覚醒予兆後編
暗い室内。水及は、いつも座っている場所に片膝を立てて座っている。彼女は、ここに座りながら櫻町で起こっている事を『観測』していた。水及の目の代わりになっているのは、水及が植えた木妖という名前の木の姿をした妖。その木妖は、他の木々を地脈を通じて端末とし、情報を集める。水及は、瞬きをする度に違う情報を観測していた。
「水及様、水無月家の式が来ていますが」
襖の向こうから声をかけて来たのは、水及の式である狼命。
「いないと言え」
「宜しいのですか?」
「本当は良くはないさ。鬼神皇も来ているし、晃もいる。私だって介入したいさ。それでも、我慢しているのだ。私にばかり頼っていたら、彼らは成長できないからな」
狼命の気配が消える。水無月家の式に水及の言葉を伝えに行ったのだろう。
水及は、観測を続けた。氷女沙夜を襲った、阿蛇螺使いの晃。間違いなく、十年前姿を消した、藤堂晃本人である。赤鬼の暴走については、水及の術式が崩れたのか、それとも違う要因があっての事か。今の所は分からない。椿と章吾が、封印をするようであるが、二人には荷が重いだろう。赤鬼の暴走については、それほど悠長には構えていられない。正直、そろそろ介入して、抑えてしまおうかと思う程である。氷女沙夜は、櫻と共に小泉家へと向かった。こちらはもう大丈夫だろうが、櫻がこの後、晃に対してどう打って出るのか。それは気になる所。兄妹で殺し合うことになろうものなら、介入せざるを得ない。勝彦は、鬼神皇と戦闘中。勝負は、互角。どっちも引かないというよりかは、有効打を与えられず、それが理由で戦いが長引いているだけのようだ。勝彦は、死なない。それは、彼に与えられた『呪い』だ。そのため、彼のことを心配するのは意味のないことであるが、彼が傷つく姿は正直見ていてあまり気持ちがいいものではない。本当なら、介入して鬼神皇を叩き潰したい。しかし、鬼神皇が何を考えているのか、それが分からないため迂闊に手を出せない。鬼神皇自体が陽動であることは、明らかだからだ。晃の呼び出した人型の方は、遙が戦うようだ。こっちはそれほど大したことはない。放っておいて大丈夫。
「……先ほどから別の感応波を感じるな」
感応士が放出する霊力の波。それを感応波と呼ぶ。個人差があるため、感応波から感応士を特定することもできる。しかし、今感じている感応波は、水及の知らないものであった。
「鬼神会の感応士か」
答えは、それしかない。鬼神皇の目的は、この感応士が握っているようにも思える。根拠はなかったが、なんとなくそう思えた。いわゆる、女の感という奴である。
「さて、どうなるか。どのタイミングで介入するか」
水及は、観測を続けた。
晃は、住宅街を縫うように走っていた。目指すは、海岸。そこに船を止めてある。なんとか追撃をかわして、櫻町から一旦離脱しなければならない。携帯電話を取り出す。先程から何度も後方で控えている仲間に電話をしているが、応答しない。試しにもう一度かけてみたが、やはり虚しくコールの音が続くばかりであった。
「どうして……」
上手く行かない。携帯電話をポケットの中に押し込む。後方の仲間には、感応士がいる。彼女のバックアップがあれば、この事態も容易に切り抜ける事が出来るというのに。
後ろを確認する。誰もいない。
変質した由紀子に、今も追われている。あの少女は、一体なんだったのか? いくら考えても分からない。力も何もない、ただの少女に見えた。だからそれほど意識するほどなく、排除した。その結果がこれである。とんでもないトラップだ。
顔を正面に戻す。
「なっ……?!」
進行方向を塞ぐように、変質した由紀子が立っていた。変質した由紀子は、右手に赤い光を収束させ始めている。晃は舌打ちして、慌てて右腕から荒縄を伸ばし、それを電柱に括り付け、それを支点にして己の体を電柱へと引き寄せた。直後、晃が居た場所を変質した由紀子が放った、赤い光線が貫いていった。猛烈な熱量。下から巻き上げるように上がってくる風に煽られつつ、晃は電柱を蹴って、近くの民家の屋根に飛び移った。そして、その向こう側の道へと降りて、逆方向へと走った。
決して分かりやすい道を進んできたわけではない。いくつもの界隈を複雑に折れ、進んできた。しかし、あの変質した由紀子は悉く晃を捕捉してくる。今の場面もそれである。気付いたら目の前にいた。晃がそこに来ることを知っていたかのような動き。考えられるのは、変質した由紀子が感応力も有しているという事だ。感応力があれば、晃の現在位置は離れていても、常に能力によって捕捉されてしまう。
晃は、左に曲る。任務の前に、住宅街の道は熟知しておいた。迷うことはない。
相手が感応力を持っているのであれば、無駄に曲って時間を稼ぐのは意味がない。逃げられないならば、一旦迎え撃って、相手の動きを殺さなければならない。
変質した由紀子の力は凄まじい。全力で戦えばなんとかなるかもしれないが、ここで全力を使ってしまえば、逃げるために使う力が無くなってしまう。もし、変質した由紀子を倒した後、他の除霊士が来たら、対応も出来なくなる。
倒すのではなく、足を狙う。一本動けなくすれば、感応力があろうとも追っては来られない。
大木公園に入る。晃は少し進んで、懐から銃を取り出した。コルト・ガバメント。そう呼ばれる、自動拳銃である。両手でしっかり持ち、公園の入り口を凝視する。公園の入り口は、東西南北一つずつしかない。遠回りをしないで直接来るとしたら、必ずこの入り口に姿を現す。煌々(こうこう)と照る街灯。これだけ明るければ、目標を外すことはない。
殺意が生ぬるい風と共に吹き抜ける。風下には、やはり変質した由紀子の姿。迷うことなく、まっすぐに入り口を通り抜けて来た。晃は、すかさず引き金を引いた。その瞬間、変質した由紀子の前方が不思議な光の反射をした。赤い光が見えた。弾は、その赤い光を帯びる何かに塞がれて、キィン! という音と共に砕け散った。もう一発。しかし、それも弾かれる。変質した由紀子が、前方に障壁を張り巡らしている事に気づき、晃は再び舌打ち。
「銃弾の衝撃も吸収するとか……!」
信じられないと、驚愕する。しかし、驚いてばかりもいられない。銃弾二発を撃っている間に、変質した由紀子は晃の事を間合いに収めていた。
拳銃を変質した由紀子に投げつける。赤い障壁に阻まれ、拳銃は転がって行った。振り下ろされる右腕を寸での所で避け、続く真横に払う攻撃も後ろに下がって避ける。
変質した由紀子の技量は、大したことがない。闇雲に手を動かしているだけ。避ける事は造作もないが、問題は彼女の放つ炎の属性攻撃。攻撃を避けても炎の属性が付加されているため、ちりちりと肌を焼いてくる。それがたまらなく不快だった。近距離で戦えば、むやみやたらと体を焼かれるだけ。距離を取る必要があった。
「阿蛇螺っ!」
両腕の荒縄。それの正体は、『阿蛇螺』という名前の妖である。晃の両腕に寄生しており、晃の言葉や意思に呼応して、思い通りに動いてくれる。右手に荒縄を巻きつけて、変質した由紀子の腹部めがけて、平手を突きだす。そしてそのまま、一気に押し飛ばした。
変質した由紀子は、派手に四メートルほど吹っ飛んだ。受け身を取らず、肩から地面に落下し、転がる。あの勢いで肩から落ちたら、もう動けないのではないか――そう思ったが、変質した由紀子は何事もなかったように立ち上がった。
晃はすかさず懐から、今度は手榴弾を取り出した。ピンを外し、放り投げる。晃は、近くの木の裏へと退避。直後、大地に叩きつけられた手榴弾が破裂した。
赤い障壁がある以上、これぐらいのことでは倒されてくれないだろう。案の定、舞い上がる煙を貫いて、変質した由紀子が突っ込んできた。晃は、木の陰に隠れたまま、左腕をわずかに引いた。左腕から荒縄が一本伸びており、その荒縄は先程投げた拳銃に巻き付いていた。位置は、変質した由紀子の右手側の後方。赤い障壁は、先程の攻撃で意識しなければ発動しないという事が分かった。ならば、全くの死角から撃てばあたるという事。
狙うは胴体。阿蛇螺を通してでは、命中精度が落ちる。足や頭は狙えない。一発あたって、怯んだ隙に追撃する。それが無難であった。
変質した由紀子がその間合いに晃を捉えようとしたその時、晃は阿蛇螺を使って拳銃の引き金を引いた。耳に付く破裂音。変質した由紀子の死角から放たれた弾丸は、赤い障壁に塞がれて、砕け散った。
「えっ……?」
変質した由紀子の右腕を慌てて右側に避ける。晃の目の前にあった木は、呆気なくへし折れ、派手な音を立てて地面に落ちた。揺れる大地。晃は戸惑いつつも、もう一発放った。変質した由紀子の視線は、晃のみを捉えている。まだ、拳銃は死角にあった。しかし、その状態のまま、変質した由紀子は赤い障壁を展開して、銃弾を弾いた。
全方位に張っているのか。そう思ったが、赤い障壁が張られた場所は揺らいで見える。それから考えても、一部分しか防いでいない。変質した由紀子は、死角から放たれた銃弾を、意図的に弾いたとしか考えられない。
どうやって――?
感応力があるなら位置を掴む事が出来るだろう。しかし、戦いながら感応力を放つことは、出来ない。人間には脳が一つしかないからだ。感応力は、片手間に出来るほど、簡単な能力ではないのだ。
ならば、違う能力か――?
今は見当もつかない。なんにせよ、この変質した由紀子には奇襲攻撃が通用しない。そして、どこにいても居場所を特定されてしまう。とんでもない、ストーカー女であった。
晃が次に投げたのは、スタングレネードだった。放たれる猛烈な光を背に、晃はまっすぐに走った。
能力も分からない化け物なんかとは戦っていられない。どこへ逃げても分かるなら、最速最短距離で逃げる。
「リミッター解除」
己の体に施されているリミッターという名の意識の楔を解放し、己の身体能力を極限まで高める。本当は相手を倒すために使う能力であるが、かなりの時間を費やしてしまっているため、手段を選べない。リミッター解除後、動けるのは十分程度。その後は、ほとんど動けなくなるが、船に戻る事が出来れば、後は仲間に回収してもらえばいいだけである。
一分もしない内に、大木公園の西側の出入り口が見えてきた。この調子なら、五分もあれば海に出る事が出来る。そう思ったその時だった。
晃の目の前で、出入り口が無数の呪符で塞がれていった。晃は慌てて急ブレーキ。しかし止まれず、出入り口を覆う呪符の壁に手をついて何とか止まった。両腕を駆け抜ける痺れ。晃は顔をしかめつつ、出入り口を確認する。
完全に壁になっていた。力任せには突破できそうにない。晃は三度目の舌打ち。
「失敗した……」
公園が近くにあったため利用したが、公園とは簡単に封鎖できる場所である。そんな所なら、結界を仕掛けてあってもおかしくはない。晃が入り込むのを見て、結界を発動させ、それが間に合ってしまったのだろう。
頭を抱える。晃だけがここにいるならいい。しかし、今はとんでもないストーカー女と同居中である。どこに逃げても追いかけてくるのに、こんな閉鎖された狭い場所なら、なおさら逃げ場所がない。
どうするべきか――そう思考を巡らせようとした時、羽を翻す音が聞こえた。何事かと、後ろを振り返ると、巨大な三本足のカラスがまさに地面に降り立とうとしている所であった。その巨大なカラスの背中に乗っていた少女が降りてくる。橘椿、晃を追いかけるもう一つの勢力、橘家の人間である。
身構える晃。それに対して、椿は『待って』と右手を突きだして来た。
「提案があります」
椿の後ろで、巨大なカラスが人の形を取る。黒い髪を長く伸ばした、陰気な印象を与える男である。
「提案?」
「彼女の封印に力を貸して欲しい」
「そのメリットは?」
椿は、意地悪そうに笑った。
「今一番頭を悩ませている問題が解決する。それ以上、望むものがあるの?」
「分かった。協力する」
晃は即答した。悩む必要はなかった。あの変な女に追い掛け回されるのが終わるのであれば、それに越したことはない。
「この公園には、封印するための術式があらかじめ仕込んであります。あなたには、そのための囮をお願いします」
晃は、静かに頷く。
椿と共に、大木公園の中央まで戻って来た。そこに鎮座する守り木の北側、そこが封印を施行するためのポイントである。変質した由紀子の姿はない。それについては、椿が説明してくれていた。
現在、変質した由紀子は、椿の式が牽制しているとのこと。晃がポイントに到着次第、牽制を解除。そうすれば、晃を第一に狙う変質した由紀子は、まっすぐに晃の下へとやってくるはずである。そこを封印する手はずになっていた。
「準備はいいですか?」
「いつでも」
晃の言葉を受け、椿は視線を下に向けて、それから何やら頷いてから、陰鬱そうな男――椿の式、八咫烏と共に、近くの茂みの中に消えて行った。式とは、意思を通じ合えるため、言葉を必要としないのである。
暗い公園に一人ぼっち。異質な存在が混ざり、戦場と化しているこの公園。そのため、本来静かな夜に添えられる虫の鳴き声が一切しない。全ての生き物が、嵐が過ぎ去るのをじっと待っている――そんな印象であった。
空を見上げると、星が見えた。晃の髪を、夜風が流していく。その風の中、晃は急に懐かしさを覚えた。
今立っているこの場所。昔、来た事があるような気がする――そんな思い。しかし、任務で櫻町に来た事は一度もない。それは、晃の記憶が曖昧になっていようとも、純然たる記録として残っている。間違いなく、ここに来たのは初めて。それなのに、この既視感は何なのか。晃は、ふと気づいた。自分の考えが、そもそも間違っていたことに。
鬼神会に所属してからは、確かにここに来た事はない。しかし、それよりも以前はどうだろうか。
桜の花びらが散っている。その中を駆ける少女が、『お兄ちゃん』と呼ぶ。その子は誰? 妹? 名前は――晃は、幻視に翻弄されるまま、ぼそりと呟いた。
「櫻……?」
「晃君!!」
幻視は、椿の切羽詰まった声で終わった。目の前に、変質した由紀子がいた。赤い力を右手に纏わせ、今にも振り下ろそうとしている。
「阿蛇螺!」
避けるのは間に合わない。両腕に荒縄を巻きつけ、左腕で変質した由紀子の右手を振り払う。続く左手は右腕で払い――距離を離す間もなく、今度は左腕が襲ってくる。一旦、変質した由紀子を押し返すか、受け流さない限りは、距離が取れない。どうするか――迷っていると、晃の傍を黒い一枚の羽根が横切って行き、変質した由紀子はそれをいつも通り赤い障壁で弾いた。後方で控えていた八咫烏が痺れを切らして、己の羽根を投げたのだ。
僅かな隙。晃は、勢いよく大地を蹴って、後ろへと飛んだ。その次の瞬間――。
「封縛せよ!!」
守り木の後ろから章吾が姿を現し、力強い言葉を放った。変質した由紀子の四方に、石の柱が連立。変質した由紀子が次の動きをする前に、その連立した石の柱は、変質した由紀子を覆っていき、完全に見えなくしてしまった。残ったのは、巨大な一本の石の柱と化した変質した由紀子の姿だけとなった。
「やった……?」
章吾が恐る恐る呟く。確かに一時的に、霊力の流れが止まっている。しかし、それもほんの僅かな間だけであった。膨れ上がっていく霊力。晃は、慌ててその場を離れて、近くの木の陰に隠れた。章吾も守り木の後ろに隠れ、椿はそもそも茂みから姿を現していない。
『オォォォォォオオォォォ!!』
雄たけびと共に、覆っていた石は飛散し、変質した由紀子は激しい霊力を周りに放出した。変質した由紀子の周辺が黒くなっている。放出した霊力は、火の属性も帯びていたようだ。近くにいたら、大火傷を負っていたかもしれない。
「足止めすることもままならないのか!」
章吾の悔しそうな声。変質した由紀子が、晃の方に視線を向けた。木の陰に隠れているのに、彼女はやはり見えているかのように、視線を向けて来る。隠れていてもしょうがないと、晃は木の陰から出る。
「提案がある!」
晃が、大きな声でそう告げた。変質した由紀子は、関係なく突っ込んでくる。身構える晃であったが、晃に到着する前に、茂みから飛び出してきた金髪の男が、変質した由紀子の真横から突っ込んで来て、動きを牽制する。彼の名前は、韋駄天。椿の式である。
晃の強化された動体視力でさえ、残像のようにしか見えなかった韋駄天の動き。彼が振るった槍を、変質した由紀子はあっさりと躱していた。やはり、変質した由紀子に奇襲は功を奏しないようである。
怒涛の突きで、変質した由紀子を押していく。変質した由紀子は、奇襲は避けられても、近接戦闘ではやはり技量不足のようで、韋駄天の攻撃のほとんどを赤い障壁で弾いていた。
晃の下に、椿が走り寄ってくる。
「聞きます」
彼女は、そう端的に告げて来た。
「あの化け物は、僕が倒す。その代わり、この町から逃げるのを邪魔しない」
変質した由紀子を倒しても、除霊屋の相手をしなければならない。それがもっともネックとなっていた。もし、除霊屋の相手をしなくていいとなれば、全力で戦える。ただ、全力で戦った所で、あの変質した由紀子を倒せるかどうかは、分からない。彼女の力が、今使っているものだけとは限らないからだ。
「……その結論は待ってください」
椿は難色を示した。
「代案は?」
「み、水及様に来てもらい、封印してもらいます。元々は、水及様が施行していた術です。水及様が居れば……」
「その人はどこに?」
「それは……」
椿は言い淀む。そこへ、章吾が椿の下へと走って来た。
「新しい作戦が立案された!」
「えっ? もう次の作戦? 内容は?」
「氷女沙夜が、由紀子の封印をする。詳細は分からないけど、当主、小泉家の当主はこの作戦を承認した」
椿は、晃へと向き直った。
「阿蛇螺使いの晃。この作戦を手伝ってください。封印が済めば……」
椿は、再び言い淀んだ。視線を逸らし、それからぼそりと小さく呟いた。
「どこへとも行きなさい」
「除霊屋は僕に手を出さない。そういう認識でいいんだね?」
「そうよ! だから、私たちに力を貸して!」
自棄になったように椿は叫んだ。晃は、静かに頷く。
「分かった。なら、最初の予定通り、僕が囮になる。ただ、場所は変えるよ。ここはダメだ」
「どこに?」
「海。あそこなら、アレの力を削ぐ事が出来る」
「章吾さん、透子様に連絡を! 封印の場所は、櫻海岸!」
変質した由紀子を封印するため、結局は除霊屋に手を貸すことになってしまった。本当に封印する事が出来るのかどうか。それは分からない。しかし、今はそれしか選択肢がない。なんとしてでも生きて、鬼神会に戻る。晃は強い決意を胸に、櫻海岸を目指した。
買い物をするため、天妙へと赴いていた遙。天妙は車が多い。普段は自家用車を使う彼女も、交通機関を使って天妙に向かっていた。買い物を終え、電車に揺られている時に、着信。水無月家の本家からかかって来たのを見て、緊急事態だと察した。
現場に近いという事もあって、遙は敵の殲滅を託される。しかし、買い物に行っていたため、武器を持っていなかった。そもそも、遙は魔法を主体に戦う。武器は、相手の武器を受け止めたり、払ったりすることにしか使わない。ないならないで仕様がない。そう腹を括り、現場へと向かった。そして、戦っていたうちの片方、死神っぽい存在が『なら、お前に任せた』と一方的に告げ、消え去ったため、謎の人型の相手を一人でしなければならなくなった。
「クイック!」
一言、二言の呪文で展開できる魔法を、簡易術式という。『クイック』は、使用者の速度を一時的に加速させる魔法。何度も重掛けは出来るが、速くなるのは動きだけ。その人自身の思考や反応は加速されないため、速くなりすぎてもスピードを上げ過ぎた車がカーブを曲がれないのと同じで、派手に事故るだけである。
大振りの一撃を避け、ただ魔力を凝縮したものを、人型に打ち込んでいく。目眩ましである。十分な距離を取って、詠唱が適度な長さの魔法で足止めして、そして高威力を誇る魔法を打ち込む。前衛がいない以上、そんな手間を挟まざるを得ないのが現状であった。
後ろに跳んで稼いだ距離は、十メートル。ここら辺で、足止めの魔法を――と構えたその時であった。人型の口にあたる部分がぱっくりと開き、眩い光が放たれた。それはまっすぐ伸び、凄まじい速度で迫って来た。違う魔法を唱えかけていたので、守護の魔法が間に合わない。遙は、前屈みになり――。
「ウィング展開!!」
背中から真っ白な綺麗な翼を一対出現させ、それを盾にして放たれた光を防いだ。全てのエネルギーを受け流す事は出来ない。一メートルほど、後方へと押しやられたが、遙にはダメージはなかった。
「あ、危なかった……」
「この馬鹿!」
何とか防ぎ切れたと思った次の瞬間、全く違う方向から頭を叩かれた。
「あいたっ!」
頭を叩いたのは、漆黒の髪を背中の半ばほどまで伸ばした、ダークブルーの瞳の女性。年の頃は二十代後半ぐらいか。日本語を話しているが、顔立ちは日本人とは違う。西洋風とでも言えばよいだろうか。彼女の名は、『インビシブル』――と遙は呼んでいる。本名は不明。遙の魔法の先生であり、遙の保護者のようなものである。
「翼を仕舞え! 誰がそれを使っていいと許可した!」
遙は、慌てて翼を仕舞った。その時、遙は気づく。インビシブルの背後が光っている事に。人型が、先程の攻撃をもう一度放とうとしているのだ。
「後ろ!」
遙の言葉と、光が放たれたのはほぼ同時だった。インビシブルは、聞き取れない速度で呪文を呟き、振り向いて右手を突きだし障壁を展開させた。光が、真っ二つに引き裂かれ、道路を無駄に削っていく。
「ちっ! こっちは説教中だ! 空気を読め!!」
光が消失すると同時に、呪文を呟き、それに呼応して左手に電気が迸る。
「ライトニング・スピア!!」
ガン! と凄まじい音がしたかと思うと、人型が派手に吹っ飛んだ。電気を槍にして、相手に叩きつける魔法だ。本体が電気であるため、形が捉えられないし、そもそも目で追えない。放たれたら、回避不能の卑怯な魔法である。
「おぉー、さっすが先生! いいぞ、やっちゃえ!」
再び頭を叩かれた。
「あいたっ! なんで叩くんですか?!」
「戦うのはお前だ。経験値、稼いで来い。前衛は私がしてやる」
「経験値とかいらないんで……あいたっ! 先生、太腿を蹴るのはやめて! そこ痛いから!」
無言で太腿を三度蹴飛ばされ、遙は渋々とインビシブルの言葉に従うことになった。
起き上がる人型。派手な衝撃はあっただろうが、それほど堪えてはいないようである。電気は、そもそも魔法としては非常に不安定である。環境にも左右されるし、相手の装備にも左右される。素早く敵を牽制する事が出来るという意味では、非常に有効な魔法ではあるが。
「三手以内に仕留めろ。出来なかったら、一週間秘境に送り込む」
遙の血の気が引いた。インビシブルは、有言実行する。朝起きたら、知らない場所に放り込まれていたなんてことが、これまでも何度かあった。泣きながらジャングルを這いまわり、崖をよじ登った記憶が鮮明に蘇り、それが恐怖の起因となった。
「が、頑張らせて頂きます!」
遙は、過程をすっ飛ばして、確実にダメージを与えられる魔法を展開する準備に入り、インビシブルは突っ込んでくる人型に真正面から立ち向かっていった。
インビシブルは、人型の攻撃を華麗に避け、肉弾戦に持ち込んでいる。拳や足先に魔力を上乗せして攻撃しているため、人型も喰らう度によろめいている。あのまま撲殺できそうな勢いであるが、それを眺めているわけにもいかない。この戦いは遙が決めなければならないという条件付きなのだ。その条件がクリアできなかった時のことを考えると、今は傍観するよりも積極的に攻めるべきである。
「三手と言うけど、前衛をしてくれているなら初手で決めさせてもらう。マジック・ブースト!」
柏手を一発。その波紋が耳に心地よく響く。魔法の威力を一度だけ強化する簡易魔法だ。静かに目を閉じ、手を合わせ、遙は詠唱を始める。魔法――それは、別世界の創造である。意識によって縛られた真っ白な箱庭。そこに、引き起こしたい奇跡を創造する。詠唱は、その奇跡を具体的にイメージするもの。遙の詠唱は、英語。それは、彼女の師匠であるインビシブルが英語の詠唱を使う影響である。
ゆっくりと合わせた手を広げ、創造した奇跡の卵を右手に乗せる。ぼんやりと揺らぐ、透明な炎のようなもの。それを視線よりもやや高く掲げた。
「インビシブル!!」
遙が、インビシブルの名前を呼ぶ。インビシブルは、人型の攻撃を掻い潜り、魔力を凝縮しただけの光球を人型に叩きこんでいく。人型が怯んだ内に、インビシブルがその場を離れ、遙までの道が開いた。遙は、揺らぐ透明の炎に、人型を映し込む。
「アブソリュート・ゼロ!!」
遙の力強い言葉。透明な炎は、一瞬激しく揺らいだかと思うと、ぱっと砕け散った。次の瞬間、人型の四方に青い光点が発生。光が大地を走り、人型を中心に四角形を形成。そして、それぞれの点から上空の一点に向かって光が伸び、蒼い四角錐が瞬く間に完成した。直後、キィン! という涼やかな音共に、その四角錐は一瞬で凍りついた。中の人型諸共。
「砕けろ!」
遙が右手を水平に左から右へと振るう。遙の言葉に呼応して、四角錐は中の人型を巻き添えにして、粉々に砕け散った。
「やった……ほら、インビシブル、一手よ! 一撃必殺! どうよ!」
「喜ぶのは、完全に相手の死を確認してからにしろ……!」
インビシブルが、動く。砕け散った氷の一欠けら。頭部と右肩の一部だけとなった人型が、最後の力を振り絞って、口を開き光線を放った。狙いは遙。その射線上に、インビシブルが割り込み、その光線を右手で方向を変換させた。直後、インビシブルは呪文を呟き、透明な白い炎を右手に発生させ、それを天高く掲げた。
「プロミネンス」
インビシブルの頭上に、太陽を思わせるような巨大な炎の塊が発生した。インビシブルはそれを、残った人型の頭部に叩きこんだ。道路を溶かし、人型の欠片も一瞬で蒸発させ、さらに地面を三メートルほど融解させて、ようやくその効果を終えた。ぽっかりと、隕石でも落ちたかのような、大きなクレーター。もうもうと上がる水蒸気は、上昇気流を生み、インビシブルの髪を静かに揺らす。遙は、その背後で完全に呆れていた。
「い、いくらなんでも……オーバーキルじゃないの?」
そんな遙の額に、インビシブルは右手を水平に倒したチョップを食らわした。
「アタッ!」
「今回はそれで許してやる」
遙の横を通り過ぎ、そんな彼女を視線で追いかけたが、すでにインビシブルの姿は忽然と消えていた。彼女が得意とする、ステルス系の魔法だろう。遙の技量では、一端姿をくらました彼女を、見つけることは不可能である。
「ギリギリ及第点だったのかな」
然して痛くもなかったが、遙は額を擦りつつ携帯電話を取り出し、指揮を執っている水無月家へ、妖殲滅の一報を入れるのであった。
椿の指示に従い、櫻駅の裏側、大手町との境界付近までやって来た。櫻駅側から櫻町方面は、防波堤とテトラポットが並んでいるが、堤防を挟んで大手町側は、夏も人が集まる海岸線となっている。
夜の闇に包まれた静かな海岸線。変質した由紀子を、晃、椿、そして椿の式である韋駄天、八咫烏が取り囲んでいる。抑え込めるものならばと試しはしたものの、海岸線で水属性の影響を強く受ける場所にいながらも、変質した由紀子の纏う炎の属性はそれほど陰りを見せず、近寄れば火傷する始末。かといって、このメンバーで組める簡易術式の結界程度では、全く怯まない。能力の消費を促進させ、霊力を枯渇させる作戦も、どこかからか霊力を供給しているようで、全く効果なし。結局、氷女沙夜が到着するまで、牽制するしか方法がなかった。
色々と試している内に、やたらめったらと暴れていた変質した由紀子も今は大人しくなっている。変質した由紀子は、莫大な霊力、厄介な炎の属性、目を見張る再生力と、単騎で戦場を引っ繰り返せそうな要素を持っていながら、最大の欠点を有していた。それは、武術が素人レベルということ。その欠点のため、どんな力を持っていようとも、宝の持ち腐れ。猿が核ミサイルにしがみ付いているようなものである。対して、こちらはそうそうたるメンバーだ。椿は、除霊屋の中では若輩者ではあるが、九州の除霊屋の頂点である橘家の看板を背負うに足る実力を持つ。晃は、鬼神会と言う犯罪組織の死大王という幹部クラス。韋駄天と八咫烏は、椿の式であるが、明らかに椿よりも実力が上。そんなメンバーに囲まれては、変質した由紀子も太刀打ちが出来ないようであった。
「大人しくなりましたね」
韋駄天が、訝しげに呟く。
「しかし、霊力が下がらない。まだ、何か策を残している可能性がある」
八咫烏は、警戒を怠らない。
「八咫烏、ちょっと突いてみろよ」
「お前がやれ」
「あぁん? お前、遠距離攻撃できるだろうが」
「藪をつついて蛇を出すような愚策は、単細胞生物であるお前にお似合いの所業だろう。このまま大人しくしているなら、それに越したことはない」
「空を飛ぶしか能のない鳥類の言う事かよ。焼き鳥になっちまえばいいんだよ、クソカラス」
「二人とも、喧嘩はやめて」
椿の言葉を受けて、ようやっと韋駄天と八咫烏は黙った。韋駄天と八咫烏。便宜上二『人』とするが、椿が物心ついた頃からこの二人とは一緒である。椿自身が進んで契約したわけではなく、日本神族会と言う神様の組織から派遣され、橘家の当主勝彦の承認の上で、契約が結ばれた。そこに椿の意思は、介入していない。そんな韋駄天と八咫烏であるが、まさに犬猿の仲である。何がそうさせているのか、それはさっぱり分からない。ただ、二人とも人ではないため、椿が生まれるよりも前からずっとそうだったと考えるのが妥当である。
「仕掛けてくる……!」
晃の言葉の僅か後、変質した由紀子が莫大な霊力の波を解き放った。その霊力の波自体には、物を壊すようなエネルギーはなかった。海面を波立たせ、晃たちの髪や衣服を激しく揺さぶる。その霊力の波が収まった時、晃たちは思いもしなかった光景を目の当たりにした。
「な、なんだこりゃ!」
韋駄天の驚き。
変質した由紀子の周りに、赤い輪郭の人影がたくさん出現していた。男も女もいて、年齢もバラバラ。それぞれが、刀や槍や斧などの武器を持っている。まるで共通点のない、でこぼこな印象を持つ、謎の人影集団。変質した由紀子を中心にした、亡霊軍団――そんな言葉で形容するのが、ぴったりと来るのかもしれない。
「数が多すぎる!」
慄く椿。正確な人数は分からないが、おおよそ三十から四十体の間ぐらいであろうか。晃たちが、それぞれ武器を持ち直したと同時に、その人影たちが津波のように襲いかかって来た。
老人が斧を振るってくる。それを避けると、今度は若い男が槍で突いてくる。刀でいなしていると、変質した由紀子が突っ込んで来たため、慌てて避けて距離を取る。右も左も敵だらけ。椿たちとの連携も取れず、晃は人影たちに翻弄され、きりきり舞いとなっていた。
韋駄天は、持ち前の足の速さで敵をかく乱し、椿の背後を守っている。そのため、椿は前方から来る敵にだけ集中していた。八咫烏は、椿の近くで淡々と人影の相手をしている。それぞれ人影と相対しながら、それぞれに確信していた。この人影、数が多いだけで一体一体の実力は、大したものではない――ということに。
性別も年齢もバラバラで、武器もバラバラ。そして、技能もバラバラである。変質した由紀子の実力が、素人レベルだったのは、元になった由紀子が素人だったからであろう。見た目と実力が一致している。老人は、卓越した技を持っているが、動きが緩慢。幼い少女は、年相応、児戯に等しい。武術に精通している人影もいるが、実力的には大したことはなく、突出したものがない。そして、この人影たちは炎の属性を強くは帯びていないため、近づいても熱くはなかった。劣化、変質した由紀子の量産型である。問題は、闇雲に多い事と霊体のため、斬ってもしばらくしたら復活する事。結局、変質した由紀子をどうにかしない事には、この人影を完全に消し去る事は出来ないようである。
「コイツら弱いけど、鬱陶しい!!」
韋駄天の言葉は、まさに的を射ていた。
「このままじゃ、ジリ貧です!」
椿の声に、悲壮が混じる。氷女沙夜の到着を待つしかないが、なかなか現れない。現在の位置を確認しようにも、そんな暇もなかった。
嵐のようだ。繰り返し繰り返し、何度も何度も――大挙して押し寄せてくる敵。人影は、人の姿をしていながらも、のっぺらな表情で、感情のこもらない瞳で、ただただ武器を振り回してくる。ここは、地獄か。伊邪那岐を追い立てる、黄泉醜女の大軍とは、こういうものだったのか。
絶望が、全ての希望を喰らいつくす。
その狭間で、椿は鋭く刺すような殺気に気付いた。人影たちとは違う、感情のこもった視線。薙刀を引き寄せる。直後、キィン! と派手な音がした。弾き飛ばされた椿は、なんとか体勢を整える。
「椿!」
韋駄天の声。しかし彼の姿は、人影に覆われて見えなくなる。人影の集団からはじき出された椿は、人影の集団に囲まれていた時よりも強い危機感をこの時覚えていた。
一人の少女が走ってくる。赤い髪を振り乱し、刀を右手に持って――凄まじい速さで。先程椿を外に弾き飛ばしたのは、この少女なのだろう。椿は薙刀を構え、近寄らせないために、薙刀の長さを最大限に利用した立ち回りをする。長物である以上、間合いに踏み込まれなければ、負けはしない。しかし、少女はそれをあっさりと掻い潜り、あっという間に肉薄してきた。薙刀を引き寄せて、ほぼ零距離で少女の刀を受け止める羽目となる。
「くっ……!」
少女の動きが早すぎて、追随する事が出来なかった。砂浜と言う最悪の足場でありながら、このカニのような動き。今までの人影とは、実力が違い過ぎる。間近にある、少女の顔。年の頃は、十代後半といった所か。凛々しい顔つきをした、きつめの美人である。
『良く止めたわね、橘椿』
少女が喋った。椿を少し押しやり、その反動で少女は後方へと飛び下がった。折角詰めた間合いを、あっさりと手放した。また詰める事が出来るという自信なのか、それとも考えなしの馬鹿なのか。椿は、踊る心臓を収めるため、呼吸を整える。
「……何者ですか? あなた達は、一体なんなんですか?!」
『私たちは……そうね、『尼崎家の亡霊』、と言った所かな』
「尼崎家の……亡霊?」
『そう、そして私の名前は……本当は隠しておきたい所だけど、感応士に観測されている以上、すでにばれているだろうから、名乗っておくわ。尼崎紅。先代の赤鬼よ』
十年前に崩壊した尼崎家。その尼崎家の崩壊の起因となった、先天性霊障――ようは、霊的な病気とされるもの、それを『赤鬼』と呼んでいる。尼崎家が古くから隠して来た事のため、詳しい事はほとんど分かっていない。そして、小泉由紀子は『赤鬼』に罹患していた。水及の封印により、問題なく日常生活を営むことが出来ていたが、晃の干渉によって暴走してしまったのが、現状である。目の前の少女、尼崎紅の証言が正しいのであれば、彼女は由紀子の前に『赤鬼』に罹患していたということになる。
『橘椿、少しあなたの覚悟と言うものを見せてもらう』
再び踏み込んでくる少女――紅。真正面からだ。椿は、薙刀を直線で振るった。もう間合いに踏み込まれる下手は打たない。その覚悟を込めた一撃を、紅は刀をあてて軌道をずらした。飛び散る火花。紅は、すかさず空いた左手で薙刀を掴み、そこを起点にしてくるりと回転し、柄に近い場所に刀をあてて来た。それを滑らせ、さらに踏み込んでくる。薙刀を縦にして、横凪の一撃を防ぐが、結局また間合いに踏み込まれてしまった。
鍔迫り合い。間合いを離すためには、相手を突き飛ばすか、手前に引き落とすか、どちらか。相手の力加減を見極め、選択しなければならない。
『私の奥義みたいなのを見せてあげる』
紅の赤い瞳が、なおさら強く光った。その刹那、椿は両腕、両足を浅く斬り裂かれていた。椿が目にしたのは、紅が刀を天に向かって突き出している、その姿だけ。何かしらの技を解き放った後の、余韻の姿。何が起こったのかは、椿にもさっぱりである。よたよたと、後方へ後ずさりし、体の重さを足が支えきれず、遂に膝を付く。
『あなた、まだまだね』
紅は、見下げているわけでもなく、淡々とそう口にした。
「寸止めなんて、私を馬鹿にしているの?」
まともに技を喰らったにも関わらず、椿の傷はそう深くはない。それは、紅が寸止めしていたという事。それぐらいのことは、椿にも分かった。それが、どれだけ屈辱的な事か。睨む椿に、紅は薄く笑っていた。それは、どこか優しさを帯びており、椿は怪訝な顔をする。
『別にあなたを殺すつもりはなかった。それだけよ。言ったでしょ、あなたの覚悟を見るって。あの子の傍にいるという事は、あなたはあの子の監視役であり、暴走した時の先兵でもある。それだというのに、あなたはあの子に感情移入をし過ぎている。そんな事で、自分の役目を全うできると思っているの?』
「出来ます。私は、由紀子さんの親友です。いつでも由紀子さんの傍にいて、そして由紀子さんが暴走して打つ手がなくなってしまった時でも、私は由紀子さんから離れない。もし、由紀子さんを殺さなければならなくなったとしても、その役目も私の物です。誰にも、渡さない……!」
椿は、薙刀を杖にして立ち上がった。まだ戦える。大切な親友が、大変なことになっている今、こんな所で立ち止まっているわけにはいかない。椿の強い思いは、体を前へ前へと押しやる。
『そう、立派な覚悟。由紀子ちゃんが羨ましいわ』
少し悲しそうな顔をする紅。
『でも、あなたには実力が伴っていない。少し、稽古をつけてあげる。かかってきなさい』
「一体……何のつもりですか?」
稽古をつける――敵同士であるはずなのに、この紅は椿に対してどこか甘い。その甘さが理解できず、ただひたすらに気味の悪いものとして椿は認知していた。
『あなたの両親に、大きな貸しがあるのよ。知りたければ、水無月直久か、小泉五十鈴……今は、結婚して橘五十鈴か。その二人に、『レッドアイ』の事を聞いてみる事ね』
水無月直久は、水無月家の現当主でこの作戦の総指揮官でもある。橘五十鈴は、椿の母だ。先代の赤鬼ということなのだから、彼らが椿と同じ年ぐらいの事件で関わったのかもしれない。そんな事実よりも、椿の心を捉えたのは、『両親』という響き。顔もろくに覚えていない、父親の話だった。
「お父さん……」
椿は、きつく唇を閉め、紅に向かって突っ込んで行った。
椿が抜けて、割り振りが増えてしまった。しかも晃の方には、変質した由紀子まで加わっている。肩で息をしながら、人影を斬り捨て、変質した由紀子の攻撃を避ける。いい加減、限界だと感じていた。この状況を打破する方法はある。リミッターを解除すれば、変質した由紀子を倒せる。しかし、彼女を倒して終わり――ということではない。約束を違えてしまえば、変質した由紀子を倒した後、除霊屋に捕まってしまう。それでは意味がない。だからといって、このまま耐え続けるのも、そう長く出来る事ではなかった。いっその事、リミッターを解除して逃げ回るか。そんな無駄な足掻きを思いつく程、晃も追いつめられていた。
そんな風に考えを巡らせていると、両足を人影に捕まれた。すぐに刀でその人影を斬ろうとしたら、背後から別の人影が覆いかぶさって来た。気を取られていると、右腕も抑え込まれる。唯一自由な左腕も、その後すぐに抑え込まれた。
「阿蛇螺!」
両腕に寄生している荒縄に呼びかけるが、出てこない。直接抑え込まれると、阿蛇螺も活動できなくなることを、今更晃は知った。何とかして振り払わなければ――と、体を捩っている間に、変質した由紀子が正面から突っ込んできた。右手をもたげている。動けないこの状態では、変質した由紀子の攻撃をまともに受けてしまう。そうなれば、さすがの晃も耐えきれない。リミッターを解除するしかないのか――その時である。
「はぁー!!」
裂帛の声が聞こえた。その後、晃と変質した由紀子の間を、エネルギー波が駆け抜けて行った。櫻が、刀を振り抜き、剣気を放ったのだ。その後ろには、氷女沙夜の姿もあった。遂に、追いついて来たのだ。
「由紀子さーーーん!!」
沙夜が大きな声で呼ぶ。その声に応えて、変質した由紀子が振り向いた。沙夜と由紀子の視線が交じり合う。その瞬間、沙夜の能力が解放された。
現場に向かう途中、沙夜は死神さんから己の能力について、『今必要な事だけ』という前置きを経て聞いた。
沙夜の今分かっている、『特殊で強力な霊媒体質』というのは、能力のおまけみたいなもので、能力の根幹となっているのは、『扉を開けること』。『扉』という概念を持つものなら、物理的なものから精神的なものまで、すべてこじ開ける事が出来る『万能な鍵』。それが、沙夜の能力との事。その能力を制御するものが沙夜にはなく、何故か死神さんが保有しているとのことであったが、これについては訪ねても、『そういうことになっている』と答えをはぐらかした。死神さんと一体化することで、沙夜は己の能力を自由自在に使えるようになるため、その状態で、変質した由紀子の閉ざされた自意識の扉をこじ開けて、侵入し、自意識を叩き起こす事で暴走を止める。それが今回の作戦だと、死神さんは語った。
「そんな事が出来るの? やり方が分からないけど」
『私が指示するから心配するな』
それ以上は、説明する気がないらしく、沙夜も諦めるしかなかった。
そして、死神さんと一体化し――死神さんが、沙夜の体に溶けるように消えて行った。
沙夜は己の力を変質した由紀子に対して解き放った。
最初に味わった感覚は、落下だった。真っ赤に染められた空間を、ただひたすら『落ちていた』。それは、感覚的なもの。周りを見渡しても、どちらが上でどちらが下なのか、そんなものはさっぱり分からない。故に、『落ちている』ような気がして、上に登っているのかもしれないし、左右に動いているだけなのかもしれない。
『時間が勿体ない。一気に最奥まで行くぞ』
頭の中に、一体化している死神さんの声が響いた。沙夜はそれに抗わず、言われるがまま落ちて行く。間もなくして、ただひたすらに赤い空間の果てに、真っ白な光が見えた。徐々に近づいてくるその光。そこが到着点なのだろう。死神さんは、特別指示をしなかった。そのため、沙夜はそのまま光の中へと突入していった。
無音。閉じていた瞼を開けると、一面の草原が飛び込んできた。
「ここは……」
草原なのかと思った。しかし、良く見ていると違う。周りは、深い緑で覆われており、ぽっかりと空いた空間に背の低い草がみっちりと生えている。そんな場所だった。空を仰ぐと、同じくぽっかりと切り取られたような青い空が収まっていた。雲一つない。心が清々しくなる程の晴天である。
現実かと思えてしまう程の光景。しかし、音もしなければ風も吹いていない。その空虚な感覚は、到底現実ではなかった。
中央に大きな岩が鎮座している。背丈は、身長が150cmの沙夜よりも少し低い。その下は、ほとんど地面に埋没しているようだが、出ている部分から考えると、背丈だけでも3メートルはあるのかしれない。
その岩の上に、人影があった。沙夜に背を向ける形で、膝を抱えて座っている。まるで、岩の上に小さな岩を乗っけているような感じである。長い髪が、背中全てを覆っている事から、性別は多分女性。それぐらいの事しか分からない。
「あれが……由紀子さんだよね?」
『ここは彼女の心の中だ。他人がいるはずがない』
全くその通りである。
「これからどうしたらいいの?」
『心を鎮めさせればいい』
「どうやって?」
『お前の能力は、己の気持ちを相手に植え付けることも可能だ。相手の心を穏やかにするように思い、そして触れるだけでいい』
沙夜は、己の右手を見た。『己の気持ちを相手に植え付けることも可能だ』。それが意味する事。沙夜には、実体験があった。『死ね』と思い、相手の精神を『殺した』。それはずっと昔の話。沙夜にとって、一番知られたくない過去。その事実から目を瞑るように右手を閉じ、沙夜は歩き出した。
難しい事は考える必要はない。ただ、思えばいい。これからもずっと一緒だと。由紀子の笑った顔を想像しながら、沙夜は女性の背に手を触れた。その瞬間、グン! と後ろ側へと引っ張られる感覚が襲う。次に来た感覚は、浮上。そんな感覚に翻弄されていると、背を向けていた女性が振り返った。
「……由紀子さん?」
その顔は、沙夜の知っている顔ではなかった。
『役目は終えた。戻るぞ』
急速に体が浮き上がっていく。かと思えば、沙夜はぱちりと目を覚ました。
沙夜の能力が解放された瞬間、変質した由紀子は意識を失い、それに伴い人影も消えて行った。同時に意識を失った沙夜と共に、砂浜に寝かされる二人。状況は分からないままであるが、それぞれが一息ついていた。ついていないのは、晃とそして櫻の二人だけ。
「これで僕の役目は終えた。契約通り、帰らせてもらうよ」
晃の言葉に椿は応えない。俯いたまま。無言は肯定だと取り、踵を返そうとしたその時である。
「待って」
櫻が呼び止めた。彼女は、抜身のままだった刀を静かに構える。
「除霊屋は僕に手を出さない。そういう契約のはず」
「そう、なら私は除霊士を辞める。これで、その契約に従う必要はなくなった」
晃は、肩ごしに櫻を見つめる。櫻は、そんな晃をねめつけていた。
「ずっと探していた。久しぶりと言っても、その反応だと覚えていないみたいね。それなら別にそれでいい。私は、アンタを殺せるならそれでいい」
晃はこの時、異様な動悸に悩まされていた。表面上は冷静を装っていたが、内心はそれどころではない。目の前の少女を知っている自分と、それを知らないと言い切る自分がいて、ぐちゃぐちゃになっている。どちらが正しいのかは分からない。分からないが、分かったこともある。
心を締め付けるその思いは、間違いなく『喜び』だ。
心を震わせるその思いは、間違いなく『恐怖』だ。
十年振りの兄と妹の再会。片方は殺意を向け、片方は混迷の中に居て、第三者である椿は、『手を出さない』と口にしてしまった以上、晃に干渉できないし、櫻にはどう対応していいのか分からない。沙夜は、いまだ眠りの中。このままでは、櫻の思いを止める者がいない。その結果起こる事は、兄と妹の殺し合いだ。
張りつめられたこの緊迫とした空気が弾けようとしたその時である。
「阿蛇螺使いの晃を確保せよ」
全く別の方向から、そんな声が聞こえた。堤防の上に、一人の少女の姿があった。目が醒めるような青い瞳に、美しい青い髪。少し青みを帯びた衣を身に纏った、年の頃は中学生ぐらいに見える、そんな少女。
「……山神の歌巫女!」
晃が、表情を歪めた。少女の名は、水及。橘家の後見人であり、この櫻町で最も警戒していた相手。
「相変わらず、その不愉快な通り名が定着している事に、憤りを感じるな」
水及は、姿見からは想像できない不遜な喋り方をする。
「除霊屋は、僕に手を出さない。橘椿とそう契約した」
「そうか。しかし、その契約を私が承認した記憶はない。末端の人間が組んだ契約に、どれほどの重みがある。この私こそが、橘家の最終意思決定権を持っているのだ。そんなくだらない契約は、却下だ。椿、そこの式と櫻を使って、その男を確保せよ。あぁ、櫻、お前にも言っておく。除霊屋を辞めるという先程の言葉な、私は承認していない。まだお前は除霊士だ。私の命令には従ってもらうぞ。従わないというのであれば、それ相応の罰を受けてもらう」
櫻は、唇を噛みしめる。水及の言葉は、規約的にもそして物理的にも絶対だ。ここで櫻が水及の言葉に従わなかったとしても、水及は実力を持って櫻を制圧する。それには抗えない。櫻だって分かっている。あの人の姿をした水及という化け物に対して、櫻は何一つとして勝つ方法がないという事を。
「阿蛇螺使いの晃、投降しなさい。この状況下で、あなたが逃げられる可能性は万に一つもありません。武器を捨てて、投降しなさい」
晃は、考えを巡らせる。どうやったら逃げられるのか。しかし、それはすぐに『無理』という結論に至る。リミットを解除して、椿やその式、櫻を打ち倒した所で何の意味がある。結局は、水及には勝てない。水及に勝ったとしても、椿や式、櫻と戦う力が残らない。この場から逃げ出した所で、除霊屋の感応士が晃を逃すはずがない。今の体力では、感応士の索敵範囲からは到底抜け出す事も出来ない。
つまり、打つ手がない。
晃は、持っていた刀を放り捨て、全ての武装を解除し、静かに両手を挙げた。
何合目のぶつかり合いか。もう数えるのが馬鹿らしいほど、ぶつけ合った。勝彦の刀を掻い潜り、鬼神皇は金棒を突きだす。それは鬼神皇にとって、会心の一撃だと自負できるものであった。勝彦は反応できず、左腕が吹っ飛んだ。鬼神皇の暗い笑い。その笑みが、瞬時に驚きへと変わる。
「影主っ!」
吹っ飛んだ腕の代わりに、黒い影が湧いてきて、腕の姿を象る。そして、それはすぐに色を持ち、勝彦の左腕となった。
「こいつ! 人間辞めてやがる!」
会心の一撃を放てば、その後大きな隙が出来る。勝彦は、渾身の力で鬼神皇に刀を振り下ろした。しかし、また鬼神皇の分厚い障壁に阻まれ、鬼神皇に少しばかりの傷をつけるに留まってしまう。
勝彦の一撃で後方へと弾き飛ばされた鬼神皇は、態勢を整えつつ、踏み止まった。
「はぁ……馬鹿らしい。ちょっと休憩しようぜ」
鬼神皇は、金棒を杖代わりにしてそれに寄りかかった。勝彦は、構えを解かない。
勝彦と鬼神皇の戦いは、お互いに決定打を持たないという形で、膠着状態へと陥っていた。
「噂には聞いていたが、本当に『不死身』だったとはな。驚いたぜ。残念ながら、詰みだ。今の俺に、お前を殺しつくすだけの力はねぇ。そして、お前にも俺を殺せるだけの手がない。そういうわけだから、事が終わるまで話でもしてようや」
「道を開ける気はないんだな」
「それはねぇ。無理に通るつもりなら相手をするが、正直無駄だぜ。俺たちの間で、決着はつかない」
勝彦は、大きな嘆息を吐いて、刀を鞘に収めた。
「それで、お前の本当の目的とやらを話してくれるのか?」
「別にいいぜ」
あっさりと鬼神皇は、快諾した。
「世の中、壁に耳あり障子に目ありで、内容は抽象的なものになっちまうが、俺の目的は……そうだな、強くなりてぇ、という所か。そのために、晃をお前たちに返す事にしたのさ。ただ、簡単に返すのも面白くねぇから、一芝居打った、そういうことだな」
鬼神皇は無邪気に笑っている。癪に障ったが、勝彦は我慢した。
「晃を頼む。その代わりに一つ、俺の知っている話をしよう。お前たちは、さっきの強力な霊力の波、それの正体についてはどれぐらい知っている? あぁー、中身についてはどうでもいい。ただ、『知っている』、『知らない』どちらかで答えろ」
「ほとんど『知らない』だ」
鬼神皇は、にんまりと笑った。鬼であるくせに、随分と表情が豊かな奴だ――勝彦は、そう思った。
「なら、俺の話はお前たちにとっては有益な話だろうな。俺は、あの霊力の持ち主について、心当たりがある。名前は知らない。ただアイツは、『赤き瞳の巫女』と呼ばれていた」
「赤き瞳の巫女……最初の頃にその名前を聞いたな」
「俺を退けた奴の一人だ。もう、千五百年は前の話さ。俺と戦った後、くたばったと聞いたが、どうやら自分の力を後世に継承させる秘術みたいなものを、作っておいたみたいだな。風の噂で、彼女の血を引く者達は、『尼崎』と名乗ったと聞いている」
驚く勝彦を見て、鬼神皇は満足げである。
「なぜ、橘家は尼崎家を執拗に滅ぼそうとしたのか。そこら辺の事も踏まえて、考えて見れば、見えてくるものがあるかもな」
鬼神皇は、金棒を持ち上げ左肩に乗せた。
「さて、そろそろいいだろうから、帰るわ。橘勝彦、楽しかったぜ。最後にもう一つ。俺とお前は、ある意味同種かもしれん。じゃぁな」
鬼神皇は、飛ぶようにして石段を降りて行った。勝彦はそれを追いかけず見送る。大きなため息を吐き、凝った肩を解すため、右肩を回していると報告が入った。
『赤鬼の封印が完了しました』
なんとか成功したようである。ただ、大変なのはこれからだ。勝彦は、橘家へと戻って行った。
櫻町を離れた鬼神皇は、大手町の海沿いにある港までやって来ていた。除霊屋の追っ手はない。それはそうだろう。勝彦が倒せなかった彼を追撃しても、無駄な犠牲が増えるだけである。それに、まだ宵の口であったことから、櫻町周辺は大騒ぎになっているため、そちらの対応をするので一杯一杯であろう。
波の音しかしない港。そこを歩いていると、少し先に人の気配がある事に気付いた。追っ手は来ないはずだと思い込んでいただけに、少しばかり意外な顔をして、鬼神皇は足を止めた。
「俺を追いかけて来るほどの余裕があるのか?」
馬鹿にしたように言う。しかし、相手は答えず、進んできた。街灯が、追っ手の姿を照らす。その姿を見て、鬼神皇は驚き、慌てて金棒を身構えた。
「げっ! 出やがったな、青芋虫!」
「誰が青芋虫だ。腐ったジャガイモめ」
青い髪に青い瞳。その正体は、橘家の後継人であり、勝彦の上に位置する存在、水及である。最後の最後に少し顔を出したと報告があったが、まさか追いかけて来るとは思いもしなかった。
「私の可愛い相棒をいじめてくれたみたいだな。殺してやるから、ここで死ね」
「おぉー、こえぇー。一応、人の心があったのだな。しかし、それなら何故介入してこなかった? どうせ、ずっと見ていたんだろう。もしかして、アレか。愛する人がいじめられているのを見て、興奮したの……」
真横を霊力の塊が横切って行き、背後で凄まじい爆裂音を奏でた。爆風が、鬼神皇の髪をなびかせる。
「……冗談だ。ガチで怒るなよ。それで、何の用だ? 本気で殺しにきたわけじゃないんだろう?」
鬼神皇は、全く動じてはいなかったが、構えは解かなかった。この水及という女、瞬間湯沸かし器のようなものだ。先程の攻撃のように、キレたら何をするか分からない。
「晃は確かに預かった。それによってお前たちは、橘家を攻撃するだけの理由を得た。これは、宣誓布告だと取っていいのか?」
「……俺は、お前と戦う気はねぇよ。晃には、俺たち側で出来る限りのことをした。これから必要なのは、『人が人であるが故の強さ』という奴だ。だから、託しに来た。それだけだ。まぁ、その出来を見るためにこれからちょっかいをかけるが、全面抗争をするつもりはねぇよ」
「全ての事が終わった時、鬼神皇、お前だけは私が殺す」
「その時は、殺されてやるよ」
水及は、鬼神皇に背を向け、近くの細道に消えて行った。下がコンクリートである以上、彼女が保有している『道』は使えないのだろう。鬼神皇は、やれやれといった顔で、水及が去っていくのを見つめていた。
「よっぽどあの男の事が大切なのか。妙な所で乙女だから扱いに困るぜ」
鬼神皇は、港に泊めておいた小型船舶に乗り込んだ。見た目は、普通の船と変わらないが、操縦席の所をごっそりとくり貫いて、そこに特殊機材を詰め込んでいる。船内に入ると、コンピューターに向かっていた分厚い眼鏡をかけた男が、顔を向けて来た。死大王の一人、名前はドクトルGという。鬼神会の保有している技術を開発、管理、運営している男である。
「水及が出て来た時は、『あぁ、これで鬼神皇もくたばったか。ざまぁー』と思っていたのですが、なかなかどうして。まさか、話をするだけで去っていくとは、理解に苦しみますな」
「悪かったな。生きていて。それよりも、『思兼』の仕上がりはどうだ?」
ドクトルGは、鬼神会で唯一、鬼神皇に『様』を付けない。彼は部下と言うよりも、協力者と言った方がいい立場であること、そして個人的に鬼神皇を恨んでいる事、そんな理由があるためだ。
「ナンバー3ですよ。個体名を付けると、情が湧きますよ。あぁ、鬼に情なんてありませんか。ですよねー」
「思兼の仕上がりはどうだ?」
「上々ですよ。後は、『ジャミング』をテストすれば完成ですね」
鬼神皇は、部屋の奥に行き、仕切られたカーテンを開けて、さらに奥へ。そこには、多くのディスプレイと電子機器が所狭しと配置してあり、その中央にリクライニングチェアーが設置してあった。そこに、小柄な少女が一人座っている。
「気分はどうだ?」
「問題ありません」
抑揚のない声で、少女が答える。
「そうか。なら、このまま船の運転を任せる」
「了解しました」
「帰ったら、お前が好きなものをたくさん食べさせてやるからな」
「ありがとうございます」
そこに喜びはない。鬼神皇は舌打ちをして、ドクトルGの下へと戻った。
「おい! また薬の量を増やしただろう!」
「えぇ、増やしましたが何か。能力を安定させるのに、感情が邪魔でしてね。なんですか、試験体を可愛がって、晃の変わりでも欲しいのですか? なら、牢獄に転がしている適当な試験体をペットにどうぞ。人格プログラムのストックは、瑠璃葉の管轄なので、そっちに言ってくださいね。リアルダッチワイフ、好きな人格をインストールしてお使いください。というのは、売れるかもしれませんね。ふむふむ」
頭を粉砕してやろうかと思ったが、彼の頭脳は必須だ。それに、彼をこういう性格にしてしまったのは、鬼神皇の行動の結果である。鬼神皇は、ぐっと堪えて空いている椅子にどっかりと座りこんだ。
「さて、もう少しだな。晃が完成すれば、今度こそ……」
鬼神皇は、可能性を描きながら、静かに瞳を閉じ眠りへと落ちて行った。
明けて翌日――。
小泉由紀子は、橘家の一室に寝かされていた。傍には、水及の姿。目が醒めて、再び暴走するようであるならば、水及が再封印する手はずになっていた。
時刻は、六時を少し回った頃。夏の暑さは、朝の涼しさをあっという間に塗り替えてしまう。すでにじんわりと熱い。その暑さが、由紀子の覚醒を促したのか、小さな吐息を零し、身を捩る。水及はそれを聞いて、閉じていた瞳を開いた。
「目が醒めましたか?」
いつもの尊大で古臭い韻を踏む話し方ではなく、丁寧で優しい声音。水及の猫かぶりモードである。
「暑い……」
由紀子はそう呟き、そして水及の方を見た。まだ本覚醒ではないため、ぼんやりとした顔で水及の顔を見ている。
「青い髪……青い瞳……山神の歌……み……こ?」
途端に目を大きく開いた由紀子は、勢いよく起き上がり、反対側の壁まで逃げて行った。怯えている。水及はもう一つ気づいた。本来黒である瞳の色が、まだ赤であることに。
「どうして、ここに水及が! 月子! 月子!」
周りをきょろきょろしながら、由紀子は名前を呼ぶ。月子とは、尼崎月子のことであろうか。尼崎月子は、十年前の『尼崎家の崩壊』の現場に居ながら生き残った二人のうちの一人。今は、誰もいなくなった尼崎家の本家を一人で管理している。
呆気にとられていた水及は、その声で我に返った。
「……問います。あなたは誰ですか?」
由紀子は、じっと水及を睨みつけている。
「尼崎茜、です。お初にお目にかかります、水及……様。一体、私に何用ですか?」
小泉由紀子。それは、後から付けた偽名である。しかし、彼女は『尼崎茜』だと言う。それは彼女の本名ではない。小泉由紀子の本名は、尼崎『雪子』だ。だから、『由紀子』と漢字を変えたのだ。
「これはどういうこと……?」
驚く水及。その水及を睨みつける――尼崎茜と名乗る、小泉由紀子。
一方、橘家の地下では拘束された晃の姿があった。彼のデータを取るため、朝から様々な医療機械が、地下に運び込まれ、セッティングが進んでいる。
膨大な事後処理に追われる日々が、始まろうとしていた。