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空白ノ翼  作者: 堕天王
夏樹と三人の由紀子
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数馬の想い

 小泉由紀子(ゆきね)虹野(こうの)夏樹が喧嘩をしたことは、橘椿の耳にも入っていた。何事もなければと願っていたというのに、思わぬところから問題が噴出した。幸い、由紀子に大きな変化は起こっていなかった。ただ、精神的負荷が由紀子にかけられた術式にどのような影響を与えるのかは、未知数である。そのため、出来るだけ穏便に由紀子と夏樹の関係性を正さなければならない。

「……どうして夏樹さんが」

 夏樹は、由紀子の幼友達である。椿は当初から由紀子の傍にいた。それは、今と同じ理由で、由紀子にかけられた術式が正常に作用しているのか、『赤鬼(せっき)』の暴走を起こさないのか、それを監視するためだった。そこに夏樹が混じることで、椿の在りようは自然となり、いつの間にか三人でセットとなっていた。

 由紀子と夏樹は、細かいことでよく喧嘩はしていたが、今回はどうも様相が違う。夏樹と一度話してみないことには、今の所はどうしようもない。ただ、そういう人と人の間をかけ持つようなことは、椿の最も苦手とするところであった。

 本棚から椿の花が描かれているオルゴールを取り出す。

「兄様……」

 十一年前の誕生日に、兄がプレゼントしてくれたものだ。そして、数少ない遺品となった。

「椿には難しすぎます」

 オルゴールに額をあて、椿は大きなため息を吐いた。



 遡ること十一年前――。

 白い雪は、血液で汚れていた。橘数馬は、いくつもの死体が転がるそんな光景を木に背中を預ける形で座って眺めていた。手にしている刀は、半ばから折れていた。頭部からの出血で、視界が霞む。

 若草山に出た(あやかし)を討伐する任務を受けた。たった一人で挑むという条件を不思議に思いはしたものの、家族を顧みない祖父を見返すため、どうしても手柄が欲しくて疑問を飲み込んだ。その結果が、『これ』である。

 登山の途中で、尼崎(あまがさき)家の人間に襲われた。同伴していた尼崎音子(なりね)は、数馬をかばって矢を受け、死んだ。だから数馬は、目につくすべての人間を殺した。しかし、これまでである。受けた傷が深すぎた。視界が霞んでいるのは、頭部の出血からだけではなく、血液を失い過ぎたことも要因の一つであろう。

『橘数馬、か?』

 唐突に現れた背の高い男が声をかけてきた。その姿見は透けている。霊体だ。数馬には、見覚えのない存在だった。

「……そうだ。俺を殺すのか?」

『違う』

「なら、助けてくれるのか?」

『そう言われている。ただ、俺はこれを千載一遇のチャンスだと思っている。今、死にかけているお前には悪いが、な』

「……?」

『俺と契約をしろ、橘数馬。俺がお前を助ける。だから、お前は俺を助けろ』

「分かった。俺は、まだ死にたくない。助けたい人がいる。だから、死にたくない」

『契約成立だ。俺とお前は、これで運命共同体だ。よろしく頼むぞ、兄弟』

 数馬が震える左手を差し出すと、その手を力強く握り返してきた。霊体のため、肉体とは違う硬質な感じがしたが、温もりはそこにあった。これが、橘数馬と素鳴男(すさのお)との出会いだった。そして、その一か月後、彼らは東北の霊的な管理をしている藤原家の本家の地下牢に居た。

 素鳴男は、戊辰戦争の際に奥羽越列藩同盟に加担し、新政府軍と戦った。そして、五稜郭で敗北し、そのまま五稜郭で封印されてしまう。彼は、五稜郭に封印されている自分の体を取り戻してほしいと、数馬に協力を申し出た。その結果、五稜郭を管理していた藤原家の妨害にあい、敗北、捕らえられてこの地下牢にぶち込まれたのであった。

「何が、観光気分で楽々侵入できる、だ。ボコボコにされたわ」

『あぁ……すまんな。行けると思ったんやけどなぁ』

 この時数馬は、計画性のない素鳴男に失望し、彼の言うとおりにするのはやめようと、早々に見切りをつけていた。

 薄暗くて寒い地下牢生活が何日か過ぎた頃、そんな彼らに声をかける者が現れた。

「牢屋の中は寒かろう。我々に手を貸す気はないか? どこから来たか分からぬ、侍よ」

 藤原家の当主である。

「手を貸す?」

九藤(きゅうどう)家を知っているか?」

 知らないはずがない。かつて日本全国を支配していた橘家。その本家が東京にあった。その東京にあった本家と領域戦で戦い、滅ぼしたのが九藤家だ。橘家にとって、その名前はもっとも忌み嫌う名前であった。直接関りがなかった数馬でも、その名前を聞いただけで緊張が走り、表情が憎しみで歪む。

「我々は、九藤家に度々領域戦を挑まれている。奴らは、銃やらよく分からない薬やらを使ってくる。まともな戦い方では太刀打ちできん。橘家を滅ぼして、かつての橘家のように天下統一の夢でも見ているのか。こちらとしても、毎度毎度領域戦を挑まれて、迷惑しておる」

 藤原家は、関東を支配している九藤家と領域戦、除霊屋の縄張り争いを繰り返しており、少しでも戦力を欲していた。数馬は、強くなりたいと願っていたし、それに相手が九藤家ならば戦わない理由がない。利害が一致した。

 藤原家で修行と領域戦に明け暮れていた数馬に、尼崎家が崩壊したという事実を素鳴男が告げたのは、半年ほど経ってからの事であった。

「尼崎家が……!」

 尼崎音子の事を思い出す。

「妹がいてね、ずっと離れに幽閉されているの。助けてやりたいんだ。そしたら、普通の姉妹みたいに、ご飯を食べに行ったり、洋服を買いに行ったり、そういうことがしたいの」

 強い志を瞳に灯し語っていた彼女は、数馬を庇って死んでしまった。だから、音子の思いを引き継がなければならないと思った。強くなって、素鳴男の目的を早々に達して、福岡に戻って尼崎茜の解放の手段を模索するつもりだった。

「音子さん、間に合わなかった。すまない……!」

『そう落ち込むな。尼崎茜は亡くなったが、その妹の雪子(ゆきね)は小泉家に保護されたらしい。一人は、救われたんだ』

 素鳴男の言葉を、ほんの僅かな救いとなった。それから十年経って、数馬の所に『赤鬼暴走』の情報がもたらされたのだった

 ワンルームのマンション。テーブルの上に書類が散らかっている。数馬の協力者である、水無月徹から提供された八月に起こった『赤鬼暴走』の概要と、解散した尼崎家の人たちの動向が記されている。

「尼崎雪子こと、小泉由紀子に『赤鬼』が発現。命の危機に陥ったことで、強力な霊力を放って暴走。尼崎雪子に何故『赤鬼』が発現したかは不明……か」

『赤鬼というのは、目が赤く光るんだったよな』

 素鳴男が数馬の中から話しかけてくる。色々とあって、素鳴男の肉体は取り戻したが、今は別の場所で棺に入れて保管してある。肉体の消耗を避けたいということで、彼は未だに数馬の中に留まっていた。

「何か知っているのか?」

『いや……なんか、昔なぁ~……うむ、忘れた』

「そんなことだと思ったよ」

『で、福岡に戻ってきたが、どうするつもりだ? 尼崎家の人間を追いかけるのか?』

「小泉家が監視している。何か動きがあれば、徹が知らせてくれるさ。とりあえず今の所は、待機かな」

『まぁ、今まで色々とあり過ぎたからな。たまにはのんびりするのも悪くはないか』

「そんなに暇なら、私の話でも聞いてくれないかしら」

 突然声がした。いつのまにか、ダイニングの椅子に黒い髪の女が座っていた。数馬はその姿を見て、浮いた腰をうんざりした顔をしながら下した。

「千鶴さんか……相変わらず、気配が全くしませんでしたよ」

 斎藤千鶴。古い知人であり、数馬の協力者の一人である。

「未熟者ですわね」

「で、わざわざ福岡までどんなご用事で?」

「あなたにやって欲しいことがあるの」

「俺に? わざわざ俺に頼まなくても、なんでもあなたなら出来るだろう?」

「過大な評価ですわ」

 相変わらず彫像のような人だ、と数馬は思った。美しい黒い髪、透き通るような白い肌。端正な顔立ち。切れ長の瞳。バランスのいい肢体。薄く笑っているのに、そこには何の感情も映していない。

 そう、まるで美術の本で紹介されている彫像の写真。彼女の姿は、それを連想させた。

「素鳴男の時のこともあるから協力はしたいですが、今は別件で忙しいんです」

 一年前、数馬は素鳴男の肉体を解放するため、お世話になっていた藤原家に対して領域戦を挑んだ。その際、力を貸してくれたのが彼女であった。藤原家の面々も彼女のことをよく知っていたため、「インチキだ!」、「チートだ!」、「見損なったぞ!」など、非難轟々ではあったが、彼女が居なければ数馬に勝機など一ミリたりともなかった。

「マイナス二百万点ですわね。あなたの別件は、誰からの情報かしら」

「あぁ……千鶴さんからです」

「そんな私に別件で忙しい」

「すいません……もしかして、同じ案件だったりします?」

「数馬君は、もう少しお勉強を頑張った方がよろしいかと思いますわ」

 ぐうの音も出ない。数馬は押し黙るしかなかった。

「それで、手を貸してくれるのかしら?」

「何をしろと?」

尼崎一(はじめ)を討って欲しいの」

「尼崎一? 彼は、十年前に死んだはずでは」

 尼崎一は、十年前の尼崎家の当主の名前だ。死んだと、報告を受けている。

「状況的に見て死んでいるだろうと推測される。それが、小泉家の出した最終判断ですわ」

「状況的に見て……それって、死体を確認していないということですか?」

「その通りです。小泉家に探りを入れて、十年前のことを調べましたわ。その日、尼崎家に居た人間と死体の数が合わない。尼崎家に居なかったはずの人間が、死体にカウントされている」

「どうしてそんなことが……」

「数馬君は、気づかないのかしら。十一年前、どうしてあなたは尼崎家の人間に襲われたの?」

 十一年前の若草山での妖討伐。

「数馬様。小泉家の当主から、あなた様に直々に、内々に片づけて欲しいと」

 小泉家を訪れた際、小泉家に所属する壮年の男に依頼書を渡された。

 数馬は、はっとした。

「あの男、もしかして間諜か?!」

「当時の小泉家はね、尼崎家の工作を受けていて、情報は筒抜け、報告書は改竄だらけ。尼崎家の下部組織のようになっていたみたいね。尼崎家の崩壊が起こった後、そういう尼崎家の工作を受けていた連中は、ほとんど外国に逃げてしまって今も行方知らず。あなたに怪しい依頼書を渡した男も、今はどこで何をしているのでしょうね。貰ったお金で豪遊でもしているのかしら」

「くそったれが!」

 あまりにも不快で、思わずテーブルを叩いてしまっていた。

「尼崎一は、生きている。数馬君は、どう思うかしら」

「そんなもの、生きているに決まっている」

「赤鬼暴走を受けて、彼らはどう動くと思うかしら」

 尼崎一のことは、詳しくは知らない。ただ、凶暴でありつつも頭の切れる男であるとだけ、聞いている。彼がどう動くのか。数馬は、すぐには答えを出せずにいた。

「数馬君には、馴染みが深いと思うのだけど」

「……領域戦」

「正解ですわ」

 除霊屋は、それぞれが領域を持っており、その領域内での霊的な事案を担当するように決められている。そんな除霊屋同士が、話し合いで解決できない問題を解決する方法を『領域戦』と呼ぶ。

「尼崎雪子が小泉家に保護されている以上、彼らはそれを『不当な略取』という理由にして、領域戦を挑むことが出来ますわ。彼らが要求するのは、奪われた尼崎家の本家と領域、それから尼崎雪子の身柄、と言ったところかしら」

 そんなことになったら、十年前と同じ状況に戻ってしまうではないか。

「千鶴さん、ありがとう。こんなところでぼやぼやとしている暇はない」

 決意を新たにする。ただ、一つだけ気になったことがあった。

「何故、俺に尼崎一を討て、と? 彼に何か恨みでも?」

「私にも人並みに守りたいものがある。ただ、それだけの事ですわ」

 いつも彼女の顔には感情がない。ただ、その時ばかりはどこか悲しげなものがあるように、数馬には思えた。


 武者ヶ岳と呼ばれる小高い山。その山すべてが尼崎家の土地だった。山の頂上には、見事な洋館が建っている。数馬は、その洋館を見上げていた。

「小泉家の浄化が行われているはずなのに、いまだに禍々しさが残っているのか。まるで悪魔の根城だな」

 端から見れば綺麗な洋館である。ただ、霊的なモノを見ることが出来る素養がある人から見れば、その洋館にこびりついた感情の残滓がどす黒く洋館に張り付いているのを見ることが出来た。一人二人の悪夢。一年十年の絶望。そんなレベルじゃない。数百年に及ぶ、数十万、もしかしたら百万を超える人間の悪夢がそこにあるように感じた。

『尼崎家か。確か、邪法を極める除霊屋の中でも九藤家に匹敵する異端な一族だったか』

「代表的な術式が死霊術というのだから、頭がおかしいレベルじゃない」

 玄関を潜り、エントランスへ。両側に階段があり、中央には真っ直ぐ廊下が伸び、その奥に扉が一つ。その手前には、地下に下りる階段が両脇にあるのが確認できた。

「来たか」

 エントランスの中央に着物を着た白髪の老人が立っていた。橘勝彦。数馬の祖父であり、数馬は彼に会うためにここに来ていた。

 数馬は、無言で間を詰める。彼に対しては、正直な所、不信感しか持っていない。それでも彼を頼らざるを得ない。なぜなら、彼こそが九州全土の除霊屋の頂点にある橘家の当主だからだ。

「久しぶりだな、数馬。壮健で何よりだ」

「……この度は、謁見を快諾していただき、誠にありがとうございます」

 勝彦は、困った顔をしていた。

「で、私に用とは?」

「情報を明かせませんが、確かな情報筋から尼崎一が生きていると」

「ほう」

 千鶴からの聞いた話を、そのまま勝彦に伝えた。

「小泉家に対する工作か。やはりそういうことか。どうにもおかしいと思ったのだ。ならば、それ以前からも……ということか。これは一度、徹底的に調べて関係者を処分しなければならないな」

「もし、尼崎家の連中が領域戦を仕掛けてきた場合、その領域戦に私も参加させて欲しいと、お願い申し上げます」

「分かった。その時は、便宜を図ろう」

 ほっと胸を撫で下ろす。これで、後は尼崎家が動くのを待つばかりだ。

「当主。母と妹は、元気でしょうか?」

「元気だ。お前も、成すことを早く成して、帰ってこい。二人が首を長くして待っている」

 最後に聞きたいことも聞けた。もうこの老人には用はない。そのはずなのに、心の猛りが収まらない。言わなくてもいいことが、口から出てしまう。

「……私、領地を得たんです」

「聞き及んでいる。誇らしく思っている」

「橘家の呪いは、私が必ず解呪して見せます。だから、その時は私に当主の座をください」

 勝彦は笑っていた。今までに見たことのない、とても嬉しそうな顔だった。

「いいぞ。持っていけ」

 何故、こんな事を言ってしまったのか。

『どうして、父を助けてくれなかったのですか!?』

 父が亡くなったあの日、行方が分からなくなっていた勝彦が丁度戻って来た。そんな彼に、数馬はそう怒りをぶつけた。

 彼を許さない。そういう感情が始まりだった。しかし、勝彦に怒りをいくらぶつけても動じはしないし、振り向いてもくれはしなかった。いつしか、彼を見返してやろうと思うようになった。だから、普通に考えれば怪しい仕事だと分かる仕事に手を出してしまい、命を落としかけた。

 橘家を離れてからは、ただただ必死だった。そのため、いつしか祖父の事も忘れてしまっていた。しかし、心の奥底にある思いまでは消え去らなかったのだろう。祖父に認めてもらいたいと欲求が、数馬を動かしたのだ。

「いつの日か、行方をくらましていた理由も聞ける日が来るかもしれない」

 自然とそう思えた。

 勝彦と会った日から、一週間が経った。数馬は、すでに使われていない鉄工所の中で、素振りを行っていた。衆人の目につかず、体を鍛えることが出来る場所を勝彦に頼んだ際、この鉄工所を使っていいと言われたからだ。

「昔、色々とあってな。もうしばらくは除霊屋の管轄でなければならないところなのだが、その分、誰も近づくことはない」

 そう勝彦は言っていた。妖や悪霊でも住み着いているのかと思ったが、空気は埃で汚れてはいるものの、場としては清浄そのものであり、何故除霊屋の直轄地となっているのか、その理由がよく分からない場所ではあった。それでも、誰も近づかないというのであれば、何も言うことはない。

「数馬」

 澄んだ声が響いた。驚いた数馬は、さらに鉄工所の入口に立っている青い髪の少女を見て、もう一度驚いた。

「み、水及様……!」

 納刀し、慌てて膝をついて頭を下げた。

 見た目は、十代前半の可憐な少女にしか見えない。しかし、実際は千三百年も生きており、かつ橘家の後見人、すなわち祖父の勝彦の上司という、九州の除霊屋の最も上位に君臨する、そんな人物である。

「頭を上げなさい。ほら、差し入れだ」

 コンビニの袋を手渡された。中には、ペットボトルのお茶やらコーヒーやらジュースやら。他にも、ドーナツやらケーキやら色々と入っていた。数馬の好みがわからなくて、色々と悩んで、結局目についたものを集めた、そんな様子がうかがえた。

「ありがとうございます」

 緊張で口が渇いて言葉を紡ぎにくい。

「随分と大きくなった」

 水及の顔はとても優しい。正直な所、水及の事を鬼か悪魔かと思っていた節があったため、数馬は呆気にとられていた。

「少し、稽古をつけてやろう」

 水及は、白い衣を脱ぎ去り、ズボンと黒いシャツだけの姿となった。

「その真剣でいい。遠慮せず、殺すつもりで来なさい」

 数馬は刀を抜き、中段で構えた。

 水及と手合わせをしたことも、水及が直接戦っているところも見たことはない。ただ、彼女の伝説は山ほど聞いたり、読んだりしてきた。

 一見は、小さな少女にしか見えない。しかし、数馬には虎のように見えていた。突っ込む前から、勝てないことが分かってしまう。圧倒的な力量の差。彼女の伝説は、誇張ではなかったことを、数馬はこの時確かに感じていた。

 二十分後、数馬は大の字に寝転がり、薄汚れたトタンの天井を見上げていた。結局、水及は一度も腰の後ろにぶら下げている小刀を抜くことはなかった。

「上出来だ。勝彦の奴よりも、随分と手ごたえがあった」

 一度もまともに捉えられなかったのだが、存外の評価を受けた。それも、祖父よりも上という何よりも嬉しい評価だ。

「本当ですか?」

「あぁ、とても筋がいい。外に出たことが、大きな成長へと繋がったのだろう。ただ、まだまだ遅すぎる。橘流は、最小の動きで一撃必殺。橘流を極めるか、他の流派で補って多角的な戦いをするのか、まだ決め切れていないみたいだな」

「はい、正直迷っています」

「誰か、倒したい相手はいるのか?」

「鬼神皇です」

「……そうか。なら、橘流を極める方がいい。奴に小細工は通用しない。正面からねじ伏せるだけの力が必要だ」

「水及様は、鬼神皇と戦ったことがあると伺っていますが?」

「深手を負っていた鬼神皇を、仕留めきれなかった程度の話だ」

 その言葉は、数馬の心に深く刺さった。稽古とはいえ、まるでかなわなかった水及でさえ、深手を負った鬼神皇を倒すことが出来ない。

 鬼神皇。いつから彼が存在していたのか。そこは詳しくは分かっていない。ただ、ずっと昔から人々に恐怖をばらまく存在であったことは確かだ。

 鬼神皇を退けることが出来た人は、たったの三人と言われている。

 赤き瞳の巫女。

 山神の歌巫女。これは、水及ことだ。

 橘家の椿。数馬の妹の椿ではなく、前世の彼女である。

『鬼神皇は強い。俺もアイツには届かなかった』

 そう語ったのは、数馬の体の中にいる素鳴男だ。日本神族会の戦神であり、荒ぶる自然そのものの彼でさえ倒せなかった存在。それが、数馬が倒したいと願っている相手だ。それを考えると、とても無理なのではないかという気持ちになる。だからこそ、数馬は素鳴男と結託して、ある計画を進めている。別に数馬一人で戦わなければならない、なんてことはない。ありとあらゆる手を使って、届かなければ届くように脚立を準備すればいいだけの、それだけの話だ。

「数馬、これを」

 赤や緑の糸で織り込まれた腕輪を受け取る。

「認識を阻害できる。これを付けていれば、周りからは小泉家の誰かに見えるはずだ」

「あっ……ありがとうございます」

 領域戦を挑むにあたって、どうやって素性を隠すか。それが悩みであったが、これさえあれば解決である。

「今更こんなことを言っても、お前もいい気持ちはしないかもしれないが、私はお前たちの傍に居てやらなかったことを、酷く後悔している。僅かながらの罪滅ぼしだと、思ってくれ」

 水及は、とても悲しい表情をしていた。


 窓から見える空は、とても高くて青かった。窓に触れると、外気が伝わってくる。彼女にとっては、その窓、壁の向こう側はもう知らない世界だ。

「お嬢様、お食事をお持ちいたしました」

 小柄な少女が部屋を訪れてきた。時間ぴったり。何も変わらない、ずっと続いてきた光景だ。

来子(くるね)は、領域戦が始まると思う?」

「領域戦でございますか。はい、現在準備を進めております」

 あっさりと答えてくれた。

「そうなのね。あなたも戦うの?」

「はい。そのために、私が在ります」

「怖くはないの?」

「怖い、ですか。むしろ、私は楽しいのです。やっと私の力を使うことが出来るのですから」

「前々から思っていたけど、あなたは本当に『正しく』尼崎家の人間ね」

「お褒めに預かり光栄の限りでございます」

 皮肉を込めたつもりであったが、まったく気づいていないような反応であった。

 領域戦が始まる。ただ、自分には関係のない話だ。いつ終わるか分からない幽閉生活。十一年も経ってしまったら、夢も希望もなくなり、漠然と死ぬまでここにいるのだろうな、と思うようになっていた。

「領域戦には、お嬢様も参加することになっております。そろそろ、詳しい話が回ってくるはずです」

「えっ? 私も出るの?」

「はい。なにせあなた様は、尼崎家の当主、なのですから」

 この子は、いったい何を言っているのだ。

 今、止まっていた時が動き出そうとしていた。

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