を頼む時に土下寝なのか未だによくわからない。
ただ一つ言えるのは、このお茶目な妹には結局根負けするこいうことだ。
「仕方ないな、少し休憩挟むか」
「よし」
グッとガッツポーズを決める叶。
疲れたの嘘じゃないだろうな?
「食べ終わったらまたやる!」
「そうやっていつも後で逃げるんだから……」
今は叶にとって中二の冬。それはある程度のところを受験するのであれば、十分に準備を始めておくべき時分だ。叶は自分より学力レベルの高い友人と同じ高校へ進学する為、苦手科目の数学を、僕を使って特訓している。
「ほら、お兄ちゃんも食べなよ」
チョコレートを口元に付けたまま、叶はチョコパイを勧めてきた。顔立ちは整っているが、まだまだだらしない奴だ。
「いいよ、僕は太るから。あと口元におやつ付いてるぞ」
おっとと、と叶はあわてて口元を手で拭うと、続けた。
「動けばいいのよ、お兄ちゃん」
「僕の身体は省エネモードなんだよ。高校に入ったら勉強に集中するって決めてたからな」
「高校だって良いところ行ってる癖してよく言うよ、アキ兄ちゃんは。もっと身体動かしなよ」
「中学時代に動けてたから、授業で体育を適当にやってれば僕はいいの」
「なんで良さがわからんかなー」
彼女は二つのチョコパイを牛乳で流し込むと、特訓の催促をした。
「さぁ、続き頑張るよ!」
「お、珍しく逃げない! 偉いな、叶!」
真面目で良い子に育って良かった、と心から思った。十年前の事件なんて、もう覚えてないだろうな、こいつは。
「もうお兄ちゃんたら! そういう褒められ方する歳じゃないのよ? 私」
同年代と比べ心の発達が遅い叶だが、中学二年生になってようやく女としての自覚が出てきたらしい。
「ごめん、ごめん」
僕は笑いながら、それを軽く受け流す。
彼女は廊下へと続くドアを開けると、僕の背中を押しながら、階段を登り始めた。
すると、突然――。
心臓が、息が苦しくなるほどの動悸を打ち始めた。
「うっ……ぅうア……あッ!」
フラッシュバックのように、あの日の悪夢が脳内に蘇る。
『お兄ちゃん危ない……!』
――あの時、叶は咄嗟に僕を突き飛ばした。直後、横から突っ込んで来るトラック。あまりの出来事についていけず、その場に崩れ落ちる僕。
「うっ……!」
ふらついて、階段から転げ落ちそうになる身体を、手すりに捕まってなんとか支える。
「お兄ちゃん、大丈夫!?」
うっすらと“中学二年生の”叶の声が聞こえてくる。やがて僕はあまりの不快感に目を開けることが出来なくなり、僕の視界は――。
完全に真っ白になった。
やがて意識が段々とはっきりし始め、それにつれて自分の立場を理解してくる。僕はその『不思議な存在』の前で、ゆっくりと顔を上げた。
「これが君が見れたかもしれない世界と、現実の世界だ。君の願いは、叶を蘇らせること、でいいんだね?」
「当たり前だ。叶が死んでしまった世界、あんな事故があった世界なんて、考えられる筈がない」
「でも、それは“今の自分”を、捨てることになるかもしれないよ? それでいいのかい?」
「……それでも」
彼の強い追及に、少しだけ心に迷いを感じてしまう僕。
「今の友人関係も、全て変わってしまうよ? それで本当に構わないんだね?」
「それでも僕は、あの事故を無くしたいんだ……」
僕は、少しずつ、自分の決意に自信がなくなっていった。
彼はそんな僕を無言で見下ろすと、十数秒後にまた話し始めた。
「猶予をあげよう。それは、『幻想戦争』が終結するまでの間だ。君は、願いを変えることが出来る」
「変えることなんて、ない……」
僕の自信なさげな言葉を受けて、彼が物憂げになるのが、雰囲気で伝わってくる。
「君にはまだ、よくわからないんだね。今の世界で、手にしたものの価値が。もう、下がりなさい」
こうして僕はその『不思議な存在』との対話を終えた。




