軋む友情
あらすじ
小泉由紀子は、平凡な女子高生だった。しかし、鬼神会という組織の企みに巻き込まれ、命の危機に晒されたことで、彼女の内に眠っていた『赤鬼』と呼ばれる力が暴走してしまった。由紀子の友達である橘椿や氷女沙夜の奮闘により、暴走を抑えることが出来たが、目を覚ました由紀子は、自分の事を『尼崎茜』と名乗った。
明かにされる小泉由紀子の出生。彼女の本当の名は、『尼崎雪子』。十年前、『赤鬼』を暴走させて暴れていたところを、水及が鎮圧し保護。『赤鬼』の暴走を恐れた水及によって、記憶と能力の全てが封印され、新たな人格と記憶を与えた後、小泉家に引き取られたのが今の小泉由紀子であった。
水及の処置によって、元の平凡な女子高生へと戻った小泉由紀子。彼女は、少しの違和感を覚えながらも、日常へと戻っていった。
一話 『軋む友情』
憎悪が止められない。小泉由紀子の首を締めあげ続ける。骨が軋む音が聞こえた。気道が圧迫され、呼気がヒューという音を奏でる。顔色が赤く染まり、唇が紫色に変色していく。このままだと、首の骨がへし折れる。それが分かっていても、憎悪が止められない。止められないのだ。どこからこれほどの憎悪が溢れてくるのか。
こんなにも大切に思っているのに。こんなにも殺してしまいたい。
だから、小泉由紀子。
あなたをここで殺します。
新学期の朝。
目を覚ました小泉由紀子は、すぐに違和感を覚えた。
知らない天井。
知らない部屋。
そう思った後、すぐにそこが自分の部屋であることに気付いた。違和感は続き、洗面台に立った際には、鏡に映っている自分の姿が自分であると一瞬認識することが出来ずに、知らない誰かが映っていると思って驚いた。
最近、彼女はこういう違和感に悩まされていた。
既視感と未視感が入り混じる。ただ、それは不快なものではなかった。未視感を感じた後、既視感を感じるととても安堵するのだった。
「ユキちゃん」
母がそんな由紀子を心配そうに見ていた。
「大丈夫? 体調が悪いなら、学校を休んでもいいのよ」
「うん、大丈夫」
由紀子は、心配させまいと笑って見せた。
「おはようございます」
学校に行くため玄関を出ると、橘椿が由紀子と同じ制服を着て待っていた。驚いた由紀子は、挨拶するのも忘れて、椿の姿を改めて見直す。
「どうしたの? ウチの学校の制服なんか着て」
椿は、除霊士の家業を担うため高校に進学しなかった。着ることがなかった制服を着ているせいか、椿はどこか上機嫌な様子であった。
「折角なら、もっとスカートの丈を……アイタッ」
椿に頭を叩かれてしまった。
「今日からしばらくの間、櫻高校に赴任することになりました」
「赴任? 転校生というわけではないのね」
「私、勉強はさっぱりですから」
「うん、知っている」
椿は、端から見ると勉強が出来そうな優等生のように見える。しかし実際は、脳まで筋肉で出来ていると疑わないほどの脳筋で、テストの平均値は大体四十点前後であった。
「学校という場所は、多感な時期の子が多く通う場所です。そういう所は、穢れが溜まりやすく、また穢れの影響を受けやすくもなり、放っておくと大きなトラブルに繋がります。なので、定期的に霊的な祓いを行うのです。ただ、なにぶん学校は広いですから、こうやって仕事をする上で影響が少ない恰好をして、長期戦に備えるのです」
「除霊士は、そういうこともするのね」
「本当は、出てきた妖を殴る方が得意なんですけどね」
「うん、それも知っている」
そんな話をしながら、二人で登校した。
昼休みになると、再び椿が姿を現した。
「由紀子さん。ちょっといいですか?」
「今から、お昼ご飯なんだけど」
「そうだと思って、呼びに来たんです。紹介したい人がいるんです」
「紹介したい人?」
「この間の旅行の時に少し話しましたが……」
「この間の旅行……あっ、今度赴任する先生?」
「その人です。今日から赴任されていますので、由紀子さんに紹介しておこうと思いまして」
「そう。うん。分かった。神華さんに断ってくる」
いつも昼ご飯を共にする天野神華に事情を説明したのち、椿と共に四階の『資料整理室』へと向かった。
「月子さん、入ります」
室内は、古い本だらけ。本といっても、普通のノートのようなものから、古文書のような趣の紙束を糸で固定したものやら、様々。いくつもある本棚にぎっしりと本は並べられていたが、そこに収まることが出来なかったのか、床にまで積み上げられている。さらに部屋の隅には、未整理の分だろうか、山ほど段ボールが置いてあった。
「あぁ、もうそんな時間ですか」
段ボールの中から本を取り出していた小泉月子が顔を上げる。その顔を見た途端、由紀子は急に胸が苦しくなり、自然と涙が零れた。
「由紀子さん?」
「あっ、なんでだろう。急に涙が……あなたが元気そうでよかった」
「……えっ?」
不思議そうにしている月子。
「由紀子さん、ご飯を食べましょう」
椿がすかさず話題を変えた。
「そうだね」
「私、お茶を淹れます」
三人で他愛のない話をしながら、昼ご飯を食べた。
放課後になると、三度椿がやって来た。
「商店街でコーヒーでも飲んでから帰りましょう」
椿がいつになく輝いていた。
「椿さんのおごりなら行く」
「いいですよ」
「神華さんはどうする?」
「私も行っていいのですか?」
「もちろんですよ。会計は私に任せてください。それと、夏樹さんは?」
「あぁ……いつのまにか居なくなっていたんだよね。病院にでも行ったのかも」
夏樹は、事故で両足を骨折しており、今もリハビリを続けている。朝、登校しているのを見かけたが、それっきり。あの人懐っこい夏樹と会話をすることがなかった。
「……私、チョコレートパフェが食べたいです」
神華の言葉が由紀子の思考を遮断した。
「太るよ」
「大丈夫です。神を信じる限り、私が太ることはないのです」
「そんな都合がいい神が居るなら、世界中に愛されるね」
「薙刀振り回していたら、簡単に痩せることが出来ますよ」
「それは、椿さん限定だから。普通の人は出来ないから」
何気ない会話で、馬鹿な話で、笑いが広がって、それが遠くに感じていて、今は近くにあって、だからこそこれは『幸せ』なのだと、由紀子は思った。
青い髪に青い瞳。白い衣『天魔の衣』を纏う彼女の名は水及。橘家の後継人という名目であるが、実質は九州全土の除霊屋の頂点なのが彼女だ。年の頃は、椿よりも若く見えるが、彼女は優に千三百年を生きている。今の姿も、仮初のものでしかない。
椿は水及の前で頭を垂れて、今日の由紀子の様子を報告していた。
「月子さんに、『あなたが元気そうでよかった』と言っていましたが、由紀子さんには自覚がなかったみたいです。以前よりも明らかに不安定な状態であると感じました」
椿が由紀子の通う学校に行くのは、『霊的な祓い』を行うためではない。八月の中旬に『赤鬼』と呼ばれる霊障を暴走させた由紀子。彼女の様子を観察するとともに、莫大なエネルギーを発生させたことで、小泉由紀子の命を狙う者が現れるかもしれないのでその護衛を兼ねている。
小泉月子、彼女もそう名乗ってはいるが、本名は尼崎月子という。『赤鬼』の研究者であり、同時に十年前に『赤鬼』の暴走により起こった『尼崎家の崩壊』という事件の数少ない生き残りでもあった。
「そうか。一度綻んでしまったものは、完全には戻らないか」
「由紀子さんは、これからどうなるのでしょうか?」
「考えられるのは、三つだ。このまま少しずつ以前の状態に戻るか。それとも由紀子と茜が融合していくか。最悪、人格が崩壊するか」
「人格の崩壊?!」
「最悪の場合、だ。そうならないように、しっかりと由紀子を監視しろ」
「分かりました」
水及との謁見を終える。
部屋に戻る途中で、月子と出くわした。
「あっ、月子さん」
月子は深々と頭を下げた。
「水及様は、なんと?」
「注視しろ、と」
椿は、言葉少なくそう答えた。
「月子さんは……複雑ですよね」
小泉由紀子に起こっている問題は、複雑なものである。
十年前に尼崎茜という子が、『赤鬼』を暴走させた。月子は、その茜の世話役だった。結果、茜は死体で見つかった。現場に駆け付けた水及は、茜の妹である雪子を保護した。彼女もまた『赤鬼』を発症しており、暴走の危険が限りなく高い状態であると判断された。
水及は、『赤鬼』がどのようなものなのか、どうして暴走してしまうのか、全く分からないため、雪子の能力を全ての記憶と人格と共に深層心理へと封印し、小泉由紀子という新たな人格を構築した。それから十年は安定していた。しかし、八月に起こった鬼神会という組織が起こした問題に由紀子が巻き込まれ、赤鬼を暴走させてしまったのだ。次に目を覚ました時、由紀子は自分の事を『尼崎茜』であると認識していた。何故、そんなことになったのかは分からない。水及は、十年前と同じ施術で、茜と名乗る人格を深層心理に沈め、由紀子の人格を浮上させ定着させた。
由紀子が、既視感と未視感を感じているのは、小泉由紀子と尼崎茜の二つの人格がそれぞれ違った認識をするために起こっているものである。
椿からすると、今の人格である小泉由紀子が大切である。ただ、月子からすると死んだはずの茜が突然現れたのだ。椿の『複雑ですね』という言葉は、そんな彼女の心中を察したものであった。
「赤鬼は、尼崎家に脈々と続く霊障です。もしかしたら、記憶の引継ぎのような、そういう可能性も。分かりませんが、大丈夫です。私、気にしないようにしていますから。由紀子さんが安定するように、私も協力を惜しみません」
「ごめんなさい。私、余計なことを言いました」
「あぁ、謝らないでください。私は、大丈夫ですから」
月子は、頭を下げて去っていった。
何事も問題が起こらなければいい。誰もがそう思っていた。しかし、椿たちが知らないところで、すでに災いの矢は放たれていた。
問題が起こったのは、二学期が始まって二十日経った日の学校の廊下だった。
「夏樹!」
由紀子が、松葉杖を突いて歩いている夏樹を凄い剣幕で呼び止めた。由紀子の傍には、真っ青な顔をしている神華が居た。
二学期が始まってからというものの、それまで仲が良かった夏樹が最低限の会話のみで、完全に由紀子を避けていた。そのことを由紀子は神華に相談した。
「怪我で大会にも出られなくて、ナーバスになっているだけですよ。すぐに昔の明るい夏樹さんに戻るはずです」
能天気な神華の答えに、由紀子もその時は『考えすぎか』と思った。しかし、この日由紀子はついに怒った。一緒に帰らないかと声をかけた由紀子に、夏樹は『無理』とだけ答えて、教室を出た。これが、由紀子の心に火をつけた。
由紀子に呼び止められて、夏樹は足を止めた。しかし、顔を向けることはなかった。
「私、自分が嫌な奴だって分かっている。根暗だし、妖とか幽霊とか、そういうのに興味があって気持ちが悪いし、中二病っぽい所もあるし、そういうのが今更嫌になったとか、そういうことなの?!」
「違うよ。あと、中二病っぽいじゃなくて、ユッキーはガチ中二病だよ」
「無粋な突っ込みはこの際置いとくとして、ならどうして私を無視する? 嫌なことがあるなら、ちゃんと言って! 分からないし、気持ちが悪い! 夏樹がして欲しいなら、私は、夏樹のためなら頑張るから!」
「違うんだよ」
「だから、何が違うの?!」
由紀子は、距離を詰めて夏樹の肩に触れた。その瞬間、夏樹はそれを振り払った。由紀子は、そのまま尻もちをついてしまう。
夏樹は、何かに怯えるような顔をしていた。
「違うんだよ。ユッキー。違うの。違うんだよ。違うの。違うの。私に、お願いだから近づかないで!」
夏樹は走り去った。あまりのことで唖然としていた由紀子は気づかなかったが、神華はその異常性に気付いていた。夏樹は、松葉杖を置いて走って行ったのだ。骨折しているはずの足で、全速力で。
「夏樹……どうしちゃったの?」
途方に暮れて、由紀子がぽつりと呟く。
次の日から、夏樹は学校に来なくなった。
二十一時頃、教会に神華の姿があった。この教会は、神華の家の敷地内にあり、元々は父親が神父を務めていたが、父親の死後はその役目を失った状態にある。
祈りを捧げていると、ふわりと赤い羽根が舞った。忽然と一対の赤い翼を生やした天使のような存在が姿を現す。その顔には、何も描かれていない無貌の仮面が張り付いていた。
『なんのようだ、天野神華』
無機質な声音。年も性別も分からない。
神華は、顔を上げた。
「虹野夏樹さんのことで、聞きたいことがあったから」
『それで?』
赤い翼の天使は、教壇の上に座り足を組み、神華を見下ろしている。
「今日、様子がおかしかったのは、羽根の影響なんですか?」
『そうだ』
「私と明らかに違います」
『お前は、羽根を受け取っただけに過ぎない。虹野夏樹は、すでに半覚醒状態にある』
「……つまり私もいずれはああなるということですか?」
『時が来れば』
「私や夏樹さんは、幸せになれるんですよね?」
『機会は与える。それをどうするかは、お前たち次第だ』
「由紀子さんが、悲しむのを見たくはありません」
『それは虹野夏樹の願いだ』
「夏樹さんが、由紀子さんを悲しませたいと願ったんですか?」
『これ以上は、虹野夏樹の問題だ』
神華の返事を待たず、天使は再び忽然と姿を消した。舞っていた赤い羽根も消えてなくなっている。
「神華ちゃん?」
お手伝いの鏑木恵美子が声をかけてきた。
「何か悩み事?」
「いえ。なんとなく」
「そう。明日も学校なんだから、程々にね。毎朝起こすの、大変なんだから」
「は~い」
間延びした返事をして、神華は恵美子の後を追いかけて自宅へと戻っていった。
第一話 END