家出娘の里帰り
――何も出来なかった。
櫻は、自分が天狗になっていた事を思い知らされた。
現状の櫻の剣技は、勝彦と剣を交えて十回中三回は勝てるというもの。
剣技においては、すでに特筆した実力を有している。
しかし、それは『剣を持ったら』――という話でしかない。一つを研ぎ澄ました結果、櫻は足りない部分を全く補って来なかった。
結果、鬼神会の刺客と戦って、何も出来なかった。
退けられたのは、櫻の一刃の力と、あの場で床板が割れるという失策をやらかした相手の落ち度が重なっただけである。
もっと強くならなければならない。
倒すべき敵は、鬼神皇。
鬼神皇である。
彼の組織の末端に負けているようでは、この先、どうにもならない。
強くならなければならない。
強くあらなければならない。
勝彦にさらなる修練を願い出ると――。
「水及様に師事するといい」
と、言われた。
「水及様は、厳しいぞ」
そう脅されたが、櫻はまったく怯まなかった。
襲撃を受けてから二日目の朝。
櫻は、水及と共に道場に立っていた。
受けた傷は、治癒術式によって既に完治している。
治癒術式は、傷を塞いでくれる便利なものではない。外から霊力を流し込むことで、治癒力を強制的に補うもの。
櫻は、軽い疲労感を覚えてはいたが、いつまでも寝ているのには耐えられなかった。
水及は、長い髪を高く結わえている最中。小柄であるが、無駄のないその体は、櫻から見てもとても美しく見えた。
今回の櫻の申し出を水及は二つ返事で請け負ってくれた。
櫻は、緊張していた。とても緊張していた。
水及。
千三百年の時を生きる、人と神の狭間にある存在。
数多の伝説を生み、どちらかというと悪評の方が多いという一面もある。
それは水及が、『親しい人は守り、それを害する存在は皆殺しにする』という極端な考えの持ち主だからであろう。
何度、この人が敵でなくて良かったと思った事か。
そんな水及との手合わせ。
手合わせをするのは、初めて。
誰も怖くて、水及に師事する人はいない。だから、勝彦以外の前情報もない。
水及に言われた通り、櫻の一刃を携える。
それに対して、水及は無手である。
逆にそれが怖い。
「櫻、とりあえずお前には一万回程度死んでもらう」
準備を終えた水及が、いきなりそんな事を口にした。
「さぁ、来い」
水及は、右手の甲を下にして、手招きをする。
構えらしい構えはしていない。
どこから斬りこむか――。
分からないので正面から。
櫻は、今自分が出せる最大の力を持って、水及に真っ直ぐに突っ込んだ。
次の瞬間、櫻は意識を手放していた。
目が覚めると、椿が櫻の顔を覗いていた。
ぼんやりとした思考の中で、自分が気絶していた事を思い出す。
「大丈夫?」
椿の優しい声音。
櫻は、彼女を安心させるべく笑おうとしたが、上手く行かなかった。
悔しさで、顔が歪んでしまう。
「椿姉さま……私、弱すぎる……!」
水及との立会い――なんて呼べるものでは、到底なかった。
何も対応できずに気絶させられ、水及の治癒術式で強制的に覚醒させられ、また気絶。そして、強制覚醒。それの繰り返し。
その中で櫻が得たものは、水及への圧倒的な畏怖と無力感であった。
勝彦とまともに斬り結べるようになった――そんな自信は、粉々に砕け散ったのだった。
しかし櫻は、めげなかった。
水及との訓練は、週三日。ボロ雑巾のようになりながらも、櫻はもがいた。
水及との訓練。五日目。
水及は、いつも構えらしい構えを取らない。
櫻は、正眼。これまでの訓練で分かっている事がある。それは、どんな手を使っても、水及の第一手を観測できない――ということ。
一手打ち込めば、昏倒させられる。
観測できない理由は、三日目ぐらいから推測できるようになった。
水及は、死角に潜りこむ。だから、見えない。
信じられないことであるが、水及は踏み込んできた相手の死角を正確に把握し、そこからどうやって相手を攻撃するのかを、相手が間合いに捉える前に判断しているのであろう。
そうでもない限り、踏み込んだ瞬間に消えて、昏倒させられるなんていう事は出来ない。
千三百年もの間磨き上げられてきた『目』と、それを可能にする『足』、そして一撃で相手を倒す『技』。
水及の強さは、そこにある。
櫻は踏み込む。
正面から。まっすぐにまっすぐに。
櫻が出せる最大の速度で踏み込むが、次の瞬間には視界が暗転していた。
分かっていても、全然届かない。
櫻は、今日も道場の床を転がり続ける。
六日目。櫻が道場を訪れると、先に勝彦が来ていた。
「当主?」
「おはよう」
勝彦は、真剣を手にしていた。
「櫻に触発されて、私と久しぶりに手合わせをしたくなったそうだ。いい機会だから、しっかりと見ておけ」
勝彦が相手でも、水及は余裕の態度である。
「今日は、勝ちますよ」
「まぁ、言うだけはタダだな。でも、無理だよ。お前は、私には届かない」
水及と勝彦の立ち合い。
凄いものが見られると、櫻も興奮する。
勝彦の構えは正眼。
水及は、櫻の時と違って、腰を深く沈めて鉈のような武器を右手に持っていた。
睨み合いは一瞬。
勝彦が踏み込む。次の瞬間、キィン! という金属音。
いつの間にか勝彦の背後に回り込んでいた水及の一撃を、勝彦が背を向けたまま受け止めていた。
勝彦が振り返りながら水及を攻撃しようとしたその時だった、勝彦は道場の端まで吹き飛ばされていた。
勝彦の刃が届く前に、水及が勝彦の懐に踏み込み、腹部に打撃を加えたのだ。
櫻には、一瞬の出来事でほとんど何が起こったのか分からなかった。
ただ、水及が立っていて、勝彦が吹き飛ばされた。すなわち水及が勝った。
これぐらいの事しか分からなかった。
「最初の一手を止められるとは、驚いた。まぁ、それで油断したな。相変わらず、詰めが甘すぎる」
「今のは、行けると思ったのですが……ままなりませんね」
「しかし、大分戻ったな。いい傾向だ」
「そう言って頂けると、少し楽になります」
この会話の意味が、櫻には分からなかった。
勝彦は、ある理由で現在不死である。受けた傷は、ほっとけば塞がる。結果、勝彦は剣術を捨てた。相手に斬られて、相手が油断している間に斬り殺せばいい。
そんな勝彦を剣術の道に戻したのは、櫻だった。
櫻と手合わせをする事で、勝彦は勝彦なりに昔の自分をゆっくりと取り戻していた。
それは、櫻が知らない勝彦の事情である。
「櫻、勝彦でもこの様だ。お前は、もっと自信を持っていい。それに、いずれ私を越えなければならないからな。鬼神皇は強い。私が鬼神皇を退けた時は、アイツも十全じゃなかった。まぁ、私もまだ若かったが、それでもあの時はギリギリだった。橘家の椿とかいう化け物は論外として、アイツはそれ以外無敗だ。日本神族会の戦神素鳴男さえ退けた。間違いなくこの日本で最強だ。それを倒そうとする意味。櫻、お前が目指しているのはそういう頂だ」
水及からの忠告。
水及と立ち合いをした今の櫻には、実感を伴って心に響いた。
鬼神皇と戦う時が、どういう状況なのかは分からない。
兄と一緒かもしれないし、椿もいるかもしれない。
逆に一人かもしれない。
例えどんな状況であろうと、鬼神皇を倒せなければならない。
一朝一夕に水及を越えるなんてことは無理であることは承知している。
それでも確実に着実に。経験を積み上げ、鬼神皇と戦う日に備える。
櫻は、さらなる決意を胸に水及へと挑むのだった。
九月も下旬となった。その日は、『バケツを引っ繰り返したような雨』という表現がふさわしい程、朝から雨が大降りだった。
「授業に行ってきます」
教科書の入った小さなカバンを持ち、晃は机に向かっていた五十鈴にそう声をかけた。五十鈴は、小さな机に向かって、毎日日記を綴っている。五十鈴のそんな姿を見ると、変わらない日常がそこにあるのだと自覚でき、ほっとできた。
「凄い雨。濡れないように」
「はい」
五十鈴の声は、いつも優しい。
傘を差し、母屋の玄関へ。徒歩で二分もかからないが、その間に結構濡れてしまった。
傘を畳んでいると、雨合羽を着た水及に出くわした。
「お出かけですか?」
「あぁ、ちょっと川の様子を見に行ってくるよ」
晃は、目を瞬かせた。
雨の中川の様子を見に行く。
「危ないです!」
思わずそう口走っていた。
水及は、ころころと笑う。
「大丈夫。それぐらいで私は死なない」
晃の頭をポンポンと叩く。
心が柔らかくなる。どこか、こそばゆい。
「今日は、勉強か?」
「はい。国語です」
「言葉を学ぶことは大切な事だ。頑張りなさい」
水及が出かけていく。
雨の中歩いていくその後ろ姿に、晃は何か嫌な予感を覚えた。だからと言って、そんな漠然とした理由で水及を止める事は出来ない。
水及の無事を祈り、その背を見送る。
晃は、地下の診察室へと赴いた。晃の朝の日課は、リリーの診察から始まる。
「おはようございます」
「……おはよう」
か細い声で、リリーが応える。
リリーは、いつものようにパソコンに向かっていた。体温計を受けとり、血圧を測り、その後血糖値を測る。
左の親指にパチンと音を立てて針が刺さり、血液がほんの少しだけ滲む。晃は、この検査が少し痛くて苦手だった。
「今日も正常値。安定している」
「ありがとうございます」
リリーに頭を下げる。この時、テーブルの上に空の食器が置いてあることに気付いた。
リリーは、ここで食べて寝ている。食事は、乎沢が運んでくれていた。
「これ、片づけておきます」
「あの……いいのに」
その言葉が終わる頃には、晃は診察室を後にしていた。
晃の一日は、結構過密である。それは、失ってしまった十年を取り戻すために必要な事でもあった。
義務教育も受けていない晃は、小学一年生の内容から順に習っている。さすがに全部のカリキュラムをこなす事は、晃自身にもそして先生をしてくれている沢村遙にとっても、負担が多すぎるため、遙の采配でかなり省略されている。
今日の授業は、国語。晃は、遙の指導の下、漢字の読み書きを行っていた。
「それにしても、雨、やまないわね」
遙の言う通り、ガラスの向こう側は大降りの雨。止む気配どころか、勢いが弱くなる様子もない。
「こう強い雨が降ると、昔の大雨の事を思い出すのよね」
「昔……」
「そう、何年前だったかな……とにかく凄い雨でね。櫻川が決壊しちゃって……あぁ、川が氾濫、溢れてしまってね、人がたくさん亡くなったりしたことがあったのよ。あれは、本当に酷い雨だった」
「水及様が、川の様子を見に行くと……」
「驚いた。あの人でも、そういうことをするのね。あっ……今のは水及様に言わないでね」
「……大丈夫でしょうか」
「ん? 川の事?」
「両方、です」
「水及様は、私たちとは違う世界の住人だから、そこはあれ、杞憂という奴よ。空が落ちてこないかと心配するぐらい、意味のない事だと思う」
水及が違う世界の住人。
遙の言葉が、腑に落ちなかった。
確かに強くて、特別な人だ。しかし、そんなに自分たちと違うのだろうか。
ご飯を美味しいと笑って食べ、勝彦を嬉しそうにからかう。厳しい事もたくさん言うし、怖いと感じる事もあるけど、晃にとってはちょっとお茶目な頼りになるお姉さんのようなものだと、思っていた。
人が変われば、見方も変わる。
遙から見た水及は、『違う世界の住人』という事なのだろう。
その感じ方に、晃はもやっとした気持ちを抱いたが、それを態度に出したり、口に出したりはしなかった。
「それでも心配です」
「そっか。晃君は、優しい子だね。川の方は、どうだろう。さすがに不安になるなぁ。家に帰れるかな」
遙の不安は、晃の気持ちもかき乱した。
その時だった。
廊下を駆ける音。室内に緊張が走る。
「晃君、準備して」
部屋に入って来た椿は、そう言った。
外は、強い雨が降り続けていた。走るのに傘は不相応のため、雨合羽を纏う。
急な出動は、水及に関連する事であった。晃の嫌な予感は、的中してしまった。
水及が川に落ちてしまった――そんな話ではない。
水及と縁のある人物が、櫻町で観測されたのだ。
名前は、佐伯瑞樹。
九年前の櫻町付近を襲った集中豪雨で被災し、水及が保護し育てた子である。
水及がわざわざ『育てた』理由は、当然ある。
瑞樹は、被災した際、水の神と契約しており、そのまま社会復帰は出来ないと判断したためであった。
その後、瑞樹は水及と仲違いをして、家を出て行方をくらませた。
家を出て、三年。音沙汰のなかった彼女が急に櫻町に現れた。
事情を知っている勝彦は、出先でこの報告を感応士から聞いた時、強い危機感を覚えた。そのため、椿と晃に水及と合流するよう指示をしたのであった。
勝彦が覚えた強い危機感とは――。
命の恩人であり、親の代わりを務めたはずだった水及の何に反発して、家を出たのか。その理由は、勝彦に強い危機感を覚えさせるほど、深刻なものなのか。
本日の担当感応士である小泉槇美の話を聞きながら、晃は深く悩み、答えの出ない隘路を彷徨った。
水及が居る場所までは、普通の人なら歩いて四十分はかかる場所であったが、晃と椿は、十分とかからず駆け抜けた。霊力を纏い、それを力にする事で、彼らは車さえ追い越してしまう。
水及が居たのは、櫻川の中流付近。もう少し上流に行けば、櫻病院があり、その先は歌宝山と若草山の山麓が重なる部分へと突きあたる。
大きな弧を描く河川。河川に沿うように図書館と公民館の駐車場が連なっている。この近くで、九年前川が氾濫した。
晃と椿は、住宅街を抜けて、櫻川へと出る。水及との位置は、丁度櫻川を挟む形である。
椿は、一番近い橋がある上流へ、右側に折れる。しかし、晃は走る速度を落とさず、そのまままっすぐに、走り幅跳びでもするように跳んだ。右側へと曲りかけていた椿は、慌てて止まりつつ、そんな晃の姿を驚き見守る事しか出来なかった。
晃が、川を跳び越えるという行動に出たのには、理由があった。
ごぅごぅと濁流駆ける櫻川。雨と土の匂い。それにほんのかすかに交る血の匂い。そして、水及は体を小さく丸めて膝を付いていた。その水及の前には、青い髪の少女の姿があった。青い髪の少女は、佐伯瑞樹で間違いない。
それらの情報を統合し、晃は迂回していては間に合わないという結論に至った。
川幅は、二十メートルはある。世界記録は、8.95m。優に二倍以上。晃は、辛うじてそれを跳び越えた。着地後、勢いを殺せずそのまま駐車場をゴロゴロと転がる。
驚いている水及。左腹部に血痕があり、それを右手で抑えている。彼女は、治癒術式が使える。出血を止めているのだろう。流れ落ちた血液は、地面に広がり、雨によって薄められ、勾配によって川の方へと流れている。
水及の傍に立っている青い髪の少女――佐伯瑞樹は、冷え切った氷のような、水及と同じ青い瞳で晃を見ている。驚きもない、恐怖もない。だからといって、その瞳に感情が全く映りこんでいないかというと、それは違うように見えた。
「どうしてここに?!」
晃は、水及の問いに答えず、刀を抜き放ち構えた。それを見て、さらに水及が慌てる。
「待て! その子は……」
「詳しい事情は、僕には分かりません。ただ、水及様に戦う意思がないのは分かっています。ならば、僕が戦うだけです。水及様は、僕にとって大切な人だから。それを失うわけには、絶対に失うわけにはいかない」
「晃……」
「あなたは、この女がどんな奴なのか、知っているの?」
「それは、水及様の過去の事ですか? もしそうなら、僕には関係がありません。水及様にして頂いた行為に対して、僕は純粋に報いたいと思っている。ただ、ただそれだけですから。僕から水及様を奪おうというのであれば、あなたが誰であろうと、僕の敵です」
大きく迂回した椿が合流する。
佐伯瑞樹は、晃と椿に挟まれる形となった。
「水及様、怪我を……?」
「大丈夫だ。もうほとんど塞がっている」
椿が、水及に駆け寄る。
「瑞樹」
水及の声は震えていた。
「私を、恨んでいるのだな」
瑞樹は答えない。濁流の音だけが空間を震わす。
「こんな命で良ければ、お前にくれてやってもいいと思っていた。瑞樹、何故私の命を狙う? 私は、お前に恨まれる理由が分からない。それとも、怨恨ではないのか? 誰かから依頼をされたのか?」
「あなたが、私に隠し事をしているからよ。まだ、真実を明かしてくれないの?」
「真実? 私は、あの時全てを話した」
そこで水及は、瑞樹の顔を見て気付いた。
「あぁ、お前……私が、嘘をついているのだと、思っていたのか。これは困った。信じてもらえていると思っていたのは、私だけだったのか。滑稽だな。なら、もう一度言うよ。私は、お前に嘘をついていない。あの時に話したことが全てだ」
水及は、晃と椿の顔を見た後、もう一度瑞樹へと視線を向けた。
「どうしても私の言葉が信じられない、許せないと思っているのなら、かかってこい。ただ、私はこの子たちの上に立つ者だ。二度も無様な姿は見せない。知っていると思うが、私は強い」
「雨が降っている間なら、あなたにでも勝てる……!」
瑞樹は、背後に大きな身の丈優に五メートルはあろうかという水の龍を生み出す。
水及は、椿と晃を下がらせ、真正面から瑞樹へと突っ込んで行った。
勝負は一瞬だった。
瑞樹の生み出した水の龍の直撃を受けてなお、水及の突進力は失われなかった。水の龍を突き抜けた水及は、瑞樹に右の拳を叩きこんだ。水と同化する能力を持つ瑞樹には、物理的な攻撃は意味をなさない。水及は、拳と共に霊力を圧縮したものを同時に叩き込み、それを瞬時に破裂させ拡散させた。水と同化してダメージを避けようとした瑞樹であったが、水及の破裂させた霊力の波がそんな瑞樹の体全体を駆け巡り、結果水との同化が中断。続く水及の打撃を拡散させることが出来ず、まともに腹部に受けた彼女は、道路の反対側、図書館の前の土手まで吹き飛ばされ、それでも勢いが止まらず、図書館の窓にぶつかって止まった。
水及の圧倒的な力に、晃と椿は息を飲んだ。
気絶した瑞樹を連れて、水及は一旦自分の住処へと戻って行った。
次の日。雨はすっかり止み、雲が多いものの木漏れ日が差す、そんな天気。水及は、十時を少し回った頃に橘家に帰って来た。
「晃、本当に助かった」
遙の授業を受けていた晃の所へとやってきた水及は、そう礼を述べた。
「僕は、その……大したことは。あの、それで、あの人は?」
「帰ったよ。今度は、遊びに帰ってくるらしい」
水及の柔らかい笑みを見て、瑞樹との関係が良くなった事を察したのであった。
目が覚めると、どことなく懐かしい天井が広がっていた。強い緑の匂いと、古い建材の匂い。それらに包まれていると、とても心が穏やかになった。
「目が覚めたか」
瑞樹が寝ていた布団の傍に、水及が座っていた。水及は、襖を開け放つ。眩くも柔らかい陽光が、目に染みた。
「懐かしいだろう?」
周りを見渡す。
壁側の小さな座卓。少女漫画やファッション誌が並ぶ本棚。中学の時の鞄と制服。出て行った時と何一つ変わらない、自分の部屋。
込み上げてきたのは、悔恨。
「ここで、また一緒に暮らさないか?」
その言葉は、とても魅力的だった。しかし、それを受け入れる事は、もう彼女には出来ない。彼女自身が、それを許せない。
「……本当に、嘘をついていないの?」
「ついていない」
「私の記憶を封印していたのは……」
「水の神だ」
「それを私に教えなかったのは……」
「自信がなかったからだ。混乱するお前を、受け止められるか。私は、お前と向き合っているつもりで、全くそんな事はなかった。私は、失う事、拒絶される事が怖い。そんな思いをたくさんしてきた。何人も自分の子供が死んでいくのを見て来た。だから、どこかでお前と一緒に暮らす事、愛しすぎてしまう事、それを恐れていたのだと思う。恐れてばかりで、その過程が幸せだったことを、私は思い出そうともしなかった。こればかりは、私の落ち度だ。覚悟が足りなかった」
水及の本音。初めて聞いた本音。
氷解して行く。
残された思い。それがなんであるか。瑞樹は、知った。
「水及さんに裏切られているかもしれない。その恐怖に、私は耐えられなかった」
だから、先に捨てたのだ。その方が、楽だと思って。
実際は、楽な事なんて一度もなかった。ずっと苦しくて、辛かった。
「悪いのは、私だ……!」
あの頃に戻りたい。
戻りたい。
でも、もう戻れない。
戻れないから、受け入れなければならない。
それが、自分が仕出かしてしまった事への責任というものである。
瑞樹は、かつて自分が来ていた服からお気に入りの物を引っ張り出し、それを纏って、家を出た。
それを水及が見送る。
「私には私の生活がもうあるから。戻らないと」
「そうか」
水及は、寂しそうにしている。
「でも、考えておく。またこの家に戻って来ること」
「待っている」
「今度は、遊びに来るから」
「あぁ、いってらっしゃい」
「いってきます」
水及の言葉に背を押され、振り返らず瑞樹は歩き出す。振り向けば、決心が鈍る事を知っていたからだ。
「そうだった」
思い出したことがあって、足を止める。水及には背を向けたまま。
「私に、水及さんを殺すように依頼した人……」
「察しはついている。不利になるようなことは口にしなくていい」
瑞樹は、小さく頷いて、今度こそ歩き出した。それを水及は、優しく見守っていた。
END