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空白ノ翼  作者: 堕天王
幕間
27/35

その一『聡たちの大島旅行』

 8月19日

 夏の朝。木々が生い茂る場所に立つログハウスは、この時間でもやや薄暗い。

「結局、後から来るのか?」

 神山(かみやま)(さとし)はボストンバックの中身を確認しながら、立麻(たてま)琴菜(ことな)に尋ねた。

 今日から、聡が勤めている虹野(こうの)印刷所の社長である虹野美津子とその娘の夏樹、それと夏樹の友達を含む旅行に参加する事となっていた。

 元々、美津子の姉が経営している海の家がシーズン中は忙しいため、美津子と夏樹がその手伝いに行っていた。今年は聡という男手が増えたので、彼を引きつれて出かける予定であったが、夏樹が事故に遭い入院してしまった。そのため一端話が消えていたが、夏樹の退院が早まったこともあって、今度は単純な旅行として話が再浮上する事となった。

 旅行に行くにあたって、懸念材料は琴菜であった。いつから一人で住んでいたか分からないため、別に放っておいても死にはしないであろう。それでも聡は、敢えて琴菜に旅行に同伴するか尋ねた。このログハウスからほとんど出てない彼女の事を心配していたからである。

「行くとは言ったけど……」

 どことなく歯切れが悪い琴菜。

 出発するとなった途端、琴菜が『後から行く』とごね始めたのである。聡は、一つ溜息を吐いた後、立ち上がった。

「琴菜、いいから荷物を持ってこい。何を心配しているか知らないが、何も考えずに付いてくればそれでいいんだよ。こういうのは、大抵考えても無駄だ。行くなら行く。それでいい。十分だ。ちゃっちゃと準備して、メシを食っていくぞ」

 琴菜は、少しの間そっぽを向いていたが、諦めが勝ったらしく聡の言葉に従った。

「もう一度確認しておくが、琴菜は俺の姉という事にしてあるから、間違えるなよ。神山琴菜だ」

「分かっている。でも大丈夫? 昔の知り合いが居たりはしない?」

「俺の家族の事を知っている奴は、今回来ないから大丈夫だ」

 聡の幼馴染である坂田斎(いつき)は、今回は不参加である。もし斎が来るのであれば、聡も最初から琴菜を連れていく――なんてことは、思わなかったであろう。

 朝食を食べ、それから軽トラックに乗って麓の町を目指す。この軽トラック、車検も通さず埃をかぶっていたのが判明したのが、お盆の時。車検に出したので今は運転しても警察の御用になる事はなくなった。ちなみに記憶喪失の聡の運転免許証は、ポストの中に放り込まれていた。

 聡には、不思議な協力者が存在する。黒い髪を長く伸ばした笑みを絶やさない不思議な女性。名乗らないため、聡は彼女の事を『姉御』と呼んでいる。

 虹野印刷所に入職する時に戸籍謄本を用意した挙句、記憶を失っているためどこにあるかも分からなかった聡の住所を、櫻町に移したのも姉御である。今回の運転免許証も、間違いなく姉御の仕業であろう。

 山道を進み、大きな道に合流して、商店街の裏手に入る。集合場所の虹野印刷所までは、十分弱程度で到着した。車を虹野印刷所の敷地内の駐車場に停めて、『虹野』と表札がぶら下がっている玄関前へ。

「おはようございます」

 美津子が立っていたため、挨拶をする。

「おはよう」

 煙草を右手に持ち、煙を燻らせている。

「そっちが、例のお姉さんか」

「神山琴菜です。お邪魔しております」

 琴菜は、いつも通りの無表情でぺこりと頭を下げた。彼女の『無表情』は、場所や人が変わっても、変わらないようである。

「構わないよ。人数は多い方がいい。聡、早速で悪いが、車を出しといてくれ」

 美津子から、美津子本人の車の鍵を受け取る。

「分かりました。そう言えば、介護用の車はどうなりました?」

「介護タクシーを呼んである。何人か乗れそうだから、私の車と分けて港まで行くことになるね。私は介護タクシーに乗るから、私の車は聡が運転してくれ」

「了解です。じゃ琴菜、ちょっと行ってくるわ」

 聡は、美津子の車を取りに向かった。残された琴菜と美津子。

「私は、アイツが記憶喪失であることを知っている」

 美津子は、突然そう切り出してきた。琴菜は、返事に窮し、ただ美津子の次の言葉を待つのみ。

「だから、何か困った事があったら私に相談しろ。それだけだ」

 美津子は、快活な笑みを浮かべた。

「……聡のことがちょっと羨ましい」

「ん?」

「いえ、その時はお願いします」

 琴菜は深々と頭を下げた。

 それから少ししての事。

「おはようございま~す!」

 元気一杯の声。夏樹が、車椅子に乗って現れた。その車椅子を押しているのは、夏樹の友達である小泉由紀子である。

「おはようございます」

 夏樹と比べると小さくて控えめな挨拶。

「おはようございます」

 琴菜は丁寧に挨拶を返した。

「聡さんが言っていたお姉さん?」

「そうよ。琴菜というの。よろしくね」

「私は夏樹です。こっちは友達の由紀子(ゆきね)

 由紀子は、小さく会釈をする。

「こちらこそよろしくお願いします」

 夏樹のキラキラとした笑顔を、琴菜は純粋に可愛いと思っていた。

 その次にやってきたのは、由紀子の友達である氷女(こおりめ)沙夜、橘椿、橘櫻の三名。

「神山聡のお姉さん……?」

 驚いている椿と櫻。この二人、除霊屋という妖と戦う組織に従事している。そして、聡はその除霊屋に監視されている立場であった。そのため二人は、琴菜が聡の血縁者ではない事を知っていたのである。

「あれが例の……」

「櫻、私たちは今ただの一般人よ。知らない振りをしていなさい」

「はい……でも、気になる。気になる……」

 聡と琴菜が血縁者ではない事は知っているが、二人の接点や背景についてはまるで分かっていない。琴菜本人が目の前にいる現状、それを知るのには絶好のチャンス。櫻は、うずうずして地団駄を踏んでおり、椿その肩を掴んで落ち着けさせようとしていた。

「なんか、視線を感じる気がする」

 戻って来た聡に琴菜はそう訴えた。

「気のせいだろう。慣れない場所で敏感になっているんだよ」

 しかし聡は、取り合わなかった。

 待ち合わせ時間ぎりぎりになって、最後の一人である天野神華(しのか)が合流。すでに到着していた介護タクシーと、聡が出してきた車に乗り合わせ、一路港を目指した。

 櫻町は、北の橘山、東の若草山、南の歌宝(かほう)山と三方向を山に囲まれており、西側だけが海に面している。今回、聡たちが向かったのは、その海に浮かぶ大島という島。遠方から訪れるにしては、大した観光資源があるわけではないが、地元の人が余暇を過ごすには充分事足りる、そんな場所である。

 櫻町を出て海沿いを進み、市街を抜けた先にある港の駐車場に車を停め、フェリーに乗って、大島の港へ。そこからは徒歩で、宿泊する民宿へと向かった。民宿の名前は、『熊谷』。虹野美津子の実の姉熊谷明美が切り盛りをしている。

 聡は、荷物を畳の上にドカリと置く。部屋は、一階の隅にある六畳程度の狭い部屋。真ん中に小さなテーブルが置いてあるだけで、他には物らしい物が置いていない。そのためとても殺風景な様相であり、とても客人を招くような部屋でなかった。それもそのはず。ここはかつて美津子が住んでいた時に使っていた部屋である。普段は使われていないが、今回聡だけが男のため、この部屋を使う事となった。他の女性陣は、二階の大広間に全員一緒で雑魚寝である。

 奥の窓を開けてみたが、客用ではないので見えるのは雑草が生い茂る庭と隣の家との間のコンクリートの塀のみ。

「暑い……」

 二階の大広間にはクーラーが設置されているが、この部屋には扇風機しかない。風の流れも悪いため、すでに蒸し風呂状態であった。

 とりあえず外に退避することにした。

「ん? 出かけるのか?」

 台所で、熊谷明美と話していた美津子が、聡に気付いて声をかけて来た。

 聡は、柔らかく微笑む明美に頭を下げる。

「ちょっと外の空気を吸おうかと思って」

 部屋がクソ暑くて美味しくボイルされそうです――と、言えるはずもない。

「あはははっ、ごめんね、エアコン取っ払っちゃっててさ」

 明美があっけらかんと言い放つ。

「扇風機なら、あと五台は余分なのあるから、倉庫から持って行っていいよ」

「お前の部屋だけ強風波浪注意報だな!」

 二人はケタケタと笑っている。聡は、愛想笑いを浮かべてはいたものの、心の中では暗い感情が過っていた。

「じゃ、ちょっと出かけてきます」

「夏樹たちが海に行くみたいだが、お前は来ないのか?」

「いや、さすがに女子高生の中に男一人は辛いっす」

「そうか。確かに犯罪者だわ。うむ。ダメだわ」

 冷淡に言われて、自分で言った事なのに聡は酷く傷ついた。

「それなら、港に下りたらえぇよ。自転車を貸してくれるよ」

「あっ、はい。ありがとうございます」

 これ以上からかわれてはたまらない――と、聡はそそくさとその場を後にした。

 聡に与えられた一番奥の部屋から、美津子たちがいた台所の前を通り過ぎると、二階に上がる階段の横を通って玄関に出る。丁度、琴菜が二階から降りて来ている所であった。

「ん? 琴菜か」

「聡……どこか行くの?」

 相変わらずの無表情で尋ねてくる。彼女の無表情にも、聡は随分と慣れた様子である。

「港で自転車を貸してくれるらしいから、行ってみようと思ってな。琴菜は、海へ行くのか?」

「行かない。十も年が離れている子達のエネルギーに付いて行けない」

「あはっ、そうか」

「私も行く」

「自転車、乗れるのか?」

「聡の後ろに乗るわ」

 一瞬言葉を失った聡であったが、『はいはい』と特に言い返さず琴菜の言葉を受け入れた。


 大島には、島を海に沿って周回する道路がある。大島の観光資源の多くはこの道路沿いにあり、バスも走っている。そこを聡は、琴菜を乗せてせっせと走っていた。煌びやかに輝く太陽と、熱せられたアスファルトに挟まれているのは、想像を絶する暑さであった。

 聡は汗だく。その後ろに乗っている琴菜は、そんな汗だくの聡の体に嫌な顔をしつつもしがみ付いていた。

 風光明媚を楽しむ余裕などどこにもない。聡は、ただただ暑さに耐え、自転車を漕ぎ続けるという苦行を味わっていた。

 三十分ほど走った所で、岬に作られた展望台へと辿り着いた。そのため、一休みをすることに。櫻町とは反対側のため、ひたすら海が広がっている。その海の先は、アジア大陸であるが、さすがにそんな遠方までは臨む事は出来なかった。

「いい風……」

 琴菜は、潮風に心地良さを感じ、絶景に癒しを覚えていた。一方聡は、少し離れた所でベンチに腰を掛けており、息を整えている所であった。

 体力に自信のある聡でも、炎天下の中、人間一人乗せて自転車を漕ぐのは想像以上に疲れた様子。それでも琴菜が、相変わらずの無表情でありつつも、どこか活き活きとしている様は、聡の心を十分に満足させていた。

「ちょっとジュースでも買ってくるわ」

「私が行こうか?」

 珍しく気を遣う。

「なら、お願いしようかな」

 琴菜の申し出をありがたく受ける。

「入り口に自販機があったと思う」

「分かった」

 琴菜は、入り口へと戻って行った。

 琴菜の背を見送り、その背が見えなくなったら今度は空を仰いだ。木々で少し遮られているが、真っ青な夏の空が広がっている。見上げていると、吸い込まれてしまいそうなそんな錯覚を抱かせた。

「こんにちは」

 声は、すぐ隣からした。

 聡の座っているベンチは、丁度入り口方向と岬方向を繋ぐように設置されており、声がしたのは岬側。黒のスーツを纏った黒髪の女性。いつものように突然現れた彼女は、いつものように笑みを浮かべ聡を見下ろしていた。

「姉御……まさか、こんな所でも現れるとは思わなかった」

 聡の戸籍謄本を持って来たり、運転免許証を用意してくれたりと、聡に様々な援助をしてくれる名前不明、通称『姉御』の登場に聡は苦笑を浮かべる。

「運転免許証、ありがとう。助かったよ」

「いいえ」

 相変わらずの笑みであるが、今回はどことなく嬉しそうにしているように見えた。そんな所に、琴菜との共通性を聡は見出していた。

 無表情でも感情の動きがある琴菜。

 笑顔でも感情の動きがある姉御。

 前々から感じていたが、琴菜と姉御は全く無関係ではなさそう――聡は、そんな事を考えていた。

「ありがとうございます」

「ん?」

「あの子を外に連れ出してくれて。少し救われましたわ」

「あなたは……」

「それと、櫻町では怖い事件が起こったりしているけど、心配しないでください。あなたとあの子は、私がどのような手段を用いても、必ず災厄からお守りいたしますから」

「それは……」

「あの子が戻ってきましたわ」

 振り返ると、確かに琴菜がジュースを二本抱えて戻ってきている所だった。

「本当だ。ところで……」

 姉御の方へと向き直ると、そこにはもう姉御の姿はなかった。結局は何も聞けず、一方的に色々と告げられただけであった。

「どうかしたの?」

 聡の様子がおかしい事に琴菜も気付いた。

「いや……黒くて長い髪で、いつもスーツ姿の美人に琴菜は心当たりがあるか?」

 聡は、消えた姉御の方へと顔を向けたままそう尋ねた。

「なに? 暑さで幻覚でも見た?」

「すまん。何でもない。ジュース、ありがとうな」

 聡は、琴菜からジュースを受け取った。


 再び、聡の漕ぐ自転車に乗って島を巡る。途中で観光名所を訪れ、共に歩き、また自転車へと乗る。自転車を漕ぐのは大変な作業であったが、それでも聡は嫌事を一つも言わなかった。

 そんな中、琴菜は聡が言っていた、『いや……黒くて長い髪で、いつもスーツ姿の美人に琴菜は心当たりがあるか?』という言葉が気にかかっていた。聡には、『なに? 暑さで幻覚でも見た?』とごまかしたが、実は丁度そんな身なりの女性に、心当たりがあった。

 それは両親の葬式の日の事だった。その日は雨が降っていた。参列者の相手をしている最中、そんな参列者には混じらず、そもそも家の敷地にも踏み込まず、離れた場所からじっと琴菜を見ている人がいる事に気付いた。

 黒いスーツ姿の女性。黒くて長い髪。黒い傘を差しているため顔は見えなかった。ちょっと視線を逸らしている間に、その女性の姿は幻のように消えていた。

 本当ならそんな一瞥しただけの相手のことは、すぐに忘れてしまう事だろう。しかし、今回のようにちょっとしたきっかけでその女性の事を思い出してしまう。

 彼女は一体誰なのか。聡が言っていた女性と関係があるのか。聡にその事を伝えても良かったが、琴菜は結局伝える事はなかった。


 聡と琴菜が島を一周している間、由紀子、夏樹、神華、椿、沙夜、櫻は、美津子と共に海へとやって来ていた。まだ自力歩行が難しい夏樹は、途中まで車椅子で来て、その後は椿に抱えられて海へと入った。

「あぁ、思いっきり泳げないから、なんか消化不良だよ~」

 浮き輪に乗ってプカプカと浮かぶ夏樹。両手は元気なため、流されないように舵を取る事は出来ている。

「私が浮き輪を曳航しましょうか?」

「やだ。死んじゃうじゃん」

 椿の冗談を夏樹は拒否する。

「そういえば神華さんは、泳げるの?」

 由紀子の問いに、神華は苦笑する。

「まったくなんです」

「水の抵抗が強そうな体をしているから仕方ないよね」

 夏樹が、神華の胸を見ながら言う。当の神華は、そんな視線に気づかず、不思議そうな顔をしていた。

「夏樹、それ以上はダメ。ダメ。悲しくなっちゃうからダメ」

「そだね。全く、そだね」

 由紀子に諭され、夏樹は何度も頷いていた。

 その頃、櫻と沙夜は波打ち際に居た。海初体験の沙夜が、小さな波にさえ翻弄されていたため、櫻が面倒を見ていた。

「まさか、海が初体験なんて。驚いた」

「私には縁がない場所だと思っていました」

 沙夜のそんな何気ない言葉を聞いて、失言だったことに櫻は気づいた。

「ごめん。今のは……」

「……? あっ、気にしなくていいです」

 二人の間に少しだけ気まずい空気が流れた。

 海に行ったことがない。沙夜は、『療養』という目的で櫻町へやって来た。他の人とは違う青い瞳と特殊な霊媒体質。これらの要因を踏まえて、沙夜がまともな社会生活を送って来られたとは、到底思えない。その事を遠回しに指摘してしまった事に、櫻は気づいてしまった。

「こうやって皆さんと遊びに来ることが出来た。とても嬉しいです。由紀子さんも、すっかり元通りですし」

「そうね」

 沙夜は、遠くで楽しげに笑っている由紀子を見つめている。彼女の中に眠る『赤鬼』という霊障によって、大きな事件へと発展してしまった事が嘘のようである。

「……」

「沙夜?」

 じっと一点を見つめていた沙夜が、はっと正気に戻る。

「それにしても、海って凄いですね」

 沙夜は、そんな風に取り繕った。彼女は、途中からじっと神華を見つめていた。神華と会うのは初めてではないが、会う度に彼女に対して違和感を覚えずにはいられなかった。

 何かが一致していない。細かい事は分からないが、そう思えた。そのため、由紀子のあんな事件があった後でありながらも、沙夜にとっては神華の方が不気味に見える事があった。しかし、そんな確信もないあやふやな事を櫻に話すわけにもいかないので、ごまかした。

「さぁ、こんな所でたたらを踏んでいないで、行くよ」

「あっ! ちょっと待って! まだ……心の準備が!」

 櫻に手を引かれ、沙夜は海へと入って行った。


 尼崎月子(つきね)は、畳の部屋に足を踏み入れる。広さは、六畳程度。真ん中に小さな座卓が置いてあるだけで、他には何もない。奥の窓からは、雑草生い茂る庭が広がっているだけで、特別見る物はなかった。

 月子は、何もない庭をぼんやりと眺め、それから部屋をゆっくりと眺める。いつ造られた建物か分からないが、かなりの年季が入っている。押し入れの襖障子が、長い年月ですっかりくすんでしまっていることからも、この建物の古さが推し量れた。

 ここは、大島の平屋。橘家の休暇に付き合う形で、やってきた。

 物心ついた時から尼崎家に居て、そこから出る事を許されなかった子供時代。尼崎家が崩壊した後も、『赤鬼(せっき)』の研究と尼崎家の管理を託されたため、結局ほとんど外に出る事がなかった月子にとっては、見聞きする物全てが目新しかった。

 『赤鬼』の騒動以降、活動拠点を橘家へと移転することになったため、引っ越し作業で大忙し。しかし、水及(みなの)はそんな月子を有無言わさず連れ出した。そのため、月子は最初こそ乗り気ではなかったが、初めて乗ったフェリーから見る海の景色に心を囚われて以降は、すっかりと気持ちを切り替えた。

「茜様、私、今大島にいるんですよ。私がこんな所に居るなんて、いまだに信じられない気持ちです」

 亡き主への言葉。

 主であった茜は、『赤鬼』を患っていたため、尼崎家の離れに隔離されていた。そんな彼女は、森の中にぽっかりと空いた空を眺めては、訪れる事が叶わない遠い町への憧れを飛ばしていた。それ故に月子は、茜の願いを叶えている現状を、感慨深く思っていた。

 部屋を後にして、居間へと戻る。すると、声がかかった。

「おっ月子、丁度いい所に」

 水及である。彼女は、丁度月子に背を向けて座っており、足をパタパタとさせながら背中越しに話しかけてきていた。

「水及様、はしたないです」

 そんな水及を勝彦が諌める。水及は丈の短いスカートを穿いているため、そんな動きをすると下着が見えてしまうのだ。

「なんだ? 欲情するのか、勝彦」

 水及は意地悪そうな顔をする。すると、勝彦はこほんと咳ばらいをした。

「晃がこの場に居ないからいいものの、少しは弁えてもらわないと、青少年の育成に支障が出ます」

「ん……それもそうだな」

 素直に認めた水及は、すくりと立ち上がった。

「あの水及様……」

 声をかけるだけかけてほったらかしにされていた月子が、困った顔をしていた。

「あぁ、悪い。準備をしろ。由紀子に会いに行くぞ」

「えっ?」

 またもや突然に。やはり拒否する暇もなかった。


 水及は、手早く車を用意して月子を連れて港へと向かった。

 港近くの喫茶店。状況が分からないまま、月子は今そこで、アイスコーヒーを飲みつつ、チョコレートパフェを食べている水及を見つめていた。

「あの水及様……由紀子様に会う……とのことですが……」

「あぁ、顔合わせをしておく必要があったからな」

 唇にチョコレートを付けて話す水及は、見た目だけなら子供のようだ。その様を見ても、月子の心はちっとも穏やかにはならない。水及の理不尽に振り回されて、心労が溜まるばかりである。

「お前には、九月から櫻高校に赴任してもらう」

「私がですか?! で、でも私、教員免許どころか、まともな義務教育も受けておりません!」

「あぁ、そこら辺は問題ない。名目は、『資料整理課の室長』。私が適当にでっち上げた部署だ。そこで、お前は赤鬼の研究をしてもらう。由紀子の傍にいた方が、何か問題があった時に、色々と便利だからな。他の職員や生徒と関わる必要は全くないから、勉強なんて出来なくても問題ない」

 公立高校の中に、思いつきで部署を立ち上げる事が出来る影響力。同時に、その陰でどれだけの人間が頭を痛めているのか。それを考えると、気の毒でならなかった。

「緊急時は、『イージス』を展開する事も許可する」

「宜しいのですか?」

 『イージス』とは、月子の特殊な力に与えられた名前である。正確には、『因子阻害』と呼ばれており、術や魔法が発動する際に動く因子の動きを阻害する能力のこと。つまるところ、『一定範囲の能力の発動を阻害する』能力である。それは、現在稼働している術式も阻害する。つまり、月子が能力を使えば櫻高校で展開している霊的な術式は全て止まってしまうということである。

「学校で赤鬼が発動すれば、多量に人が死ぬ。尼崎家の惨劇のようにはしたくないであろう?」

「分かりました」

 月子の表情が曇る。

 十年前の『赤鬼の暴走』。月子は、事の顛末を全て見たわけではない。しかし、その時亡くなった人の数が、四十三名というだけでもその凄さが分かる。除霊屋である尼崎家で、この人数だ。九割以上非戦闘要員の学校で赤鬼が発動すれば、その被害は途方もないものとなってしまうだろう。

「そういう事で、しばらくの間は小泉月子と名乗れ。由紀子の従姉という設定で行く。後は、適当に作っていい」

「さすがに尼崎は、刺激するかもしれませんね」

「私の施術がそれぐらいで揺らぐとは思えないが、念には念を押しておかないとな。それに、他の勢力にお前の事を嗅ぎ付けられるとそれはそれで面倒だ」

「他の勢力……やはり、動きますか?」

「動きそうなところには圧力をかけておいたが、私も万能ではない。その証拠に、私は尼崎紅(あか)の事も知らなかった。どうも匂うのだよ」

「匂う……ですか?」

「あぁ、私の感が言っている。何か、別の思惑が動いている。それも一つじゃない。まぁ、私の大切なものを傷つけるというのであれば、全力で潰すだけであるがな」

 水及は、この時神山聡の顔を思い浮かべていた。彼はおかしい。おかしなところがないのに、とてもおかしい。そんな矛盾を孕んだ彼は、水及にとってはとてもいびつに見えていた。

 椿が由紀子を連れてきたのは、二人がそんな話から月子が日がな一日どんな生活をしていたのか――という話に変わって、すぐの事であった。

「ん、来ましたか」

 水及はころりと口調を変えて、一端席を立って、月子の横へと移った。

「水及様、由紀子さんを連れてきました」

「あ、あの、こんにちは。お久しぶりです」

 由紀子が緊張した面持ちで頭を下げる。水及は、そんな由紀子を笑顔で迎えた。椿は、月子をちらりと一瞥する。椿は、水及の真意を測りかねていた。電話で、由紀子と月子を会わせる、と突然言われ、立場上反論することができないため、言われた通り由紀子を連れて来ただけであった。

 椿と由紀子が、水及と月子の前に座る。水及の前が椿で、月子の前が由紀子という位置となった。

「急にお呼び出ししてごめんなさい。どうしても、彼女を紹介しておきたいと思ったものでして」

 由紀子の視線が月子へと向く。月子は、居心地が悪そうに微笑む。

「……」

 由紀子は、初めて見る月子の姿に、動揺していた。その理由が分からない。ただただ、心がざわついていた。

「彼女は、今度櫻高校に赴任することになった小泉月子と言います。あなたの従姉になるのですよ」

「私の従姉……?」

 由紀子は、ふと我に返った。

「はい。えと、由紀子さんのお母さんの姉の娘になります」

 月子がすぐにそう続けた。

「そうなんですか。それでどこかでお会いしたような気がしたんですね」

「はい。以前に何度か会っていますよ」

「ごめんなさい。私、全然覚えていなくて」

 二人の間から緊張が少しだけ解けた。それを見て椿は、ほっと胸を撫で下ろしていた。

 一時間ほど他愛のない話をしてから、水及と月子は由紀子と椿と別れて民宿への帰路に着いた。

「水及様、さすがに冷や汗をかきました」

 平静を装っていたが、月子は由紀子が揺らいでいる事に気付いていた。水及がすぐに紹介を切り出したのも、それを察してのこと。しかし同時に、月子は腑に落ちなかった。由紀子――本来の尼崎雪子と月子には、ほとんど接点がなかったからである。それなのに、月子の姿を見て、反応した。月子が気付いていないだけで、雪子にとっては印象深い存在であったのか。

「私も少し驚いている。茜と月子の繋がりを少し甘く見すぎていたか」

「茜……?」

「間違えた。由紀子だ。気にするな」

 水及は、それ以上語らなかった。

 何故、雪子を茜と間違えたのか。そんなのはおかしい。どう考えてもおかしい。月子はこの時、水及が何かを隠している事に気付いた。

 そもそも尼崎家の崩壊には、謎が多い。月子は、目の前で主である茜が赤鬼を暴走させたのを見ている。しかし、赤鬼として保護されたのは雪子であり、茜は別の場所で亡くなっていた。そして、水及が雪子を茜と呼び間違える。

 もし、水及が呼び間違えたわけじゃないとしたら、どうなるのか。

 雪子は、茜。しかし、肉体は間違いなく雪子。茜の死体は、月子も確認している。擦過傷は多数あったが、大きな損壊はなく、死因も不明だった。

 肉体が雪子のものでも、中身が茜――という可能性はあるのか? 尼崎家に、そんな秘術はない。

 そこで月子は、ある事に気付いた。

 茜が亡くなっていた場所に、もう一人亡くなっていた人がいたのだ。

 名は、尼崎湖子。雪子の母親であり、かつては天月家という除霊屋の当主だった人である。彼女が、尼崎家の当主一に娶られた理由は、彼女が特殊な能力を有していたからであった。

 尼崎湖子(ここ)がどのような能力を持っていたかは、月子は知らない。調べたこともなかった。

 水及が隠している以上、彼女からはこれ以上何も聞く事が出来ない。それならば、自分自身の力で、紐解くしかない。

 月子は、静かにそう決意した。


 琴菜を乗せて、島一周を果たした聡は、丁度海から上がって来ていた夏樹たちと合流して、昼食を摂った。

「人一人乗せて、島を一周なんて、聡さんは馬か何かなの?」

 夏樹は、心底驚いていた。

 食事の後、由紀子と椿が別行動となった。聡たちは、近くの物産展にお土産の下調べに向かった。

「ん……」

 琴菜は、陳列している商品を真剣な表情で見つめている。

「誰かに土産を買うのか?」

 と言った所で、聡はそれが失言だったと思った。琴菜の両親はすでに亡くなっている。琴菜と過ごして四ヶ月であるが、それでも琴菜に『土産を送る相手』が居ない事は察する事が出来ていた。

「ちょっとね」

 琴菜は、特に気にした様子もなくそう答えた。あまりにも真剣だったので、聡はそれ以上琴菜に関わらなかった。

 物産展内に設けられた休憩スペースへと赴くと、夏樹と神華が居た。櫻と沙夜の姿はない。

「もう見終わったのか?」

「私は毎年来ているからね」

「そうだったな。天野さんは?」

「私は今から見てきます。夏樹さんの事、お願いします」

 神華は、聡に頭を下げて足早に去って行った。

「いってらっしゃ~い」

 それを見送る夏樹。神華が気を利かせたことには、気付いていなかった。

 神華には、夏樹に対する負い目があった。それは、誰も知らない神華だけの事情によるものである。

「ここはいい所だな」

 神華が座っていた場所に、聡が座る。

「うん。私も大好きなんだ」

 夏樹の視界に、自分の左手首に装着しているリストバンドが入った。すっかり古びてしまったそのリストバンド。ずっと持ち主を探していたが、最近神山聡の物であったことが判明した。

「聡さん、これ……」

 リストバンドを外して両手に包むように持ち、それから花が咲くように下から支えて、聡の前で両手を開いて見せた。

「聡さんは覚えていないかもだけど……」

「あぁ、俺のリストバンドか。ずっと持っていてくれたのか」

 聡には、過去の記憶はない。しかし、リストバンドに関する事は、聡の過去を知る坂田斎から聞いていた。そして、夏樹は聡が記憶を失っている事を知らない。そのため、話を合わせるため、敢えてそう言ったのであった。

「斎の奴に随分怒られたよ」

 斎からプレゼントされたリストバンド。過去の自分は、何故それをあっさりと手放したのか。記憶を失っている聡には、自分の事であるが、まるで分からないでいた。

 落ち込んでいる夏樹を励ますため――という理由では、腑に落ちない。他にもいくらでも方法はあったはずである。

 何故、斎からのプレゼントを横流ししたのか。

 それは、結果はともかくとして褒められたことではない。

「それは夏樹が持っていてくれ」

「いいの?」

「あぁ、そうして欲しい」

 夏樹が嬉しそうに笑い、リストバンドを再び左前腕に装着した。

「私ね、このリストバンドのおかげで足が速くなったんだから」

「そっか」

 夏樹の笑顔が、聡の心にチクリと刺さった。

 夏樹のためを思って、リストバンドを彼女に再び譲渡したわけではなかったからだ。過去の自分が何かしらの想いで、ある種拒絶したその品は、聡にとってはとても恐ろしいものだった。

「悪いな」

「ん? 聡さんは、全然悪くないよ。本当にありがとう」

 そんな夏樹の気遣いも、今は心が痛むばかりであった。


 夕食を終えた後、聡は二階の大広間に呼ばれて、ゲームをしたり雑談をしたりして過ごしていた。

 そんな折である。

「折角だから、怖い話でもしましょう!」

 と由紀子がノリノリで切りだした。

「社長が怖い」

「いやそうじゃなくて……」

 聡の言葉に、由紀子はがっくしと肩を落とす。

「私は、体重計が怖いです」

「この流れだと、私は饅頭が怖いとか言うべきでしょうか」

「これ以上は、つっこまない!」

 神華と椿の追い討ちにも、由紀子はめげなかった。

「折角、この島に纏わる不思議な話を調べたのに」

「この島に纏わる不思議な話?」

 椿が、最初に食いついた。彼女にとっては、一般的な不思議な話は日常的な光景に過ぎない。そんな彼女でも、この島に纏わる話は全く知らなかった。

「この島にそんな話があるのか」

「夏樹も知らない」

「どんな話なんですか?」

 沙夜が興味深そうに尋ねるのを見て、由紀子はようやっと機嫌を良くした。

「江戸時代の末期の話らしいんだけど、櫻町には子供の神隠しが多発していたらしくて……」

 由紀子の語る話は、江戸時代末期の神隠しの話。忽然と消える子供。羽を翻す音を聞いた者もいるため、天狗の仕業ではないか? と言われていた。そうやって消えてしまった子供たちは、ある日、これまた突然櫻海岸で見つかった。子供たちは、『天女が助けてくれた』と語っていたが、結局何があって、どうやって助かったのかは分からず仕舞いだった。そういう話であった。

 由紀子の話を聞いて、椿は水及の事が脳裏を過った。天女は、水及の事ではないだろうか――そう思ったからである。

 由紀子がそんな話をした後、神華がいまいち怖いのか分からない話をしたり、椿が経験を交えた本当にあった怖い話をしたり、そうやって時間は過ぎていった。

 十一時を少し回った頃。聡も自分の部屋へと帰り、それぞれ就寝の準備を整え始めた。そんな頃合い、椿は外に出て電話をしていた。相手は水及である。

「では、水及様。そのようにお願いいたします」

『分かった。時間になったら、また電話をしてくれ』

 明日のことについての相談事である。

「あっ、水及様」

 椿は、由紀子の話を思い出す。

『ん? どうした』

「一つ、聞きたいことがあるのですが」

『椿が私に尋ね事とは、珍しい。何を聞きたいのだ?』

「先程由紀子さんから聞いたのですが……」

 水及に由紀子から聞いた話を、要約して伝えた。

『そうか。まだその話が語り継がれていたとはな。驚いた』

「では、やはり天女とは水及様の事なのですか?」

『あぁ……そうだ』

 水及は、どこか歯切れの悪い返事をした。

『あの頃、この島にはイギリスから逃げてきたある魔法使いが住んでいた。その魔法使いは、『神を創る』ことを目的にしていてな、その生贄として子供を集めていた』

「神を……創る……子供を生贄にして……酷い話です」

『私が介入した時には、もう十人ほど生贄にされていた。私は、その魔法使いを追いかけてきた別の魔法使いと共に、その魔法使いを制作途中の神モドキと共に葬って、残った子供たちを開放した。それが事の顛末だ』

「申し訳ありません」

『謝る事はない。遠い昔の話だ。それに、懐かしい事を思い出した』

「懐かしい……ことですか?」

『いつか、勝彦から聞くといい。では、明日、手筈通りに頼むぞ』

「はい。分かりました」

 水及との通話を終えた後、椿は小首を傾げる。どうしてそこで祖父の名前が出てきたのか、それが分からなかったからである。


 水及は、椿との電話を終え、携帯電話をポケットへと押し込んだ。

「……さすがにあの騒動が、私があのイギリス人を滝壺に突き落としたことを恨んで起こしたものだとは……言えんよな」

「水及様、お話は終わりましたか?」

「ぬなぁ! お、終わったぞ!」

 庭で電話をかけていた水及に、様子を窺いに来た勝彦が声をかけた。水及は、びっくりして不思議な声を上げた。勝彦は、不思議そうに首を傾げる。

「驚かせましたか?」

「いやいや、驚いていない。ちょっと昔の事を思い出していただけだ」

「昔の事……ですか?」

「あぁ、この島で私は、神という名前の化け物を造っていた阿呆を滅ぼした。その時、共に戦った男は私を娶った。私の産んだ子供を連れて男はイギリスへと帰り、その子供は『パラディン』の総騎士長となった」

「その話……まさか、ラウレ家の話ですか?」

「そうだ。久しぶりに思い出した」

「どうしてイギリスに水及様の血を継ぐ者が居るのか不思議だったのですが、ようやっと腑に落ちました」

「国際結婚もこなした私は、まさに時代の最先端である」

 勝ち誇った顔で水及は語る。

「それはそうと、真理とは連絡を取っているのか?」

 途端に勝彦の顔が曇る。

「いいえ……今更、どんな言葉を投げかけたら良いのか」

「まったく仕様がない子だな」

 水及は、深々と嘆息を吐いた。

「お互い生きている内にやるべきことはやっておかなければ、また後悔することになるぞ。こんな事を言いたくはないが、一哉の死に際に間に合わなかった事、忘れたわけではあるまい?」

 一哉――勝彦の息子の名前であり、椿の父親である。

「……はい」

「何度も言っているが、私はお前の味方だ。だから、失敗を恐れる必要はない」

 水及の笑顔は、勝彦に力を与えた。

「真理を探してみます」

「多分、パラディンに所属しているはずだ。私からも声をかけておくよ」

「助かります」

 勝彦は、頭を下げた。


 真理――橘真理。勝彦に残されたたった一人の娘。『橘家の呪い』を回避するため、妖と同化した彼女は、すでに七十歳を超えているが、半分妖のため、姿見は妖と同化した十五歳で止まっている。

 日本から遠く離れたイギリスの地。彼女は、マリエルと名乗って、ある屋敷に居候していた。

「マリエル様! また、またですか! もう堪忍なりません!」

 巨大な槍を抱えて走るメイドに追いかけられて、真理は庭を駆けていた。

「ちょっと借りただけだよ! あとでちゃんと弁償するから、許してよ~」

「弁償ですって?! 仕事もせずに、毎日ゴロゴロしている身分でよくもまぁ! 当主様が許しても、私は絶対に許しません!」

 ――真理は、それなりに元気であった。


 次の日、聡たちは海洋体験施設へと赴いていた。

「聡さんの事は、ユッキーに任せたからー」

 しかし夏樹はそう言って、琴菜、神華、沙夜を伴って管理棟に買い物に向かってしまった。そのため、聡と由紀子が共に釣堀で魚を釣る事となった。

「魚釣りか」

 釣竿を民宿の人から借りて、エサは管理棟で購入。入場料を払って、指定された釣堀に赴き、区切られた海水を見下ろしながら、聡はぽつりと呟く。

 櫻町は、海に面しているが、聡は一度も釣りに出かけたことがなかった。記憶を失う前の事は分からないが、記憶を失って以降は、初めての釣りである。

「由紀子は、釣りをした事があるのか?」

「ないです」

 由紀子は、即答。すでに暑さで参っている顔をしていた。

「俺に無理に付き合う事はないぞ」

「大丈夫。ありがとうございます」

 由紀子は、強情だった。聡は苦笑しつつ、釣りを始めた。

 結局由紀子は、エサに触れる事も出来ず、エサを付けてあげても釣れた魚を触れないという状態で、すぐにただの観客と化した。それでも、話し相手がいるだけで聡も随分と楽であった。

「今日は、本当に釣り日和ですわね」

 突然、そう声をかけられた。聡は、もうすっかり慣れた様子で、いつの間にか隣に立って釣りをしていた姉御へと視線を移した。

「どこにでも現れるなぁ、本当」

「うわっ! 誰?!」

 聡と違って、由紀子は目を丸くして驚いていた。

 姉御は片手で竿を持ち、次から次へと魚を釣り上げている。まるで、荷卸しをするクレーンのようである。それは、とても現実味のない光景であった。

「初めまして、小泉由紀子さん。私は、マドモアゼルTと名乗っております。本名は、職業柄明かせませんの。ごめんなさいね」

「あっ……はい。あれ? どうして私の名を?」

 その問いに、姉御は答えなかった。

「マドモアゼルT? なんだ、謎の組織の構成員とか、そういう奴なのか?」

「ん~、主に人助けをしている、と思って頂いて結構ですわ」

「それで俺の戸籍や運転免許証などを整えてくれたのか?」

「それは、アフターサービスの一環ですわ」

「アフターサービス? ん?」

 全く話が分からず首を傾げる聡。

「これで私のもう一つの目的も達成できましたわ。はい、聡さん、た~んとお食べ」

 クーラーボックスを押し付けられる。蓋を開けてみると、氷に浸された様々な種類の魚が入っていた。

「いつのまにこんなに釣ったんだ?」

 と質問した時には、もう姉御の姿はそこにはなかった。

「神山さん! 消えましたよ! 忍者なんですか、あの人!」

「毎回、全てにおいて意味不明だな、姉御は」

 結局、何をしに来たのか。さっぱり分からず、聡はもやっとした気持ちを抱いた。


 夜は、花火をしたりゲームをしたりして過ごし、一夜明けてお土産を購入し、昼前には大島を立った。

 虹野印刷所まで戻った後、解散となり、聡は琴菜と共にログハウスへと帰って来た。時刻は、十六時を少し回った頃。夕食は途中で弁当を買い、冷蔵庫に放り込んだため、作る必要がない。聡は、リビングのテーブルに座り、旅行の疲れに身を任せていた。

「はぁ、さすがに疲れたな」

「そうね」

 琴菜は、アトリエの窓際の椅子に座って、外を眺めている。いつもの定位置だ。

「でも、楽しかったな」

「……そうね」

 最初の『そうね』と比べると、どこか弾んだ声音に聞こえた。それを聞いて聡も、嬉しそうに微笑み、琴菜を連れて行けたことを心から喜んでいた。


 依頼をこなし、家に辿り着いた頃には、二十二時を回っていた。コンビニで弁当を買い、マンションの四階の一室へと帰宅する。自分以外は誰も住んでいないため、『ただいま』と言う必要もない。無言で靴を脱ぎ、廊下を渡り、リビングの扉を開けて、電気を付けた。

「おかえりなさい、カズ君」

 誰もいないはずのリビングのソファーに優雅に座る女性の姿があった。ぎょっとしながらも、すぐに彼は諦めた。彼女は、不法侵入の常習犯なのだ。

「何の用だ……おい、それ……」

 女性の前のテーブルには、透明のプラスチックの容器が置いてあった。中身は空になっているのが、彼の所からも見えた。そこには本来、食後に食べようと思い、昨日買っておいたおはぎが、収められていたはずであった。

「美味しかったですわ。ありがとうございます」

 全く悪びれた様子もない。

「……あぁ、憎しみの心で人が殺したい」

「ふふふっ、いつも言っているでしょ? 殺したいならどうぞ」

「だから、憎しみの心で人が殺したい」

 女性は強い。本気になればもしかしたら相打ちぐらいには持ち込めるかもしれないが、負ける可能性が半分以上というのはいくらなんでも分が悪すぎる。

「で、おはぎを食いに来ただけではないのだろう? とっとと話をして、帰れ」

「話を逸らしたのは、カズ君なのに。私は、悪くありませんわ」

「はいはい。私が悪うございました。なんで、用があるならとっとと済ませて、帰れ」

「カズ君に冷たくされると、なんだかドキドキしますわ」

「付き合ってられん」

 女性に背を向けた。

「今日は伝えたいことがあって来ましたの。橘家の長男、橘数馬君に」

「……除霊屋関連か。で、何故わざわざ橘家を強調した?」

 背を向けたまま、視線だけ女性へと向ける。

「赤鬼の発現、暴走、封印」

「赤鬼だと?!」

 勢いよく振り返った。

「現在赤鬼は、小泉由紀子、本名尼崎雪子が罹患していて、それが暴走しました。氷女沙夜という特殊な霊媒能力を持つ少女の力で、暴走は止まり、水及の手によって再調整がなされたようです。今は、見た所ただの女の子でしたわ」

「状況がまるで分らん。赤鬼は、尼崎茜が死んだことによって、消滅したはずではないのか? 何故、末っ子の雪子が罹患している?」

「そこら辺はさすがに私でも分かりませんわ。どうやら橘家や小泉家は古い組織みたいね。ネットに繋がる環境下で知り得た情報は、今話した程度の事だけでしたわ。それに、興味もありません。知りたいのであれば、後はご自分で調べましょう」

「……情報感謝する」

 かつて、赤鬼に罹患した妹を助けるのだ――と語る少女が居た。名は、尼崎音子(なりね)。茜の姉である。しかし彼女は、志半ばで他人を庇って死んだ。その他人が、彼――橘数馬であった。

 尼崎音子が守ろうとした茜は死に、その妹の雪子は水及に保護されたと聞いた。だから、もう赤鬼に関わる事は終わってしまった――と思っていた。

 状況は分からないが、赤鬼に関わる事が終わっていないとしたら、自分を守るために志半ばで倒れた音子に報いるためにも、放っておくわけにはいかない。

素鳴男(すさのお)。悪い、少しだけ寄り道をさせて欲しい」

 己の中に住まう神に許しを請う。

『俺も協力してやるよ』

 素鳴男は、力強い声で承諾した。



 END



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