001
太陽はとうに沈み、星の出る時間であるにも関わらず、街の広場には大勢の人だかりが出来ていた。その人だかりの中心には、轟々と大量の本が煙を上げて燃えている。
異端審問官の男は、一人の少女へとにじり寄り、冷徹な瞳で少女を見下していた。少女は、目に薄ら涙を浮かべながら、渡すまいと絵本を懸命に胸へ抱き寄せていた。
「本をこの火の中へと焼べ、異教徒では無いことを示せ。さもなくば、異教徒と見做し、刑罰に処す」
異端審問官は、少女へ本を放棄するように威圧的にそう迫るが、少女はその本を大切そうに抱き寄せ、離そうとはしなかった。
「もう一度、警告する。本をこの火の中へと焼べ、異教徒では無いことを示せ。さもなくば、異教徒と見做し、刑罰に処す」
二度目のその警告に動揺したのは少女では無く、街人だった。
早く火の中へ本を捨てろ、早く火の中へ本を捨てろ――街人は、激しく燃え上がる炎の前まで、少女の背中を押し出した。こんなにも幼い被害者を出してはいけないと。
しかし、少女は絵本を炎の中へと投げ入れないと言うその行動の意味を理解していない訳では無かった。異教徒と認定され、異端審問官に磔にされて火を放たれた人間を、少なからず知っていたからだ。
それでも、少女がその絵本を手放そうとはしなかったのは、少女にとってそれほど大切な絵本だったからだろう。しかし、少女にとってその絵本が大切であるかどうかと言うことは、異端審問官にとって関係の無いことだった。
一向に絵本を火に焼べる素振りを見せない少女の態度に、異端審問官は苛立つ表情を見せ、絵本へと手を掛けた。
「嫌、止めて……っ」
少女は激しく抵抗する。しかし、子供である少女がどれだけ抵抗しようと、大人の力には適うはずもなく、異端審問官は強引に絵本を奪い取った。その拍子に、少女は後方へと突き飛ばされ、体を打ち付けた。
「手こずらせおって」
異端審問官は、その奪い取った絵本を躊躇することなく、炎の中へと投げ入れた。その出来事は、少女があっと言う間もないことで、瞬きを一つした次の瞬間には、絵本は炎の中へと飲み込まれていた。
少女は目を見開き茫然としていたが、はっとして我に返る。炎が完全に回る前の今ならまだ絵本を取り戻せると考え、立ち上がろうとする少女を街人が必死に押さえつけ、無理矢理に静止させた。
「これで救われた。より一層、正統として真っ当な道を歩まれよ」
異端審問官は少女へそんな言葉を投げ掛ける。しかし、少女にとってそんな事はどうでも良かった。早く炎の中から絵本を取り出さなければ燃えてしまう――少女の頭の中には、それ以外に他なかった。
押さえつけられた少女は、懸命に手を伸ばす。
しかし、その手は絵本に届くことは無く――そして、炎は無情にも全ての本を燃やし尽くした。その煙は、天高く立ち昇って行く。茜色に染まる空には、燦々と星々が輝いていた。
異端審問官……異端信仰者を正統側へ復帰させる、もしくは異端者として排除するする人間のことです。異端審問を行う為の施設を異端審問所と呼びます。また、名前くらい知る人の多い魔女狩りは、異端審問の形式を一部借用していますが、正確には区別されます。
焚書……書物を燃やすことです。 思想や学問、宗教等を記述する本や作品を焼却することで、権力によって弾圧することを言います。