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空白ノ翼  作者: 堕天王
幕間
28/35

その二『旅行と旧知の再会』

 椿と櫻が、友達の旅行に同伴することになったのをきっかけとして、橘家も家族旅行に出かける事となった。行き先は、椿たちが向かった大島である。場所が同じなのは、椿たちの旅行に監視対象の小泉由紀子(ゆきね)がいるためだ。

 赤鬼による騒動がまだ冷めやらない中であったが、勝彦は家族旅行を水及の指示を受けて強行した。事態は、大きく変動している。来年も同じ夏を迎えられるか分からない。それは、これから起こるであろう大きな戦いを予感している二人の共通認識であった。

 メンバーは、椿の祖父の橘勝彦、橘家の後見人の水及(みなの)、椿の母親の五十鈴(いすず)、お手伝いの小泉乎沢(やつや)、赤鬼の研究をしている尼崎月子(つきね)、櫻の実の兄である藤堂晃(あきら)の六人。

 息子の数馬を失くして以降、離れで引き籠っていた五十鈴。療養生活の名目で、小泉家の家事を担い、ほとんど外に出ていなかった乎沢。尼崎家からほとんど外に出たことがない月子。そして、鬼神会でモルモットとなっていた晃。勝彦と水及以外は、事情はそれぞれであるが、生粋の引き籠り。家族との記憶があまりない晃と、家族がそもそもいない月子に至っては、初めての旅行であった。

「海! 海ー!」

 フェリーに乗った際、月子が一番はしゃいでいた。晃は目を丸くして、周りをキョロキョロと見渡しており、五十鈴は船室でぐったり。乎沢は、団扇でそんな五十鈴をあおいでいた。

 滞りなくフェリーは、大島の港に辿り着く。

「見たことのない生物がいる……」

 渡船を請負っているターミナルの中には、小さな水槽が並んでおり、そこにはカブトガニが飼育されていた。水の中に居ながらも甲羅を持ち、亀とも違う、魚とも違う、奇怪な姿をしているそれに、晃が目を丸くしていた。

「カブトガニでございます。古生代から姿を変えていない生きた化石と言われているようです」

 乎沢が隣に並んで説明してくれる。

「カブトガニ、古生代……」

「つまるところ、ずっと昔、それも何万年も前から姿が変わっていない生き物、ということです」

「はぁ……凄い」

「まぁ、特段可愛げのある生き物ではないし、食っても美味くないし、それほどありがたいものでもないな」

「食べたことがあるのですか?」

 勝彦は、呆れた様子で尋ねた。

「ずっと昔にな」

「あの……」

 晃が、カブトガニから水及へと視線を移す。

「ん? なんだ?」

 水及は優しく続きを促す。

「水及様が長生きなのは知っているのだけど、お幾つなんですか?」

 所々引っかかるような言い方なのは、水及に対しての態度が定まっていないからである。かつては敵。今は、恩人に近い存在。でも、見た目だけなら自分よりも年下。色々な情報が、晃を惑わせていた。

「十三歳だ!」

 水及は、誇らしげに胸を張って言い放った。

「それはちょっと……」

 そんな水及の後ろで、勝彦が言い淀む。

 シーンと場が静まってしまった。

「かける百……だ」

 沈黙に耐えかねて、ぼそりと付け加えた。

「十三かける百……えと、ゼロを二つくっ付けるから、千三百?」

「正解です」

 乎沢が評価してくれた。

「千三百……!」

 晃は、心底感心したように繰り返した。そんな晃の反応を水及は満足そうに眺めていた。

「昔話に興味があるならいつでも聞きに来るといい。ただ、今はそれよりもメシだ」

「そうですね。昼食を摂りましょう」

 勝彦が音頭を取って、ターミナル近くの食堂で食事を済ませる。チャンポンが有名という事で、それぞれチャンポンに舌鼓を打った。

 食後、市役所の職員がやってきて、晃たちを空き家へと案内してくれた。海で泳ぐシーズンは少しばかり過ぎてしまったが、それでも今は夏休み。すぐに泊まれる民宿があるはずもなかった。そこで勝彦がコネを使って、泊まれる所を探した結果、この空き家を紹介されたのである。ちなみに案内してくれた市役所の職員は、本土から派遣されてきた人である。それぐらい、お役所は除霊屋との関係を重視していた。

「空き家だというから、もっとボロだと思っていたが、意外と綺麗じゃないか」

 水及が空き家を見上げる。

 空き家は、一階建てで少し広めの庭がある。それなりに年季の入った趣であるが、しっかりと手入れされているのが見て取れた。それを見て、乎沢が残念そうにする。

「しっかりと掃除をしてやろうと思っておりましたのに。残念でございます」

「真っ黒な埃たちを追い出す勢いで掃除できると思っていたのに、私も少し残念です」

 橘家のお手伝いである乎沢と、尼崎家を一人で管理してきた月子は、そんな感想を漏らす。

「我々が来る前に掃除や、家具の運び込みをしてくれていたようです」

「ふん、それぐらい当然。霊障に困る一般市民、瘴気で淀んで使い物にならなくなった土地、その他あれやこれやと、日頃から面倒を見てやっているんだしな」

 その分、相応の報酬を受け取っているのであるが、勝彦は敢えてそれを指摘しなかった。

 外見が綺麗にしてあっただけに、中も綺麗に掃除がされていた。

「ちょっと家の状態を確認してまいります」

「あっ、私もお手伝いします」

 荷物を居間へと置いた後、乎沢と月子は早速居間を出て行った。

「水及様は、どこかお出かけになられるのですか?」

「いや、今日はとりあえずゴロゴロする。ここしばらく、働き過ぎた」

 水及は、ゴロンと畳の上に転がった。

「確かに、少しのんびりするのも悪くないですね」

 勝彦も胡坐を掻く。

「あぁ、五十鈴と晃は散歩でも行ってこい」

「散歩……ですか?」

 水及の言葉の真意が分からず、五十鈴がきょとんと返す。

「パンフレットを貰ってきておいたから、これを見ながら観光でもしてくるといい」

 水及が投げたパンフレットが畳の上を滑り、五十鈴の足にこつんとあたった。それを手に取った後、五十鈴は晃の顔を見る。晃は、無言でそんな五十鈴の顔を窺っていた。

「……行きますか?」

「はい」

 二人はそれだけの言葉を交わした後、観光へと出かけた。


 五十鈴は白い日傘を差して、歩いている。その後ろを帽子をかぶった晃が付いて行く。二人の間に会話はなく、蝉の鳴き声だけが木霊していた。

 先を歩く五十鈴。時々、晃を見るが声をかける事もなく、すぐに視線を前へと戻す。晃も、時々五十鈴の背をじっと見ては、広がる海へと視線を移す。

 何を話していいのか。会話の糸口が見つからず、その結果二人はただ黙々と歩くだけとなっていた。

「この先に行けば、風車があるそうです」

「風車……」

「観光スポットに……?」

 パンフレットの文字が急に左右にぶれた。不思議に思っていると、かくんと五十鈴の左ひざが崩れ、彼女は真っ青なら空を仰ぎ見る事となった。

 晃が慌てて駆け寄り、五十鈴を抱き止めた。

 晃は、近くの木の陰に五十鈴をそっと降ろす。そこで五十鈴が我に返った。

「私……?」

「水、飲めますか?」

 五十鈴からの返事はなかった。晃は、五十鈴の体を少しだけ起こし、清涼飲料水を口に近づけ飲むように促す。

 零しつつも、ペットボトルの三分の二程飲み、そこでようやっと五十鈴はしっかりと意識を取り戻した。

「倒れたのですね……ごめんなさい」

「いいえ」

 五十鈴は、弱々しく笑う。晃は、そっと五十鈴の体を元に戻した。

「かつては小泉家の斬り込み隊長を務めた私が、少し歩いただけで目を回すなんて、衰えたものです。晃君、助かりました」

「いいえ」

 晃は同じ言葉を繰り返した。

「あの……」

 晃は、何かを伝えようとしていた。しかし、言い淀んだ後、なかなか切り出せないでいた。

「気を遣わせてしまいましたね」

 晃の言葉を待たず、五十鈴はそう口にした。

「随分と長い事、人とまともに話してはいませんでした。毎日毎日、取り留めのない事を綴るだけの毎日でした。私の一日はとても無為で、私は生きているけど死んでいるようなものでした。希望もない。その代わり絶望もしない。そんな日々……ごめんなさい、晃君には難しい話でしたね」

「何となく……分かります。僕も生きている実感なんてものは、これまで感じたことがありませんでした。いつも意識はぼんやりとしていて、自分が何をしているのかも分からないまま。どこまでもどこまでも霧の中を歩いているだけのような、そんな日々でした。でも、櫻と出会って僕は今生きているのだと、思えるようになりました。これが、多分希望」

「そう……あなたは、見つけられたのね」

「五十鈴様にも見つける事が出来ます……と思います」

「晃君は優しいのね。そうね、私も頑張らないといけないのね」

 五十鈴は、体を自力で起こした。

「晃君、私は昔からあまり人と話すのが得意ではなくて、顔もこの通り怖いけど、少しの間一緒に居てもいいかしら」

「僕の方から……お願いします」

「そう言ってくれるのね。ありがとう」

 五十鈴は、ようやっと微笑みを見せた。

 結局、晃は五十鈴を背負い、宿泊地へと戻った。

「迷惑をかけたな」

 五十鈴を乎沢に託した晃に、勝彦がそう労った。

「いえ」

 晃は穏やかな表情でそう答え、そんな彼の気遣いに勝彦も穏やかに微笑んだ。

 その後晃は、勝彦と押し入れにあった将棋を指して過ごした。五十鈴の方は、別室で横になっており、そんな五十鈴に乎沢が団扇で風を送っていた。

 夕暮れ前には、出かけていた水及と月子が、帰ってきた。水及は事の顛末を聞いて、苦笑した後、晃の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 夕食は、乎沢と月子が作り、その頃には五十鈴も復活して、居間へと戻って来た。夜になれば、不意に櫻と会う事もなかろう――ということで、アイスを求めて、水及は晃と勝彦を連れて、再び外出。その間に月子は風呂に入り、乎沢が床の準備をして、五十鈴はぐったりとテーブルに突っ伏す。

 結局コンビニは存在しなかった為、辛うじて開いていた港のターミナルで買い物をして、水及たちは戻って来た。晃は、星が綺麗だったことを五十鈴に報告し、五十鈴はそれを聞きつつ、持参していたノートに日記を記す。

 穏やかな時間が、ゆっくりと過ぎていった。


 8月20日

 ディーゼルで走る車両の独特な揺れと音。車窓に広がる海を、鬼神会死大王の一人、久遠は静かに見つめていた。

 晃が橘家の手に落ちた。鬼神皇(きしんのう)は、晃を奪還する気がまるでなく、静観を決め込んでいる。しかし、久遠は違った。家族の下に戻ったというのであれば、それを連れ戻すのも酷な事であるのは分かっていても、はいそうですか――と、納得が出来なかった。

 久遠の前には、研究所の主任である瑠璃葉(るりは)が銀色のアタッシュケースを膝に乗せて座っていた。アタッシュケースの中身は、晃に関するデータである。鬼神皇に無断で持ち出したそれを、橘家に届けるのが今回の目的であった。

 晃は、どんな人たちの下に委ねられたのか。それを知らなければ、溜飲が下らない。だからとはいえ、手ぶらで訪れるほど厚顔無恥ではいられなかった。そんな久遠の願いを瑠璃葉が聞き入れ、晃のデータと共に同行してくれることとなった。

「海か……」

 二年ほど前。久遠の第四隊と晃の第五隊で、無人島での訓練があった。それは、久遠の中でも数少ない楽しい思い出。人の出入りが少ない第四隊と違って、ある種の実験部隊である第五隊は、出入りが激しい。共に無人島で過ごしたことを覚えているのは、晃ぐらいかもしれない。それは、とても悲しい事実であった。

 汽車は、終点である櫻駅に到着する。立ち込める熱気。冷たい潮風に背を押されつつ駅を出ると、一人の女性が立っていた。

「ようやっと着きましたね」

 階段を降りようとした瑠璃葉の肩を抑えて止める。周りを見渡す久遠に、瑠璃葉は『どうしたの?』と尋ねる。

「囲まれている」

「えっ?!」

 瑠璃葉は周りをキョロキョロと見渡しつつ、久遠にしがみ付いた。久遠の方は、ただまっすぐに目の前の女性を見つめた。

 瑠璃葉は、研究職。非戦闘要員である。そのため、久遠が感じている焦りを全く理解できていない。

 久遠たちを中心に展開されている緻密な陣形や仕掛けは、間違いなく三手以内で久遠を無効化できる。全く隙がない。駅から出た瞬間、久遠の敗北は決定していた。

「噂に違わずね。小泉家当主、小泉透子(とうこ)

 女性――小泉透子は、表情を全く動かさなかった。ただただ冷たい光を帯びた瞳で、久遠を凝視するのみ。

「挨拶は不要です。用件を伺いましょう」

 久遠は、瑠璃葉からアタッシュケースを受け取り、それを翳した。

「晃のデータを持ってきた。晃に会わせて」

「出来ません」

「なら、橘家の人に会わせて」

「出来ません」

「橘家の人がどういう人たちなのか教えて」

 そこでようやっと透子は、表情を動かした。

「何が目的なの?」

「晃がどんな人たちに委ねられたのか、知っておかないと納得できない。私は、ずっと晃と一緒にいた。私は、晃の事が好き。だから、鬼神皇様にも内緒でここまで来た。教えて。晃は今、泣いてない?」

「これは……」

 透子は、苦笑して頭を抱えた。

「臨戦態勢解除です。解散なさい」

 少しの間を置いて。

「解散なさい。公休を減らしますよ」

 次の瞬間、慌ただしくいくつもの気配が散って行った。

「まったく、鬼神会の死大王というのは、驚く程無鉄砲なのね。晃君の事が好きとか、もう青くて、顔がにやけちゃう」

 久遠は、顔を真っ赤にして俯いた。しかし、すぐに気を取り直す。

「あ、あの! それで、晃に会わせてくれるの?!」

「ごめんなさい。それは無理なのよ」

「どうして……? 少しぐらいいいじゃん。ケチ」

「会わせてあげたいのは山々なんだけど、今、家族旅行中なのよ。間が悪かったわね」

「家族旅行中?! なにそれ、羨ましい……じゃなくて、あぁ、もう! 折角ここまで来たのに!」

 久遠は、地団太を踏んだ。

「これ、晃のデータだから。せめて教えて。橘家の人は、晃に悪い事をしない?」

「しない。それだけは絶対よ」

「晃に、『また会おう』と伝えてください」

 透子にアタッシュケースを押し付けると、瑠璃葉を伴って久遠は、先程乗って来た車両に飛び乗った。

「瑠璃葉、私たちも旅行して帰ろうか」

「……大島に廃棄した研究所があるから、そこに行く?」

「大島って、あの島?」

 車窓から見える島を指差す。

「そう。あそこには、前文明の遺跡があってね。ただ、データはあったけど、サンプルは全滅。だから、早々に放棄したの。橘家の領域内というのもあったしね」

「その言い方だと、生物兵器?」

「大型の、ね。いわゆる、拠点制圧型の生物兵器」

「前文明の人って、本当生物兵器好きよね」

「遺伝子操作は得意中の得意だったみたいだから」

 話をしている間に発車時刻となり、ベルが鳴り響く。重い音を立てて、ゆっくりと車両が動き出した。

「海か。この際だから、そこでいい」

 こうして、大島へと向かう事となった。


 燦々と照る太陽。滴る汗を拭いつつ、晃は喫茶店へと足を踏み込んだ。良く効いた冷房。冷気が体にまとわりつき、熱を急速に奪っていく。

 L字型のカウンターとそれを囲むようにテーブルが並んでいる。右奥のテーブルに、水及が居た。彼女に気付いた晃に、無言で正面に並ぶテーブルの一つを指差した。

 仕切りを挟んで三つの席がある。その二番目の席に、一人座っているのが確認できた。先に来ていた櫻である。こちらに背を向けるようにして座っている。

 晃は、櫻と背中合わせになるように手前の席に腰掛けた。

「ご注文はお決まりですか?」

 女性のウェイトレスが、水を置きつつ確認する。晃は、ちらりとメニューを一瞥した後、『アイスコーヒー』と答えた。

 鬼神会という特殊な環境で育ってきたため、メニューを見た所で、理解できない。そのため、前もって水及から『アイスコーヒー』と答えるように言われていた。

 ウェイトレスは、『畏まりました』と戻っていく。

「兄さん」

 櫻が、声をかけて来た。

「……こ、こんにちは」

「こんにちは」

 それ以上、会話が続かなかった。櫻との関係を少しずつでも改善させていかなければならない。それは分かっているが、いざ話題を探そうとしても、皆目見当もつかないのが現状であった。

 鬼神会のことは、おぼろげにしか覚えていないし、そもそもそれはここで話題にすることはないということは、分かっていた。他に話題があるとしたら、櫻自身がこれまでどういう風に暮らしていたか――それは、聞いていい事なのか。

 色々と考えている内に、ウェイトレスがアイスコーヒーを持ってきた。

「……黒い」

 晃は、コーヒーがどういうものなのか、忘れてしまっていた。一緒に置いて行った、ガムシロップとミルクも、一体何に使うものなのか、分からない。そのため、とりあえず飲まない事にした。水だけ、口に含む。

「……旅行は、楽しい?」

 晃は、ほぼ棒読みでそう言う。棒読みになってしまったのは、その台詞が晃の考えたものではないからである。水及が、会話に困った時の切り札として教えておいたのだ。まさか、早々に会話に困る事になろうとは。晃は、ただ『妹と話をするだけ』と簡単に考えていた事を後悔していた。

「うん。海に……行った。兄さん……は?」

「……五十鈴さんと……散歩した。暑かった」

「そう。うん。暑いね」

「暑いね」

 再び会話が終わってしまった。晃は、二つ目の切り札を切る事にした。もう、そうするしか方法がないのである。

「……櫻の……水着……見たかった?」

 最後が疑問形になったのは、台詞を言いながら、自分で何を言っているのか分からなかった為である。

 櫻からの返事がない。

 晃は、この妙な空気が、会話に失敗した気まずい空気であることに何となく気づく。

 水及の言う通りにしていれば、上手く行く。そう思っていたのに、何かおかしい。絶対おかしい。だからといって、どうすればいいのかも分からない。櫻も沈黙したままである。気付けば、水は空になっていた。残るは、アイスコーヒーのみ。それを飲むかどうか。そう考えるのは、ただの逃避であることに晃は気付いていなかった。

 そんな折である。

 喫茶店に客が入って来た。その顔を見て、晃はアイスコーヒーに伸ばしかけていた手を止めた。

 最初に入ってきたのは、瑠璃葉。その後から入ってきたのは、久遠であった。

「久遠……?」

 晃の声はか細いものであったため、久遠には届いてはいなかっただろう。しかし久遠は、晃の方を向いた。

「……あれ?」

「どうしたの?」

「晃だ……晃だ!」

 久遠は、ぱっと笑顔になって晃の傍へと走って来た。

「どうしてこんな所に居るの?! あぁ、もう! なにこれ! これが運命なの?!」

 久遠は、その場でトタトタと軽やかに走るように足を動かす。

「さぁ、帰ろう! すぐに帰ろう!」

 晃は左腕を引っ張られ、座っている事が出来なくなって、立ち上がる。

「ちょっと……」

「帰るの! 帰るの!」

 必死に晃の左腕を引っ張る久遠。そんな彼女に、櫻は水を引っ掛けた。

「キャッ! な……」

「どっせい!」

 怯んだ久遠に、櫻が突撃した。腰を低くして、久遠の腹部に右肩を差し込み、がっちりと両腕でホールドした後、久遠を抱えたまま、店の外へと走り抜けた。店の入り口に居た瑠璃葉は、慌ててそれを避ける。

「晃、そこで座っていろ」

 水及が立ち上がって、そう指示する。

「あと、ガムシロップとミルクは入れておけ」

 水及は、どうしたものかと佇んでいた瑠璃葉を掴むと、慌ただしく店の外へと出ていった二人を追いかけた。


 陽炎立ち上るアスファルト。

 店側に櫻がやや前傾姿勢で立ち、櫻から最終的には突き飛ばされた久遠が、駐車している車の横で、片膝を付いて座っていた。

「どこの……どちらさまでしょうか?」

 地を這うようなドスの利いた櫻の声。久遠は、スカートに付いた砂を払いながら立ち上がる。

「とりあえず、死ね」

「そう……なら、お前が死ね」

「はいはい、そこまでだ」

 瑠璃葉を引き連れて水及がやってくる。

「最近の若い者は、ちゃんと挨拶も出来ないのか? ちなみに私は水及だ。お前は?」

「瑠璃葉です……」

 視線の先に居た瑠璃葉が、消え入りそうな声で答える。水及が怖い様子である。

「水及? 山神の歌巫女……私は、久遠よ」

「藤堂櫻」

 櫻は、敢えて『藤堂』と名乗った。『橘』は、あくまで書類上のものでしかないし、関係をはっきりさせるなら、『藤堂』と名乗った方が手っ取り早いと思ったからである。

「藤堂……? 藤堂櫻? えっ?! ウソッ、晃の妹さん……だったり?」

 久遠は、明らかに動揺していた。

「そうよ」

「本当に……生きていたんだ……そうか……そっか……」

 久遠は、すすり泣き出した。これには、櫻も動揺した。

「あ、あの……」

「とりあえず、場所を変えよう」

 水及に促され、晃を喫茶店に残し、ターミナルへと移動する。待合室の椅子に水及が腰かけ、その傍に櫻が立ち、二人の前に久遠と瑠璃葉が立つ。

「改めて、私は久遠。苗字はありません。晃と共に生活していました」

「兄さんから、少しだけ話を聞いています」

「そうでしたか。先程は取り乱してごめんなさい。晃を見たら、もう訳が分からなくなっちゃって」

 久遠は、額を抑え苦痛に満ちた表情を浮かべている。それを櫻は、じっと見つめていた。

「……なにからお話をしていいか分からないけど……とりあえず……あなたが生きているのをこの目で見ることが出来て良かった」

「私の事は兄から?」

「はい。自分の手で殺した……そう言っていました。その罪悪感を刺激することで、晃の精神を都合よく調整している事は知っていたから、その……本当に生きていてくれて良かった」

「久遠を責めないで」

 瑠璃葉が口を挟んだ。

「瑠璃葉?」

「晃君を拉致したのは鬼神皇様。鬼神皇様のプロジェクトのために、彼を実験台にしていたのは、私と私の父親であるドクトルG。久遠は、不安定になりがちな晃のお世話をしてくれていたの。だから、久遠を責めないで。その子は、本当に晃君の事を心配して……今も、鬼神皇様の意向を無視して、独断でここまでやってきたの。だから……」

「それでも私は、鬼神会の死大王だから」

 久遠は立ち上がった。

「藤堂櫻さん。あなたには、私たちを殺す理由がある。殺して……いい」

 これには、瑠璃葉が慌てた。

「待って久遠! あなたにも私にもまだ成す事があるのよ!」

「成す事? 笑わせないで。私は、貴重なサンプルだから生かされているだけじゃない。はっきり言うけど、もううんざりなのよ、こんなの! 何人攫って、何人殺したと思っているの? 願いが叶う門を開くため? そんなのが嘘だって私は知っている! 晃が居ないなら、もう私は戦わない。私は、もう生きていたくない!」

 それは、久遠の慟哭と述懐だった。

「ならば、私と契約をしないか?」

 水及が切りだした。

「契約……?」

「そうだ。お前は、鬼神会の死大王。その立場で、成せることがあるはずだ。晃のためだと思うのであれば、晃のために戦わないか? 晃は、いずれ鬼神皇と戦う。鬼神皇も、そのつもりだ。その時のためにも、まだお前に出来る事があるのではないか? 安易に死を選んで、それで終わらせるつもりか? 櫻が、それで納得すると思うか? なぁ? 櫻」

 櫻も立ち上がった。まっすぐに久遠の瞳を見る。

「私には、あなたを殺す事が出来ない。むしろ……感謝をしたいぐらいです」

「感謝なんて……!」

「聞かせて。兄さんの事をどう思っているの?」

 久遠は、たじろいだ。視線を泳がせる。それから頬を染めて、再び櫻に視線を戻す。

「私は……晃の事が好き……!」

 この返答には、櫻も驚いた。

「そ、そうなんだ……」

「私にはそんな資格がないのは知っている。でも、好きなの。好きでしょうがないの!」

「そうなんだ。なら、あなたには死んでほしくない。兄が悲しむから」

「晃が……悲しむ……の?」

「当然よ。兄さんは、あなたの事を悪くなんて言っていない。むしろ感謝しているみたいだった」

 久遠は、右手を拳にしてそれを胸にあてがい、ぐっと体を丸めつつ抑え込んだ。

「……そう……私……契約でもなんでもする。私は、戦う。私も戦う!」

「そうか。なら、今からお前は、鬼神会の死大王であると同時に、橘家に所属する除霊士だ。橘家のために戦う代わりに、橘家はどんなことがあろうともお前を助ける」

「……でも、鬼神会に所属したままだという事は……」

「これまでもしてきた事だから。我慢する。鬼神皇を倒すその日まで」

 久遠と櫻は見つめ合い、それから穏やかに笑い合った。

「そうなると、こいつをどうするか……だな」

 一人だけ門外漢となっていた瑠璃葉を、水及が速やかに拘束した。

「こ、殺さないで。私には、まだやることが……久遠、今回も手を貸してあげたでしょ? 助けてよ」

「水及……様。瑠璃葉は、泳がせた方がいいと思います。彼女は彼女なりに、晃を守ってくれていました。それに、ドクトルGには逆らえないんですよ、その人」

「だそうだ」

 水及は、ぱっと瑠璃葉を離す。瑠璃葉は、慌てて距離を取った。

「その代わり、今見聞きしたことは話さないでね。話したら、私があなたを殺す」

「……分かった。最初から話す気はないし。私にとっても、お父様を縛っている鬼神皇様には、死んでもらいたいし。全面的には協力は出来ないけど、少しなら手伝う」

 話はまとまった。

 久遠は、櫻の許可を得て、晃と顔を合わせた。そこで晃に、水及と契約したことを話した。心配する晃に、久遠は精一杯の笑顔を浮かべて見せた。その後、瑠璃葉と共に去って行った。

 すっかりと場が濁ってしまったが、晃と櫻の面会も再開される。主に久遠の事について話し、最初に比べると自然で和やかに二人は話す事が出来ていた。


 十七時少し前。晃と水及が、民宿へと戻って来た。

「おかえりなさい」

 そんな二人を最初に出迎えたのは、五十鈴だった。水及は先に奥へと行き、晃はその場に残る。

「ただいま帰りました」

「どうでしたか? 少しはお話ができました?」

「ちょっとだけです」

「そう」

 五十鈴の柔らかい笑み。それは、晃の心に優しい風を呼び込んだ。その頃奥では、勝彦に水及が久遠のことを話し、勝彦を驚かせ困らせていた。


 のんびりとした時間を過ごし、次の日の昼前には大島を立った。橘家の離れに戻って、『ただいま』と口にした時、晃はくすぐったい気持ちになった。

「楽しかったですね、旅行」

 乎沢が、麦茶を持って来てくれた。

「はい」

「あなたが居てくれて、本当に良かった」

 乎沢の言葉の意味が分からなかった。それでも、好意を持ってくれていることは十分伝わり、晃は照れくさそうに顔を伏せた。

「私は、弱虫だったんです。五十鈴様の傍で本当にやって行けるのか、もう不安で不安で。でも、頑張れる。これからも宜しくね、晃君」

「あっ、はい」

 乎沢は、穏やかな表情をしていた。

 それから間もなくして、椿が本家からやってきた。五十鈴と顔を合わせたくないためか、周りをキョロキョロと窺っている。

「五十鈴様なら、今寝ていますよ」

「そうですか」

 乎沢は、椿にそう声をかけた後、席を外した。

「晃君、今少し話が出来ますか?」

「はい、大丈夫です」

「旅行、どうだったのか、聞きに来ました」

「楽しかったです」

 晃は、椿としばらく談笑して過ごした。


 日が暮れて、夕食を終えた後、晃は五十鈴と共に夜を過ごした。日記を綴る五十鈴と話を紡ぐ。少しぎこちない所もあるが、晃も随分と順応していた。

 深夜になって、晃は怖い夢を見て目を覚ました。庭に出て、陰る月を見上げる。

 怖い夢を見る理由は分かっていた。

 久遠の事。

 鬼神会に残してきた部下の事。

 これからの事。

 平和を感じる度に、様々な不安がかま首をもたげる。

 強くならなければならない。

 晃は、不安に負けまいと空を睨んだ。



 ――某所。

 暗い部屋。モニターから漏れる光があるのみ。一人の少女が、そのモニターの光を浴びながら、キーボードを叩き、マウスを動かしていた。

 しばらくして、その動きが止まる。じっとモニターを見つめ、それから表情を歪めた。

「……やはり。そう、これは都合がいい。私のこの手で、姉さまの仇が取れる。ブチ殺してやる」

 モニターには、こう表示されていた。


『鬼神会の死大王の一人阿蛇螺使いの晃、橘家に保護される』


 警報が鳴り響く中、少女――九藤菖蒲は、車を繰り走っていく。車の左の座席、後部座席に跨って、布に包まれた長くて細い物を積んでいる。それは槍だ。『天沼矛(あまのぬぼこ)』――のレプリカ。七本しか存在しない、貴重で門外不出の品。警報が鳴っているのは、これを無断で持ち出したからだ。

 彼女が目指すのは、櫻町。

 菖蒲には、血は繋がっていないが姉のように慕っていた女性が居た。名前は、九藤鬼殺。菖蒲は、九藤家の養子であるが、鬼殺は九藤家の本筋に近い血筋だった。

 ある作戦の際、鬼殺は晃と戦って敗北し、命を落とした。

 晃を殺す。

 それが、菖蒲の目的だった。


 そんな菖蒲の車を、後ろから追いかけて来ている車があった。乗っているのは、菖蒲が所属している国営除霊機関『天鈿女(あまのうずめ)』の第六部隊隊長の音村珊瑚。ピンク色に染めた髪に、小柄な姿は、とても成人しているとは思えない。そんな彼女であるが、誰よりも早く菖蒲の動きを察知し、後を追いかけていた。

「で、麻理亜ちゃん。このまま泳がせておいていいの?」

『まどかさんのお達しよ。所長には上手く言っておくみたいね』

「ふ~ん、そう」

 電話を切る。

「私だって、暇じゃないんだけど。でも、まどかに恩を売っておくのも悪くないかな」

 割り切れた様子の珊瑚。

 菖蒲に気付かれないように追いかけていく。





 END


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