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第32話 原始の雄叫び

「…………」


 唖然となった俺を置いて、麗はステージの中央へと足を進めた。

 まだ喝采の鳴り止まぬ観客席に、1人向かい合う。


「……~♪」


 そして突然、歌を歌い始めた。

 演奏の無いアカペラだ。


「~~♪」


 曲は『return to orijinal』

 以前、歌番組の見学に行った時にサンシャインが歌っていた曲だ。


 ガヤガヤ……ガヤ…………。


 観客席がだんだん静かになっていく。

 みんなそれぞれ声を上げるのをやめ、麗の歌声に聴き入ろうとしているようだ。


「~♪ ~♪」


 やっぱり……いい歌声だな。

 思わず、俺も虜になってしまう。


 さっき言われたことも気になるけど、もう俺は目的を果たしたんだ。

 このまま観客の1人になって、適当なところで退場すればそれでいいんじゃないかな。


「~! ~!!」


 曲はサビに入り、激しさを増していく。

 アカペラとは思えないほどのこの迫力……やっぱり、いいな。ずっと聴いていたくなる。


「……ちょっと、ちょっとあんた!」


 何だ? せっかく麗の素晴らしい歌声を堪能してるのに、横から雑音が。


「麗さんの歌に魅了されてんのは分かるけど、あんたはそれどころじゃないって。いいから、こっち向け!」


 何を言われようとも、今の俺にはまさに馬の耳に念仏状態だ。

 構わず麗の歌声に集中しようとするも、強引に顔を引き寄せられてしまう。


「えっ……玲奈?」


 高石玲奈のしかめっ面が目の前にあった。


「呼び捨て? ん~、まぁ別にいいけど。それよりもっ! あんた早く逃げた方がいいよ。このままじゃ大変な目に会わされるかも」


 大変な目だって……一体、何を言ってるんだ?


 それに今、せっかく麗が歌ってるのに。

 玲奈が喋ったら、その声がマイクを通して邪魔になる……あっ、ピンマイクは手に持ってるな。


「それ、ピンマイク……。声が邪魔にならないように、気を付けてるんだ?」


 メンバー同士、ツーカーの仲って奴かな。

 ん……あっ、そうだ! 俺もマイク外さなきゃ…………あれっ?


「……はぁ~。自分の手、見てごらんなさい」


 自分の襟元に付けていたはずのピンマイク。

 それが今、右手の中に握られていた。

 外そうとした覚えなんて無いのに。


 無意識でやってたっていうのか……?


「あれ? いつの間に……」

「いいの、気にしないで。それ、しょうがないことだから」


 戸惑う俺をよそに、冷静な口調の玲奈。

 それにしても、すぐ傍で麗が歌っている最中なのに、どうしてこの娘はこんなに無反応でいられるのか……ん?

 というより、なんで俺はこんなに麗の歌声に夢中になってるんだ?


「分かんないでしょ。何がどうなってるのか……でもね、見て。観客席」


 玲奈に言われる通りに、俺は観客席の方に目をやった。

 すると、そこには――


「…………」

「…………」


 数千人の観客たち。

 そのほとんどが言葉を失い、麗の歌声に聴き入っていた。


 いや、聴き入るなんてもんじゃない!

 みんなその表情はどこか虚ろ。恍惚気味だ。

 会場中の視線が一斉に麗へと注がれている。


「これ、何だよ? いい歌声だなって俺も思ったけど……でも、いくらなんでも異常じゃないか!?」

「俺……? あんた実は結構、口汚い子? ……まぁ、いいや。それより教えてあげるわ。あれはね、ネイチャー・ハウリング」


 ネイチャー……ハウリング。

 直訳すれば、原始の雄叫びって意味か……

 何だそれ? 初めて聞く言葉だ。


「と言っても、事務所の一部の人間が勝手に作った言葉なんだけどね。でも、言い得て妙だと思うよ」


 すると玲奈は、不敵な笑みを浮かべた。


「麗さんの歌声はね、不思議なのよ。あたしはそうでもないんだけど、大体の人は一度聴いただけで魅了されちゃって、もっと聴きたいって思うようになって、どんどんハマっていって、気付けばファンになってしまう」


 分かる。俺もそうだった……


「一度、科学的に検証してみたらさ。なんか歌声から特殊な超音波が出てるんだって。その時の学者さんは、生物が本来持つ本能へと刺激を与える極めて原始的、かつ特殊な音波だって言ってたわ」

「じゃあ、それで……お、私が夢中になって。この大勢のお客さんも……」


 そんな仕組みが……!

 でも確かに、人の歌声は千差万別。

 そして超音波は、1つの音域。


 そういう人間がたまたまいたって、不思議じゃない。


「そうだよ。可笑しいでしょ……何よ、生き物の本能って。いくら可愛く振舞って、歌やダンスに磨きをかけても、土台かないっこないじゃん!」


 そう言うと、玲奈は苦笑した。


「ズルいよね。生まれつきで、そんなチート能力持ってるなんてさ……あたしの立場って」


 恨めしそうに自嘲する玲奈。

 そうか。今の話からすると、どうやらサンシャインの人気。

 その大部分は、泉野麗が担ってることになる。


 ネイチャー・ハウリングという彼女が生まれ持った性質が、ここまで大勢のファンを集めたんだ。


「……ちょっと喋りすぎたな。ごめんね、ちょっと誰かに愚痴りたかったのもあってさ」

「いや、いいよ……。おかげでカラクリが解けたから」


 この前の歌番組の収録、その時からずっと疑問に思ってたんだ。

 なるほどな、胸のつかえが下りた気分だ。


「あっ! そうだ、だからさ! 早く逃げなよ。もうすぐ歌が終わる。そしたらお客さん達、あんたをどんな目で見るか――」

「えっ?」


 玲奈の言葉を理解するかどうかの微妙なタイミングで


「~♪ ……」


 『return to orijinal』

 そのアカペラ演奏が終わった。



 ………………。


 会場は、水を打ったように静まり返っている。

 何千人の観客たち。

 その全てが静観している様子は、何とも不気味な光景だった。


「みんな。私の歌、聴いてくれてありがとう」


 麗の声が会場中に響き渡る。


 ワー! ワァー! ワーワワァー!!


 すると観客席から、洪水のような歓声が上がった。

 その声量は、さっき俺に向けられたものよりもさらに多い。まさしく大歓声だ。


「ここに来てるお客さんはさ……」


 ふと隣りを見ると、玲奈が身体を震わせていた。


「ネイチャー・ハウリングに対して、全く免疫がない人たちなんだ。だって、そうでしょ? 麗さんの歌が聴きたくて聴きたくてしょうがなくて、入手困難なチケット握ってやって来たんだから」


 そう……だな、確かに。

 サンシャインのライブチケットは、発売直後に高値が付くほどのプレミアチケット。

 ここにいる何千人という人間は皆、その関門を潜り抜けてきた猛者たちなんだ。


「うん、そうだね……すごいな」

「まだ分かんない? せっかく同じ女の子として、忠告に来てあげたのに」


 会話を交わしつつも、俺と玲奈は視線を観客席に向けていた。

 何千人と言う人間が1人の女性に統率されたこの異様な光景に、圧巻してしまったからだ。


「さて、みんな。せっかくのサンシャインのライブだが…………ここに1匹、ネズミが入り込んでるようだなぁ?」


 麗が話し出すと、不気味なほどピタッと歓声が止まる。


「もう……無理だよ。みんな、麗さんに魅入られちゃってる。あんた、きっとバチが当たったんだ。今日のこと忘れられないね……悪い意味で」


 玲奈の震えた声。

 その意味する内容は、自ずと分かった。いや……分からされたと言うべきだろうか。


 ………………!


 静寂した観客席。

 その場にいる人間の全ての視線が、俺へと投げられる。


「うっ……!」


 その一人一人の表情から読み取れるのは拒絶、軽視、憎悪、嫌忌……猛烈な敵意だった。


「あ、あぁ……」


 数千人から敵視されるこの感覚……果てしない疎外感。

 俺はたまらない気持ちになってしまった。


「玲奈……」

「…………」


 思わず、玲奈に助けを求めてしまう。

 まるで幼児が母親にすがるように……

 ロクな信頼関係も築けてない相手に、思わぬことをしてしまった。


 だから当然、彼女は何もしてくれない。

 黙って首を振るばかりだ。


 ……! ……!


 何人かの男が席から立ち上がった。

 まるで親の敵を見つけたような目を、俺にぶつけながら。


「ありがとう、気持ちは嬉しいけど座っててくれる? 今日は楽しいライブなのよ」


 だが、麗が制止すると途端に男たちは席へと戻った。


 こんな……こんなことってあるのか!?

 会場にいる数千人の人間全てが、泉野麗の為すがままになっているぞ。


「さて……とはいえ、ね」


 麗が流れるような視線を、俺へ送る。


 怖い……

 情けない話だが、素直にそう思ってしまった。


 まるで今の俺は、ライオンの檻に放り込まれた生肉も同然じゃないか。

 気付けば、さっきまでの自分の思い上がりや、ハレーションの未来だとか、恵のことまで……全ての感情が吹き飛ぶような恐怖に襲われてしまっている。


「あぁ……あ、あぁ……」


 違った……泉野麗は、そんじょそこらのアイドルとは格が違っていた。

 もはや彼女は、観客を魅了するとかそういうレベルじゃない。

 そう…………『支配』してしまうんだ。


「落とし前は、キッチリさせてもらわなきゃ」


 手を出すべきじゃなかった。

 彼女はとても、俺なんかが敵う相手じゃない。


 こんな……こんなアイドルなんて…………


 泉野麗と、彼女に支配された数千人の観客たち。

 己の身を包み込むには十分過ぎるその恐怖に、おれはただ立ち尽くすことしか出来なかった。


 これから俺がどうなるのか――それはきっと、もう俺のあずかり知るところじゃない。

 絶大な闇に畏縮した俺の心は、もはや自分の身体を動かすエネルギーすら発揮できない。


「アイドルの厳しさ、教えてあげる……」


 ゆっくりとこちらに近付く麗。


 もう……ダメなんだ。

 見くびっていた……アイドルという存在を。


 俺は……このまま俺は、もう…………



「あゆみた~ん。1人で頑張り過ぎだよぉ~」

「ハレーションは4人。……いつからソロデビューしたの?」

「ごめんね、あゆみちゃん! 遅くなって!」



 闇を切り裂いた一筋の光……聞き慣れたその声が、ステージに響いた。

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