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空白ノ翼  作者: 堕天王
記憶に陰る赤
9/35

聡の就職先

記憶喪失の聡が、就職するお話です。

 2005年 5月3日

 ゴールデンウィークであるが、虹野(こうの)夏樹にとってはまるで関係のない話である。夏樹は、(さくら)町唯一の高校である櫻高校に通う二年生で、陸上部に所属している。学校が休みであっても、部活が休みなわけがない。憮然とした表情で部室の前に座り、運動場を走っている他の部員を眺めていた。

「あぁ~……面白くない。なんで部活なんだよ。せっかくユッキーの方から、声をかけてくれたというのに」

 ユッキーとは、夏樹の友達である小泉由紀子(ゆきね)の非公認な愛称である。由紀子は、オカルト同好会に所属しているが――そんな同好会が、休みに学校に来るはずはない。由紀子は、この休みを使ってどこか出かけるようで、夏樹もその誘いを受けていた。だが、担任に休みの申請をしたが受理されず、現在に至っている。

「虹野先輩、荒れていますね」

 マネージャーの明美が、苦笑している。

「新人の面倒を見ろとかなんとか。私は、人に教えるの得意じゃないのに。ほら、一年! 休まず、死ぬまで走れ!」

 完全な八つ当たりである。そんな夏樹の頭をベシッと叩いたのは、顧問の坂田斎(いつき)。明美は、逃げていった。

「アンタも走れ! そして、ちゃんと教えなさい!」

「はいはい。走ればいいんでしょう。もう、坂田先生……そんなんだから嫁に行き遅れるんだよ」

「なんか言った?」

「なんでもないで~す」

 斎は、困ったものだと溜息を吐いていた。

 部活は午後もあったが、色々と事情があるとごねて、逃げ出した。貴重な休みを一日潰すなんて、とんでもない。

 夏樹は、まっすぐに帰らずに大木公園に立ち寄った。今日は休日。もしかしたら神山聡(さとし)が、昼間でもいるんではなかろうか。そう思ってのことである。神山聡とは、四月ごろから町に姿を見せるようになった、記憶喪失の男――夏樹はそのことを知らないが、のことである。大木公園で短距離走の勝負をして負けて以来、夏樹はどこかその背中にかつてリストバンドをくれた少年の面影を重ねていた。しかし、リストバンドに刻まれていたイニシャルが、『K.S』であったことから、すでに別人だと分かってはいるが――そう簡単に、一度得てしまったイメージは拭いきれない。夏樹は、ちょこちょこと彼と会う内に、すっかり懐いてしまっていた。そんな聡と会うには、大木公園で待ち伏せするしかない。連絡先を知らないからである。どこで働いているのかも分からない。あとは、運に頼るのみ。

 守り木が鎮座する中央へと辿り着く。聡は居た。いつものようにベンチに座って、暇そうにしている。

「聡さん、こんにちは」

 駆け寄ると、聡は『よっ』と声をかけてきた。しかし、いつもに比べるとどこか表情が暗い。

「部活の帰りか?」

「うん。ところで、聡さん。なんか、今日微妙に暗くない?」

「えっ? そ、そう見えるか。気のせいじゃないのか?」

「嘘、へたすぎ」

 聡は、諦めたように溜め息を吐く。夏樹は、彼の隣に腰掛けた。

「悩み? いつも話、聞いてもらっちゃっているし……相談に乗るよ。まぁ、私に出来る事なんてないかもしれないけど……」

 頬をポリポリと掻く夏樹。どこか照れくさそうである。

「……ん、いや、恥ずかしい話なんだよな、実際」

 どこか言いにくそうな聡。

「私、口は堅いよ」

「そうか」

 笑う聡。それは吹っ切れたような笑いだった。

「俺さ、実は就職先を探していてさ。それが、やたらと落ちるんだよ。まず名前を言うと、『ん?』という顔をして、顔を見て『お帰り下さい』って……やってられるかぁ!!」

「……そんなことが実際あるの?」

 不思議そうに夏樹が言う。彼を疑っているわけではないが、あまりにも常軌を逸した話だったのだ。

「あぁ、もうそれで四社落ちたよ。何の冗談だ、全く」

「四社も! 聡さん、実は名を馳せた犯罪者とか……じゃないよね、どう見ても」

「この顔にピンときたら、雇用しないで下さい。てな具合に、はねられるんだが。納得がいかん」

 どういう理由かは分からないが、聡は今まで門前払いを受けてきたようである。彼の名前と顔に、何があるというのだろうか。四社も続くと、単なる偶然だとは言いがたい。夏樹もさっぱり思い当たる節はなかった。

「ねぇ、聡さん」

「ん?」

「かなりいい感じに看板が傾いている所がありまして、余命幾ばくもないかもしれないそこが、採用! て叫んだら、働いたりする?」

 夏樹は、両手で看板の傾き具合を現して見せた。

「まぁ、働かせてくれるというなら、この際どこでも構わないが」

「なら、聡さん。ウチで働いてみない?」

「はっ?」

「ウチ、印刷所なんだけど、人手、特に男手が足りないみたいなんだ。なんだったら、お母さんに話してみるけど……」

 聡が思わぬ話に目を輝かせる。

「マジか! 頼む、なんでもするぞ、俺は!」

 喜びを体全体で表している聡。彼の役にたてることが、夏樹も嬉しかった。

 早速夏樹は、聡を連れて家に帰った。聡に家の外で待ってもらい、夏樹は母親がいるだろう居間へと向かった。

「お母さん、ただいま」

 母親は、居間で新聞を読んでいた。

「おかえり。随分、早いね。今日は、一日部活だったんじゃないのか?」

「半日になったんだ」

 さらりと嘘を言う。母親は疑いもしない。夏樹が常日頃、真面目なおかげである。

「そんなことよりも、ねぇ母さん。就職先を探している知り合いがいるんだけど、話を聞いてもらえないかな」

「高校生はダメだよ。バイトは受け付けてない」

「そうじゃなくて、ちゃんとした大人の人だよ。就職先が見つからなくて、困っているんだって。ねぇ、話を聞いてあげてよ」

 母親の瞳が、ギラリと光った。

「それは男かい?」

「そうだけど……」

「どこの馬の骨かは知らんが、ウチの娘に手を出す奴は、ウシガエルの餌にしてやる!」

「お母さん! マジメな話なんだよ! 本当に……困っているの! 話を聞いてくれないて言うなら、夏樹、家出するからね!」

「うっ……分かったよ。もう来ているのかい?」

「うん、外に」

「事務所に通してやれ。話だけは聞いてやる」

 最後の意地か、母親はそう言った。

「ありがとう、母さん!」

 夏樹は、母親に抱きついた。


 娘に頼まれたからには仕方がない――夏樹の母美津子は、聡の面接をしてあげることにした。

「名前は、神山聡……ね」

 大型連休中。面接に行く予定がなかったのだろう。彼は、履歴書を持っていなかった。彼の口から直接名前を聞くと、美津子も他の面接者と同じように難しい顔をしていた。

「あの、最初に言っておきたい事があるんですが、宜しいですか?」

 おずおずと手を上げている。『ん?』と美津子は、先を促した。

「あの子には伝えていないのですが……」

 あの子とは、夏樹のことであろう。

「私は、記憶喪失なんです。今年の四月三日よりも以前の記憶が、私にはない」

 突然、何を言い出すのか――そう思ったが、彼の表情は真剣そのものであった。

「なにも覚えていない……と?」

「はい」

 美津子は、苦笑した。

「仮にそれを信じるとして、なぜここで言う? 不利になるだけだろう?」

「それは、他の所では言いませんでした。けど、好意で面接をして頂いているというのに、嘘は言えません」

「……マジメなんだね、アンタ。いいよ。あんたのその気骨、気に入った! 採用しよう」

「本当ですか?!」

「あぁ、実際人手が足りないし、特に今は男が一人もいないんだ。君は、体つきもしっかりしているしね。ウチの社員たちよりも、マジメそうだし。働きたいというのであれは、こちらも断る理由がない。記憶喪失ってことは、診断書とかは?」

「それが……病院には……行けというならば、行きます」

 言葉を濁す。聡は、病院を極端に嫌う。その理由は、聡にだって分からない。記憶喪失というのは、こういう時に不便である。

「いや、いいよ。あって困るものでもないが、なくても困らない。戸籍とかは……分からないよな。印鑑だけでも、連休明けにもってこい」

「はいっ! ありがとうございます!」

 聡の元気な挨拶に、美津子は満足げに笑った。深々と頭を下げて出て行く聡。それを見送った後、美津子は一転して渋い顔をした。

「悪い男ではないが、記憶喪失で神山聡か……厄介ごとになる前に、口止めをしておかないといけないね、アイツらに」

 美津子はタバコに火をつけ、煙をくゆらせた。


 夏樹は事務所のオフィスチェアに座り、聡が戻ってくるのをそわそわと待っていた。就職先を斡旋したまでは良かったが、採用するかどうかは母親にかかっている。もし、不採用となれば、追い討ちをかけることになってしまう。そうなってしまった場合、もう二度と聡と話が出来なくなる可能性もある。不安を抱えて、聡が出てくるのを夏樹は待つ。

 聡が美津子と話をしていた時間は、五分程度であった。そんな短い時間でさえ、夏樹には長く感じられた。

 社長室の扉が開き、聡が出てくる。夏樹は、跳ねるように立ち上がった。

「どうだった……?」

 不安げに尋ねる。そんな夏樹に聡は親指を立て、ニカリと笑った。夏樹の表情に、一気に笑顔が咲く。

「よかった! おめでとう!」

「夏樹と、夏樹のお母さんのおかげだよ。本当に、感謝してもしきらないぐらいだ!」

 聡は体全体を使って喜びを表現していた。

「本当にありがとうな!」

 聡が、虹野印刷に就職した。それは、会う機会が増える事でもある。『うん』と頷く彼女の微笑みは、いつになく輝いていた。


 今日の夕飯の買い物を商店街で済ませた聡は、一休みするために大木公園へと立ち寄った。彼の今の住まいは、山の中腹に位置する。少し休憩してからではないと、登ろうという気力が湧いてこないのである。

 いつものように大木公園のベンチに腰をかける。

 遂に就職先が見つかった。嬉しくて、拳をぐっと握ってしまう。これで一緒に住んでいる琴菜の顔色を窺わずに済む。金はいくらでもあるという彼女であるが、それに甘えているわけにはいかない。くだらないかもしれないが、それが男のプライドという奴である。

 日はまだ高いが、うかうかしていると山登り中に夜になってしまう。夜の山道は、危険で怖い。何気なく立っている『野犬注意』の看板を見ると、心臓が縮み上がる。

 買い物袋を持って立ち上がる。その時、背後から声がかかった。

「お荷物、お持ちいたしましょうか?」

 びっくりして振り返ると、さきほど聡が座っていたベンチに、美しい女性が座っていた。髪の長さは、腰の辺りまであるだろうか。服装はスーツであるが、雰囲気からしてOLとは違っていた。不思議な笑みを浮かべ、聡を見つめる謎の女性。いったいいつからそこにいたのか――実は俺が座る前からいたのか? そんな馬鹿げた思いさえ、笑えなかった。

「ふふふっ、驚いていますね。心配なさらないで。気配を断つのは、わたくし、誰よりも得意ですの。声をかける前に気付かれてしまっては、私の輝かしい戦歴に傷が付きますわ」

 言っている意味が、いまいち把握できない。なんの戦歴だというのだろうか。

「今日は、聡様に渡しておきたいものがありまして。就職が決まったご様子なので、ちょうど宜しかったですわ」

 女性は、A4サイズの封筒を聡に手渡してきた。

「これは?」

「百聞は一見に如かず、ですわ」

 溜息を一つ。話をしにくい相手である。仕方ないので、封筒の中身を見ることにした。中に入っていたのは、幾分か上等の紙が一枚。取り出してみてびっくり。それは、聡の戸籍謄本であった。

「君は……俺を知っているのか?」

「えぇ、少しばかり。勝手ながら、戸籍は櫻町に移させていただきましたわ。その方が、都合が宜しいかと思いまして」

 住所が、見たこともない住所になっている。

「これ、どこだ?」

「聡様が今住んでおられる、ログハウスの住所ですわ」

「へぇー、あそこって、そのまんま若草だったんだな……って、アンタ、何者だ?!」

 素直に感心している場合ではなかった。女は笑う。ただただ笑い続ける。その笑顔に実は何も含まれていないことに、聡は気付いてしまった。とても無機質な笑顔であった。

「私が何者であるか、それは聡様にとっては、大した問題ではございませんわ。聡様に必要なのは、覚悟でございます。過去がなくても、人は生きていける。新たな思い出を育んでいける。でも、過去を捨てるということは、共に過ごした人を切り捨てることにもなります。聡様の過去は、辛い思い出がたくさん詰まっております。それから目を背けることが、記憶の喪失だったのかもしれません。それを良くお考えになり、そしてあなたのあなたらしい決断をしてください。わたくしは、あなたの傍でお守りしております」

 瞬きの間に女性の姿はまるで幻であったかのように、立ち消えてしまった。どこにもいない。ただ夢ではない証拠に、彼の手には戸籍謄本が残されていた。

「……必要なのは、覚悟か。確かに、そうかもしれない」

 彼女の言葉は、納得が出来た。少しであるが、聡も記憶の断片を得ている。ほんの僅かなそれだけでも、過去を取り戻すことに恐怖を感じた。だが、彼女の言う通り過去を捨てれば、共に過ごした人をも切り捨てることになる。それが正しいとは到底思えないが、それを選ぶ事が悪い事なのかというと、そうとは言えない気もしていた。忘れてしまいたい過去は、誰にでもある。忘れたままでいいなら――。

 聡は溜息をついて、空を見上げた。

 守り木に阻まれて、空を見渡すことは出来ない。枝葉の間から覗く、青い空。

 聡は、静かに眺めていた。


 砂っぽい風が、打ちっぱなしのコンクリートに穴を開けただけの窓にかけられた、薄いレースのカーテンを優しく揺らす。その下にあるベッドには、黒い髪を背中に少し届く程度で整えた、黒い瞳の女性が座っていた。とても線の細い人であるが、その瞳はとても鋭く、彼女が温厚で穏やかな生き物ではないことが一目で分かった。しかしその彼女も今は、静かにコーンスープを飲んでいる。獰猛な獣も、食事中は静かなものである。

「あんまり、うまくないだろう」

 声をかけると、彼女はスプーンをいったん止めた。こちらを見ず、黄色の湖面をゆっくりと見つめていた。

「私、味音痴ですから」

 ぼそりと呟く。不満なのか、そう思えるような口調だったが、その表情は何処となく穏やかであった。

「……でも、暖かい」

 彼女は、スプーンを動かし始める。食事の邪魔になってはいけないだろうと、気をつかって部屋から出ようとした。すると、『待って』と声をかけられた。振り返ると、女性はどこか罰の悪い顔をしていた。何か言いたいのだろうが、言い出せる勇気が湧いてこない、そんな風にも見えた。彼女が何を言いたいのか、少し考えたら分かってしまった。だから、彼女の望む通り椅子に座りなおした。

「くだらないかもしれないが、昔話でも聞くか?」

 その問いに、彼女は『えぇ』と短く答えた。


 時間は、六時少し前。神山聡は、重たい頭を支えるように額に右手を押し当てた。

「夢か……最近、この手の良く分からない夢、多い気がするな」

 失っている記憶の断片だと考えるのが、妥当である。起き上がり、茶色のカーテンを開く。広がる、深緑の森。もう日が昇っているため若干明るいが、歩くのが容易な明るさではない。森の奥にあるため、この地に太陽の光が届くのは、もっと先になる。いつも通りの、鳥の囁きが聞こえるだけの静かな朝だ。

「さてと、今日から仕事か。気合を入れて行くぞ」

 『よし』と、文字通り気合を入れて、聡は部屋を出た。

 今日は、聡の初出社の日である。八時少し前、虹野印刷に到着すると、事務所へと上がる鉄製の階段の一番下に、櫻高校指定のジャージを着た虹野夏樹が座っていた。彼女は、この虹野印刷の一人娘なのだ。

「あ……やっほほ~い、おはよう~!」

 両腕を振って、元気よく挨拶する夏樹。思わず聡の顔も綻んでしまう。

「よっ、おはようさん。ジャージ姿ってことは、朝練の途中か?」

「ううん、もう朝練は終わったよ。聡さんが、緊張してガクブルになっているんじゃないかて思って、応援に参上したわけです!」

 両腕を真っ直ぐに空に向かって伸ばして、ぴょこんと立ち上がる。聡は、苦笑した。

「ありがとよ。お前、いつも本当に元気だな」

「惚れるなよ!」

「ガキが、なま言うんじゃねぇ」

 夏樹の頭をガシガシと乱暴に撫でる。

「遅刻しねぇように、学校に行けよ」

 聡が手を離すと、少し寂しげな表情を見せる。『うん』とか細く呟いた声は、聡の耳には届いていなかった。

「どうも、神山聡です。よろしくお願いします!」

 聡の初出勤。とりあえず気合を入れて大声で挨拶、そして最上級の礼。その声に社長であり、夏樹の母親でもある虹野美津子は、楽しげにうんうんと頷いていた。

「いやぁ、いい声だな。久し振りの新人だ、変な事を教えるなよ、お前ら!」

 事務所兼作業場といったところか。その中央で、挨拶する聡とその横に並ぶ美津子。彼らの前には、右からどう見てもガキ、どう見てもヤンキー、そしてあと一人は眼鏡をかけた知的なとてもまともそうな女性の三人の姿。社員は、どうやらこれだけらしい。

「は~い社長、質問ですけど、いいですかぁ?」

「却下だ。クソでも喰らえ」

「ふえっ!」

 幼い容姿をした女性の無邪気な質問は、容赦のない美津子の言葉に叩き潰された。傍から見ていてあんまりである。それを察したのか、美津子が説明をしてくれた。

「あのガキんちょは一応成人だが、中身はガキ以下だ。名前は、兼田由梨。虚言癖と妄想癖の持ち主だから、奴のいうことは基本スルーだ」

「社長! それあんまりですよ!」

「その隣のヤンキーが草壁純子だ。見た目通りだ。関わらない方が身のためだぞ」

「おい、社長!」

「で、もう一人の眼鏡が田中紀代だ。理解しようと思うな。存在自体がミステリーだからな」

「……その説明は曲解すぎると推測されます」

 そんな社員たちの訴えは、完全にシャットアウト。

「コイツらまともじゃねぇから、そこんとこよろしく」

 美津子は、さっぱりとそう締めた。

「はぁ、分かりました」

「ちょ、新人! 何納得してやがる!」

「あぁん?! 純子、てめぇ、私の言う事に文句あんのか!」

「いえ、ないっす。スンマセン、社長」

 本気で凄むと、半端なく怖い。聡も顔が青くするほどであった。そして思った。この会社、儲かってないとかそういう問題じゃない。破滅的に狂っている。間違えてヤのつく職業に踏み込んでしまったのではないだろうか。聡は、全速力でこの場から逃げたい気持ちになった。

「紀代、コイツの指導はお前に託す。マニュアル通り、一ヶ月である程度教えろ」

「はいはい、指導なら立候補しま~す」

「あぁん!?」

「ひぃ、ご、ごめんなさい……」

 由梨の提案はまたしても却下された。しかし不思議な感じであった。美津子のワンマンというか我侭、いや恐怖政治というべき状態のように見えるが、なんとなくまとまっている印象があった。その理由は、働いていれば自ずと見えてくることであろう。

「改めて、田中紀代です。宜しくお願いします」

「あ、はい。こちらこそ。色々とお願いします」

「社長がカリカリしているので、普通にマニュアル通りに説明させて頂きます。番外編、超常編、異次元介入編など様々ありますが、それは後ほど……」

 まともそうに見えたが、やっぱり変な人であった。

 聡がまずやらされたのは、掃除である。今日一日は、掃除をしながら仕事を見て、どんなものかを実感してもらう、とのこと。

「掃除中異次元ポイントを見つけたり、不可視の存在を垣間見ても決して触れたり覗いたりしてはいけません。生きて戻れなくなりますから」

 と、意味の分からない先輩の指導は軽くスルーした。まだ二時間もならないというのに、聡の適応能力はなかなかのものである。

 現在、作業自体はとてものんびりとしている。仕事がないのか、それともこれがこの会社のスピードなのかは分からないが、三人の社員は黙々と仕事をしていた。こうして見ると、いたって普通だった。

 十一時半。作業する速度がさらに緩慢となる。端から見ても、仕事をしているというよりかは、片付けに入っているように見えた。そして、十二時十分前。作業は全て滞りなく停止する。どうやら昼休みに入る態勢が整ったらしい。

「神山さん、片づけをしてください。昼休みになりますから」

 紀代が教えに来てくれた。『ういっす』と答えて、聡は掃除道具を外に片付けに。戻ってきた頃には、すっかり昼休みモードへと突入していた。

「よぉ、新人! お前、メシはどうすんだ?」

「あ、俺弁当っす」

「へぇ、母ちゃんに作ってもらったのか?」

「ま、まさか愛妻弁当だったりして。キャー!」

「うお、それはあれだな。処刑もんだな、あははは」

 なぜか嬉しそうに自分の太ももをばしばしと叩いている、純子。ノリが分からないので、聡も対応に困る。

「いや、そんな色っぽいものじゃないっすよ。自分で詰めたもんだし」

 空気が凍りついた。

「お前、なんて言った?」

「へっ? 弁当は自分で詰めたって……」

「これは私の幻聴だと推測してよろしいでしょうか?」

「うそ、ありえないよ、そんなの!」

 全力で否定したがっている嫌な空気。とてつもなく失礼な連中である。そんな空気が、後ろから走り寄ってきた美津子の一喝で消し飛ぶ。

「聞いたかお前らぁ!」

 思わず耳を塞いでしまうほど大声。窓がぴりぴり揺れたのは気のせいか。美津子は、勢いそのまま由梨と純子の背を、平手でバシッと叩く。純子はともかく、背の小さい由梨は吹き飛ばされて床にダイビングして、それでも止まらず転がり机の脚に頭をぶつけて止まった。ぴくぴくと痛くて声も出ない彼女を心配そうに見ていたのは、聡のみ。他は、完全無視である。

「毎日毎日、コンビニか商店街の店を練り歩いているハイエナどもが、少しは女であることは恥じれ!」

「いってぇなぁ、料理が出来れば偉いのかよ!」

「あぁん? 料理が出来るというステータスがどれだけ高いか、考えてもの言えや!」

 美津子の言葉に、純子はたじたじで言葉を見つけられない様子。同じく料理が出来ない、しかも結婚適齢期を越えつつも未婚の紀代は、心のスピーカーのコンセントを抜いていたりしていた。

「じゃ、私たちも何か商店街で買ってここで食べましょう。兼田さん、いつまで懺悔しているんですか?」

 美津子の話を聞かなかった事にして、さらりと話を進める紀代。

「痛いのよ! 誰か心配してよ!」

「いやぁ、お前頑丈だからな」

「頑丈の一言で済まされた!」

「あぁ、由梨。机壊れていたら、お前の給料から引いとくから、そこんとこよろしく」

「どんだけぇ!?」

 由梨の叫びは、誰の耳にも届いてはいなかった。聡もちゃっかり心のスピーカオフ。一人反旗を翻した所で、この面々に勝てる可能性なんてないのだから。

 先に弁当組みの聡と美津子が食事を済ませ、その後コンビニまで食事を買いに行った紀代たちの食事に付き合う。聡も初日とはいえ、よく馴染んでいた。

「ねぇ、さとちゃん」

 由梨は、いつの間にか『さとちゃん』と呼ぶようになっていた。別に、聡も気にはしていない様子である。

「ん? なんすか、兼田さん」

「今度体育祭があるんだけど……」

「そうだ! 聡、お前足速いか!」

 純子が割り込んでくる。

「あぁ、速いほうだと思うけど。体育祭って、商店街か町のイベント?」

「いいえ、高校の体育祭です」

 一人、敬語の紀代。静かに彼女は、アンパンを食べていた。

「高校の?」

「そうだ。他のところではあまりないらしいが、この町は学校と地域が協力してイベントをしていることが多い。体育祭もその一つでな、地域と学生の対抗リレーや綱引きもあるのだ」

 美津子がコーヒーを飲みながら教えてくれた。

「昔は、私達が所属している商店街のチームが常に優勝していたのだが……」

「ここ最近は、あの貴族どもに勝てないのさ」

 心底つまらなさそうに、純子がエビフライに箸を突き刺す。

「貴族?」

(たいら)坂の人たちのことです。高級住宅街の立ち並ぶ地域で、そのため『貴族』と呼ばれているようですね」

 どこかで聞いた地名だなと思ったが、思い出すことは出来なかった。

「でも、さとちゃんが出てくれれば優勝間違いなしだよ!」

 何を根拠にしているのか――いや、何も考えていないのだろう。由梨は、その場のノリで生きている。

「そりゃどうかな。この私が、この腕で、お前を試してやるぜ!」

 純子が、裾を捲り上げて腕を突き出してくる。一瞬殴り合いでもする気なのかと思った聡であったが、それは杞憂だった。

「彼女は腕相撲をしましょうと、言っていると推測されます」

 こういう勝負事は大好きな聡。にやりと笑って、彼も腕を突き出した。

「上等! ただ、女子供だからって手は抜かないからな。そのつもりで来い!」

「はっ、上等だ!」

 腕相撲の結果、純子はまるで聡に勝つことが出来なかった。その後挑んできた美津子をも打ち倒し、彼は腕相撲王に輝くことに――それは商店街にも伝わり、彼はいつの間にか『打倒貴族の英雄』と奉られることになるのであった。

 仕事も無事終え、階段を下りていくとそこには、朝と同じでジャージ姿の夏樹がいた。

「お仕事お疲れ」

「掃除しかしてねぇから、疲れたもクソもないがな」

 二人で笑いあう。

 夕日が差し込んできている。夏樹は、夕日に照らされる聡を見て、心が締め付けられるような思いを感じていた。

「あ、体育祭に出るんだってね。ふふん、今度は負けないよ」

「そりゃ楽しみだ。今は、部活の途中か?」

「うん、学校までひとっ走りしたら今日は終わるつもりだよ」

「車に気をつけろよ」

 聡が帰っていく姿を、夏樹はじっと見守り続けた。


 買い物袋をぶら下げて、山道を歩く聡。果てしない道のりを見上げていると、溜息が出る。轍しかない道は、着実に自然の浸食を受けて細くなっている。それでも維持できているのは、こんな山道でも車が走っているからだ。とはいえ、この先がどこかに繋がっているわけではない。琴菜のログハウスにガスを運んだり、郵便物を届けたり、そんな理由である。昔は食料も運んでもらっていたが、聡が来てからは、食料は聡が運ぶようになっていた。理由は、運搬の費用も含まれているせいか、何にしても割高で、そのくせあまり良い品ではなかったからだ。何事においても無頓着な琴菜にはそれでも良かったのだろうが、聡には我慢できなかった。

「こんなキャベツが一玉三百円だと?! ふざけんなぁ!」

 それは、聡の魂のシャウトだった。

 山道は、分岐点に差し掛かる。足を止めて、いつも使っていないほうの山道へと目をやる。ログハウスに向かう山道は登り道であるが、使っていないほうは平坦な道で、ほとんど草木で見えない。道の切れ目があるため昔そこに道があったことは簡単に分かったが、琴菜のログハウス以外に、こんな山の中に何があったのだろうか。聡は、いつも不思議に思っていた。

 ログハウスへと続く道を登りきり、少し開けた所へと出る。一番奥にログハウスがあり、その前にはログハウスを使ったときの材料の余りと思われる材木や、切り株やらがゴロゴロとしている。

 そこまで来て、聡はあることに気付いた。

「……カレーの匂いがする」

 ログハウスから漂ってきている匂いは、まさにカレーの匂いだった。ログハウスには、琴菜しかいないはずである。その琴菜は色々と面倒臭がりで、聡が記憶を失って間もない頃、食事を作ってくれたのを最後に、後はずっと聡に押し付けている。だからログハウスに帰ってきても、コーヒーの匂いはすることはあっても、食事の匂いがするようなことは、いまだかつて一度もなかった。

「ただいま」

 恐る恐るログハウスに入り、台所を覗く。そこにはやはり琴菜の姿があり、いつもの無表情を聡に向けてくる。

「おかえり」

「……なにしてんだ?」

 それは、到底台所に立つ人に向ける台詞ではない。

「これが、黒魔術のサバトに見えるならば、眼科に行ったほうがいいわ」

「見えるかぁ!」

 ついつい突っ込んでしまい、それからいやいやと顔を横に振る。どことなく無表情でありながらも、琴菜が満足しているのが聡にも分かった。突っ込みは、彼女を喜ばせるだけなのだ。それが分かっていても、なかなか自制ができない。

 買い物袋をテーブルにどさりと置き、鍋の中を覗く。匂いから分かっていた事であるが、紛うことなくカレーだ。カレー以外のなにものでもない。

「急にどうしたんだ? 琴菜がメシを作るなんて、天変地異の前触れかと思っちまうぜ」

 琴菜はお玉で、カレーをクルクルと回している。

「別に、ただの就職祝いよ」

 聡は、驚いて琴菜の横顔を見つめた。琴菜は、ただただカレーと向かっている。

「就職祝いって、お前が? 俺の?」

 琴菜を指差して、それから自分を指差す仕草。

「そうよ。めでたい日にカレーなんて、私もそう思ったけど、聡、こういうの好きそうじゃない。いらないなら、私一人で食べるから」

「いや、待て。むしろ、カレー最高」

 突然の事で状況の把握に時間はかかったが、琴菜の気持ちに触れて、聡は嬉しくてたまらなかった。普段、無表情でボケたことばかり口にする彼女であるが、彼女は彼女なりに聡の事を気遣っていたのかもしれない。

 琴菜のカレーは、身に染みるほど美味かった。

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