第6話 気付けば、もう檻の中
メイク室のドアを開けると、そこには普段の生活とは程遠い景色が広がっていた。
壁の片側一面に敷き詰められた、幅の広い鏡。
短い仕切り板によって一定の間隔に分けられ、それぞれの前に化粧台が置かれている。
有名人のインタビュー等でよく見る場所だが、実際に足を踏み入れるのは初めてだ。
「あっ、冴子さん! 由香ちゃん、見つかったの?」
すると部屋の中には一人、誰かがいた。
室井さんと俺が中に入るなり、声をかけてくる。
「ダメよ、カオルちゃん。まんまと逃げられたわ……でも、この子に代わりをやってもらうから」
「あ~らら。困った娘ね~、由香ちゃんも」
頬に手を重ね、ヤレヤレと困った表情を浮かべるその人は、美容師みたいな格好をしていた。
黒チェックのベストに、しゅっと細長いスラックス。ポケットの上からハサミや串などが覗いている。
体型はかなりの細身。だが、そんなことよりも……
「あら! い~じゃない、その子! 新人さんかしら。いつ所属したの!?」
気になるのは、その性別だ。
口調だけ聞けば、女性っぽい。
でも、その容姿を見るに…………この人、男なんじゃないか?
いくら身体が細くても、やはり男女の体格差には誤魔化しきれないものがある。
「ど~も! はじめまして。私、ハレーションの専属スタイリスト カオルです。カオルちゃんって呼んでね」
そうこう思ってるうちに、キャピキャピっと自己紹介された。
そうか、カオルちゃん……か。
間近で見ると、より分かるな。やっぱ男だよ、この人。
「あ、どうも。俺、本城歩っていいます。……よろしく」
でも考えたら、俺さっきから初対面の相手に対してちょっと失礼だったかな。
勝手に詮索ばかりして……申し訳なかった。
「えっ、俺……!? ちょっと冴子さん、この子もしかして男の子なの?」
…………失礼はお互い様だ。やっぱり謝らない。
男同士だし、もう気兼ねする必要も無いだろう。
「おぉ! カオルちゃんの目まで欺くとは……これは、いよいよ本物かもね~。あっ、そんなことよりもう時間無いのよ。カオルちゃん、急いでメイクお願い!」
「オッケーよん! ……さぁ、歩くん。こっち」
カオルちゃんは化粧台の前にあるイスへと、俺を促す。
「お願いします。……あの、言っときますけど、俺は今日だけのバイトですし。所属とかそういうの、全然関係ないんで」
「あら、そうなの?」
イスの上に腰を落としつつ、一応注意しておく。
こっちは嫌々やってんだからな。
「ねぇ、勿体ないでしょ~。でもこれでステージに立てば……もしかしたら……」
鏡に反射した室井さんが、静かに含み笑いをしている。
……勝手に言ってろ。
カオルちゃんの手により、俺の顔には着々と化粧が施されていく。
およそ的確な判断で顔面を彩るその手つき。そして素早さ。
素人目に見ても分かる。この腕は只者ではない――と。
下地に化粧水と乳液を染み込ませ、全体にファンデーションが塗られる。
そしてアイシャドウに……っておいおい、唇にも何か塗ってるぞ。これは……グロスってやつか。
男相手にここまでやるのか。大変なんだな、アイドルって!
「お化粧のノリがいいわ~。何か特別なケアとかしてる?」
そう言われても、どう返せばいいのか……。
何から何までが初めての感覚。普段、化粧品なんて男性用洗顔フォームぐらいしか使わない俺にはまるで勝手が分からない。
「いや……別に」
まぁ、いいさ。相手はプロだ。
為すがままにしておけば、いずれそれっぽい感じに仕上げてくれるのだろう。
――そういえば、いつの間にか室井さんの姿が見えなくなってるな。
さっきから『時間が無い』を繰り返してたし、何かしらの準備にでも追われてるんだろうか。
「……よしっ、メイクは終わったわ。次は衣装ね」
カオルちゃんはメイク道具を置くと、後ろにあるハンガーラックへと向かった。
残された俺は、鏡に映る自分の顔と一対一で向かい合うことになる。
……は? これ、本当に俺か!?
顔全体に塗られたファンデーションにより、白く透き通った肌。
マスカラやピューラーによって整えられたまつ毛は、目をくっきりと際立たせている。
そして唇の上に塗られたグロスが、うっすらとピンク色の光を伴わせる。
…………キモい。
とても男の顔とは思えない。よく知らないが、男性アイドルってのはみんなこんな風に化粧するものなんだろうか。
せっかく丁寧にしてもらって何だが……カオルちゃんに対して憎しみの念が芽生えてきた。
「お待たせ! これがあなたのステージ衣装よ」
そんな俺の気持ちも知らず、カオルちゃんが衣装を抱えて戻ってきた。
生地は水色。折りたたんであるので、どういう衣装かは分からない。
「どうも。あとは、これに着替えればいいんですよね」
それを受け取ると、俺は着替えのために上着をまくろうとした。
だがそこで、
「お待たせ~……って、ちょっと、こら! なんてとこで着替えようとしてんの!? はしたないじゃないの。ちゃんと個室があるから、向こうで着替えなさい!」
ちょうど部屋に戻ってきた室井さんに、慌てて注意される。
「あっ、はい。すみません……」
言われるまま俺は、部屋の片隅にあったカーテンに仕切られた一角へと向かう。
そこはちょうど、人が一人が収まる程度の広さだった。
「まったく……ほんの5分間でも、あなたはアイドルになるのよ。少しくらい自覚を持ちなさい!」
何だろう……別に男の着替えなんて、隠すようなモンじゃないと思うけど。
女の子とは訳が違うんだし……。
「な……何だよ、これ!!」
個室に入った俺は改めて上着とズボンを脱ぎ、渡された衣装を広げてみた。
…………それはドレス。
どう見ても女物のフリフリ衣装のドレスだった。
「お、おい! どういうことだ!?」
慌てて個室から飛び出す。
さっき服を脱いだばかりなのでパンツ一丁の格好だったが、もうそんなことに構ってる場合じゃない。
「あら~……意外と引き締まった身体してるのね」
「ホント。細いから、てっきりもやし君かと思ってた」
だがそんな俺を、二人は呑気な顔で眺めている。
「む、室井さん!! 聞いてないですよ、こんなの! これってその……女装じゃねぇか!」
「ええ、そうよ。由香の代役なんですもの。当然でしょ?」
「由香って……あぁ、あの娘の名前か。じ……じゃあ、それならそうと最初から――」
「あら? 私は代役が欲しいってちゃんと言ったわよ。それをどう解釈したかなんて、キミの勝手じゃない」
「くっ……!」
ハメられた――衝動的にそう思った。
確かに向こうの言い分は間違ってない。
てっきり男性アイドルの仕事だと思った俺にも非はある……のかもしれない。
だが、これは……この展開はさすがに納得するわけにはいかない!
「ふっ、ふざけるな! 俺は男だぞ! 女装なんて出来るか!!」
「え~、せっかくコーディネイトしたのに~。あ……あ~あ、ファンデーションがちょっと崩れてるわ」
「うるさい!!」
こちらに駆け寄るカオルちゃんを、俺は怒鳴り声で振り払う。
「そんな怒んなくてもいいじゃない……ねっ。とりあえず着てみなさいよ。きっと似合うわよ」
「似合うとかそういう問題じゃないだろ! 冗談じゃない、俺はもう帰る!」
まるで話にならない。
もはや5万円の魅力もどこかに吹き飛んだ。こんなところに長居は無用と俺は自分の服を回収し、ドアに手をかける。
「あら、帰っちゃうの? じゃあ契約不履行ね……30万円」
だがその時、ちょうどドアの隣りに立っていた室井さんが、訳の分からん文句と一緒に手のひらを突き出してきた。
「30万? ……何のことです?」
言葉通りに受け取れば、30万円を払えってことだと思うが、その意味が分からない。
なぜここで帰ると、30万なんて大金を払う必要が出てくるんだ?
「んっふっふっふ……」
含み笑いを浮かべつつ、室井さんは上着のポケットから、折りたたまれた白い紙を取り出した。
それはさっき、俺が自分の名前をメモした紙だ。
そんなもの取り出して、どうするつもり――
「保険はかけておくものね~」
そう言うと同時に、室井さんは紙をバッと一面に広げてみせた。
そこには、こう書かれてある。
『乙は本日、ハレーションの代理メンバーとしてステージに立つことを義務とする。尚、この契約が事前に破棄された場合、乙は甲に対して金 30万を支払う旨なり。 本城歩』
――絶句した。
反対に、目の前の女は邪悪な笑みを浮かべている。
「さぁ! あなた、これにサインしたわよねぇ~?」
文面は手書きだ。いつの間に書かれたものなんだろうか……。
規約内容から少し間隔を空けたところに、俺の名前がしっかりと記載されている。
あらかじめ紙が折られていたのは、その位置を計算してのことだったのか。
外見だけ取れば、契約書として何ら遜色ない仕上がりになってる。
「違う……俺は名前を教えただけで……」
「やめましょう、不毛な水掛け論は。たとえあなたがどんなつもりでも、現にここに契約書があるのよ」
汚い……なんて汚いんだ!
とても常識ある社会人がやることとは思えない。
っていうか、詐欺だ。これ詐欺だろ! 紛うことなくベッタベタな悪質詐欺!
「訴えるぞ……こんなやり方、法律が許すはずが――」
「ウチは結構、大手の芸能事務所ですよ? もし訴えるなら、つよ~い法務部が相手になるけど」
四面楚歌……状況は圧倒的不利。
「…………」
「…………」
ぐうの音も出ない俺に対し、室井さんもやがて言葉を止めた。
やがて、その表情からは笑みが消えていく。
「ごめんなさいね……私だってホントはこんな真似したくないのよ。でも、今あなたにステージに立ってもらわなきゃ、あの娘達が……ハレーションが」
室井さんは急に神妙な面持ちになり、訴えるような物言いを始めた。
人を追い詰めといて、勝手なことばかり言いやがるな。
それで相手のことは、考える余裕も無いってのか。
「お願い……お願いよ!」
手を握り、真剣な表情で押し迫る室井さん。
……正直、今の俺にとってこの人の印象は最悪だ。
目的のためなら手段を選ばないなんて……!?
「あっ……」
そこで、ふと気付いた。
自分だって、人のことを言えないということに。
俺は今、金を追いかけている。
もはや生きるための行動全てが、金を目的としたものだ。
その姿は傍から見れば、さぞ無様に見えるだろう。
でもそれは、誰に何と言われようと妹を救うためにやってることだ。
もしかして俺がそうであるように、この人も……そのハレーションってアイドルに。
「…………」
室井さんは、真っ正面から俺を見つめている。
真剣なその眼差し……見る限り、嘘は見つけられない。
「これに着替えればいいんですよね。……5万円、忘れないでくださいよ」
「…………歩くん!」
喜び混じりの声を背に受け、俺は衣装を手にして着替え用の個室へと戻った。
俺もそうだし、きっとこの人にも譲れない何かがあるんだろう。
いいさ……どうせ今日限りだ。
俺は金が貰えるなら、それでいい。
そういうことにしておこう。