問う者
そうと分かれば行動在るのみ。見たかった映画もあるし、食べたかった駅前のスイーツもいい。早速着替えたジーパンに財布を押し込むと、いつもの様にカラビナに括られた部屋の鍵を吊り下げ、意気揚々と表に繰り出した。
ほんの少しだけしょく罪の念に駆られたのだが、眩しく攻め立てる日の光を両手で遮ると、少しずつ軽くなってゆく足取りが、その念を打ち消していった。
三ツ谷中町の商店街を左に見ながら、駅方向へと進んでゆく。途中、小さな雑貨屋さんの前で、水打ちしているそこの主人と目が合った。
「面白い物が入りましたよ。見てゆきますか? 先生」
にっこりと笑いながら一馬に近づくと、店の中へと誘うのだった。
「何でしょう、面白い物って」
「まあまあ、見て行って下さい。きっと先生の気に入る物ですよ」
そう言いながら一馬の後ろに回り込んだかと思うと、半ば強引に店の中へと押し込むのだった。
三年前、この町に越して来てから、今、押し込まれた主人の雑貨屋には、幾度となく出入りしている。まるで骨董屋のような品揃えと、主人の怪しげな雰囲気が、一馬のツボにハマったのだ。左腕にはめられた一馬お気に入り腕時計ゾンネも、この店で購入したものだった。ちなみに、ディーゼルの財布も付け加えておく。
「また何かとんでもない物でも仕入れたのですか」
グイグイと押されながらも、半身後ろに仰け反りながら、顔だけ少し後ろ向きで主人に尋ねる。
「ふう・・・ちょっと待ってて下さいよ」
レジのあるカウンターまで押して来ると、スルリと一馬の脇をすり抜け、奥の何やら怪しげな暗がりへと消えて行った。
商ケースを兼ねたガラス張りのカウンターの中には、相変わらず、これはマズイんじゃあないかと思わせる物がびっしりと並んでいた。ついと、ほくそ笑んでしまう。
サイの図柄が描かれたフンティングワールドなる腕時計やら、セイユウローリックスとか、コイヴィトン、はたまたティカニー。まだまだ出てきそうな勢いだ。これ以上は声に出して大笑いしそうなので、やめておく。
「お待たせです。どうですか、良いでしょう」
時を掛けず出してきた物が、主人の両手に抱えられ、一馬の目の前で誇らしげにこちらを向いている。
「へえー、ショルダーバッグですか。変わったデザインですねえ」
「そうでしょ。手に入れるには大変でした。何せ、時代物ですから、この手の物は右から左、中々出る物じゃありませんよ」
「時代物ですか。いつの頃でしょう?」
「幕末から明治の初め、と云ったところでしょうか」
裏にしたり、ひっくり返したりしながら主人が言った。
得意げに見せるそのポーターバッグは、確かに変わった面白い形を整えている。まるでがま口のような風体に、見るからに厚手な表皮は、まだまだ艶の生きている漆のような黒色をし、サイドに設けられたベルトの輪っかもピカピカと光り輝いているではないか。とても時代物とは思えなかった。
余程手入れが良かったに違いないその物は、即座に一馬の興味を引くには十分すぎた。
「御主人、いくらと付けますか?」
「やはり、お気に召したようで。私が誘ったのですから、それに先生にはいつも御ひいきにして頂いております手前、どうでしょう仕入れ値プラスお気持ちと云うことで・・・二万五千、いかがですか?」
言いながら主人はそのバッグを一馬に渡した。
安いのか高いのか、それにお気持ち代とは一体いくらなのか、さっぱり分からないまま、ディーゼルの財布をジーパンのポケットから引っ張り出すと、言われた金額を主人に手渡すのだった。
「おお、大分いい味が出てきましたねえ。その財布」
売った手前のよいしょなのか、これまた分からないまま、一馬は頷くだけだった。
いつもこうなのだ。この店に立ち寄ると必ず何か買わされてしまう。だが、この店で買った全ての物は、何故か大のお気に入りとなるから不思議だった。
多分、このポーターバッグも間違いないだろう。
「先生、大事に使って下さいよ。もう、二度と出るもんじゃあないですからね」
店先まで出てくれた主人が、にっこりと笑いながら言った。
「じゃあ、また寄らせてもらいます」
一馬もにっこりと笑い、軽く頭を下げながら、来た道を戻ってゆく。
思わぬ所で大枚をはたいてしまった。もう、映画も駅前のスイーツも無しだ。
本当にこれで良かったのかなぁ、と思いつつも、抱きしめたバッグが愛おしかったりもするのだった。
仕方なくの帰り道、袈裟に掛けたバッグが映るショウウインドウのガラスを見ながら、一馬はニンマリと笑った。
「中々、いいですよ、これ」
既にお気に入りの仲間入りを果たしているバッグだった。
「コーヒーでも飲んで行こうかな」
一人呟くと、三ツ谷中町の商店街へと入ってゆく。
南から北にかけて長く伸びるアーケード張りの商店街は、右側に商店、左側には飲食店舗と、異なる店並びで配置され、とても分かりやすくなっている。一馬が足しげく通う、喫茶店もこの左側の並びにあるのだ。
喫茶 麦麦と書かれたガラス張りの扉を押しあけると、古めかしい店内は行き届いた手入れがなされ、こげ茶色をした六人掛けのカウンターの中に、グリースで後ろへと流した白髪が決まっているマスターが立っている。
「おかえりなさい」
いつもの言葉で出迎えてくれたマスターが、にっこりと笑った。
どうやら、一馬がこの日最初の客らしい。
「執筆はよいのですか?」
マスターの気遣いに対して、一馬も応える。
「はい。今日は久しぶりにお休みです」
勝手に作ったお休みではあるが・・・
「それは良いですね。じゃあ、コーヒーを入れましょう。いつもの豆でいいですね?」
「はい。お願いします」
静かなやり取りの後、一馬がカウンターの隅へと座った事を確認したマスターが、氷の入った冷たい水で満たされたグラスを差し出した。
一気に呑み干すと、すぐに水差しから注ぎ込み、もう一度グラスを満たしてくれるのだった。
「今日も外は暑いでしょ。言いたくないですけどねえ」
「ええ、とっても。僕みたいに昼間あんまり外に出ない奴に取っては、外界は灼熱地獄に等しいです」
「あっははは、そうですか。蒸発しないように気を付けないといけませんね」
言いながら、サイフォンの下に置かれたアルコールランプに火を着けた。
「こんなのは、どうです?」
マスターが差し出してくれた小皿に入った木の実の様な物が、目の前にそっと置かれた。
「これは?」
「胡桃ですよ。先程割ったばかりです。よろしかったら」
「有難う御座います。喜んで頂きます」
「昨年、青森から送られて来た物です。自生しているらしく、鬼ぐるみと呼ばれているそうですよ」
「え、鬼・・・ですか」
「はい、何せ殻がごつごつしていて、鬼のように硬いので、そう呼ばれているようです」
「へー、そうなんですか。でも、また何で青森から?」
「私の生まれ故郷なんです。今は姉がお婿さんをもらって継いでいます」
初めて聞く話だった。もうこの店には二年以上通っているが、マスターの年齢も含め、過去の出来事の一つも会話として出て来なかったのだ。
「そうなんですか。今、僕はとっても驚いているんですよ」
「え、どうしてですか?」
唐突に言いだした一馬の言葉に、湯を入れ温めているコーヒーカップをカウンターに置くと、マスターが不思議そうな顔でこちらを覗き込んだ。
「実は、僕の母が青森出身なんですよ」
「えー! そうなんですか。どうりで気の置けない人だなぁとは思っていたのですよ。成る程、そうでしたか。ちなみに、青森はどの辺ですか?」
青森と聞いた途端、グッと親近感が湧いたのだろうか、いつも寡黙なマスターが少し饒舌になったような気がした。
「確か、むつ市だったかと」
一馬にとって母の記憶は得る覚えでしかなかった。小学校へ上がるか上がらない頃に、亡くなったからだ。
「そうですか。わたしの所と遠くないですよ。のへじ、と云うところですから」
マスターは嬉しそうに言うと、ボコボコと湯が踊るサイフォンから、温めたカップへと出来上がったコーヒーを注ぎ入れた。
「では、そちらでお過ごしになられたんですか?」
「いいえ、静岡です。色々とあったようです・・・良く覚えてはいないんですが」
言うと、一馬はにっこりと笑った。
「成る程・・・お待ち同様でした。ささ、胡桃も食べてみて下さい」
出来たてのコーヒーを一馬の目の前に置くと、胡桃の入った小皿をあらためてすっと近づけた。
「では、遠慮なく」
差し出された小皿に手を伸ばすと、ひとかけら摘まんだ。
「今夜も熱帯夜でしょうねぇ」
アルコールランプの炎を閉じながら、マスターは目を伏せたまま言う。
カリカリと小さな音が洩れる口元が笑みをつくると、
「やっぱり暑いでしょうね。僕は夏が苦手です」
一馬の口元から白い八重歯が覗いた。
まったりとした時が流れている中、それはいきなりやって来た。
外からの熱を帯びた風が店内に流れ込むと同時に、いかめしい顔をした二人連れが、押し開いたドアから現れたのだ。
「いらっしゃいませ」
愛想よく出迎えたマスターに向かって唐突に質問する。前置きなしだ。
「おとといの事件、知ってますよねえ。秋川のですよ」
二人連れの内、ヒョロッとした体形をしている背の高いインテリ風な男が、ニヤニヤとした口元で言ったのだが、このヤサ男、目だけは笑っていなかった。
紺色に細い縦縞の入ったスーツが、やけに似合う風貌だ。足元はリーガルだろうか、黒のコインローハーを履いている。白いワイシャツの襟が表に出て、少々嫌味に映った。ネクタイはしていない。
「あの、どちら様でしょうか?」
当然だ。マスター、その質問は正解です・・・と、心の中で呟いた。
「失礼。川崎署から来た安城と言います」
ヤサ男が名乗った。どうやら先の事件で聞き込みに来た刑事らしい。
「松永だ」
もう一人の男が後ろからぶっきら棒に言うと、ベージュ色をした背広の内ポケットからそれらしい物をこちらに見せた。この男もノーネクタイだ。
「あ、そうでしたか。ご苦労様です。勿論、その事件は存じておりますよ」
後ろの男を意識しながら、マスターが言った。
「まあ、目と鼻の先ですからねえ、当然と言えば当然。つまらん質問でした。では、改めてお聞きしますが、当日の晩、十時頃までに何人位いこの店に出入りしましたか?」
改まった質問がとんでもないものだった。困惑するマスターを無視して、もう一人の刑事、松永と名乗った男が怒鳴りつけるように言った。
「何人だったかと聞いてるんだ。その日はやってたんだろ店。表に年中無休と書いてあるじゃあないか」
大柄なガタイを誇示するように揺すりながら、マスターのいるカウンターまで近づいて来る。
その男の前に左腕を突きだし制止たヤサ男の安城と云う刑事が、早く言わないと、どうなるものか分からないぞと、言いたげにこちらを向き、目配せするのだった。
「ああ、では、こうしましょう。私も正直当日のお客様が何人出入りしたかは正確には覚えて居りません。けれども、レシートは残っております。一枚一枚の金額で少しは人数が分かるのではと」
冷静さを取り戻したマスターが、静かな口調で提言する。
「だったら早く見せろ」
松永と云う刑事の相変わらずぶっきら棒な言い回しに、限りない不愉快さが店内いっぱいに広がった。
「では、少々お待ちを」
言うと、カウンターの中から繋がる部屋へと、マスターが入っていった。
「君は良く来るの?」
馴れ馴れしい物言いでニヤニヤと笑いながら、ヤサ男の安城が一馬に近づく。
「ええ」
短く答えると、それ以上は黙ったまま、下を向くのだった。
「今日は平日だよねえ。休みなの?」
職務質問なのだろうか、それとも世間話程度の会話なのか、一馬は理解できず黙ったままでいた。それを見ていた松永が、
「さぼったんだろ。これだからなあ、若い奴は」
呆れたような顔をしながら両手を上げると、口元をへの字にしながら安城と云う男の顔を覗き込んだ。
「松永さん、それは私の事言ってるのかな?」
「あ、いえいえ。めっそうもない、警部のことではありませんよ」
一馬は驚いた。てっきり松永と名乗った男が安城の上司と思っていたからだ。見かけ的にはガタイがいいのは松永だし、先程からの言い方しかり、年齢も若干ヤサ男の安城よりも上ではないかと思わせる厳つい顔立ちだったからだ。
「まあ、さぼるのは嫌いじゃあないけどね。ねえ、おにいさん」
一馬に同意を求めながら、横の椅子を引き出すとおもむろに体を預け、
「おやー、冷めちゃうよコーヒー。早く飲まないと」
肩肘をカウンターに付きながら頬杖まで付いて、一馬の手付かずで置かれている冷めたコーヒーの世話を焼くのだった。
「いいんです・・・猫舌なものですから」
蚊の鳴くような声で理由を言った。
「そうなんだぁ・・・猫舌なんだ。実は、私も」
「ね、猫・・・舌。あなたも・・・ですか?」
いるんだ。他にも猫舌な人が・・・一馬の口元が緩み、小さな八重歯が少しだけ覗いた。
「笑ったね、君。猫舌の人に猫舌って笑われたくないなぁ」
「あ、ごめんなさい。いたんだって思って、同じ人が」
「確かに私は猫舌だけど、君程ではないと思うよ。それに、そこまで冷めたコーヒーだったら、アイスの方が良いんじゃあないの?」
「良く言われます。はい。でも、香が」
「そうなんだよねえ、香なのよ。アイスコーヒーには絶対出せない香」
おしゃべりが好きなのか、それとも、安心させて何かを聞き出そうとしているのか、掴み処のない安城と云う男に、警戒心を抱きつつも何となく憎めないヤサ男だと一馬は思っていた。すると、突然。
「おい、にいちゃん。職業は何だ。それともまだ学生かあ? 何処の大学だ」
一方的な攻撃で、松永が一馬を攻め立てた。それも好奇な先入観で。
「あ、あの・・・校正です。そう、文章の校正をしてます」
嘘ではない。百パーセントではないが、自身でもそれはするから。
「へえー、校正さんかあ。それって、小説なんかも?」
興味があるらしく、安城が半身乗り出した。
「ええ、たまに」
「大変だろうねえ。作家先生に恥を描かさない様に、直していくんだあ」
「そこまでは・・・思ってないですけど」
「あっははは! 謙遜しないでよ、響せんせ」
何と、この男最初から知っていた。知っていてからかったのか? 趣味が悪い。憎めないと思った事を即座に後悔した。
「えー! 響って、あの響一馬。小説家の?」
さっきまで厳つい顔で睨みを利かせていた松永の表情が、驚きと共に柔らかく崩れて行った。
「ほんとっすか、警部。こいつ、いや、この人が響一馬・・・先生って」
完全に、声が上ずっている。
「そうですよねえ、せんせ。この前、NHKの対談番組に出てましたよねえ」
口角が右だけ上がる癖なのか、相変わらず笑っていない目をしながら、白い歯を見せ、安城が微笑んだ。
「先生!」
飛びついた松永が、その大きな体を思いっきり九の字に曲げ、一馬の手を取ったかと思うと、強く握った。
「うわー。本物ですかあ!」
「い、痛いです」
「ああ・・・すみません。俺、先生の大ファンでして、いやー嬉しいなあ。こんな所で会えるなんて、夢のようですよ。でも若いっすねえ、もう少し歳の行った人かと思ってました」
「へー、君。 読むんだ小説」
眉毛を上げた安城がおどけた仕草で言った。
「失礼ですなあ、読みますよ小説ぐらい」
「ちなみに、聞いていい? どんなジャンル?」
頬杖をついたまま意地悪そうな笑みを浮かべ、興奮押さえ切れない松永に尋ねた。
「ま、まあ、主に恋愛もの・・・とか」
「あっはっはは! あ、ゴメン。笑っちゃあ悪いよね。誰が何を読もうが、それは自由だから。だけど、君が恋愛小説とは、いや驚いたね」
「何をおっしゃいますか。この先生が書く物語の何て切ない事か。涙なしにラストは読めませんよ。ねえ、先生」
「あ、有難うございます。そう言って頂けると、凄く嬉しいです」
言うと、未だ興奮冷めやらない松永の大きな体が、えらく鬱陶しかったりもした。
「私はあんまり興味無いですねえ。虚像の恋愛話には」
増々細めた目を一馬に向けると、安城が言った。
「なんにも分かっちゃあいない。先生の書く恋愛小説は、きっと自らの経験に基づいてのことに決まってるじゃあないですか。だからこんな素晴らしい物語が出来るんですよ。いっぱい、いっぱい悲しい恋をして来たんですよ。絶対」
一馬から離れようとはしない松永が、ガタイに似合わず、かなり恥ずかしいセリフを言い放った。
「自分を重ねちゃうんだ、主人公と。おー、さぶ」
小声で言うと、一馬から目を離し、奥に入っていったマスターの気配を伺う素振りを見せる安城だった。最早、松永の茶番には付き合っていられないのだろう。
「お待たせしました。ここ二、三日の分が一緒になっていたものですから、仕分けするのに手間取りました。どうぞ」
奥から戻ったマスターが、遅くなった事を詫びると、小さな箱に入ったレシートの束を手渡した。
「はい、松永ちゃん。君の分ですよ」
そう言う安城の手から十数枚のレシートが、松永に渡された。
渋々受け取けとり一馬に一礼すると、近くのテーブル席を陣取り、手際よくレシートの確認作業に入った。
「どうしたんですか。やけにおとなしくなったみたいですが、あの大きな人」
近づいたマスターが、一馬の耳元で呟いた。
「何か、僕のファンだったらしくて」
「えー、あの大きな人がですか。じゃあ、ばれちゃったんですね」
「はい。安城って人が僕を知ってたみたいで」
「そうですか。先生有名ですからねえ」
「テレビの対談に出たのがまずかったようです。顔がばれちゃったから」
「それは仕方のない事でしょう。それだけ人気があるってことですから」
先程までの喧騒が嘘のように静まり返った店内に、ぺらぺらと捲るレシートの擦れる音だけが、聞こえていた。
妙な視線が一馬の掛けているバッグに注がれている。
「へえー、変わったバッグだねえ。オーダーメードかな?」
安城だった。
レシートの束を放り投げ、相変わらず頬杖を付いたままこちらを向いている。
「もう、御調べになったのですか?」
気付いたマスターが言った。
「ええ、やめました。これ、持って帰りますが、宜しいですよねえ」
何を言い出すかと思う気や、またまたとんでもない事を言いだした。
「それは、ちょっと困ります。経理上」
マスターも困惑している。
「まあまあ、お堅い事は抜きで、すぐお返ししますから」
「本当に困ります。あ、こうしましょう。コピーしましょう」
「ああ、成る程、それはいい。是非そうして頂きたい」
強引なくせに、単純な人だと一馬は思った。それにしても、この安城と云う人は頭が良いのか悪いのか、はたまた、とぼけた振りをしているのやら、全く分からない男だ。
「それ、良いですねえ。何か、凄く良い」
余程気に入ったのか、がまぐちのようなバッグから目を離さない。
「有難うございます。さっき、知り合いのお店で購入したばかりです」
「それって、まだ同じもの有るのかなあ?」
乗り出した体が一馬の掛けているバッグまで近づいた。
「それが、一品物らしく、他には無いそうです」
「あー、残念だあ。ホント! でも、良いなあーそれ」
元へと戻った椅子がギッシと鳴った。座りなおした安城がまたしても突拍子も無い事を言いだした。
「ねえ、それ、譲ってくんない? 買った値段の二割増しってとこでどう?」
先程までのふざけた表情は消えている。本当にこの人は手に入れようとしていることが、真剣な眼差しと共に伝わって来た。
「それは出来ません。気に入って購入したのですから、長く使うつもりです」
「そりゃあ、そうだよね。分かった、ではこうしよう。もし、必要無くなったら僕に譲ると云うことで・・・これ、プライベートな番号だから」
諦めきれない視線がバッグを刺しながら、携帯の番号が書かれた名刺を押し付けてきたのだった。
「なーにやってんですか警部。先生困ってるでしょうが。いい加減にしなさいよ。子供じゃあるまいし」
レシートの束を握りしめながら、立ち上がった松永が呆れた口調で非難した。
「よし、行こう。松永ちゃん、先戻ってて。あ、レシートのコピー宜しく」
行ったが早いか既に安城は表に飛び出していた。
「やれやれ、困ったもんだ。いつもああですよ。自分が気に入ると後先考えないからなあ、今も、探しに行ったんですよ、きっと。先生と同じもの。一品物って言われたのにねえ、自分で確認して納得しないと納まらないんですよあの人」
更に呆れながら、眉間に深いしわを寄せた松永が再び腰を下した。
「そうですか。じゃあ、大変ですねえ、あなたも。まるでおもりですね」
本気で同情しているのかは分からないが、気の毒そうな顔でマスターが松永の顔を覗き込むように言った。
「その通り、おもりです。でもねえ、あのこだわりと、執念深さが数々の難事件を解決してきたんですよ。そこん所は素直に認めるんですがね。何せ、雲を掴むような所があって、もう二年位一緒にいるんですが、未だに分からない」
言いながら、マスターから受け取ったレシートのコピーを胸ポケットに入れ、ゆっくりと立ち上がり、二人に向かって頭を下げると、入口へと向かった。
「あの、先生、いつもここに?」
ドアを開けながら振り向くと、松永は人懐っこそうな顔をして聞いて来た。
「ええ、コーヒーはいつもここでしか飲まないものですから」
「そうですか。じゃあ、また来ますよ。では、先生。それからマスター、気を悪くされたと思いますが、仕事なもんで」
「はい。分かってますよ。ぜひ又いらして下さい」
にっこりと笑う顔が、ドアのガラス越しに消えて行った。
「やれやれ、とんでもない目に合っちゃいましたねえ。気を悪くされたでしょ」
申し訳なさそうに一馬を見てマスターが苦笑いを見せた。
「いえ、大丈夫です。最初は嫌だなあと思いましたが・・・ファンは大事にしないと」
「先生の方が若いのに、人間が出来てますねえ」
「違うんですよ。本当はもめごと苦手で」
「誰だって、普通はそうですよ。コーヒー、入れ直しましょうか?」
気遣う様子がひしひしと伝わって来る。
「いえ、このままで」
「あ、そうでしたね。冷めないとね」
「はい」
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