第41話 由香のヒミツ
震え上がる肩は、彼女のわめき声と共にピタッとその動きを止めた。
「あのケーキ、由香のだもん!」
「えっ、由香――」
どうしたんだ、その口調……と尋ねる間もなく、由香は俺の手を離して前方に向かって突進してしまった。
「……わっ、何!?」
「かえして~! 由香のケーキぃ」
その標的は、ショートケーキの皿を持ついつき。
由香は不意打ち気味に彼女の両肩にしがみつくと、ゆらゆらと揺らし始める。
「ちょっ……やめっ、危ない」
「あげないもん! 由香のものは由香のだもん!」
まるでちびっ子がかんしゃくを起こしてるみたいだ。
……とはいえ、傍目にはそうはいかない。
中学2年生にしては、やや成長気味。特にある部分が……な由香と、小学5年生にしてはまだ身体に幼さが残るいつき。
体格差を見るに、後者の不利は明白だ。
「ここは由香のおうち! みんな由香の言うこと、聞いてくれるんだよ~」
そして、由香には容赦する素振りが全く無い。
このまま放っておいたら危険だ。
「やめなって、由香」
2人を制止するため、俺は我先にと駆け寄った……けど
「……もうっ、そこまで言うなら……あっ、わわ!」
「ケーキ、イチゴのケ……あっ、うわぁ~!」
もみ合う2人の足がもつれ、一緒に倒れかかった。
言わんこっちゃない!
俺は急いで身体を滑り込ませる。
「くっ! ……つぅ~」
――そして、どうにか2人が床に衝突する前に受け止めることが出来た。
一応、ケーキも無事なようだ。
まだいつきの手の上で、しっかりとその形を保っている。
しかし、その代償として俺は後頭部をワゴンにぶつけてしまった。
「……! あゆみ、大丈夫!?」
「あ、あぁ。何とか」
ウイッグを付けてたおかげで、ダメージはさほどでも無い。
女装もたまには功を奏してくれるみたいだ。
「あ…………わ、私」
ふと由香を見ると、こちらへ怯えた表情を向けていた。
その仕草に、ついさっきまでの危なっかしさは見られない。
いつもの彼女っぽい……けど。
「ごめんね! ごっ、ごめんね、いつきちゃん!」
「う、うん……」
即座に起き上がると由香は、慌てた様子でいつきの手を引いた。
「あゆみちゃんも…………あっ」
「あぁ、うん……ん?」
続いて俺の手も……と思いきや、彼女の視線がふと空中で止まった。
それは俺の頭の少し上。たぶんワゴンに乗せたティーセットの辺り――
「う、うわっ!」
ピシャン! という音とともに、俺の頭から胸の辺りにかけて何か冷たいものがかかってきた。
これは……白い。何か白い液体だ。
「本城さまっ!」
すぐに織本さんが寄り添ってくれて、身体にかかった白いもの……ポットからこぼれたミルクを、ハンカチで拭き取ってくれた。
空になったポットが、床の上をコロリと転がっている。
さっきワゴンにぶつかった衝撃で倒れちゃったのか。
「申し訳ございません。あぁ、お客様になんて粗相を」
「いえ、大丈夫ですから」
いそいそとハンカチをあててくれる織本さん。
でも、コクのある上等なミルクだったらしい。拭き取った後も、顔やTシャツがベトベトしてる。
「あ、あぁ~……あゆみちゃん」
由香はすっかりオロオロとしていた。
……どうやら、もう我に返ったみたいだな。
「お嬢様……」
「ひゃうっ!?」
しかし、そんな由香に織本さんはスーッと冷ややかな視線を送る。
「度重なる無作法な振舞い……ご覚悟はよろしいでしょうか」
「えっ! こ、ここで?」
そしてハンカチを仕舞うと、ゆっくりと由香の方へ歩み寄った。
静かだけど……その雰囲気はむしろ、恐ろしさを感じさせるようで。
「みんな見てるから。あとで……」
「なりません。麗お嬢様のお言いつけです!」
一体、何をしようとしてるんだろう。
織本さんが1歩1歩と間を詰めていくに従い、由香は壁の方へにじり寄っていく……まるで牧用犬に追い詰められた羊みたいだ。
「う……うぅ……いやぁ!」
「お待ちなさい!」
やがて退路を失った由香は、一目散にその場から逃げ出そうとするが……あえなく捕まってしまった。
織本さんに腰を掴まれ、そのまま四つんばいに近い体勢を取らせれる。
「やだ、やめて! もう反省したから」
「おつらいでしょうが……耐えて下さい。これも由香さまのためなのです」
そして、おもむろにお尻をペンペンと叩きだした。
ハシッ、ハシッと軽く叩く感じだけど……いや、痛さがどうこうとかそういう問題じゃない。
「いや、恥ずかしい。みんな見ないで~!」
由香はジタバタもがきながら、顔を真っ赤にしてる。
それもそうだろう。
思春期真っ只中の女の子が、友達の見てる前でおしりペンペン……これは恥ずかしい。
「ん、ん~……」
優しい美咲は、わざと目を逸らして見ないであげている。
「ぷふっ……ゴ、ゴホン! ……ぷっ……ぷふふぅ」
いつき、笑ってやるなよ。
「いかがですか、お嬢様。もう懲りましたか?」
「はい……もうしません」
オシオキが終わり、ようやく由香は解放された。
しばらくしゃがんだまま、こっちを向けないでいるけど……まぁ、無理もないか。
「本城さま。あぁ、やはりハンカチだけでは拭き取れませんねぇ」
すると織本さんは、再び俺の方にやって来た。
「いえ。別にこのくらい平気ですよ」
「いえいえ、そういうわけには。是非お詫びをしなくては……あっ、そうですわ。当家の浴室までご案内いたします」
浴室?
お風呂って、何もそこまで……
「お召し物も洗濯せねばなりませんし。ささっ、どうぞこちらに」
「あの、別にそんな大した服でも……あっ、あれ~」
織本さんに手を引かれ、俺はなかば強引気味に部屋から出て行くことになった。
家から出た俺と織本さんは、泉野家の庭……っていうより庭園か。
とにかく、キレイに整えられた芝生や花壇の中を歩いていた。
「お風呂って、さっきの家には無かったんですか?」
「えぇ、ございますが……でもせっかくですし、本館の方をお使いいただこうかと。広くて、サウナなども完備されてますよ」
サウナって……つくづく庶民離れしてるよなぁ。
俺が逆立ちしても届かない雲の上の感覚が、この家にはありふれてる。
「……」
しかし、どうしよう。
もうしばらく歩くみたいだけど……正直、間を持たせる自信がない。
こういう時のための、他愛もない会話術というのが俺には欠けてるな。
「本城さま」
「……あっ、はい!」
うっかり呆けていると、不意打ちに呼ばれてしまった。
いかん、いかん。ちゃんとしなきゃ。
「由香お嬢様のこと、よろしくお願いします。あんな風に、わがままなところもありますが」
「……はぁ」
わがまま、かぁ。
「あの~、でもさっきみたいな由香さん、私はあまり見たことなくて……普段は大人しいですよ?」
最近はよく話すようになったけど、あの子は基本、引っ込み思案。
今日みたいに逆上する姿は、むしろ初めて見た。
「えぇ、でもそれは……なんというかその、本来のお嬢様ではなくて」
「……はい」
でも織本さんの言うことも、全く心当たりがない……というわけじゃない。
「あの方は人見知りが激しく……侍女としてはこう表現をはばかれるのですが、その……内弁慶な性分なんです」
「あっ……はい。それ、ちょっと分かります」
ここ最近は、少しずつ覗けてきたからな。
泉野由香の分厚い心のバリア……その内側も。
「そうですか……ならば、お嬢様が心を開かれている証拠ですね。少し安心しました」
織本さんは自分の胸にトンと手をあてた。
当然なのかもしれないけど、普段の由香を心配してるんだな。
「あはは、でも不思議ですね。お姉さんの麗さんの方はしっかりしてるというか……1本、芯が通ってる雰囲気ですけど」
「……その麗お嬢様が、ことの原因でして」
何気なく、流れに沿うように話したことだったけど……その一言に、織本さんがハァとため息をついた。
「麗……さんが?」
「えぇ。まだお2人が小さかった頃……麗お嬢様は由香さまを、それはそれはもう過剰なほどに可愛がられてまして」
麗が由香を……ねぇ。
今まで見た限りじゃ、結構冷たく接してるように見えたけど。
「由香お嬢様が嫌いな食べ物があれば、代わりに食べてあげて。由香お嬢様が欲しいものがあれば、2人一緒になって旦那様や奥様におねだりされてました」
そう……なんだ。
意外だな。
「それじゃ由香さんは、姉の麗さんにベッタベタに甘やかされていた、と」
「えぇ、そうです。由香さまが生まれた日、誰よりも喜んでいたのが麗さまだったという話でしたから」
妹が好き過ぎる姉かぁ。
まぁ、割とありそうな話だけど。
「そうしてお屋敷の中で、ずっと甘やかされてきた由香お嬢様なのですが……小学校や中学校では、そうもいかず」
「あぁ、なるほど」
家の中では蝶よ花よと持てはやされるお姫様も、学校という公共の場では1人の女の子にされるもんな。
そのギャップに耐えられず、だんだんと内に篭るようになった……というわけか。
「まぁ……無理もない気もします」
その場でぐるっと視界を1周させただけで分かる。
こんなに煌びやかな空間の中でお姫様として居座ること……その浮世離れ感が。
さっきのいつきとのいざこざだって、「ケーキがなければ、パンを食べればいいじゃない」とか言い出しそうだ。
「こちらでございます」
「はぁ~」
やがて辿りついたのは、敷地内のど真ん中に立つ一際大きな屋敷。
その広さは、もはやLDKとかの単位じゃ表せない。
あえて言うなら、ん~……ちょっとした学校の校舎くらい? って感じか。
「浴室までご案内しますわ」
本当にそこまでしなくていいのに……と思いつつも、ここまで施されてしまってはもう引けないか。
織本さんに案内されるまま、俺は屋敷の中へと足を踏み入れる。
「では、どうぞごゆっくり。今、お着替えを持って参りますね」
やがて到着したのは、この屋敷のお風呂……って表現で足りてるのだろうか。
まだ脱衣所と、風呂場の扉しか見えてないけど、それだけでもう近所のスーパー銭湯に匹敵するぐらいの広さがありそうだ。
脱衣所のドアの前で織本さんは一礼し、その場から去っていく。
さて、と…………ん? あっ、そうだ。
「織本さん! 着替えは上だけでいいですから。できればTシャツとかラフな服で」
俺は慌ててドアから半身だけ乗り出し、織本さんを呼び止めた。
「あら。良いドレスがあるのですが」
「ダメです、ダメです! Tシャツでっ!」
「……かしこまりました」
織本さんは少しむくれた顔をすると、再びどこかに向かっていった。
危ない、危ない……
そうして脱衣所で1人になった俺は、改めて入浴の準備をする。
Tシャツとスカート……そして、下着のタンクトップとボクサーパンツをおもむろに脱ぎだす。
「……うわぁ~」
そんな自分の姿を、壁に貼られた大きな鏡が映し出していた。
首から上は藍色のロングヘアーの女……っぽいやつ。
その下は、もう言い訳の仕様もない立派な男の身体つき。
……まぁ、ところどころ細い部分もあるけど。
「ウイッグ……」
見たところ、脱衣所に衣服は無い。
ということは、今この風呂には誰も入ってないってことだ。
時間もまだ昼だし、後から誰か来るってことも考えにくいけど……
「一応、付けとくか」
念には念を。
俺はこれでいて慎重派な男だ。
ウイッグを付けたまま、さらに身体を覆うためのバスタオルを巻き、浴室の扉を開けた。
「……見事なもんだ」
そして目に飛び込んできたのは、なんというか……これはつまり格差社会の縮図!
身体を洗うためのカランがいくつもあるし、浴槽だってスタンダードなものから泡を吹くやつまで。
あ~、サウナも立派じゃないか。
我がアパートのトイレと同室になってる風呂とは大違いだ。
銭湯の規模を、そのまま自宅内に収めてしまうなんて。
「とりあえず、身体洗おう」
比較するだけ空しいな。
ひとまず俺は銭湯に入るのと同じ感覚で、浴槽に入る前に身体を洗うことにした。
「え~っと……石鹸とタオル」
身体に巻いたバスタオルを一旦外し、備え付けのハンドタオルを手に取った。
そして泡立てた石鹸で、身体をゴシゴシと洗う。
「ふ~っ、次はシャンプー」
シャワーで身体を流し、次は頭を洗う番だ。
シャンプーボトルの蓋を2回ほど押し出して、頭の上でモコモコ泡立てる。
「あ、あ~あ……」
そうだ。俺、ウイッグ付けてんだった。
つい普段の感覚でゴシゴシやってしまい、頭皮がずれるような不思議な感覚を味わう。
「これは、こうするか」
どうにも洗いにくい。
俺はウイッグを1度頭から外して、そのまま両手の中で洗うことにした。
こういう方法で洗うのが正しいのか知らないけど、まぁ後でドライヤーでもかければ十分だろう。
「……ふんふ~ん♪ ふふん♪」
まだ明るさが残る昼下がり。だだっ広い風呂場に1人ぼっち。
なんだか得体の知れない開放感に包まれた俺は、つい柄にもなく鼻歌なぞ唄ってしまった。
「ふ~……ふふん♪」
こういう感じ。
なんだか、銭湯でやたら一番風呂にこだわる人の気持ちが分かってくるな。
ガラガラガラ――。
突然、浴室のドアが開いた。
「…………」
さっきまでのほほんとしてた俺の気分は一変、氷河期のような厳寒さに襲われる。
「!?」
ドアの前に立つ人は、俺を見るなり怪訝な表情を浮かべた。
「あ、あぁ……」
肩の方まで伸びたセミロングの髪……スラッと伸びるようなボディライン。
見ているだけで震え上がるような、その眼力。
「どういうことなの……」
一糸纏わぬ姿の泉野麗が、そこにいた。




