中編
マティアス=アトロ=ユハ=アスピヴァーラ殿下。
広大な砂丘広がる隣国、アスピヴァーラの八番目の王子さま。この国ではあまり見ないような、彫りが深く精悍な顔立ち。ヴァーヴズと同様に浅黒い肌。肩口で束ねられた髪は青空の色だ。ハーヴィやフロプトよりも、身の丈もある。腕なんてわたしの腿よりも太い。これで成人していないというから驚いた。
彼は、深い呪詛に犯されている。
侵食する黒とともに、野獣となる呪いが。
わたしに襲いかかった際、呪いの進行で自我が一時的に失われた状況であったらしい。腕の黒は目視していたがそれがもはや身体中に回っているとは。ほとんど野獣であったなら、あの剛力と俊敏性も頷ける。あのときの王子さまは、人間の動きをしていなかった。空洞となっている瞳には視力がない。そんな王子さまの目となっているのが従者のペトリ=タパニネン。ひょろ長い身体に細面の、護衛というには非力な男だ。それもそのはず、ハーヴィが迎え入れる予定であった数名の護衛のなかには含まれていない。護身用の懐剣くらいしか握ったこともないらしい。なぜ護衛がいないのかは知らないが、うるさい従者は置いてくればよかったと思わなくもない。ただ、従者は王子さまより流暢にこちらの言語を用いるので暫定的に星舟での滞在を許すこととなった。
呪いは、思念にかたちを与えたもの。
根底には術者の感情がある。ゆえにマティアス王子のそれも、なんらかの思念によってもたらされたもの。他者の念を紐解くことは非常に困難であり、そして多大なる危険を伴う。
ハーヴィは最高峰の術士。けれど、万能ではないとよく自分自身で言っている。マティアス王子の状態を確認したハーヴィは、これは、と青い顔をした。空洞となった眼窩に、白魚の如き指を滑らせる。
「これは、酷い。殿下、失礼ですがこのような呪いを受ける覚えはおありですか?」
「貴様! 口を慎め!」
「従者うるさい。黙って」
喚くだけのうるさい男に足払いを仕掛ける。受身すら取れずにすっ転んだ従者を、その背に座ってホールドし、寝台の上のやり取りを眺める。下からの雑音は無視した。瞳のない王子さまは沈鬱に眉を寄せている。彼の言語は拙い子供のようであった。
「覚え、は、たくさん。私は、疎まれてる」
「緻密で強力な呪詛です。ここまでのものは素人では扱えない。僕でも、解呪できるかどうか」
「そう、か」
ちからなく、笑う。
わたしは黙考する。ほんとうに、あの野獣と同じ生き物なのか。解呪が困難と知ってなお、浮かべるのは諦めの微笑。呪いという理不尽な災いに、怒りはないのか。
わたしは従者の上から退く。ハーヴィの肩越しに寝台で笑う王子さまの右腕に触れた。ぬるい皮膚。肌を刺す負の感情はない。野獣であったときと同様黒に犯されているが、握ればわたしの指は容易に食い込んだ。断ち斬れなかった硬質さは鳴りをひそめている。あの暴力的な意思は、すべて呪いのせいだということだろうか。ちからが入り過ぎたのか、小さな呻き声が聞こえた。従者が突っかかってくるよりさきに離す。
ハーヴィが、ヨル、とわたしを諫めた。
「わかってる。全然違う。わたしは、なにと剣を交えたんだろう」
「ヨル……? フィヨルニル?」
王子さまが虚ろに呟いた。はっとしたが、わたしたちの名くらい調べればわかることだ。星舟は神殿のなかでも特殊で異端。だから、よくも悪くも〝的〟になる。
「私はマティアス。フィヨルニル、ありがとう」
「え?」
「止めてくれた。運んでくれた」
「わっ」
「小さい、手。こんな。すごいな。感謝する」
掴んでいた手を取られ、骨張った大きなそれに包まれる。目などないのに、三日月に弧を描くさまが想像できた。悪意はない。わたしは敢えて振り払わず、じっと息を詰めた。
これは、危険なものか?
わたしは主さまの剣。守るもの、隠すもの。見極めなければ。そう思った。
そこで、すべて見透かしたように、ハーヴィが提案した。「僕は解呪の術を探るためしばらく書庫に籠ります。その間、なにかあればこのフィヨルニルにお言いつけください、殿下」
それから、喪眼の王子さまは、わたしをヨルと呼び始めた。愛称は親しみの証だということらしい。わたしは彼をアスハと呼ばされている。仲良くなる予定はないため断ったら、従者に烈火の如く怒られたので不承不承である。
ハーヴィが書庫へ籠り、五夜明けた。
まあ、実際には籠ってはいないのだろうけれど。
わたしはその間、ほんとうにアスハに付きっきりだった。もちろん監視の意である。食事や湯殿の用意などはフロプトが請け負ってくれたので、わたしはほとんどの時間を彼の観察に使った。けれど、わかったことは、すくない。アスハは、どこか不思議な来訪者だった。この星舟に興味を示さない。その美しさを視認できないゆえかと思ったが、どうやらそういうことではないらしい。
どうでもいいのだ。
見えないものなど、どうでも。
そして、それはアスハ自身にも跳ね返る。
アスハは呪いによる死を恐れてなどいなかった。
「死にたいの? アスハ、王子さまでしょう?」
「積極的にどうにかなりたいわけではない。そうなっても構わない、というだけのことで。それに、ヨル。王子ということこそ、呪いだ」
「アスハの話はよくわからない」
「そう?」
「そんなに上手く喋れるようになったのに、難解だ。ハーヴィもときどきそうなる」
アスハはたった五夜でここの言語をほとんど覚えてしまった。目は見えないので、従者に教えられたりわたしの言葉を聞いたりして。それだけでここまでとは、この王子さまは賢いのだろう。しかし賢いひとの言い回しは苦手だ。気配を読むのは得意だけれど、言葉の意図はなんとなくしかわからなくて、もやもやする。
アスハはわたしの返答に、声を上げて笑った。
「ヨル、君は彼が好きなんだな」
「うん」
「それは愛か?」
「わたしはハーヴィのためならひとを殺せる。それを愛と呼ぶのなら」
「では愛だということにしておこう。ヨル。彼のためであるなら、あのフロプトとかいう男でも殺す?」
「アスハ。そんなことは起こらない。絶対に。ハーヴィもフロプトも互いを害したりしない。もちろんヴァーヴズも」
だって、わたしたちは主さまの従僕だ。
従僕同士の殺し合いなんて、主さまは望まない。主さまの意思に反することをしようと思うものはここにはいない。いるわけが、ない。
「そう。じゃあ、ヨルは誰かのために死ねる?」
「うん」
「ははっ、即答か。でも私もだ。殺せるだろうし、死ねる。気が合うな」
主さまのためなら、死ねる。殺せる。
けれどアスハにそうは言わなかった。わたしはこの不思議なひとを完全に信用したわけではない。たぶん、一生無理だ。わたしは主さまと違ってちっぽけだから、懐にたくさんのものを抱えられないがゆえ。
アスハは、内緒話をするように、わたしの耳元に唇を寄せた。柔らかい空色の髪が頬に当たってくすぐったい。
「なあ、ヨル。もしも私が呪いを解いたら――友人になってくれないか?」
ゆうじん。慣れない響きにきょとんとする。
「なにそれ」
「うーん、そうだな。大事にしたいときはして、したくないときはしない。無論ずっと一緒にはいないけれど、時折思い出したように会って笑い合ったり貶し合ったり。あと利用したりされたり。打算と、ちょっとばかりの愛情でできた関係――かな」
「わたし、アスハのためにひとは殺さないし、死なないよ」
「いいよそれで。そういう方が、いい」
「ふうん。じゃあいいよ、なっても」
「ありがとう。ヨル。そのときは、よろしく」
アスハはきれいに笑う。すこしばかりの人体の欠損では、そういうものは損なわれないようだ。差し出された大きな手を握り返して、わたしもにこりと笑った。
アスハの運命が軋轢を上げたのは、その約束から二夜のちだった。
朝方目を覚ますと、星舟の正門に先日よりも屈強そうな兵士の群がいた。その先頭には、この間の騎士。なんだろう、またやられにきたのだろうか。しかしその疑問は今日の日を思えば容易に解けた。今日は、ほんとうならアスハが星舟にやってきていた日だ。
ハーヴィに無下にされ、強行手段に出たか。嘆息。これだから群を作るひとたちは嫌だ。数でなんとかなると思っている。見えずとも怪訝そうなアスハと、外を脅えつつも凝視している従者の傍で待機。いちおう、だけれど。右手で剣を抜き、左手に投げナイフを三本。ハーヴィたちがどうにかするかもしれないが、しないかもしれない。アスハの世話を任された身としては、彼に危害を加えさせるわけにはいかない。わたしが害するのは、別だけれど。
外が見える位置で目を凝らす。騎士や兵団の奥に、隠れるようにしてローブ姿のひとたちがいた。四人か。騎士という存在と張れるかはともかくとして、兵士たちなんかよりよほど強いだろうという物腰の。すん、と鼻を鳴らす。なんだか、嫌な感じがする。野獣のアスハと出会ったときとはまた違った、不快な空気の巡りであった。
「アスハ」
「なんだ、ヨル」
「あなたの髪と同じ色の、雛芥子の紋様に覚えはある? ローブ姿のひとたちが四人いる。この国の騎士と兵士たちと一緒だ」
「それは、ペトリが頑なに拒み、置いてきた護衛たちだろうか。確か四人つくはずだった」
「城の騎士?」
「ああ。だが、この国の者と共にいるのなら、或いは」
「うん。攻め込まれるかも。ひとまず、こちらの様子を見て待ってる。そんな空気だ」
「そう、か。私はいよいよ、討たねばならぬ化け物だということだな。七夜もあって解呪できなかったのだ、私はここで死ぬべきなのだろう」
わたしは、それに頷かなかった。
なぜならそれはわたしが思考すべきことではない。アスハと従者を背後に置き、みなの反応を待った。すぐにヴァーヴズの縦笛が鳴る。行け、と。「ちょっと行ってくる」わたしは外套を掴んだ。
正門。堂々と、そこに立つ。
わたしの役回りは矢面だ。行けと言われれば、行く。視線を集めるため、騎士の足元に一本だけナイフを投げ刺す。こちらに集団の目が向いたことを視認し、わたしは纏った外套を靡かせる。一方の騎士の顔色が変わった。こちらのことは記憶しているようだ。わたしは、唇の端を吊り上げるだけの笑みを作った。なるべく低く、声を絞る。
「ここは星舟。我が主さまのお膝元。武装した兵が乗り込んでくるような場所ではない。帰れ」
「そうは行かぬ。恐ろしき剣姫よ。我らは正当な理由を以てしてここにいる」
「なんだ」
「マティアス=アトロ=ユハ=アスピヴァーラ。彼の国の第八王子は、疑いようもなく化け物である。我らは国の平穏のため、奴を滅さねばならぬのだ。剣姫よ、既にあれはこの地へ降りたか」
「化け物? 星舟が受け入れるとしたものをそのように呼ぶとは、主さまを崇めるものとしての矜持はどこへやった? 第一、ここはお前たちの管理下にない、帰れ狗ども」
あちらの空気が悪意に膨らむ。けれどわたしは低く笑った。こういうものたちの出方はわかっている。鳴り続けるヴァーヴズの笛の音色が、四人のローブたちを炙り出した。彼女は音でひとを操る。こころの隙につけ込むのだ。音色に魅入られた兵士たちは、ローブたちを隠すことを止め、ヴァーヴズの意思に従い武装を解く。騎士が怒鳴り声で制止をかけるが、もうあれらはヴァーヴズの傀儡だ。
手足がなければ牙を剥けれないものになど、主さまの地を踏ます価値はない。
わたしはいま一度、言う。
「帰れ。さもなくば、斬る」
「面妖な術を使いおって、竜神の加護があるからといい気になるなよ小娘っ」
術を用いたのはヴァーヴズだが、騎士には関係ないようだ。わたしに対して激昂する。四人のローブたちは気配を殺してこちらのさまを観察している。いますぐわたしと剣を交える気はなさそう。ひとまず、倒すのはひとりだけでいいと見た。投げナイフを腿のホルダーへ戻し、剣を構えた。
旋律はまだ続く。
相手は仮にも騎士だ。手は抜かない。そしてこちらからも仕掛けない。待つ。しばらく睨み合っていると、痺れを切らした騎士が斬り込んできた。型通りの、基本に忠実な太刀筋。実践慣れしているようには思えない。家の身分で騎士になった口だろう。これなら楽だ。上段からの剣撃を往なし、手首を返す。閃いた刃が相手の手甲を飛ばした。怯んだ隙に、もう一振り。反対側も落とす。
「これで、簡単に両手は落ちる」私は言う。笑って。「殺しはしない。だが、騎士としては死ねばいい」騎士は真っ青になった。主さまの地を穢そうとしたのだ、それくらいは当然の報い。
ひゅおん。空気を切って、鞭がわたしの剣を止めた。ローブ姿のひとりだ。微かに覗いた手は皺だらけ。老人か。続く声は低く、嗄れている。
「待て。神聖なる場に踏み込もうとしている無礼は詫びよう。しかし、こちらの事情を説明させてほしい。神に仕えるお嬢さん、剣を納めてはくれぬか」
「さきの言では不足だと?」
ああ、と老人。わたしは剣を下げない。
「神殿の者たちはマティアス殿下が忌まれし王子だとは聞き及んでおるまい。あの方は王族の血を引きながら、醜き魔女と契ったのだ。その上魔女によって呪いをかけられた。血で縛りつけた最も強固な呪いだ、我が国では解呪できなかった。魔女と契るという禁忌を犯しただけでなく、獣となる呪をかけられてはもうどうしようもない。殿下はこの地への旅の途中で暗殺される手筈となっておったのだ。その計画を従者であるペトリが見破り、彼を連れ出した」
魔女。砂糖菓子の成れの果て。
忌まわしき魔女と契った人間は、穢れを纏ったものとして裁かれる。命を奪われることもすくなくない。高貴な血の持ち主ほど穢れへの嫌悪は強いから、アスハを亡きものにしてしまおうとする計画の発端は解せた。
しばし黙考し、では、と老人を見やる。
「あの目は?」
「魔女が食らった。同時に呪を刻まれ、あの方はやがて自我をなくす」
「その、件の魔女はどうした」
「既に死んでおるよ。毒を飲んで自殺した」
「ふうん。しかし、なぜすぐに罪を犯した王子を追わなかった。彼が星舟へと辿り着いたのは七夜も前だ」
「星舟の神官であるハーヴィ殿に期待したのだ。もしかしたら解呪できるのではと。ゆえに様子を窺っておった。結果は芳しくなかったが」
「だが、いまの話だと解呪が成功したところで彼は裁かれ、殺される。同じことだろう」
「しかし、人間としての尊厳は残る」
アスハを殺すことは決まっているが、せめて、自我をなくした化け物ではなく、ひととして死なせてやりたい。そういうことだろうか。
「お前たち、彼が憎いわけではないと?」
「マティアス殿下は、素晴らしいお方だ。あの方ほど王に相応しい者はいないだろう。此度の件がなければ……。神殿の者よ、頼む。どうか慈悲を」
わたしは、アスハの言葉を思い出した。
彼とゆうじんになるのは、楽しいのかもしれない。
「星舟は主さまの砦。その身を横たえる寝室。その懐に、武装したお前たちは入れられない」
けれど、わたしは主さまの剣だ。
「呪われし王子が主さまを脅かす穢れたものだと言うのなら、わたしが殺す。お前たちは去れ」
剣の勤めを果たすため、わたしは踵を返す。
ヴァーヴズの縦笛の音が、どこか物悲しく響き続けていた。それは、彼がなにもかもを喪くしてしまったゆえだろうか。