第59話 寝た子を起こすな!
静まり返ったステージ。
だがこれは、嵐の前の静けさでしかない。
――バンドメンバーを後ろに従え、その中央に立つ泉野麗。
彼女の息吹がマイクに吹き込められれば、たちまちまたあの嵐が起こる。
今度はステージ上だけでなく、世界中を巻き込んで。
「おね~ちゃん……!」
俺も由香も、これから始まるライブをただ見ていた。
由香にいたっては、文字通りそのままの意味で指をくわえて見ている。
「おね~ちゃんだけズルい!」
「由香!? よせ、危ない」
――と思ったら、麗に向けて一直線に走り出した。
まさしく猪突猛進の勢いで。
この由香、いつもと違うぞ。
この感じは……そうだ。
いつか泉野邸でキレちゃった時と、まるで同じ……!
そして麗がスタンドマイクに両手を乗せ、歌い始めるその刹那――
「ゆかにもやらせてよ!」
由香の渾身のタックルが、彼女を突き飛ばす。
「えへへ~、とった~! これ、ゆかの~」
そうしてマイクを奪い、由香はかなりご機嫌な様子で二へ~と笑う。
かわりに麗は、その場でうつ伏せに倒れこんでしまった。
「平気……なのか? なんで?」
今の由香の行動には、何のためらいもなかった。
ついさっき、彼女もネイチャー・ハウリングの影響下に落ちたはずなのに。
「あ~、あぁ~……コホン、コホンっと!」
一応、あの力に何度もおびやかされた立場から言うと、あれは……何というかその、支配的なんだ。
麗の声を認識すると、同時に理性や意思の強さというものが奪い取られ、心が空っぽにされてしまう。
そして誘い出されるのが、反射的な喪失感や恐怖心といった動物的な本能。
日頃は内に潜ませてるそれらの感情は、鎖を外された猛犬のように心の中を暴れ回る。
そうなるともう、自分じゃどうすることも出来ない。
麗に近づけば近づくほど、症状もより増していく……はずだった。
「ゆかね、ゆかね~。しょ~がっこうで、おうたおぼえたんだよ! ……き~てくださいっ!」
やっぱり、あの時の由香と同じだ。
精神的なショックを受けたせいで、昔の自分に……まだ麗に距離を置かれる前の、わがままお姫様に戻ってる。
「じゃあ、つまり…………あれが由香の本能……」
あまりに馬鹿げてる……けど、そう考えたら合点もいく。
ネイチャー・ハウリングが呼び起こした由香の本能とは、恐怖心なんかじゃなく、そのもっと奥に潜ませた巨大な感情。
その正体が、あの生まれながらのわがままっぷりだとしたら。
「い~とぉ~! まきま――」
「そんなことって……ハハハ」
今まで得体の知れないプレッシャーを感じてた自分が、まるでおバカさんみたいじゃないか……
「くっ……うぅ」
やがて麗が起き上がる。
「どいて、あなた……」
あなた……って。
まだ由香のことが分からないのか。
せっかく、意識だけは取り戻したみたいなのに。
「とんとんと――やっ! やめて、まだゆかのおうたのとちゅ~だよ?」
「私は歌う。歌わなければならない……」
いや……意識だけじゃないぞ。
口調までも、普段の麗のそれっぽくなってる。
「おね~ちゃん、めっ! おね~ちゃんでしょ? ゆかのいうこときいてよ!」
「歌を世界に……届ける」
己に課せられた命令のため、由香を拒否する麗。
でも、そんな彼女の手つきは
「あれは……麗、もしや!」
まるで幼児をたしなめるように、由香の頭を優しく撫でていた。
あれは……あの素振りは、妹を大切に想う姉にしか出来ない行動!
「えへへ~。もっとなでて」
「どいて……ねぇ、ねぇ! …………ゆか……ちゃん」
いいぞ、だんだんと麗が自分の意思を取り戻していってる。
「……いかんな~。これはいかんよ……」
ふと背後から、ふらふらと影が近付く。
「この西川を邪魔する者は……誰であろうと許さん」
――どこまでもウザイおっさんめ。
「待てよ。どこに行くつもりだ?」
「あぁ? 君はもういいから。隅にでも引っ込んでなさい」
前に立ちふさがると、西川はシッシッと手払いしてみせた。
どういう了見か知らないが、俺は奴の眼中に入ってないらしい。
「ねぇ、おね~ちゃん。ゆか、もうかえりたい」
「歌うの……歌って、それから……」
「えぇ!? そんなの、もうい~じゃん!」
由香の方が押している。
これまで状況は二転三転としてきたが、こんな好機はおそらく無かった。
それも、このライブだけの話じゃない。
あの姉妹にとってもだ……
「ようやく姉妹が2人きりになれたんだ。外野が水を差すのは野暮だよ」
「何を分からんことを……もういい、どけ!」
そうして西川は、俺を押しのけようと右手を伸ばした。
――隙だらけの手つき。
すかさず俺は、その手を掴み取る。
「あんたはっ、まだ自分のことばかり!」
「ぐわっ!」
そうして腕ごと自分の脇に挟んで、ひねりを加えながら背後に回り、全体重をもって倒れこむ。
いつか刑事ドラマで見たこの技。名前はえ~っと、え~…………そう! 脇固めだ。
「――放せ! 僕が誰だか分かってるのか!」
「へぇ、大統領とか将軍様とでも呼んでほしいのか? 残念ながら、あんたはただのおっさんだよ」
技は完全に極まっていた。
拘束した右腕を支点として、奴の身体はもう俺の下から逃れられない。
「かえろ~よぉ! ここくらくて、やだ! こわい! おうちがい~い!」
「歌……ゆか…………こまらせない、で」
麗は頭を抱えながら、苦しそうににうろたえている。
あの反応はまるで、ネイチャー・ハウリングに犯された人間と同じだ。
彼女の中で、下された命令と己の本能とが…………戦っている。
「やだ、やだ、や~なの、や~なの~っ!!」
対する由香は、もう見ていて不安になるほどの甘えん坊っぷりを発揮していた。
ところ構わず、駄々っ子のように寝っ転がって……あの娘、ここに来るまでどんだけ欲求を我慢してたんだ?
後でちゃんと元に戻るかな……
もしあのままだとしたら、おそらく社会復帰は絶望的だぞ。
「麗、僕を見ろ! 僕の言う通りに動け!」
そして、同じく絶望的といえばこいつもか。
「まだ粘るか……人生、時には諦めが肝心って誰か言ってたよ?」
「うるさい! お前も……あの妹も、いなきゃ良かったのに!」
執念もここまで来ると、なんかもう惨めだな……
格好らしきものなんて、何も見当たらない。
「麗の妹だからって、安易にスカウトしなければ……こんなことには!」
恨み言を吐く西川。
――そうか。由香をアイドルにしたアクセルターボの人間とは、こいつだったのか。
すると…………ははぁ。なるほど、なるほど。
「西川さん。二兎追うものは何とやら……だね」
「何だと?」
「だって、そうだろ。麗だけにしておけば良かったんだ。欲張って、妹まで誘うから――」
そうさ。
奴の心のぜい肉が、このステージに2つの不純物を生み出した。
「ここに由香がいて……そして俺もいる」
俺がアイドルになるきっかけとなった大原ホールの裏口。
あの時、もし由香とぶつかってなかったら……本番前に逃げ出すような無茶苦茶な娘がデビューしていなかったら……俺もここにはいなかった。
本城あゆみは、この世に生まれてこなかった。
「デビューのきっかけは、あんたが与えてくれてたんだね」
「知るか……! 僕は君みたいなガラの悪い娘を誘った覚えは無い」
「覚えはなくとも、あんたが自分で撒いた種だ。それがこうして全部、芽吹いたわけだよ…………へへっ、大した手腕だよなぁ!」
敏腕マネージャーの名は伊達じゃなかった、と。
ず~っといけ好かない奴だと思ってたけど、その点だけは認めてやるか。
「ゆか…………もう……」
麗が由香の手を引き、起き上がらせている。
もう決まりだろう……麗の心はもう彼女のものだ。
「さぁ……そろそろ幕が下りる」
「れい、麗! 麗っ!」
「いい加減にしろっての、この!」
しつこい。
俺はついはずみで、頭にゲンコツを食らわせてしまった。
「あ、う~……」
「えっ、うそ!?」
すると西川は、いとも簡単に気を失ってしまう。
……昼間の3人に比べりゃ容易いだろうとは思ってたけど、まさかここまでとは……
まぁ、いいか。
ともかくこれで、邪魔する者もいなくなった。
「でも、私……あなたを…………」
「おね~ちゃん……ぐすっ……ねぇ、かえろ?」
麗と由香。
あの娘たちは、この世に2人きりの姉妹。
その空間に、他者の侵入は許されない。
長い間すれ違っていた互いの心が、今ようやく向き合おうとしてるんだから。
「おうちにかえって……それで、それで!」
すると由香は、とうとう姉の胸に飛びついてしまった。
当の麗は両手を下ろしたまま、されるがままの体勢。
「いっしょにごはん食べて――学校行く時も一緒に家を出て……」
だんだんと、由香の口調が変わっていく。
それまでの舌足らずなものから、ハッキリとしたものへ。
「ダメよ、それじゃ……ダメ。由香を不幸に……させたくないから……」
もはや催眠術もネイチャー・ハウリングも、その存在を消しつつあった。
麗が自分の意思を取り戻していってる。
俺もこうして、まともにものを考えられてる……これ以上の証拠は無い。
「もういいよ! そんな心配しなくても、私はもう大丈夫……大丈夫なんだよ」
「由香……」
「みんなの……ハレーションのみんなのおかげで私、前より強くなったもん!」
そうして由香は、一点の曇りもない笑顔を麗へと向けた。
それは、この場にカメラが無いことを勿体なく感じるほど、素敵な表情だった。
離れて見る俺でさえそう思ったのだから、間近であれを見せられた麗は……
「本当に……? 由香、もういいの……? もう……」
堪≪こら≫えきれないよな……大切な妹のあんな顔を見せられたら。
同じ妹を持つ身として、その気持ちには同情を禁じ得ないぜ。
「もう……」
麗の両手は震えていた。
うずうずと、何かに耐えかねるようにして。
「ガマン、しなくても……」
そうさ、もういいはずだ……!
由香はもう、籠の中のお姫様なんかじゃない。
1人のアイドルとして、こんな高いステージにまで登ってこれたんだから。
「えへへ、こうするの何年ぶりかな? お姉ちゃん」
「…………由香っ!」
――決壊。
重い壁は崩れ落ち、そして絶え間ない激情が溢れ出す。
麗はその身に包むように、ひしっと妹を抱き締めた。
「……お姉ちゃん、もう平気?」
「えぇ! えぇ……!」
やっと終わったか……長かったな、いろいろと。
「由香ぁ……ああ、由香! 頑張ったね、偉いよ。うん……うん!」
「うぅ~……く、苦しい……」
あ~らら。
あんな力一杯に……麗もよっぽど、今まで塞ぎこんでたんだなぁ。
「あゆみちゃ~ん…………」
「えっ……あ、ホントに苦しいのか」
助けを求められ、彼女たちの方へ近付いていく。
出来れば邪魔したくなかったんだけど。
「放さない……もう絶対、放さないから!」
「苦し……くっ、くぅ……」
「ちょっとちょっと麗、ホントに苦しがってるって」
「……へっ? あ……あ~っ、ごめん! ごめんね、由香!」
やがて我に返った麗は、あわてて由香をその手から解放した。
「きゅぅ~……」
するとよっぽどキツイ拘束だったのか、由香の目はグルグル渦巻きになっていた。
「――おわっ!」
「キャッ!」
「あら!?」
突然、足元でガコンッという駆動音が鳴る。
同時に、上空高くにあるこのステージが見る見るうちに下降を始めた。
「これ、裏方スタッフの人がやってくれてるのかな?」
「あぁ。もうネイチャー・ハウリングの効果も切れてるだろうしな」
そうして、やがて観客席が目に入ってきた。
「あゆみちゃ~ん! 由香ちゃ~ん! 麗さ~ん!」
「おかえり~!」
「ねぇ~! ライブまだ始まらないの~?」
そして、下のステージでこちらに手を振るノービスの姿も。
「やったね。あたしたちは勝ったぞ~!」
「このお客さんの反応…………よし、売れた!!」
「ったく、いつきは気が早いんだから……3人とも~! ファンは待ちくたびれてるわよ~!」
みんな、俺たちを出迎えてくれている。
ファンが俺たちアイドルを待っている。
それはこのライブの本来あるべき、当たり前の姿――。
「終わったと思いきや、これから……か」
せっかくの好意に申し訳ないが……正直、もう身体はクタクタだよ。
朝からずっと、事件に巻き込まれてきたからなぁ。
「……う~ん……」
そして、その張本人は舞台のはじっこで今も気絶したまんまだし。
「ごめんなさい、私のせいね……私が不注意だったばかりに」
「そうだよ。お姉ちゃんてば、昔から妙に人がいいんだもん……怪しいと思ったら、ちゃんと疑わなきゃダメだよ!」
「由香……!? あなたが説教なんて!」
でも、まぁいいか。
こうして、泉野姉妹の壁は打ち壊されたことだし。
それに、これからライブが始まらないことには、俺だって恵を救い出すことが出来ない……もんな。
――そうして、タワーとなっていたステージはやがて元通りの位置へ戻った。
「お待たせ、みんな!」
さてさて、ここからが正念場かぁ。
出来ることなら、せめてアンコールは勘弁してほしいけど…………ま、そうもいかないんだろうな~。




