外伝 『老人と少女のデート』
沙夜が自分の能力について相談した相手、水及。能力を封印するために用いた『鎮めの契り』を五十鈴から受け取り、沙夜に渡した勝彦。
この二人の出会いと、水及の勝彦に対する秘めた思いを描きました。
むせ返るような血の匂い。息を切らして、庭に回りこんできた青い髪、青い瞳の少女。青白い彼女専用の衣、『天魔の衣』を纏う彼女の名は、水及。この庭の持ち主である、橘家の後見人をやっている人だ。年の頃は、十四、五程度にしか見えない彼女であるが、それは『そういう設定』だからである。彼女の実質の年齢は、気が遠くなるほどのものだ。
「誰か! 誰もおらぬのか?!」
声を張り上げる。
カタリと物音がして、部屋から一人の男が姿を現した。まだ二十代前半ぐらいの力強い瞳を有した、がたいのしっかりとした男。よく鍛えられている。彼は、頭部から流血しており、衣服もあちらこちら破れていた。けだるそうに柱に寄りかかりつつも、その瞳は狂気に震えていた。水及は、ぞっとした。彼の瞳に、敵意が混ざっていたからだ。
「か、勝彦か。何があった? いや、それよりも……」
「黙れ!」
一喝。空気が震え、水及の心も震える。
「今更のこのこと……たくさん死んだぞ! この役立たずが!!」
彼の憤り。
彼の悲しみ。
あと、彼は無力さも心に秘めていたのだろう。
水及は、その場から立ち去るしかなかった。彼の憤りは、水及を間違いなく喰らう。火に油を注ぐだけだ。
これが、水及と――。
橘家の当主、橘勝彦の出会いだった。
それから四十年ほどが経った――。
橘家の石段を上る水及は、石段の中央辺りでうな垂れている勝彦を見つける。水及の気配を感じて、勝彦は顔を上げた。彼の顔は、四十年前と寸分も変わっていなかった。
「……状況はある程度把握している。お前を助けに来た」
「水及……様。私は……あなたを拒絶した。なぜ……?」
水及は、苦笑する。それは、粗相をした息子を見守る母の顔であった。
「助けたい。そう思ったからだ」
二人が交わした、些細な契約。それは、いつしか二人だけの絆となった。
薄い青色のセーターの上から、白いカーディガンを纏いつつ、水及は昔の事を思い出していた。あのときから、すでに百年以上過ぎた。ほとんど思い出したくもないことばかりなので、水及は過去を振り落とすように被り振り、鏡に笑顔を映す。
「……こんなものか」
今日は、勝彦が約束を果たしてくれる日である。
夕方の五時。住まいがある歌宝山の麓で勝彦と合流し、彼の運転する車でショッピングモールへと向かった。勝彦は、いつも着物姿であるが、今日ばかりはちゃんと洋服を着ていた。もし、着物のままだったら、一発蹴りを入れてやろうか。そんなことを思っていた水及であっため、勝彦の服を見て少しほっとしていた。
白髪と齢を現す多くのしわ。勝彦は、見た目は七十以上のご老人。水及と一緒に歩けば、孫娘を連れて遊びに来ているお爺ちゃんだ。しかし、ひとたび二人が話をしているのを聞けば、違和感を覚えるだろう。
水及は、中学生のような姿見であるが、その言葉遣いは尊大で古臭い。時代錯誤甚だしい、存在なのだ。
「勝彦、服を見ていくぞ」
水及が、一件の洋服屋を指差し、キラキラと笑う。普通の男性ならころりとやられてしまうだろうが、勝彦は年季が違う。彼女の『魅了』は、ほとんど効果がない。
「……どうぞ。外で待っております」
「ふざけるなっ! お前も来い!」
人前で、猫かぶりをする水及であるが、勝彦の前だとどこでもこの態度。それだけ、気を許しているのだろう。
「水及様、私が行ったとして、なにをお求めで? 察してください」
勝彦は、困った顔で言う。女性の服なんて、勝彦は見ても分からないのだ。水及もそれが分かっているはず。だからこそ、水及の発言が理解できない。
「似合っている、似合ってない。そっちがいい、こっちの方がいい。それぐらいのことは、お前にも言えるだろう? いいから来い。折角、こうやって久し振りに二人で歩いているのだ。少しぐらい、サービスをしたらどうだ」
勝彦は、溜息を零す。主君の言葉には、結局逆らえない。
「分かりました。期待に添えるとは、到底思えませんが」
「少しは気を遣えるようにならんと、椿に嫌われるぞ」
孫娘の名前が出てきて、勝彦は戸惑う。
「椿に?」
勝彦の戸惑いに、水及は呆れた。
「椿は、お洒落だぞ。色々と考えておる。全く、そんなことだから櫻があんな禍り方をするのだ。子供たちのことをちゃんと見ろ。わざわざ私が言わなくても、分かるだろう? いい加減」
「痛い……お言葉です」
櫻というのは、養子の子。書類上であるが、椿の妹になる。櫻は、別にぐれているというわけではないが、異様なまでに卑屈である。その在り方に、水及は酷く心を痛めていた。勝彦は、水及にその真実を伝えられるまで、櫻の実情を把握していなかった。
勝彦にとって、櫻のことを言われるのが一番今は辛い。
「分かったなら、付いて来い」
溜息を一つ、苦笑しつつ水及の後を追いかけた。
「こんなのはどうだ?」
水及が着ていた服は、どう見ても看護師の制服。今時、看護帽なんてかぶらないのだが、ちゃっかりそれもかぶっている。しかし、水及のぺったんこな体型では、その魅力はまるで活かしきれていないように思えた。
「これは?」
魔法少女にでもなったつもりか。ピンクが主体の、幅広いスカートにゴテゴテの上着。ステッキまで所有し、それを器用にくるくると回している。
「これなんか、割とオススメっぽいぞ?」
最後が何故か疑問系。スクール水着に、上からセーラー服を身に纏っている。最早、外を歩ける格好ではない。
勝彦は、黄昏ていた。
なんなんだと?
あなたは、一体何がしたいのか?
そう尋ねたくても、言葉を忘れてしまった哀れな木偶人形。ゴホンと咳払い一つ、勝彦は活動を開始した。
「水及様、真面目に考えないなら、帰りますよ。そもそも、店を間違えているように思えますが?」
勝彦は、どこまでもクール。動じない彼を見て、水及も不満そうである。
「ぴくりとも反応せんか。お前の妻と、変わらない体型なんだがな」
「そういう誤解を招く発言を公の場で言わないでください」
「分かった分かった。まったく、勝彦は面白げが本当にないな……」
仕方なくまともな服を探そうと視線を転じた水及であったが、その視線の先に待っていたのはゴテゴテのゴスロリ系の服を持った、女性の姿。にっこりと笑い、彼女は告げた。
「これなんか、最高にお似合いだと思いますよ」
水及のファッションショーは、終わらなかった。
喜ぶ水及の後ろで、勝彦が驚いた顔をしていた。水及はそれに気付いたが、詮索は後にし、今を楽しむ。かれこれ二十分近くは、服を持ってきた女性――この店の店長と、戯れていた。
結局、勝彦の意見など全く聞かず、自分の好みで服を一つ買った水及。上機嫌で店を後にする。
「久し振りにいい買い物をした。今度、これを着て遊びに行こう。なぁ、勝彦」
「全力でお断りいたします」
勝彦は、きっぱりと言い放つ。水及が買った服は、典型的な萌えアニメの主人公が着てそうな、フリルが付いた洋服である。どう見てもコスプレ。勝彦の常識を逸脱した一品だった。
「全く迷いもなく切り捨てよって。まっ、当主会議の時にでも着ていこう。皆が、驚く顔が……くくくっ」
悪趣味なたくらみごとをしているようだ。
当主会議とは、橘家、小泉家、水無月家の三家で年二回行われる定例会議である。正装が基本の重々しい会議を、引っ掻き回そうとしている。それが冗談でもなんでもないことを、勝彦は知っていたが、彼女に『止めてくれ』と懇願しても、無駄な事。勝彦の言葉を聞いてくれるほど、彼女は寛大ではない。
「ところで、さきほど味のある顔をしておったな。あの女、知り合いか?」
見ていたのかと、勝彦は驚く。目ざといのは、水及の武器の一つのようなものだ。
「神山聡の縁者です。高校三年間を同じクラスで過ごし、それなりの交流があったと、報告書に書いてあったのを思い出して」
神山聡とは、いま橘家が監視している男の一人。最重要機密に抵触している可能性が示唆されているが、記憶喪失という要因を抱えており、現在監視のみに留まっている。当然、水及も彼の名前を知っており、驚いていた。
「ほぉ、あの変り種の男の縁者か。なるほど、類は友を呼ぶか。これは面白い。覚えておこう」
水及の買い物のおかげで、随分と遅れてしまった。しかし、勝彦も聡い。水及が産み落とすロスをある程度は把握していた。予約をしておいた時間に、十分程度の遅刻で済む。
ショッピングモールの一角にある、古風な造りのお店。名前は、『篤』と書いてある。水及は、見上げつつ感想を零す。
「ここか。和風なのか」
「はい。驚きますよ」
水及が首をかしげているのも気にせず、勝彦は店の中に入るように促してくる。一体、店の中で何が待ち構えているのか。
自動扉を潜ると、若干薄暗い室内に店構えと同じ、少し味のある調度品がならぶ室内が二人を出迎える。琴のBGMが、空気を静かに優しく震わす。しかし、これといって驚くべきものはない。店員に案内され、カウンター席へと向かう。
そこで水及は驚いた。カウンターに驚いたわけではない。カウンターの向こう側で、包丁を握る男の姿に驚いたのだ。四十代のがたいのしっかりとした着物を着た男は、水及に静かに頭を下げて、『いらっしゃいませ』と迎えた。
「驚いた。篤朗か?」
「覚えていらっしゃったなんて……感動です。はい、小泉篤朗、今はこの店を切り盛りしております」
水及は、嬉しそうに笑った。心の底から、彼のことを祝福していた。
「そうか。良かったな。これほど、めでたい話もない」
小泉篤朗。今でこそ包丁を握っているが、かつてその手は他者を破壊するための獲物が握られていた。
除霊屋の小泉家の出身である彼は、その頃からよく台所に出没していた。料理が好きだった。出来れば、それ一本で進みたい。そう願うほどに。しかし、除霊屋という組織は、格式やら規律やらが厳しい。彼の夢は、到底叶えられるものではなかった。除霊屋として生まれたのであれば、一生、死ぬまで除霊屋。それが通例。他の職業への転職など、論外だ。それが分かっていてなお、篤朗は自分の願いを表に出し、小泉家の当主と対立した。小泉家の当主は、基本的には人が良い。篤朗のひたむきさに負け、助け舟を求めた。それが、水及。小泉家にとって、橘家とは上部組織。その橘家の後見人である水及は、小泉家にとっても生き神に等しい。彼女に否定されれば、さすがに諦めるだろう。しかし、結果は違った。
「やりたいことをやらせればいい。彼は、除霊屋のことを他者に話すような男には見えぬし、規律を理解しながらも、やりたいと懇願しているのだ。その覚悟は、十分に信頼に置けぬものだと思うが」
除霊屋は、表立った組織ではない。公表してはいけない情報を多く保有している。その漏洩を最小限にするために、転職を禁じていた。小泉家の当主は諦めて、篤朗を小泉家の名簿から抹消した。小泉家の人間ではないのだから、好きにしなさい。そういう抜け道を使ったのである。
「本当にお世話になりました。今の私があるのは、水及様のおかげでございます」
篤朗の素直な言葉を、水及は心地よく受け止める。
「今、ここにあるのはお主の心構え、そして修練の末のもの。私は、ただ背中を押しただけに過ぎぬ」
そこで水及は、少し暗く笑った。
「それに、日本神族会が決めた規律など、そもそも私にはどうでもよいしな」
除霊屋の上部組織として、日本神族会という神々の組織がある。除霊屋は、基本日本神族会の取り決めに従い、運営している。神を憎んでいる水及にとって、守るべき道理なんてものはそもそもなかった。
「さて、篤朗。私を満足させてみよ」
水及の尊大な物言い。そのプレッシャーに、篤朗は顔を引きつらせた。その言葉に、敵意や嫌味なんてものはないが――水及は、いつでも畏怖の対象だ。怖くないはずがない。
「肩の力を抜いて、いつも通りだ。お前の腕なら、なんの問題もない」
水及は、自然体で怖がられている。それを本人は認識していない所がある。勝彦は、すかさずフォローに回った。あまりにも可愛そうだったからである。
水及は、ご満悦だった。篤朗の作った料理は、彼女を満足させたのだ。櫻町へと戻り、歌宝山の前に車を止め、水及とそれを見送るために勝彦も降りてくる。料理は人を幸せにする。本当に水及は、幸せそうだった。だからこそ、こんな事を言い出したのかもしれない。
「家まで担いでくれ」
勝彦は、驚いた。しかし、彼女はたちが悪いことにあまり冗談を言わないのだ。そう、本気だ。いつでも直球勝負である。勝彦は、仕方がないと頬を掻き、水及を背中に背負った。とても軽い彼女の体重は、勝彦の負担には全くならない。いつでも尊大な彼女も、この時ばかりは小さく感じた。
「いつ以来か。お前に背負われるのは」
水及が、懐かしむように勝彦の背に顔をうずめる。勝彦は、思い返しつつ、いつのまにか出現していた森の中の階段を上っていく。この階段は、普段は見えていない。水及の結界である。今は本人がいるため、自動的に結界がオフになっているのだ。
「ふふふっ、お前を背負って走り抜けたことはよく覚えているのだがな」
「……そ、そうですね」
思い当たる節が一杯あり、勝彦は苦渋に満ちた表情で呟いた。
「お前は死なないからといって、よく無茶をしていたからな」
そう話しているうちに、水及はいつ背負われたのか思い至る。
「あぁ……お前と旅をしていた頃だな。もう、かれこれ百年近く前になるか」
懐かしい思い出を噛み締める。
「勝彦……」
「……なんでしょう?」
しばらく水及は考え込んでいた。だが、結局今思っていることは口にしなかった。いや、するべきではないと判断したのだ。
「これから、色々とあるかもしれぬ。いや、あるだろう。頑張ろうな」
勝彦は、静かに『はい』と答えた。それでいい。十分な答えだ。
『ずっと一緒に、いつまでも一緒に、居てくれるよな、勝彦?』
それが、水及の言いたかった事。しかしそれは、叶わぬ夢だ。水及は、根源となるところで自由意志が介入できない。そう、たった一つの目的のために生き続けなければならない。その制約を、水及自身の意思では変更できないのだ。それが、水及が人ではない故の制約。生れ落ちた時に帯びた、絶対なる運命という名の使命なのだ。
水及は、勝彦の事が好きだ。
それは、やっと出会えた自分と同じように人とは違う時間を生きる人。
同胞である。だからこそ水及は勝彦との関係を慎重に考え、そして今の距離を選んだ。付かず、離れず。それ以上を望むことは、怖かった。
勝彦がどう思っているのか分からない。それでも、水及は決めたのだ。
勝彦が生きている間は、勝彦の側にいよう。
勝彦の温もりの中で、水及は勝彦を思う――。
END