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後編

 

 アスハはどこにも消えていなかった。

 わたしが出て行く前となにも変わらず、いや、微笑すら浮かべてそこに座している。

 その静かさは、水面を思い起こさせる。だが、水面はときとして波紋を広げるもの。いつも穏やかに凪いでいるとは限らないのも、また事実。なぜ。その感情が渦巻く。お伽噺や物語とは違う、王子さま。あなたはなにをしたいというのか。


「アスハ。なぜ」

「ヨル……、聞いたのか?」

「うん」

「そう、か。なあ、ヨル。私は魔女と契り、そして呪いを受けた。それは愚かなことだったのだろうか」

「そんなの知らない。どうだっていい。問題はひとつだけ。〝なぜ〟?」

「ああ、ヨル。竜神のフィヨルニル。君がほんとうに、私の友であったならと思わずにはいられない」


 アスハは、その長躯を揺らめかせながら立ち上がった。わたしの手に握られた抜き身の剣など見えぬはずなのに、それに向かって、手を差し出す。大きく、骨張った拳。握ったことのあるわたしは、その手のひらが剣を握るもののそれだと知っている。

 だが、意図が解せない。目のないものの機微を読むことは難しいのだと、わたしはそこではじめて気がついた。


「目は()くとも、それのちからの大きさは見えている。フィヨルニル。私にそれをくれないか。竜神の加護を秘める剣……私はそれがほしい」


 アスハは、魔女と契った呪われし王子さまは、ひどく美しく笑っていた。


「神の剣ならば、他の神に護られた者でも惨たらしく殺せるだろう?」


 魔女。砂糖菓子の成れの果て。世界に優しくされなかった女の子。アスハは彼女をほんとうに愛していた。だから契った。血を繋いだ。けれどそれを正しいことだと認めるものはいない。アスハは魔女から離され、魔女は死んだ。残ったのは黒の獣となる呪いだけ。その呪いによって死ぬことは、アスハの本望だった。

 しかし、彼は従者とともにここにきた。

 この地で崇められる竜神のちからを望んで。

 アスハは、魔女の命を奪ったものを殺してやりたくて仕方がないのだ。


「魔女は自害したのではないの?」

「違う。私にはわかる、彼女は殺された。我が国の神の加護を受ける者に。ゆえに、私は竜神のちからを欲する。この復讐への神の干渉が疎ましいのだ」

「ねえ、アスハ」

「うん?」

「あなたが復讐したい相手ってもしかして――そこで磔にされてる従者?」


 わたしはそこでようやく、従者を意識的に視界に入れた。纏っていたローブは剥かれ、骨と皮でできた上半身を晒している。胸に雛芥子の痣。これが神の加護か。そして最もわたしの目を惹いたのは、その首にかけられたふたつの宝玉だった。

 美しい、天青石(セレスタイト)。空のような煌めきに、わたしは悟る。ああ、これは――


「あなたの目だ。そうでしょう、アスハ」


 アスハは息を呑む。そして、ゆるゆると身体の緊張を緩めた。「侮れないな」彼のその苦笑の仕方はハーヴィに似ていた。「そうだ。あれは私が彼女に捧げたはずの両の眸。ペトリが犯人である証だ」

 魔女はアスハの眼を宝玉にし、肌身離さずつけていた。しかし彼女の亡骸には宝玉はなかったのである。アスハは理解した。何者かが彼女を殺め、宝玉を盗み去ったのだと。そしてそれは、従者であるペトリが所持していたのだ。その事実を目の当たりにしたときのアスハの心境は、わたしにはわからない。わかるとも思えない。

 と、磔にされた従者が、小さく呻いて目を開けた。ああ、始まるのだな。わたしはアスハの空洞となった眼窩を見つめる。


「ペトリ」

「マティアスさま……? う、痛っ」

「これくらいで喚くな。お前が殺した彼女は、きっともっと苦しんだ」

「え、ま、マティアスさま……、何を仰って」

「ペトリ。お前の首にあるもの、それは何だ?」


 従者に歩み寄ったアスハが、その首に飾られた宝玉を撫でる。瞬くような脈動。本来の主に触れられた喜びで、活力を失っていたそれにちからが戻る。こうして見ると、アスハの眼は大きなちからを秘めていた。魔女が欲しがったことも頷けるくらいに。

 従者は痛みに顔を引き吊らせながらも、自虐的な微笑みを唇に浮かべた。


「……すべて、把握してらっしゃるのですね」

「お前は殺す。楽に死ねないと思え。ヨル、フィヨルニル。頼む、剣を私に」


 言って、アスハがわたしへ振り返った瞬間だった。激しい悪寒。わたしはアスハの元へ跳んだ。その大きな身体を押し倒して転がる。宝玉のちからが暴発したのとアスハを引き剥がしたの、どちらが速かったか考える暇もない。身を貫く、激痛に次ぐ激痛。悲鳴すら上げられず、わたしは床を転げた。生理的な涙がひっきりなしに両眼から溢れてゆく。視界はぐにゃぐにゃと歪んでいた。

「ぐ、う」剣を掴んでいた手を踏まれる。呻きはしたが離さない。拳にありったけのちからを込めた。


「神に仕える者のくせにマティアスさまをたぶらかしおって……これだから女は! 忌々しい! せっかく魔女を葬れたと思えば!」

「い、ま……なにを」

「ただの男がマティアスさまにお仕えできるわけがなかろう。この私は高名なる術士だ。マティアスさまの眼である宝玉を媒介に、お前に苦痛を与える術を使ったのだ」

「眼……」

「マティアスさまの眼は一級品だ。私のちからを何倍にもしてくださる。お前のような小娘に用はないが、そうだな、その眼だけは評価してやろう。素晴らしい霰石(アラゴナイト)の宝玉になるだろう」


 ぼやけた視界に従者が映る。嫌な音ばかり発するその口に剣を捩じ込んでやりたかったが、腕がぴくりともしなかった。またなにか術を使われたのだろうか。

 ハーヴィ。ごめん。失敗したかも。

 ひゅうひゅうと鳴り始めた喉では謝罪の言葉すら紡げない。呼吸が苦痛だ。けれど、どうにかして無理矢理に二音だけ絞り出す。


「な、ぜ」

「なぜ? 魔女のことか? それともマティアスさまの? まあいい、どうせ貴様は死ぬのだしな。貴様も体感している通り、私には術士の才がある。だが、生まれが伴わなくてな。このままでは支配する側にはなれない。そんなとき、マティアスさまの従者となったのだ。私はうち震えた! マティアスさまは何においても素晴らしい! この方ならば私を支配することを許せると思った。だと言うのに!」

「うあっ」


 痛みが増す。全身を焼かれているようだ。零れてゆく涙すら熱い。ああ、主さま……。


「あの忌まわしい魔女がマティアスさまを拐かし、契ってしまった! 目までも奪われて! だから殺してやったのだ。何時間ものたうち回って苦しんでいたぞ、見物だったなあ。最後は毒を飲んで自殺したように細工したのは良かったが、まさか呪いをかけているとは。しかも、わざわざ私では解呪できない類いのものを。私の支配者であれるマティアスさまを死なせるわけにはいかないだろう。仕方がないので、ハーヴィという男を頼ってここまできたのだ。はっ、まさかここにも見境のない女がいるとは思わなかったが」


 苛立たしげに頬を張られたあと、眼球に圧がかかった。瞼を抉じ開けられ、指を添えられる。くり貫くつもりか。アスハの空洞の瞳が脳裏を過る。

「フィヨルニルといったな。痛かろう、苦しかろう。狂ってしまいそうではないか?」従者が言う。「いま、殺してやるからな」

 わたしは。

 わたしは、フィヨルニル。

 主さまの剣。守るもの。隠すもの。

 主さまのためならば死ねる。殺せる。けれど、いや、だからこそ。


「そのあとは、竜神とやらを屠ってみるか」


 ばちん。なにかが、焼ききれる、音。

 痛みや苦しみ。そういうわたしの感覚。いまこの瞬間に、すべて、どうでもいいものに成り下がる。

 笑った。笑っていた。

 おもしろくもない冗談に笑ってやるくらいには、わたしは正常だった。大丈夫、狂ってなんていない。いやしない。突然の哄笑に従者はわたしの上から飛び退けた。その瞳は困惑に揺らぐ。わたしの指がかかっていたため、首飾りは千切れて床に散る。慌てて拾いに走る従者。生理的な水の排出が止まってしまえば、驚くくらいに視界は良好だった。


「わたしはフィヨルニル」

「は?」

「主さまの剣。わたしのすべては主さまのもの」

「おい貴様、なぜ動ける!?」

「笑ってはあげたけれど、心底おもしろくない冗談を聞かされて、わたし、いまとても気分が悪いの。ねえ、だから」


 畏怖の念を押し殺せずに後退りする従者を追うように、身体を起こす。いつの間にか唇から流れていた血を拭い、にっこり笑ってやった。


「死んでよ。虫けらみたいに」


 そうか、これは怒りか。なんとなしに理解した。主さまに報告はいらないだろう。虫を踏み潰してしまうことくらい、だれにでもあるつまらないことだろうから。

 わたしは剣を閃かせる。

 逆手に構えたそれを、思いっきり、なんの躊躇いもなく、己の腹部に突き立てた。背側に突き抜けたところで満足し、押し込むことを止めた。


「――ヨル!?」


 横から伸びてきたアスハの腕。気絶したふりをしてわたしと従者の隙を狙っていた狡猾な王子さまは、とうとう耐えられなかったらしい。別によかったのに。わたしのことを助けようなんて思わなくても。ひとを利用してしまい切れないところは、物語の王子さまと一緒なのかもしれない。

 失血のため足にちからが入らなくなったわたしを、アスハは強引に座らせた。


「アスハ」

「ヨル、君何をして、ああ、血が!」

「アスハってば」

「喋るな! 死にたいのか!」

「あなたは呪いが解けたら友人になろうと言ったけれど、いまでもいい?」

「え……?」

「あなたを利用して、いい? 友人なんだからいいでしょう?」


 わたしは、従者から奪った首飾りの宝玉のひとつを、胸の前で握り締めた。赤いわたしの血が、空を溶かした美しい石へ溶け込んでゆく。

 わたしは術士ではない。けれど、この血は竜の焔のちからを喚起する。いつか、黒檀の魔女を焼いたみたいに。しかしそれでは駄目だ。足りない。足りない、足りない、足りない!


「――焼け!」


 わたしは声の限り、命じる。


「塵ひとつ残さず、焼き尽くそう。黄泉の国へ堕ちようが、どこまでも追いかけてその身に煉獄の炎をくれてやる」

「ひいっ」

「安らかに逝けると思うな……もうお前に、安息の地はない。死してさえも」


 にっこりと、笑う。

 紅蓮の炎が、ぱちんと弾けた。



 ▼▼



「しばらくあの方の寝室には潜らないように」

「ええっ!?」


 失血のため気絶し、三夜も眠り続けてようやく目覚めたというわたしに、ハーヴィは死刑宣告にも近しいことを言い捨てた。すがりついたわたしに、冷徹な瞳が向けられる。

「ヨル。いいね?」この双つの紫は、なんて美しい眼なんだろう。逆らえず、項垂れた。冷えた肌がわたしを抱き、そこへ甘えるように額を埋めた。「僕がどうして怒っているか、わかるね?」「うん」

 わたしは主さまの命なくして死にはしないつもりだけれど、だからといって不必要なほど自分を傷つけていいわけではない。ハーヴィは言う。わたしがみなを思うくらいに、わたしのことを思っている、と。わたしはもう、謝ることしかできなかった。どうしようもないくらいにこころの置き場がなくて、なのに、ほんのすこし嬉しかった。主さまに逢いたくなったけれど、今日は我慢することにした。


 翌朝。

 主さまとハーヴィのお陰で、わたしの腹はすぐに塞がった。なんだかいろいろ元通りにはなっていないようなので、無理はしないよう言われている。心配したフロプトがわたしを抱き抱えて移動するという騒動はあったけれど、昼前には目的の場所へ着くことができた。

 わたしはノックをし、返事がある前に戸を開け放つ。垂れ目がちな左目で天青石(セレスタイト)が瞬いている。わたしはにこりと笑いかけた。


「アスハ。おはよう」

「ヨル、だよな。そうか、君がフィヨルニルか」

「うん。ハーヴィが目、戻したって聞いた。よく見える?」

「ああ。ハーヴィには感謝している」

「あと、左目だけでごめん。わたしが使って、そのときに血が混じっちゃったから右目は入れられない。代わりに、これ」


 預かってきた連珠飾りを差し出す。斑になった宝玉を中心に水晶が連なっている。わたしはすこし悩んで、座るアスハの隣に立った。髪の結い紐をほどいて、連珠飾りで纏める。しゃらんと柔らかい音がして、アスハの表情が緩んだ。


「ありがとう。ヨル」

「……怒ってないの?」

「そう、だな。不思議と怒りはないな」


 罵倒されるつもりで部屋にきていたので、拍子抜けしてしまった。死なないくらいになら斬られてあげてもいいかなとまで思っていたのに。


「わたし、あなたの魔女の仇殺しちゃったのに」

「こちらにも非はあるからな。まあ、許すしかないだろう? お互いさま、というやつだ」

「友人って、そうやって許すものなの?」

「そうだな。多少の愛があるからな」

「ふうん。わかった」


 アスハは髪飾りを弄びながら、それにしても、と息をついた。「私の目で呪いの進行が止むとはな」

 アスハの眸のうちひとつは体内に戻り、ひとつは彼の呪いを止めるための呪具となった。ハーヴィはアスハの国の偉いひとと連絡を取り、アスハの秘めたるちからを知った。アスハの身体の一部を使い呪いを止める方法は早急に編み出していたそうだが、なにか裏があると踏み、しばらく傍観していたという。そんなときわたしが勝手にやり過ぎたのである、怒られるのも当然か。

 と、アスハが立ち上がった。その瞳のさまで、お別れであることを悟った。


「帰るんだ」

「ああ。これ以上ここにいるわけにはいかないだろう。世話になったな、ヨル」

「そっか。気をつけて」


 帰ったら殺されてしまう相手に気をつけて、なんて。我ながら気が利かない台詞である。しかしアスハは、とても嬉しそうに、声を上げて笑った。


「ああ、そうだな。気をつけることにする。まだ復讐は終わっていないしな」

「え」

「傲った術士であるペトリごときに私の魔女は負けないさ。殺られたふりをして、その場をやり過ごした。しかしそこで、ほんとうの犯人に殺されてしまったのだ。私の、父に」

「う」

「嘘ではないぞ? 私の父、国王は魔女が嫌いなのだ。ペトリよりも優秀な、お抱えの術士もいる。束になってかかられては、彼女も抗い切れなかったのだろうな」


 ええと。思考が追いつかない。

 わたしが燃やした従者は、アスハにとっては石ころのような存在だったのだろうか。


「できればペトリもこの手で葬りたかったが、まあいいさ。あれは地獄でさえも炎に焼かれる。私の魔女を貶めようとした者としては当然の報いだな」

「……」

「ああ、それと。四人の護衛。殺さないでくれて助かった。あれは私の腹心の騎士でな。とりあえずペトリを殺す舞台を整えてもらった。無論、父を屠ふるための協力者でもある。さすがにあれらがいなければ私も父を殺せるかどうか怪しいのでな。君が見境のない剣でなくてよかった」


 ああ、そうか。わたしは思考の末、ようやく辿り着いた結論に目眩を覚えた。


「ねえ、アスハ」

「うん?」

「わたしのこと――、利用した?」


 はじめから、ぜんぶ。

 アスハは左目をきれいな弧のかたちに歪めて、口笛を吹くような軽い口振りで言った。


「だって、友人だろう? 許してくれるよな」


 わたしはこの嘘つきな王子さまを好きになることはないのだろうと、改めて思った。

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