前編
シリーズ三作目です。是非はじめからどうぞ。
星舟に、隣国の王子がくる。
常と変わらぬ微笑でハーヴィが言う。
その報せに眉をひそめたのはヴァーヴズだ。
フロプトは、そうですか、と笑っただけだった。
美しきこの国、ルアシヴィル。
女神シヴィルの創りたもうた豊穣の地。隣国の恵みすら吸い上げるように、この国は飢えない。穢れない。いつも潤んだまま。それは女神なんかではなく、主さまのちから。砂糖菓子による恩恵の雨。けれどそれを知るものは少数だ。この国を統治する王はそれを隠したがっている。だって主さまのことを理解すれば、ほかの国はこぞって主さまを欲しがるだろうから。
だというのに、ここに隣国の王子がくる、と。
わたしにも、それがよいことではないのはわかる。別に国がどうなろうと構わないが、主さまを煩わせるだなんてもってのほかだ。主さまにはただ穏やかに、その身を癒してほしい。そのためなら、わたしはなんだってする。
テーブルのナイフを掴む。
銀食器が、かちゃり、と音を立てた。
「ハーヴィ。それ、どうするの?」
「ヨル、落ち着いて。ほら、座って食事を」
諭され、ナイフを離す。
曹柱石の瞳は揺らぎない。彫刻の如き緻密な美貌を持つハーヴィはわたしなんかより賢く正しい。彼がそういうのだからと、フォークで肉をつつき始めたところで、ヴァーヴズが口火を切った。
眼の砂金水晶は森の鮮やかな緑色なのに、彼女のそれは燃えるように熱い。
「わたくしもヨルちゃんと同じ意見。〝どうする〟おつもり? ハーヴィ」
「物騒なことはしないよ。彼には予定通りここを見学し、自国に帰ってもらう」
「我らが主にお目通りさせるわけ?」
「はっ、まさか。彼には星舟の表面だけをなぞって帰ってもらうよ。あの方には多少窮屈な思いをさせてしまうことになるけれどね」
「それはそれは。ハーヴィにしては随分と後手ですね」
笑うフロプト。オレンジの強い玉髄の双眸は、いつもの笑顔であるのにどこか剣呑だ。フロプトも主さまが大好きだから、仕方ないのだろうけれど。
「フロプト」ハーヴィが言う。「そう言わないでくれないか。これでも善処したよ。ここへ立ち入る者を王子とその護衛数人だけに交渉したこと、多少は評価してくれないかな?」
フロプトは軽く肩を竦めた。わかっていますよ、と唇が動く。けれどヴァーヴズは納得がいかないと唸った。
「そもそも、よ。なぜ隣国の王子がここに?」
「視察という名の命乞い。彼は呪いをその身に受け、放っておけば死ぬらしい。そこで、僕のちからをあてにしているようだよ」
「ふうん。ハーヴィ、有名になったのね」
ハーヴィは神官であり術士でもある。なかでもとりわけ、呪術に関しては群を抜いている。王子さまは、ハーヴィに呪い返しをさせたいのだろう。これでわざわざ星舟へくる理由もわかった。ハーヴィが、最高峰の術士が、ここを離れられないがゆえ。
事情がわかれば、あとは訊くことはひとつ。
「主さまは? 主さまはどうしろって?」
「いつも通り。『好きにしろ』と。あの方は人間に無関心だからね。どうでもいいのだろう。事実、あの方のおちからでどうとでもなる」
「主さまがいいなら、いいよ」
「わたくしも。いざとなれば躊躇わないけれどね」
「ええ、私もです。手伝えることがあればなんでも言ってください、ハーヴィ」
「ありがとう、協力を頼むよ。しかしその前に、招かれざる客が来たようだね」
言って、ハーヴィが席を立つ。
静かな紫の眸に促され、わたしも後を追った。フロプトも続く。ヴァーヴズだけは気がなさそうに外を一瞥し、ここから援護するわ、とハーブティーのカップを傾けていた。
「ヨル。剣はあるね?」
「うん」
「隣国の王子が来たときのための予行練習だ。教えたように舞ってごらん」
「わかった」
王子さま。お伽噺では、悪い竜を倒してお姫さまを救い出すひと。物語では、いつでも彼は中身のない正義を振り翳している。本物はどんなひとだろう。きっとわたしは、好きになれないけれど。
星舟には、命があまりない。
この規模の神殿であれば百単位で信徒がいても不思議ではないけれど、儀式や来訪者でもない限り、ここにいるのはわたしたちだけ。隣国の王子さまを招くにあたって、うちのものを回そうという有り難迷惑なこの国の王の計らいにより、いま、眼前にいくつもの命が並んでいる。
ぼんやりと、見る。
かっちりと甲冑を着込んだ男の集団。たぶん百はいる。腰に長剣を差すか、背に半月斧を携えている。普段目にしない斧に興味を引かれ、若い兵士に詰め寄る。ぎょっと目を見開いた気配がしたが、持ち主に興味は湧かない。「ねえ、これ触っていい?」「えっ、おい」困惑するそのひとに向け手を伸ばす。
しかし、ヨル、とフロプト。見つかった。わたしはその場から身を翻す。遊んでいては怒られかねない。立ち並ぶ兵士たちを感情のない眸で眺めていたハーヴィは、ようやく隣に戻ってきたわたしに一瞥をくれる。なるべく神妙に見えるよう頷いた。
是と、ハーヴィが兵士集団に向かい合う。
「ヒルドールヴは?」
「彼の率いる騎士団は遠方に出ておりますゆえ、此度は騎士たるわたくしが兵士たちの指揮を取らせていただいております。名は」
「訊いていないことまでべらべらと喋らないでくれないかな、不愉快だ」
ハーヴィの美しすぎるかんばせの圧力に、その男は息を呑んだ。暴言を吐かれたというのに激昂もしない。眼前のハーヴィに囚われている。老若男女関係なく魅了するハーヴィは、右手に構えた赤錆色の杖をかつんと鳴らした。
「ここは竜神の膝元、あの方を守ることが僕らの意義。僕らは今回の件で増員を望んでいない」
「ですが、ハーヴィ殿」
「呼ばないでくれる、許可していない。とにかく、ここへは入れられない。帰ってくれないかな。言ってもわからないというのなら……ヨル」
「うん」
出番だ。腰から長剣を抜く。些か身長に対して長過ぎるが、問題はない。その赤錆色の刀身が光を受け柘榴石に瞬く。片手で挑発するよう構えた。兵士たちがどよめいた。
「この子が相手をしよう」とハーヴィ。「負けたら大人しく引き返してくれるね?」
すぐに飛び込まずに待った。向こうから仕掛けてこなければ意味がないゆえに。遠くの方から微かな音。これは縦笛の音。ヴァーヴズのちからが発動する。わたしは、さきの斧を持つ若い男を見つめた。その腕が〝自分の意思に反して〟わたしへと攻撃を繰り出した。
上から下へ。斧の重さで振り下ろすスピードは増している。けれど、冷静に見てもわたしの方が速い。後ろに飛び退けてかわし、着地と同時に踏み込む。振り下ろした体勢のままだった男の顎に、膝蹴りを打ち込んだ。生身で狙うならば兜をしていない顔だ。吹き飛ぶ身体を越え、兵士の群へと侵入する。そこにあるのは困惑と、同胞を足蹴にされたことへの怒り。続くヴァーヴズの音色が感情を暴発させる。わたしを狙ったのは、背後で剣を抜き払った壮年の男。兜をしている。突き出された剣を自身の剣の腹で流す。火花。そのまま開いた懐へと足を滑り込ませ、がら空きの腹部に剣の柄を容赦なく突き入れた。甲冑越しだが、衝撃はかなりのもの。男の身体はくの字に曲がり、倒れて動かなくなる。
殺さないように。動きを止めるだけ。
口のなかでハーヴィに釘を刺されたそれを繰り返しながら、剣を振り回す。相手の得物を切断、顔を狙って足技で昏睡、腹部に柄を一撃。それらを繰り返していれば、兵士たちはどんどん倒れてゆく。得物をなくしただけのものは二度目の突撃があるので、途中からは武器は無視して一発で沈めるように努めた。そんななか。
「ああ、ヨル。もういいよ」
「え? うん」
群は崩れたけれど、まだ立っているひとは半分くらいいる。しかしハーヴィがいいというのだ、暴力はここまで。息はすぐに整った。剣を止め弄びながら、倒れたひとたちを踏み越えてゆく。ハーヴィの傍に控えていたフロプトが、わたしに歩み寄り外套で身体をくるんでくれた。
「顔を洗ってきては如何です?」くすくすと笑いながら言う。「派手に踊るから、土埃で汚れてしまっていますよ」「ほんと?」
わたしたちのやり取りに、声を上げたのは伏した兵士のひとりだ。
「ば、化け物……」
このひと、砂糖菓子たちと同じことを言う。
振り返って、にこりと笑う。別に、その呼ばれ方は嫌いではない。主さまをそう呼ぶひとはたくさんいるから。一緒なのは、嬉しい。
だが、ハーヴィの琴線には触れたようだ。冷々然とした気配の温度がひとつ下がる。
「この子ひとりに敗れる兵士たちではあの方の盾にすらなれないだろう。さあ、お引き取りを」
騎士の、または兵士の矜持をぐちゃぐちゃに踏み荒らされ、畏れ多くも呪詛めいた恨み言を吐き捨てて、彼らは帰還していった。
わたしは、ただ、それを眺めていた。
鼻を掠めた風が、すこしだけ、血の香りを乗せていた。その匂いも、嫌いではなかった。
同日、夕刻。
星舟の裏手に広がる森で剣の鍛練をしていたわたしは、ふと主さまに会いたくて堪らなくなった。発作のように唐突にやってくるこの感情は、いまだ制御できない。どのみち王子さまが星舟にいる間はその気配すらわからなくなるのだ、いまのうちに主さまを補充しておくに越したことはない。
ハーヴィには怒られそうだけれど。
だが、小言を聞くだけで主さまに寄り添えるのなら、躊躇いなくそれを選ぶ。主さまはわたしのすべてだ。
と、鍛練を止めて引き返そうとしたとき。肌を粟立たせる憎悪にも似た悪寒に包まれた。ひとが生む負の感情が、ざわめきのように木々を揺らす。森の命たちが脅えている。わたしは、腰へと戻しかけていた剣を構えた。嫌な感じだ。これはここで止める、万にひとつも主さまに危害を及ばせないためにも。
みんな、たぶんそうする。
「――――――!」
地を這うような、聞き取れないほどの低い唸り声。いや、咆哮か。とにかく、近い。わたしを射程圏に入れたであろうそれは、そこいらの獣より遥かに速い。瞬く間に距離を詰められているのを感じる。剣を下段に。振り下ろす間すら惜しい。神経をそこに集中させる。正面。小細工もない。
――くる!
「ぐ、う」腕が持っていかれたかと思った。
重い。相手の一撃を防いだ自分の腕がぶるぶると震えている。眼前のそれを睨む。だが、そこにあったのは空洞の眼だった。
これは、きもちわるい。
人間なのに、野獣だ。純白の衣に不釣り合いな漆黒の腕。つるりとした肌から盛り上がった血管が脈動する音がうるさい。どす黒い爪が剣に食い込もうとするが、さすが主さま、不浄の侵入は許さない。ぐるる、と相手の喉が鳴る。フードを被っていて人相はわからないが、体格からして男。鍛えられた身体つきだ。わたしより頭ふたつは大きい。これにのし掛かられると厄介だ。距離を取るために一度剣を引かねば。わかってはいるが、ちからを抜いた瞬間に頭蓋を割られるビジョンがちらつく。
だが、冷静さを欠いてはならない。微かに乱れた呼吸を正す。ちから押しで負けるなら、それ以外で補うしかない。
「あなた、なに?」
答えはない。
「わたしは剣だ。なによりも誇れる主さまの、剣。あなたは野獣であることに誇りがある?」
「う、あ。あぐ、ぐ」
呻いた。多少の自我はあるのだろうか。
ちからが微かに緩む。わたしはその隙をついて渾身のちからで爪を弾いた。即座に距離を取る。追ってくる野獣。屈んで追撃をかわした。攻撃自体は大振りだが、まともに食らえば頑丈なわたしでも死ぬだろう。だが、わたしは主さまのもの。勝手には死ねない。
剣を逆手に構え、木を蹴った。三段跳びの要領で木の上まで跳躍。その勢いを殺さず、野獣目掛けて飛び降りた。剣ごと向かう。気配を読まれ、避けられる。しかしここから。地面に突き立った剣を軸に、蹴りを捩じ込んだ。かわされたが顎を掠め、野獣がよろめく。剣を引き抜く。低い姿勢から一閃。防御のため突き出した腕を裂くはずだったのに、黒い腕は手のひらで剣を止めてしまった。浅く剣の刺さった傷口から、どろりとしたものが落ちる。
血ではない。あかくない。
黒い、タール状のなにか。
「マティアスさま!」
はっとした。旅装束姿のひとが肉眼で顔が把握できるくらいの位置にいる。気づかなかった。眼前の強い負の気配に掻き消されていたのだろう。剣を胸の前まで戻す。野獣は動かない。ぽっかりと穴の空いた眼が、現れた人物へと向けられる。
どうする? だが決断するよりさきに、野獣がその場に倒れた。
あっさりと、負の意識が絶える。
わたしは、だらりと腕を下げた。硬い皮膚のせいで痺れていたし、あとから現れたうるさいひとは剣などなくても昏睡させられると判断したからだ。
「おい貴様、マティアスさまに何をしたっ」
「なにって……襲ってきたのはそっちだよ」
「斬ったのか!?」
「ううん」
斬れなかった。わたしは剣なのに。
ああ、主さまにいらないって言われたらどうしよう。真っ青になったわたしに、うるさいひとは眉をひそめた。「貴様、まさか星舟の者か」「え?」
外套を指される。これは星舟のものだけが纏えるのである。そういえばフロプトに被せられたままで出てきたのだった。頷くと、そのひとは水を得た魚ように瞳を輝かせた。
「ならばマティアスさまをお運びするのを手伝え! この方こそ、アスピヴァーラの第八王子マティアス殿下だ」
主さまのことで頭がいっぱいだったわたしは上の空で、ふうん、と返事をした。王子さまの従者にすごく怒られた。
曹柱石の眸は笑っていなかった。
わたしに背負われた男とその従者へ、絶対零度の視線をやる。ふたりのうち意識のある従者の方は、ハーヴィの美貌に戦き、それからこの男かと頷いた。ハーヴィの腕と美貌はセットで有名であるようだ。夕刻はとうに終わり、もう夜半。なかなか戻らないわたしを待っていてくれたらしいハーヴィは、その美しい瞳をすがめ、手短に状況説明を求めた。森での出来事と、背負う人物の身柄を告げれば、ようやくその面に表情が浮かぶ。苦々しそうなものではあったけれど。
わたしだって、連れてきたくはなかった。このひとは危険だ。人間としてはおかしい。けれど、ハーヴィが受け入れると言ったものを打ち捨てては、星舟の信用問題とやらに関わる。苦渋の決断であったことを解してくれたのか、その冷たい手がわたしの頭を撫でる。
お前は間違ってはいないよ、と唇が微笑みを作る。ほっとした。
「しかし、ご到着は七夜後と聞いておりましたが」
「それはマティアスさまを亡き者にと企む連中を欺くためのデマだ。私が意図的に流した」
「困ります。こちらにも都合がある。殿下を迎え入れる用意すらできておりません」
「マティアスさまはそんなことを気にされるような懐の狭い方ではない! それより、いつまで立ち話などさせる気だ。マティアスさまをどこか安全に休める場所へお連れしろ。おい、貴様、丁寧にお運びしろよ」
「ヨル。なぜお前が殿下を」
「従者が背負えって言うから背負ってる。ごめんハーヴィ、このひと重い。いい加減降ろさせて」
「……わかった。おいで」
ハーヴィを追うと、ずり、と王子さまの靴が擦れる。仕立てのよいものだったのだろうけれど、星舟までずっとこの状態だったのだ、ぼろぼろになってしまったに違いない。ちょっと悪いことをした気になる。だが、こればかりは身長差の問題だ。従者が背負えばこうはならなかったろうに。そうすると到着が翌朝になっていたかもしれないので、結局はこのかたちに落ち着いたのだろうけれど。
わたしの背で眠る王子さまからは、穢れた気配は既にない。
彼のものであろう鼻腔をくすぐるハーブに似た爽やかな香りは、好きだとも嫌いだとも思わなかった。