トラウマスイッチ
晃が橘家の手に落ちたと聞いた久遠は、研究室にいる瑠璃葉の下を訪れていた。
「どういうことなんですか?!」
最初から、食いかかる――いや、食い殺す勢いの久遠に、瑠璃葉もタジタジ。両手で迫ってくる久遠を押し返す。
「いや、その、どういうこととか、私も分かんないし。ただ、晃が橘家に捕まってしまったというのだけは、確定情報みたいで、他は分かんないよ」
「そんな、鬼神皇様も居たのに! 二人が揃っていて、作戦に失敗するとか、ありえない!」
「再放流しただけの話だと思いますわ」
急に割り込んできた声。部屋の入り口に、ルベリアの姿があった。久遠はそんな彼女を怪訝そうな顔で迎える。
「再放流?」
「作戦が失敗。失敗? 鬼神皇様なら、相手が例え橘家であったとしても、後れを取る事なんて考えられない。なら、晃が橘家に保護されたことによって、作戦は成功した、という事なのかもしれない」
「わざと、晃を敵に捕まえさせた、と?」
「捕まえる? 捕まえるね」
「さっきから、なにその言い回し! 馬鹿にしているの?!」
久遠の怒りが彼女の霊力を高ぶらせる。霊力は放電現象と似たような光を伴い、彼女の長い髪を舞い上がらせる。一方ルベリアは、表情を全く変えることなく淡々としていた。
「ルベリア、何か知っているなら早く教えて。ここで暴れられると、貴重なデータがダメになってしまう」
「鬼神会において、私と久遠だけは特別よ。特別というよりかは、区分けが違うというべきかしら」
「その区分けというのは、前人類と現人類の区分け?」
「晃は、あなたとは違う。晃は特別な被験体だけど、被験体なのよ。他の子供達と同じ」
「そんなことは……知っている」
久遠は、少しだけ悲しそうにしながらそう返した。
「ならば、彼には帰るべき場所がある。本来、彼がいるべき場所。鬼神会に歪められなければ、普通の子供として両親と共に暮らしていた場所。それが、櫻町。今回の作戦が行われた場所よ。そして、橘家には晃の妹がいる。本当の血を分けた、世界でたった一人だけの肉親。だから、『捕まる』は不正解。『保護された』が正解。さらに言えば、『保護させた』が大正解」
「晃を……返した……ってこと?」
「それも作戦の一環。これも話しておいていいと言われたから、話してあげる。晃はね、人でありながら神を殺せる存在として調整され続けてきた。鬼神会での調整はすでに終わっているの。後は、人が人であるが故の強さ、というのを手に入れなければならない。それがなんなのかは、私には到底考えが及ばないけど、鬼神皇様はそういうものがあると信じ、彼を橘家に託した。つまり、鬼神会という水槽から回収して、橘家という水槽に再放流した、という話なのよ」
困惑する久遠。晃にはずっと傍にいて欲しい。しかし、晃は久遠と違って帰る場所がある。頭でそれは分かっていても、心が納得できない。心が――受け付けない。
「久遠は、折角再会した兄と妹の間を、再び引き裂くつもり? 鬼神皇様の思惑はどうであれ、これで良かったのよ」
ルベリアの駄目だし。久遠は耐えられなくなって、ルベリアを押しのけて部屋から出て行った。その後ろ姿を見つめるルベリアの瞳は、寂しげな色に揺れていた。
「ねぇ、瑠璃葉さん。人であるが故の強さって、どういうものかしら? 前文明人であり、ただの戦闘兵器に過ぎない私にも、分かる事なのかしら?」
「……それは、ただのクローンに過ぎない私への嫌味?」
瑠璃葉は、ルベリアに背を向けて、コンソールを叩きだした。ルベリアは、伝わらなかった思いを苦笑という形で表情に浮かべていた。
8月14日 朝
「いいから寝なさい」
小泉由紀子の赤鬼暴走の後、当主勝彦からそう言われて、とりあえず横にはなったものの、一睡もできないまま朝を迎えた。鳥の囀りと、差し込んでくるまだ柔らかさのある陽光。櫻は廊下に出て、雲一つない青い空を見上げていた。
十年前まで、櫻は一般人だった。両親と兄と一緒に、他の子と変わらない生活をしていた。兄が小学生に上がったことで、バタバタとしていた事もあったが、それはきっと幸せな日々であった。
終わりは突然に。一夜で全てを失った。兄である藤堂晃が、両親を殺害して、彼女の額にも消えない傷を負わせた。医者曰く、『頭蓋骨で滑って、脳に至らなかった』との事。運が悪ければ、櫻もあの場所で死んでいた。かといって、生き残ったことが良かった事なのか。櫻は、今でもその答えから逃げている。
全てを失った櫻は、橘家の養女となった。親戚の家――父親の兄から引き取る話が出ていたが、事の重大さを認知して、橘家に託したとのこと。櫻は、その辺りの事情には興味がなかったため、詳しくは知らない。
年端もいかない櫻には、とてもではないが、事実を受け止めることなんて出来なかった。しばらくは、橘家に捨てられないようにと、コバンザメのように寄生して生きて来た。何年も経過し、小学生になり、家庭参観や運動会などの家族が参加する行事が経過する度に、心が軋んだ。何故、自分には両親がいないのか。そして、思い出す。それは奪われてしまったのだ――と。誰に? 他の誰でもない、実の兄――だ。その事実を受け止めた時に、櫻は明確な目標を得た。
両親の仇である、兄を殺す。
それは、櫻の唯一のアイデンティティとなった。そして、今に至っている。
櫻の心の中は、虚ろだった。兄を殺すという目標を得て、我武者羅に強さを求め、さらに周りを利用してきた。遂にそれを果たす機会が巡って来たというのに、結局はその機会を叩き潰されてしまう。水及が、保護するよう命令したからだ。
水及は、現在寄生しているこの橘家の後継人と言う立場。まさに暴君。彼女の悪事は、数え知れず。まつろわぬ神の代表――などと呼ばれているほどの、一種のタタリ神である。その実力は、周りが恐れているだけの事はあり、櫻が師として仰ぐ勝彦を圧倒する。とてもではないが、勝てる相手ではない。その水及に保護された兄。現在は、橘家の地下牢に入れられている。近くにいるのに、とてもではないが手を出す事が出来ない。
目標達成は不可能――それが、今の所の揺るぎのない現実だった。その現実は、あっさりと受け入れられた。その理由は分からない。今は、そんな事を悩む気にもならない。ひたすらに諦観。茫然自失。何をしたらいいのか分からない。
部屋に戻った櫻は、やるべき事を得る事となった。小泉由紀子の赤鬼暴走には、突然巻き込まれた。そのため、まともな武器を持っていなかったが、途中で刀を借りる事が出来た。小泉家の実働部隊の副長である美希から借りた刀。とりあえず、それは絶対に返さないといけないもの。
虚ろな心は、目標を得て一時的な充足を得る。
着替えを済ませて、刀を抱えて外へ出た。入り口である鳥居を潜ろうとした時、そこから続く石段に、一人の男が立っていた。黒い髪を長く伸ばしているため、少し顔が隠れている。やや陰気な印象だ。その男の事を、櫻は知っていた。
「どこに行かれるのですか?」
八咫烏。書類上の姉になる、橘椿が保有する三体の式の内の一体。椿が、もっとも信頼しているのが、この八咫烏。つまり――。
「椿姉様も、過保護ですね」
姉が放った、監視者である。
「過保護ではありません。主は、あなたの事を心配している。それは家族として、姉として、当然の行動です」
「私と椿姉様は、書類上の家族です」
「……それが、心からの言葉であるのであれば、主が不憫です」
ちくりと胸が痛んだ。だが、櫻はそれを気にしない事にした。知っているからだ。その感情は、認知してはいけない感情である――ということを。
「刀を返しに行くんです。借りたものは、返さないといけません」
「左様ですか。くれぐれも無茶はなさらないよう、私からもお願い申し上げます」
「……あなたは式なのに、それほどまでに椿姉様の事を大切に思っているのですね」
「当然でございます。私は、二度も忠誠を誓った主を失いたくはありませんから」
そう言って、黒い羽根を残して八咫烏は飛んで行ってしまった。普段は無口で、これほど長いこと話をするのは、櫻も初めてであった。冷たい存在なのかと思っていた事もあったが、いつでも椿の死角を補うように立っていたのを見た時、彼にとって椿はとても大切な存在なのだ――とは、気付いていた。しかし、その大切の度合いが、櫻が考えているよりも、もっと深い気がした。彼が言っていた、『二度も』というのは、どういう意味なのだろうか。八咫烏が飛んで行った先をぼんやりと眺めつつ、櫻はそんな事を想った。
刀は、布で包んで運んでいく。年齢的な補正もあって、剣道か弓道か、その辺りの部活をしている子にしか見えない。中身が真剣であると知ったら、朝のトップニュース間違いなしである。
徒歩で櫻駅まで。そこから電車を乗り継ぎつつ、小泉家のある泉町へとやってくる。田舎町である櫻町と比べると、随分と開けた印象がある。駅前の商店街は、明らかに櫻町よりも大きい。仕事で何度も小泉家には赴いているので、道は分かっている。商店街を抜けた先でバスに乗るため、停留所へ。そこでバスの時間を確認するため、携帯電話で時間を見た際、櫻はある事に気付いた。
「……七時五分」
何も考えなしに飛び出したものの、時間を全く確認していなかった。櫻駅では都合よく電車が止まっていたため、それに乗り込んできた。そのため時間は確認しなかった。
「どうしよう……」
こんな朝早くに訪れたら迷惑も甚だしい。仕方なく、少し時間を潰す事にした。
ファーストフード店で、二時間消費する。一人であることもあって、恐ろしく退屈で苦痛な時間であった。
九時を回った頃、櫻は店を出た。まだ早い気もしたが、これ以上ファーストフード店で粘るのは、身体的にも精神的にも無理だった。
バスに乗って、泉神社前で降りる。除霊屋の大半は、神社としての表向きの顔を持っている。橘家も、一応は橘神社としての顔がある。ただ、参拝者は橘神社を避け、町の中央付近にある櫻神社を利用している。橘神社にいい噂がないからだ。そんな橘神社と違って、小泉家の表の顔である泉神社は、全国に名の知れた神社である。小泉家の本家は、その泉神社の裏。神社とほぼ同じぐらいの敷地面積を持つ、巨大な日本家屋の集合体。それが、九州最大規模を誇る小泉家の本家である。
表門に近づくと、大きな表門の扉が丁度開こうとしていた。誰かいるなら都合がいいと近づくと――。
「ん? 櫻さん」
そこに停まっていた車の後部座席から、声がかかった。パッと見は、男性か女性か分からない、中性的な顔の持ち主。髪を長く伸ばしている事もあって、なおさら分かりにくいが、その人は男性である。名は、小泉章吾。小泉家の当主透子の息子にして、次期当主候補の一人だ。
櫻は、深々と頭を下げた。
「おはようございます」
「おはようございます。橘家から、何か伝言?」
「いえ、個人的な理由で。あの、美希副長から刀を借りたもので」
「あぁ、そうなんだ。恒一、美希さんに橘櫻さんが来ていると伝えてもらっていいかな」
窓から身を乗り出して、車の後方で待機していた少年に声をかけた。少年は頭を垂れ、すぐに本家の方へと走っていく。
「今から橘家に行かなくちゃならなくて。いつものように、応接室の三号室を使っていいから」
「あ、はい。ありがとうございます」
そう答える櫻に、章吾は優しく微笑む。
「昨日はお疲れ様でした。色々と思う事はあるだろうけど、自分の心だけは偽ってはいけないよ。きっと後悔するから」
章吾は、櫻の事情を知っている。そのため、気を遣ってそういう言葉を口にした。櫻はどう答えていいものかと迷う。その内に、章吾は櫻の返事を待たず車の窓を閉めてしまった。車が発進する事に気づき、櫻は距離を取る。そして、出て行く車を見送った。
章吾の言葉に、返す言葉を見つける事は出来るのだろうか。今は、章吾の言葉の意味がよく分からなかった。
小泉家の本家には、度々足を運んでいるため、勝って知ったる他人の家である。応接室も橘家専用があり、それが章吾が口にしていた三号室。擦れ違う人に挨拶をしつつ、応接室へと足を運ぶ。
時間にして、二十分程度。出された茶菓子とお茶に手を付けず、ぼんやりと待っていると、ドアをノックする音が聞こえた。返事をすると、髪はボサボサで、息を切らせた小泉美希が姿を現した。衣服も、相当ヨレヨレだ。その状態から、櫻は察した。
「あ、すいません。起こしてしまったみたいで」
「構いません。へっちゃらです」
美希は、にへらっとだらしなく笑って、立ち上がった櫻に座るように促した。
「あの、美希副長、今回は刀を貸して頂き、本当にありがとうございました」
「大切に使ってくれたみたいね」
美希は刀を受け取り、少しばかり抜く。抜かれた刃の部分に、美希の疲れた顔が映った。
「話は聞いたわ。お兄さん、保護されたみたいね」
キィンという、涼やかな音色を残して刀は収められた。
顔を下げている櫻。それを見つめる美希。
「櫻さん。あなたにとって、お兄さんは確かに両親を殺した仇かもしれない。それは、曲げようのない厳然たる事実ね。だけど、それが結果に過ぎないのも、事実なのよ。どうして、お兄さんが両親を殺さなければならなかったのか。何故、鬼神皇と共に行動をしていたのか。私たちには、そういう情報が開示されないから分からないのだけど、櫻さんには知る事が出来ます。事件の当事者であるのもそうですが、今、橘家には水及様がいます。あのお方は、基本的には勝彦様にしか情報を降ろしませんから」
美希は、優しく微笑む。
「それに、相談するべき相手は他にもいるではありませんか。椿は、あなたの事を本当に大切に思っている。ただ、不器用で馬鹿ですから、本人もどうしたらいいのか分かっていないようですけど。言葉にしてみなければ、分からない事も伝わらない事も、たくさんあります。櫻さん、あなたは一人ではないのだから、分からない事を一人で考え続けなくてもいいのですよ」
「私に……そんな資格は……」
「資格? 家族の間にそんなものは必要ないと思いますよ。例え血が繋がっていなくても、少なくとも椿は、櫻さんの事を大切な家族だと思っているはずです。そこが不安なら、私にそれを言うのではなく、本人に言えば言い事。もし、仲違いをして橘家に居られなくなるかも、なんてことを気にしているのであれば、私の妹になればいいのです」
「えっ?」
戸惑う櫻に、美希はようやく顔を上げてくれたと嬉しそうに笑う。
「私の妹は、今反抗期真っ盛り。可愛げが全くなくて、手を焼いているの。櫻さんみたいな優しい子が、私の妹になってくれたなら、これほど幸せな事はありませんわ。そしたら椿に自慢して、椿の悔しがる顔でご飯がおいしく食べられるというものです」
「それは、血の雨が降りそうですね」
椿と美希は、まさに犬猿の中。どちらかが一方的に突っかかっている――とかではなく、お互いに反発し合っているから、なおさら激しい。その事を、櫻もよく知っていた。
「なんだか、腑に落ちた気がしました。とりあえず帰って、当主にでも相談します。椿姉様は、多分今は由紀子さんの事で一杯一杯でしょうから。後、水及様はさすがに怖いです。出来れば、近寄りたくないです」
苦笑する櫻の顔は、ここに来た時と比べると幾分か影が薄らいでいた。迷いの霧の中から、道を見出せたのかもしれない。美希は、そんな櫻の姿を見て、ほっとしていた。
「水及様は、私達と違う次元の生き物みたいな感じがしますものね。櫻さん、落ち着いたらまた遊びにいらっしゃい。あなたと稽古がしたいわ、久しぶりに」
「はい、必ず」
櫻は、深々と頭を下げて部屋を出て行った。美希はそんな櫻を、晴れやかな顔で見送った。
櫻は、橘家の石段の前まで帰って来た。時刻は十二時を回っている。小泉家を出る時には、とりあえず当主と話をしよう――と息を巻いていたが、徐々に気持ちが萎んでしまい、今は出店で買った水風船が、一日経過したような姿になってしまっていた。
大きな溜め息を吐き、石段を登る。足がいつもより重たく感じるのは、ただ歩き疲れただけなのか、それとも精神的なものなのか。
「あら、櫻ちゃんじゃないか」
石段の上から、声がかかった。ほっそりとした中年の男。柔らかい笑みを浮かべている。櫻は、頭を垂れた。その中年の男は、良く知った男だったからだ。
神代奨。櫻の父親の兄。つまり、伯父さんになる。
「ご無沙汰しております」
「ごめんね、なかなか顔を見に来られなくて」
「あっ、いえ」
「晃君が保護されたと聞いて、慌てて来たんだけど、『今は会わせられない』って断られたよ。櫻ちゃんもいないし、どうしたものかと思っていたけど、良かった、ここで会えて。仕事を投げだして来たから、手ぶらで帰ると部下に怒られる」
『怒られる』と口にしているが、まるで緊張感がない。半ば冗談なのか、そういう性格なのか。櫻にも、この伯父の事はよく分からない。
「櫻ちゃん、晴れない顔をしているね」
櫻は、視線を逸らし無言で答える。
「そんなに辛いなら、僕の所に来るかい?」
「えっ?」
思わぬ提案に櫻は困惑し、奨の方へと視線を戻した。相変わらず、奨は朗らかに笑っている。
「元々、僕は櫻ちゃんを引き取るつもりでいた。けど、水及様の圧力で叶わなかった。櫻ちゃんが、晃君との距離を取りたいと考えているなら、ウチに来るといいよ。あの時と違って、今の君は決断する事が出来る。君が決断した事であれば、水及様も強くは言わない……かもしれないしね」
それも一つの決断。十年前、橘家の養女になった櫻。奨はそんな櫻を気遣って、大分から度々櫻の顔を見に来てくれていた。櫻にも十分伝わっている。奨の人柄の良さは。それに、奨の一族神代家もまた、除霊屋である。櫻の居場所は、神代家でも十分見出せる余地があった。
「決心がついたら、いつでも連絡をしてくるといいよ。世界で唯一、僕には遠慮なんてしなくていいから」
奨は、櫻の頭をポンポンと叩いてから、櫻の横を通って石段を降りて行った。
不機嫌そうに坐している水及。彼女が不機嫌そうにしているのは、寝ているのを邪魔されただけではない。目の前に座っている男が、水及にとって厄介事そのものだからであった。
短髪の色は、漆黒。瞳は金色。スーツ姿のその男の顔立ちは、日本人のそれではない。溜息が零れるほどに整った顔立ち。一見すると、女性にも見える。彼の名は、天鳳。日本神族会の首領である天照のたった一人だけの直属親衛隊。水及にとって、日本神族会そのものが鬱陶しい相手。日本神族会は、除霊屋の上部機関として存在しているが、橘家だけは日本神族会ではなく、水及の下部組織として運営されている。昔、色々な条件を付けて、橘家だけ水及が独立させた過去があるからだ。
水及と日本神族会。その間にある隔たりは、とても一言では言い表せられない。普通なら、日本神族会に所属する神々は水及の前には座る事が出来ない。水及が普段から拒否しているからだ。しかし、天鳳は別格。日本神族会の中でも特別扱い、つまり『水及係り』となっているのが、この天鳳だから――というのは、一部分に過ぎない。
水及と天鳳。この二人(便宜上、『人』と表現)もまた、一言では言い表す事が出来ないほど、複雑な関係であった。
「水及、今巷で大人気の洋菓子店で買った、限定のケーキを持ってきたよ。欲しいだろう? 水及、こういうの大好きだもんな。これをやるから、洗いざらいすべて話せ」
「む……む……分かった。とりあえず、ケーキを渡せ」
「その手には乗るか。どうせもらった後、『お前の話は分かったが、話してやるとは言っていない』とか言うつもりだろう。まずは、話してもらおうか」
「そうか、ならば力づくで奪うのみ!」
「待て! なんで、ケーキが主題になっているんだよ! 違うだろう、とりあえず落ち着け! 全く、ケーキはやるから、大人しく話をしてくれよ」
「ケーキはもらう。だが、断る」
水及は腕を組み、平らな胸を張ってそう主張した。天鳳は頭を抱えつつ、ケーキの入った箱を水及の座卓に置いた。
「相変わらず勝手な奴だな」
「勝手なのはどっちもどっちだろう。どうせ、韋駄天を経由して、粗方知っている上で、わざわざ私の眠りを妨げ、あまつさえケーキを盾にとって話をさせようという魂胆が、最低だ」
「彼からの報告は、起こった事象だけだ。君の豊富な知識をベースにした、君の見解を聞きたいと言っているのだよ」
「日本神族会の狗になったお前に、話す事なんてないな。まぁ、日本神族会に所属していなかったとしても、話してやらんがな」
「なんだそれは。滅茶苦茶じゃないか」
天鳳は、苦笑した。
「君の見解を聞けたら、ある程度融通して日本神族会に情報を流すつもりだ、と言っても話してくれないのか? 君の立場はよく分かっている。そして、今回の事件の特異性も十分把握している。ありのまま報告すれば、また日本神族会の心象が悪くなるだけだぞ。なんのために私を経由して、個人的に日本神族会の仕事を行い、心象を良くしようとしていたのか。全部、無駄になるんだぞ?」
「あれは、日本神族会の心象を良くするためにしているわけじゃない。まぁ、その話はどうでもいい。私のためだと思って、色々と言ってくれているのは分かる。しかし、私の見解も今は話せるレベルではないし、他にも色々と思う事があるんだ。その断片を、日本神族会に伝える気はない。ありのまま、韋駄天が報告したことを伝えろ」
天鳳は諦めて大きな溜め息を吐いた。
「仕方がない。韋駄天からの報告を、君から聞いた話として報告することにするよ」
「……馬鹿か? 韋駄天の上司である猿田彦がいる限り、それは通じないだろう」
「猿田彦は、どちらかと言うと八咫烏寄りの考え方だよ。頭がおかしいのは、韋駄天だけだ」
水及は、それを聞いて大爆笑。
「天鳳の口から、そんな話が聞けるとはな。日本神族会も、相変わらず一枚岩ではないようだな」
「今は、三枚ぐらい岩がありそうだけどね。それに、先程『日本神族会の狗』なんて言ってくれたけど、私は最初からそして今も、天照を助けるためだけに動いている。そこの所だけは、心外だと言わせてもらうね」
「相変わらず、一途な事だな」
「こちらにも色々と思う事があるのさ」
天鳳は立ち上がり、水及に『また来るよ』と残して部屋を出て行った。水及はそれを見送った後、座卓に突っ伏した。
「話してやりたいのは山々だ。しかし、日本神族会は私にとっては敵なのだよ」
水及は、ぼそりとそう呟いた。
気付いたら夕方になっていた。ベッドで横になっていた櫻は体を起こし、時計を確認する。もうすぐ十八時だ。
橘家に戻ってきた後、一端は勝彦の部屋の前まで来たが、勝彦は不在だった。あんなことがあった後だ、色々と事後処理に追われているのだろう。部屋に戻った櫻は、昼食もとらず、ベッドの上でゴロゴロとしていた。そうしている内に眠ってしまい、今に至っている。結局、何も変わっていない現状。妙な時間に、長時間眠ってしまったため、頭痛と倦怠感がある。櫻は頭を抱えつつ、今すべきことを思い出した。
「夕御飯、作らないと……」
それは、今日一日ほぼ放棄していた家事だった。
居間に行くと、椿がテレビを見ていた。椿は、櫻に気付くと優しい笑みを浮かべた。
「なんだか眠たそうね。寝ていたの?」
「はい。ごめんなさい、今からご飯作りますから」
「あっ、今日はいいから。弁当、頼んでいるから、七時前には届くと思うよ」
「すいません……」
「どうして、櫻が謝るの? 元々、今日はそういう予定だっただけよ」
椿の言葉の後、櫻は言葉を返さなかった。そのため、テレビの音だけが居間に残った。テレビに視線を向けている椿。部屋の壁を見ている櫻。テレビでは、『櫻町で不発弾の爆発か?!』というニュースが流れていた。
少しして、櫻がテーブルに近づいて座った。それから椿を窺うように顔を少し下げ気味にしながら見た。
「あの……由紀子さんは、どうなりましたか?」
「水及様の施術が成功したから、もう元通りよ。昨日のことも、記憶を少し改ざんしてくれたみたいだから、何も覚えていない」
そこでようやく椿が、櫻へ視線を戻した。どことなく、気まずい表情をしている。
「今日、沙夜さんに会ったのだけど、あなたの事、心配していましたよ?」
「……そう、ですか」
氷女沙夜は、小泉由紀子の『赤鬼暴走』を鎮めた立役者だ。そして、櫻のクラスメートであり、数少ない友人でもある。
「椿姉様……」
囁くような櫻の声。
「私……神代家に行こうと思います」
それを聞いた椿の表情が一変する。
「それはダメよ!」
勢い良く立ち上がった椿の気迫に、櫻は目を丸くして驚いた。椿を見上げるため、体を少し後ろに倒す櫻。椿が、明確な怒りを持って櫻の前に立つのは、これが初めての事であった。
「ごめんなさい」
座り直す椿。長い髪を扱う。それはきっと、困惑している彼女の気持ちを代弁している。
「でも、櫻、それはダメよ。あなたが、自分で考え決断したのであれば、私にはその決定に異を唱える権利なんてものはない。けど、今のは違うでしょ? 本当にそれが、櫻が出した答えなの?」
涙を浮かべ、訴える椿。櫻は、視線を逸らす。椿の言葉の方が、正しかったからだ。
そんな事を言いたかったわけじゃない。しかし、気持ちがどうしても逃げてしまう。
「……分からないんです」
櫻は、そう答えた。彼女の瞳からも涙が零れる。
分からない。分からない。何も分からない。
櫻は、きつく目を閉じた。そんな櫻を、椿は優しく抱きしめた。椿の暖かさに、櫻ははっとさせられる。
「分からないなら、一人で悩む事なんてありません。私なんかで、力を貸せるかどうか分かりませんが、一緒に悩む事は出来ます」
椿は、ぎゅっと櫻の頭を抱きしめた。強く、とても強く。その両腕は、微かに震えていた。力を込めているためか、感極まっているためなのか。
「ごめんなさい。今更、そんな事を言った所で、何を言っていると思いますよね。私にも分かりませんでした。櫻とどう接したらいいのか。ずっと分からなくて、もっとお話をしたいのに、もっと一緒に居たいのに。分からなくて、距離を置いていた。本当は、櫻の事を大好きなのに。こんな馬鹿で、頼りのない姉なんかに、相談なんて出来なかったことは、分かります。今、こうしている事も正しいのか私には分からない。それでも、分かっている事は一つだけあります。私は、櫻と一緒に悩みたい」
髪を濡らすその暖かさは、椿の涙。椿の思いの欠片。櫻は、椿の服の裾にゆっくりと手を伸ばし、親指と人差し指、二本で摘まむ。摘まんで、ぐっと力を入れた。
「椿姉様」
名前を呼ぶ。
「私は、兄を殺すために、お爺様や椿姉様を利用してきました。生きていくため。力を得るため。私は、利用してきた。でも、本当は……」
家族でありたいと願っていた――そんな自分の気持ちをずっと戒めてきた。何故? それはたった一言で説明できる。
『喪失への恐怖』
両親を失った。兄を失った。大切なものが、次々に零れていく。零れていく度に、心が軋み、心を繋ぐ大切なものまで零れていった。これ以上零れてしまえば、心が形を保てない。ならば、得なければいい。得なければ、失う事はない。自分を守るために、自分が本当は願って止まないものを、手放そうと努力してきたのだ。
「本当は……!」
「私は、ずっと傍に居ますよ。どこにも行きませんよ。だから、櫻もどこにも行かないで。私を、一人にしないで」
椿の願望と懇願。その言葉を聞いた時、櫻ははっとした。気付いた。椿もまた、櫻と同じ悩みを抱えていたのだ――と。
椿には、母親しかない。父と兄を失っている。彼女もまた、『喪失への恐怖』を抱えていたのだ。
「ここにいてもいいの?」
震えた声音で尋ねる。それは、いつものように大人びた礼儀正しい言葉ではなく、まるで母親に乞うような、甘えた子供のような声だった。
椿は櫻を離し、真正面から向かい合う。そして、櫻が今まで見たことがない程、穏やかな笑みを椿は浮かべ、静かに頷いた。
それから三十分程して、勝彦が帰って来た。椿が迎えに出て、櫻はお茶を淹れる。椿は勝彦から弁当を受け取り、勝彦に確認しながらテーブルに並べていった。
「お爺様、テレビを先程確認しました」
弁当を並べながら、椿は上座に座る勝彦に話しかけた。
「不発弾と放送されていたか? ん、お茶ありがとう」
勝彦は、櫻が淹れたお茶を受け取る。
「はい。ネットの方は、まだ確認していませんが……」
「それは、小泉家に任せてある。さぁ、仕事の話はここまでだ。夕食にしよう」
それぞれ手を合わせ、夕食の開始となる。静かな食卓。付けられていたテレビは消されている。黙々と食事をする勝彦。櫻と椿は隣り合い、小声で話をしながら食事をする。
本来なら、少し離れた席で食事をする椿と櫻が、隣り合い食事をしている姿を見て、勝彦はほっとしていた。そして、言葉にしないながらも、この静かであるが暖かな食卓を、心穏やかに受け入れていた。
食事を終え、粗方片付けが終わった頃、勝彦が『話がある』と切り出した。勝彦に向かい合うように、椿と櫻が座った。
「今日、小泉家にも足を運んできたのだが、その時、乎沢さんに会ってな。あぁ、乎沢さんというのは、昔この家のお手伝いをしてくれていた、五十鈴の旧友だ。その乎沢さんが、明日から再び来てくれることになった」
勝彦は、櫻の方を見た。
「櫻よ、これまで色々な事を押し付けてきてすまなかった」
突然のことに、櫻は目を点にする。
「あっ、いえ。そんなことは……自分で望んだ事です」
「乎沢の方から、ここに戻ってきたいという話があったのだが、私はそれを聞いて藁にも縋るような気持ちになった。櫻は、家事に、勉強に、仕事に、修練に、日々多忙な生活を送っている。良くここまでやってくれている、と心の底から感心し、感謝をしている。そして、自分自身を不甲斐なく思っている。櫻にそんな役目を押し付けてしまっているのは、この私のせいでもある。これから櫻には、受験も迫ってくる。櫻の負担を軽くするためにはどうしたらよいのか。そう考えていた時の、思わぬ提案だった」
勝彦は、柔和な笑みを浮かべた。
「櫻よ、少し休むといい。今は、兄の事もあるからな」
「櫻、良かったわね」
「私……」
櫻は、優しく笑う椿を見て、再び勝彦を見た。勝彦は、深く頷く。
「休んで良いのだ」
「ありがとうございます」
櫻は、深々と頭を下げた。
二十二時を少し回った頃。勝彦の部屋の戸を叩く音が響いた。
「勝彦、入るぞ」
その正体は、水及。勝彦の返事を待たず、彼女は襖を滑らせ部屋に入って来た。水及が橘家に戻って来たのは、朝、家に戻って以来である。
「どうしましたか?」
勝彦は、座卓の上に広げていた各種書類から目を離し、ペンを置いて水及の方へと体を向ける。水及は、ドカリと畳に胡坐を掻いた。
「クソ天使が来た」
勝彦は苦笑い。
「そうですか」
「まぁ、追い返したがな」
「日本神族会もすぐに天鳳を送って来るなんて、彼らにとって余程のことだったのでしょうか?」
「どうせ、自分たち以外に力を持っている存在がいるのが気に食わないだけだろう。アイツらは、いつもそうだ」
「納得の理由です」
そう語る勝彦を、水及はじっと見つめた。
「……何か、良い事でもあったのか?」
「乎沢が、帰って来ることになりました」
驚く水及。
「乎沢が? 大丈夫なのか?」
「彼女から進言してきました。受け入れる事にしました」
「そうか。乎沢が帰って来るか。五十鈴には話したのか?」
水及は、穏やかな顔。
「いえ。サプライズっという奴ですよ」
「なんだそれは」
ケラケラと笑う。
「水及様」
何か含んでいる勝彦の表情と声音。水及は、すっと顔を引き締める。
「少しの間、櫻を休ませることにしました。乎沢を受け入れるのも、その一環です。ただ、私は不安です。今日、奨殿が早速足を運んで来ました。私は、間違えることなく、今回の一件を終わらせる事が出来るのか。自信がありません」
「それだけ一生懸命、向き合おうとしているという事だ」
水及は笑う。子供をあやす、母親のように。
「お前は、お前のやりたいようにやればいい。大切なのは、自分を思う事じゃない。櫻の事だけを思い、そして櫻を信じる事だ。安心しろ。私は、昔約束した通り、何があってもお前の味方だ」
「櫻を思い、櫻を信じる……ですか」
「何が間違えで、何が正しいか。そんな事を考えるのは、そもそも無駄な事だ。お前が考えている事と、櫻が思う事はまた別だ。お前が、『間違えた』と思っていても、櫻はそれを『間違い』だと思うとは限らない。だから、必要なのはそんな事ではない。分かったか?」
勝彦を指さす水及。勝彦は一度目を閉じ、そしてゆっくりと開く。
「……気が楽になりました。水及様のお言葉通り出来るかは分かりませんが、今、自分が成す事は正しく見えました」
「そうか」
そこで水及は、立ち上がった。彼女の表情には、勝ち誇ったような、いつもの笑みが張り付いている。
「今日からしばらくここに住む。部屋は、昔のままか?」
「あ、はい。そのままにしています。掃除は、櫻がしてくれているはずです。しかし、宜しいのですか?」
「さすがに、色々と思う事があるからな。明日の朝は、この私が、朝食を作ってやるよ」
「助かります」
「勝彦、程々にして休め。明日からは、私も事後処理を手伝おう」
「はい、お願いいたします」
勝彦の返事に満足し、水及は部屋を出て行った。勝彦はそれを見送った後――。
「少し、賑やかになりそうだ」
と、穏やかに呟く。彼は、昔橘家が賑わっていた頃の事を思い出していた。
8月15日の朝――。
「……普通に美味しい」
水及が用意した朝食を食べた椿が、味噌汁を一口飲んだ後、驚きの表情と共にそう言葉を残した。勝彦、椿、櫻は、それぞれ座している。水及は、しゃもじを片手に立ち、椿の言葉に気分が良いといった風な顔をしていた。
「千三百年の腕前ここに在り、という事だ」
水及は、からからと笑う。
和やかな朝。今までにない、優しい雰囲気がそこにあった。櫻の表情も、昨日と比べると随分とすっきりとしていた。
午前十時、少し前。長い石段を登り、鳥居を潜り、社を見上げる一人の女性がいた。長い髪を後頭部付近でまとめている。柔らかい表情をした品の良さそうな雰囲気。その左頬には、そんな彼女の印象とはかけ離れた、三本の裂創が走っていた。
彼女の名は、小泉乎沢。約十六年振りの橘家であった。
いつも会議を行う部屋で、勝彦、椿、櫻、それと水及に挨拶を済ませる。まだ幼子だった椿は、立派に育っており、そして新しい家族が増えていた。乎沢は、子供たちの姿を見て、より一層『頑張ろう』と思った。
挨拶をしていないのは、あと一人だけ。乎沢は、離れに赴いた。庭の奥にひっそりと建つ離れ。十六年前と変わらない姿。乎沢は玄関を通り過ぎ、離れの形に添って歩く。離れには、本家の庭と垣根で隔てられた小さな庭が存在する。その垣根の戸を開け、庭へと入る。離れの側面。襖は、完全に閉めてある。乎沢は、その庭のほぼ中央に立った。
「五十鈴様」
離れの主の名を呼ぶ。乎沢にとっては、子供の頃からの付き合い。
「五十鈴様」
もう一度呼ぶ。静かに声音が庭に響く。ガタッと襖が動いた。
「誰?」
「顔を見せてください、五十鈴様」
襖がさらに動き、僅かな隙間が出来る。その向こう側には、痩せ焦げた女性が立っていた。その女性こそ、橘五十鈴。椿の母親であり、乎沢の幼友達である。
「乎沢でございます」
乎沢は、満面の笑みを浮かべる。すると、一気に襖が開いて、五十鈴が縁側に出て来た。
「乎沢……! どうしてここに?!」
五十鈴は、慌てている。
「今日から、復職することになりました。どうぞ、よろしくお願いいたします。五十鈴様」
「あ……そうなの。傷は、大丈夫なの?」
状況を飲み込み、五十鈴は落ち着きを取り戻す。そして、寂しげな表情を浮かべる。
「はい。五十鈴様、十六年前、何も力になれなかった事、心から反省しております。もう少し、この乎沢の心が強ければ、この程度の傷でへこたれませんでしたのに。でも、もう大丈夫です。乎沢は、逃げ出しません。五十鈴様と共に在ります」
乎沢は、左頬の傷に触れながら、笑みを崩さずにそう語った。しかし、五十鈴の顔が晴れる事はなかった。
「……ありがとう。でも、私は乎沢の事を責めてなんかいないわ。逆に、申し訳なかったと思っています。私の事よりも、椿や櫻の事を気にかけてあげて。あの子たちには、母親が必要なの。そう、私みたいな出来そこないの母親ではなく、乎沢のような母親が」
自虐的な笑い。乎沢は、その場はそれ以上、何も言えなかった。この時、乎沢は初めて、十六年の重みを直に感じていた。
8月15日 16時頃
「少しは、気分が晴れて来たかね?」
橘家の地下。鬼神会の死大王の一人、『阿蛇螺使いの晃』こと、藤堂晃が保護されている座敷牢。持ち込まれたベッドから降り、椅子に座ってぼんやりとしていた晃に、彼の主治医である佐々木瑠々(るる)が尋ねた。齢を重ねた白髪の女性。狡猾な表情をしている割には、それほど厳しさを感じない。ちょっと悪戯好きなお婆ちゃん――瑠々の印象は、そんな感じである。
「少し」
晃は、それだけ答えた。
「拘束はしなくていいんですか?」
逆に問う。
「逃げたければ逃げればいいさ。上には勝彦と水及がいるから、どうせ捕まるがな。まぁ、そんな非生産的な事を考える前に、自分が置かれている立場というのを確認しておくべきではないかね? 気分が晴れて来たのであれば、疑問に思う事も多かろう」
全てを見透かしているような、嫌な目だ。
「君の血液からは、未知の物質が数多く見つかっている。噂には聞いていたが、本当にあったのだね、ロストテクノロジーという奴は。今の我々では、どこまで分析できるか分からないが、その様々な物質によって引き起こされた現象によって、君の認識は随分と狂わされていた。これは、紛れもない事実だ。点滴で洗浄したが、これから気になるのは、離脱症状と禁断症状だ。分かるか? 薬には、急に止めると激しい副作用を起こすもの、常習性があるものなど、様々だ。そこら辺は、どうだね?」
「今の所は。少し、眠たいだけです」
「色々と検査をしているからな、疲れているのだろう。何か異変があったら、すぐに言いなさい。私たちは、君を正常に戻すのが仕事だ。敵ではないよ。だから、噛み付いたりはせんでおくれ。面倒臭いからな。ところで、何か食べたいものはあるかね?」
「……肉が食べたい」
瑠々は、にっかりと笑った。
「そうか。若いからな! たくさん食べて、早く元気になりなさい」
瑠々は、仕事へと戻って行った。晃はそれを静かに見送る。心中は、複雑なものであった。
ここに来て、もうすぐ丸二日経つ。瑠々が悪い人ではない事は、もう十分すぎるほど分かった。そして、自分が生きてきた環境の異常性も、はっきりと自覚できていた。
ぼんやりとしていた思考は、今でははっきりとしている。今まで疑問に思っていても、『考えるのが面倒』という方向に、思考を導かれていた。だから、瑠々の言葉は正しい。自分が置かれている立場。何が正しくて、何が偽りだったのか。それを十分に考える事が出来る。
覚えている事を辿っていく。
両親を殺した。妹も、多分死んだ。晃の阿蛇螺は、妹の櫻の頭を直撃し、大量の出血を引き起こさせた。あれでは、生きているはずはない。その後、鬼神皇に連れられ、鬼神会へと入り、そこからの記憶はもうほとんど曖昧である。久遠と出会い、他の面々と出会い、たくさんの人を殺し、たくさんの物を壊し、鬼神皇の言葉に従い悪い事をたくさんした。それを、悪い事だと認識できていなかったことも、今ははっきりと分かる。鬼神皇の言葉が、神の声のようだった。それに従わなければ、自分は消えてしまうのだと、本気で思っていた。
そこまで確認して、晃は一つ絶対的な事に気付く。
鬼神皇は、悪だ。そして、自分は悪の手先だった。
今の状況は、実はよく分かっていない。橘家と言う除霊屋に捕まって、何故か、色々な検査をされている。さらに、薬を抜く処置もしてもらったおかげで、今、色々と考える事が出来るようになった。
何が目的で、晃を『正常に戻す仕事』というのをやっているのか。彼らにとって、得るものとは何か。やはり、ロストテクノロジーなのだろうか?
今の所、橘家側から晃に対して何も条件が提示されていない。危害を加えてこない――ということだけは、確かのようである。
今は、唯々諾々と従い、条件を掲示してきた時に、考えればいい。
晃は、立ち上がり部屋の隅に置いてあった冷蔵庫から、缶コーヒーを取り出す。この冷蔵庫に入っているものは、好きに飲んだり食べたりしていいと、今日の朝方、瑠々から言われていた。
コーヒーを一口啜り、そこで晃はふとある事に思い至る。
橘家に保護される少し前に、晃の前に一人の少女が立ち塞がった。その少女を見た時、異様な動悸がした。その動悸の理由だけは、今も分からない。
「……もう一度会えたら、分かるんだろうか」
晃は、飲み終えた缶コーヒーを、ゴミ箱に投げ込んだ。
その日の夜の事――。
本日のスケジュールを消化し、ベッドでうつらうつらとしていた晃。そこに、勝彦を伴って、水及がやって来た。晃は起き上がり、身構えた。そんな晃に、水及はすっと左手を水平に突き出して、『そう急くな』と言わんばかりの態度を見せた。
「私の名は、水及。こちらは、橘家の当主勝彦。藤堂晃。あなたに、大切なお話をしに来ました」
水及と勝彦は、壁に立てかけてあったパイプ椅子を広げ、それぞれ座る。水及が前で、勝彦がその左斜め後ろ。晃は警戒しつつも、ベッド際に腰を落ち着かせた。
「僕に対しての数々の処置。それに対する対価。ようやく、そういう話をしてくれるという事ですね?」
水及は、目をぱちくりさせる。気まずい沈黙に、晃は焦った。そんな晃に、水及は穏やかな顔を見せる。
「順を追ってお話をしましょう。そうすれば、先程の問いの答えにもなります」
水及は、訥々(とつとつ)と語り出した。
まずは、前世の話と言う突飛な所から。晃の前世の名前は佐助。彼は、鬼神皇と出会い『阿蛇螺』という妖を埋め込まれた。それは、今の晃の両腕に寄生している妖の名前でもある。佐助は、鬼神皇の傍から逃げ出し、そこで橘家の椿という除霊士に助けられる。勝彦は、その橘家の血を引き継ぐ者との事。
時は流れて現代。橘家の椿が転生した。勝彦の孫娘、橘椿のことである。橘家の椿が転生したのであれば、彼女の傍にいた佐助や櫻姫が転生してくるのではないか? 水及は、その事をずっと警戒していた。しかし、実際には転生してきたことを察知する事が出来ず、分かったのは、晃が両親を殺害し、櫻を橘家で保護した時であった。
「櫻……えっ? 生きて……いるんですか?」
水及は、こくりと頷いた。
「あなたの阿蛇螺が、頭蓋骨の丸みで滑り、致命傷に至らなかった。そもそも、鬼神皇に櫻を殺す理由がなかった、と考えるべきでしょう」
晃は、自分の両腕に視線を落とす。荒縄状の痣が肘まであり、この痣自身が、妖『阿蛇螺』である。
「阿蛇螺……これは、一体何ですか?」
「それは私にも分かりません。ただ、阿蛇螺の創造主は鬼神皇。外部から操って見せる程度の事は、造作もないでしょう」
「僕の両親を殺したのは……」
「手を下したのは、阿蛇螺。それを操っていたのは、鬼神皇。鬼神皇は、あなたを使って何かしらの目的を成そうとしているようです。そのために必要な儀式だったのでしょう。年端もいかなかったあなたに、両親を殺す動機なんて、あるはずがないんです。あなたは、両親を殺してなんかいない」
晃は、水及の言葉をすんなりと受け入れていた。そう、晃に両親を殺す理由なんてなかった。あるはずがなかった。両親殺害と言う事実。しかし、動機がない。その一致しない二つのものが、そもそも晃に繋がっていなかった、それが答えだという事に、晃は気づいた。
主語の違いである。今まで、『晃が両親を殺した』、『晃の動機』という二つの事柄だった。しかし、水及の言葉が正しいのであれば、『鬼神皇が両親を殺した』、『鬼神皇の動機』となる。
「私には、あなたと御家族を守れなかったという負い目があります。あなたを保護したのは、私なりの罪滅ぼし。それと、兄妹は共に在るべきだという、思いからです」
「これを、取り除くことは出来ないんですか?」
「両腕を切り落とすぐらいしか、方法は今の所ありません」
「なら、僕の両腕を切り落としてください!」
晃は、懇願。水及は、それを静かに受け止める。
「そんな事に意味はありません。あなたの両腕には、まだやるべき事が残されています。阿蛇螺が、どのような妖なのか、私には分かりません。ただ、前世のあなたは、『空っぽの妖』と言っていました。阿蛇螺自体には意思はない、と。だから、前世のあなたは阿蛇螺を躊躇いもなく武器として使っていた。今は、考えの整理がつかないかもしれません。しかし、両腕を切り落とした所で、何の解決にもならないのは事実です」
そこで水及は立ち上がった。
「今度はここに櫻を連れてきます。それまでに、良く考えてください。櫻と会ったら、何を話し、何をしたいのか。それではまた明日。聞きたいことがあれば、その時に聞いてください」
水及は、ぺこりと頭を下げて、一言も喋らなかった勝彦を伴って、出て行った。残された晃は、呆然とした様子でベッド際に座り続けていた。
8月16日 9時頃
当主の間にて、瑠々は勝彦と水及に晃の現状について説明していた。
「体の六割弱は、解析不能の体組織に入れ替わっている。血液も洗浄したが、未知の物質の一部は一定時間経つと、数が増えて来るものがある。この事から、彼の臓器が生産しているのだろうと推測されるが、正直、現状では何が何だか。人の体を調べているのに、パソコンの中身を調べているような気分になったよ」
「……ようは、強化人間と言った所か」
水及は、難しい顔をして呟く。
「もう少し、彼の様子を観ていく必要があるが、詳しい事は正直私たちにはお手上げだね。もっと長い期間があれば、一つずつ細かく調べていけるが……」
「その必要はない」
勝彦がピシリと言い放つ。瑠々は、肩をすくめている。彼がそう言う事をあらかじめ知っていたからだ。
「必要ないというのは、どういことだ?」
水及は納得が行かずに尋ねた。
「ロストテクノロジーだからです」
「勝彦は、最初から彼の体にロストテクノロジーが使われていると予想していたみたいだよ」
瑠々の言葉に、なおさら訝しむ水及。
「私に話をしていない事があるな?」
「……話さないといけませんか?」
勝彦は少し困った顔をする。
「なんだ、そんなに都合が悪い話なのか?」
「口止めをされているもので。そうですね、鬼神会がロストテクノロジーを有していた事を、昔ある事件ですでに知っていたのです。ロストテクノロジーを研究したり、所有したりするという事は、それだけで敵を産みます。遺跡管理集団ユグドラシル。彼らは、厄介な相手です」
「その連中については、私も噂程度は聞いたことがある。まぁいい。これだけ材料が揃っているなら、そろそろ話してもよいだろう」
水及の言葉に、勝彦は難しい顔をする。
「櫻に、今の話を含めて全て話すのですか?」
「酷な事だと思うか? 言ったはずだ。自分の事を考えるな、と」
それは、勝彦が水及に相談した時に伝えられた言葉であった。勝彦は、それを思い出し、苦笑する。
「伝えるのが怖いのは、私自身か。この情報を元に、櫻がどう判断するのか。櫻なら、きっと正しい選択をしてくれる。それが信じるという事ですね?」
「彼女の正しさが、お前が望む正しさかどうかは、蓋を開けてみないと分からないがな」
水及の言葉は、いつにも増して厳しいものであった。
8月16日 13時頃
居間で、櫻は勝彦から晃の話を聞く事となった。椿が傍に居て、左手を握ってくれていた。伝えられた内容は、あまりにも残酷で。涙が零れ落ちた。まるで遠い世界のお伽噺を聞いているような、現実味のなさ。しかし、それは現実で、苦しくても真実で。
部屋は締め切り、冷房で涼しいはずなのに、いくらでも汗が噴き出て来る。多くの情報に混乱していたが、いつしか一つの解を見出し、感情を引きずり出す。その感情の名は、『怒り』。本当に憎むべき相手への、破壊の思い。
「鬼神皇……!!」
全ての元凶は、鬼神皇にあり。両親を殺し、兄を連れて行き、非道な実験を課し、人ではないものに造り替えた。
「櫻」
椿が、櫻の肩をそっと抱く。その暖かさが、少しばかり櫻を正気に戻してくれた。
「兄さんに会う事は出来ますか?」
「明日の九時にセッティングしよう」
「明日……ですか?」
不服そうな櫻に、勝彦は穏やかに笑って見せた。
「その有り余る激情を、兄にぶつけるつもりなのか?」
勝彦の言いたいことを理解し、櫻は顔を伏せた。
「……はい。気持ちを整理します」
櫻は立ち上がり、部屋を出て行く。椿は、櫻の突然の動きに対応できず、櫻を見送ってしまう。
「傍に居てあげてくれ」
勝彦の言葉に頷き、椿は櫻を追いかけた。
明日の朝、櫻と晃の事に一つの答えが出る。それがどんなものになるのか。勝彦は、恐れていた。何もかも、ご破算になってしまうのではないか。そんな嫌な気持ちばかりが過っていく。己の胸倉を掴み、必死に念じる。櫻を信じよう。きっと上手く行く。これでいいのだ――と。
「勝彦」
いつからそこにいたのか。水及が襖を開け、部屋の外に立っていた。外からの熱気が、吹き込んできている事に今更気づく。
「墓参りにでも行こう」
水及の言葉の意味がよく分からず、勝彦は『はぁ』と気のない返事をした。
家の裏に細い道がある。山へと登っていく一本道。水及と勝彦は、その一本道を登っていく。深い森の中。太陽の光も多くは届かず、夏だというのにどことなくひんやりとしている。
森を抜けると、強い日差しが照りつけて来る。山の斜面を利用して作られた場所。黒い御影石の墓標が、ずらりと三列になって並んでいる。反対側は、櫻町を一望でき、海が美しく煌めいていた。
水及が先頭になって歩き、三列目の一番奥までやってくる。御影石の前面には何も書かれていない。そこに眠る人たちの名は、右側面に小さく刻まれていた。
「皆、まんじゅうを持ってきたぞ」
水及は、優しく微笑み持っていた白い紙の箱を墓前に捧げた。勝彦は、ただただそれを見届ける。
「勝彦、あまり自分を責めるでない。お前の感情の不安定さは、そのうち椿や櫻にも伝わってしまう。もう、伝わっているかもしれないな。櫻のあの感情のブレは、お前の不安に触発された可能性もある」
「申し訳……ありません」
「私に謝ってどうする。親は、子供の前では強くなければならない。何故なら、子供にとって親は大きな太陽だからだ」
水及はそこで、勝彦へと体の向きを変えた。背が小さくて、見た目は櫻と同じ年齢にしか見えない。それでも彼女の顔は、母親のような慈しみがあった。
「勝彦を許していないのは、勝彦だけだよ」
その言葉は、勝彦にとって衝撃的なものであった。
「橘家の本家が九藤家に滅ぼされ、『残党狩り』と称して、多くの橘家の人間たちがむやみやたらに殺され、絶望し、世を恨んで死んでいくしかなかった。そんな彼らに、お前は家族を与えた。結局、無残な形で終焉を迎える事になったが、誰もお前を恨んでなんかいない。それは、一哉だってそうだ」
その時、強い風が吹き抜けていった。水及の長い髪が、旗のように揺れる。
「彼らを代表して、水及が勝彦に伝える」
水及は、墓標に左手を乗せた。
「ありがとう」
その時、勝彦は確かに見た。水及を通して、かつての仲間たちの姿、三人の妻、そして二人の娘と息子の姿を。頬を伝わる一滴の涙。勝彦が強く瞳を瞑りと、次から次へと涙が溢れて来た。
立ったまま静かに泣く勝彦。水及は、そんな勝彦に右手を伸ばそうとして、引っ込めた。左手でその右手を抑え、胸に抱く。そして、墓標へと視線を映し、そこに映る自分の顔を見て苦笑して見せた。
櫻を追いかけて、廊下に出た椿。
「椿様」
その時、庭から声がかかった。椿の式、八咫烏である。
「櫻様なら、階段を降りて行きました」
「外に出て行ったの?! 八咫烏、お願い!」
八咫烏は、人の姿から本来の姿に近い大きなカラスの姿に変化する。背に椿を乗せ、大空へ舞う。
櫻は、とある家の前に居た。良く見られる普通の一戸建て。柵は閉じられており、車も停まっていなければ、物らしい物も置いてない。ただ、雑草だけは処理されており、見ただけでは売りに出されているような、そんな感じである。
表札には、『藤堂』と明記してある。そう、ここは櫻の実家。十年前に両親が死に、兄が行方不明になった現場である。現在は、橘家が管理している。いつか、櫻と晃が二人揃ってこの家に戻れるように――そういう配慮である。
車を出し入れする際に開く可動スクリーンにしがみ付き、櫻は体を丸くしていた。椿は、三メートルほど離れて、そんな櫻を見つめていた。八咫烏は、椿を送り届けると、早々に姿を消した。相変わらず、空気を読む式であった。
「ここに来たら、何か分かるかもしれないと思ったけど、はぁ……」
櫻は、大きなため息を吐いて地面に視線を落とす。
「それに、初めて当主の言葉に反抗してしまいました。私は、私自身の事がよく分かりません。誰が味方なんですか? 誰が敵なんですか? 誰を恨めばいいんですか? 誰を信じればいいんですか? 私は、どうしたらいいんですか?」
椿は、櫻をじっと見つめ、眉根を細める。全ての困惑が、彼女に集中している。櫻の言葉に、どう返したらいいのか。そんなものは、椿にも分からなかった。ただ、一つだけ分かっている事がある。多くの分からないことの中でも、それだけは一つ頭を抜けて、青空で輝く太陽のように、明確な形を伴い存在する。
櫻を後ろから抱きしめ、その背中に左頬を寄せる。櫻の温もりを己の体に写し取りながら、椿は言葉にする。己が思いを。
「私は、どんなことがあろうとも、櫻の味方ですよ」
櫻が迷うのであれば、せめて提灯を携え手を引こう。暗い夜道も、一人で進めば怖いが、二人でなら助け合える。一人の力は一つでも、二人の力は無限の可能性だ。
すぐに答えなんて出なくていい。出せるはずがないのだ。十年間も突き進んできた気持ちを、今すぐに変える事なんてそもそもが無理な事。時速百キロの車が急に止まれないのと、同じことだ。きっと、慣性の法則というのは物理にだけ適用しているものではなく、精神面でも作用しているのだろう。それは、世界の理だ。
櫻は泣く。嗚咽を噛みしめ、何かに耐えるように辛く泣く。激動の瞬間が、櫻の心をぐちゃぐちゃに捻じ曲げようとしている。
椿は願う。櫻と兄が、共に手を繋いで歩くその日を――。
8月17日 9時
運命の時は来た。
地下の座敷牢には、人払いが完了し、晃しかいない。勝彦が最初に降りて行き、その後を、櫻、椿、水及の順番で降りていく。それぞれが、それぞれの思いを胸に秘め、進んでいく。
座敷牢の中では、藤堂晃が緊張した面持ちで立っていた。勝彦が晃に目配りした後、扉を開け、櫻を待つ。
座敷牢の柵を挟んで、晃と櫻が対面する。櫻は、勝彦が扉を開けてくれていたが、中には入らず、じっと柵越しに晃を見つめていた。晃の方は、泣きそうでいて、微笑んでいるようでいて、そんな複雑な表情で櫻と向き合う。
「櫻……なのか?」
晃の言葉が、沈黙を破る。櫻は、まるで反応しない。
「櫻?」
右手を伸ばし、晃が一歩進めたその瞬間、櫻の表情が強張った。フラッシュバックする、両親の返り血を浴びた晃の姿。櫻は一歩、後ずさる。そして――。
「いやーーーーーー!!」
櫻の悲鳴が、地下に響き渡った。頭を抱えて、左右に被り振る。狂乱状態に陥った櫻に、椿が走り寄った。
「外に出せ!!」
勝彦の緊迫した声。椿はすかさず櫻にタックルして、俵を抱えるようにして抱える。櫻に噛まれ、叩かれ、蹴られたが関係なく外を目指して走って行った。
残された晃は、呆然とした様子で佇む。水及は、勝彦の背を叩く。
「お前も行け。ここは、私が預かる」
「しかし……」
「私を信じろ」
勝彦は一端晃の方を見た後、椿の後を追いかけた。
「……僕を殺してください」
晃が、ぼそりと呟く。顔を下げ、両手をぶらりと下げ、その姿はまるで幽鬼の如く。
「僕は、もう生きていたくありません」
「甘えるな」
「……僕たちを助けてくれなかったあなたに、そんなことを言われる筋合いはない!」
「次は、責任転嫁か。そうだ、私はお前達を助けてやれなかった。その事に対して負い目はあるが、生憎お前の母親ではないのでな。甘えられても困る」
水及は、いつもの口調で淡々と告げる。
「言ったはずだ。君には、やるべき事があると。それは、こんな所で死ぬことではない。そもそも君は、何かあると二言目には『死ぬ』と言うが、それがただ逃げ回っているだけであることに、気付いているのか? 櫻は、君と違って向き合おうとしたぞ。辛く苦しい現実に、真正面からぶつかり、悩み、間違え、それでもめげずに今日を迎えたんだ」
水及は、晃の顔を両手で挟み、間近で晃の瞳を覗き見る。戸惑う晃。水及の青い瞳は、どこまでも冷たく、そしてどこまでも厳しい。
「藤堂晃。君は、お兄ちゃんなんだ。しっかりなさい!」
晃は、しばらくした後、こくりと頷いた。それを見て、水及は一転して破顔した。晃の顔から両手を離し、腰に手を添えて、いつものように胸を張る。
「それでいい。たった一度の間違えで、全てがご破算になってしまうわけではない。それが何故なのか、分かるか?」
水及は、晃の左胸に人差し指をあてる。
「生きているからだよ。だから、生きていなければならない。生きているならば、『生かされている』、『生きなくてはいけない』なんていう消極的な捉え方ではなく、自ずから『生きたい』と思うようになるべきだ。今までは、混迷の中に居て、そんな余裕もなかったのかもしれない。しかし、これから君は生きていく。生きていくためには、希望と夢が必要だ。少し考えて見なさい。その時は、君一人だけではなく、櫻も含めた、兄と妹の在り様についても、だ」
水及は、『分かったか?』と締めくくる。晃の表情は、水及の言葉が連なる中で、少しずつ穏やかさを取り戻していた。
晃は、溜まっていた涙を拭う。それから、ぼそりといった。
「海に」
「海?」
「鬼神会には、とても仲がいい人達が居て、一緒に海に出かけて、遊びました。とても楽しかった。だから、今度は櫻と海に行きたい」
「それはいいな」
水及は、とても優しい顔でそう言った後、晃の頭を撫でた。