沙夜の友達
2005年 8月13日
お盆は、親戚と顔を会わせたくないため、櫻の家に泊まることになった沙夜。商店街で買い物を済ませた後、偶然コンビニの前で由紀子と出会い、一緒に帰ることになった。それは、いつもではないが――沙夜にとっては、日常そのものであった。しかし、事態は急転した。正体不明の力を操る少年が、襲ってきたのだ。戦い、追われ、追いつめられ――そして、由紀子が倒れた。それは悪夢のようであった。いや、悪夢であって欲しいと願うべき『現実』だった。しかし、悪夢の始まりはむしろそれからであった。
『オォオォォオオォォォオォォォォオ』
それを人の声と称していいものか。由紀子は、闇夜に吠えた。赤い光が収束し、それは天高く伸び曇天を貫く。
由紀子の中に眠る、赤い鬼の暴走。長い夜が始まった瞬間だった。しかしそれは、これから四ヶ月後に起こる本覚醒の予兆でしかなかった。
『覚醒予兆』。十年前の過去と、由紀子の中に眠る因果が交わり、大きな機転となる――。
2005年 5月中旬
「今日から一緒に勉強することになった、氷女沙夜さんだ。病気のため、長い間入院生活をしていたから、分からない事や戸惑うことがたくさんあると思う。だから、皆で支えてやってくれ」
黒板に『氷女沙夜』と書き、教壇に立つ少女を紹介する男の教師。少女は、黒い髪を二つに結い、それぞれ三つ編みにしている。線の細い、色白というか青白い、先生の言葉通りの病弱な印象を与える子である。
教室が少しざわめく。その理由は、少女――氷女沙夜の瞳にあった。彼女の瞳は、湖を思い起こさせるような綺麗な青色だったのだ。
生徒のざわめきに、教師もその事を思い出す
「あぁ、そうだった。彼女は、ご先祖に西洋の血が混ざっているらしくて……皆は、『先祖帰り』という言葉を知っているか? 突然、昔の遺伝子が表に出て来ることがあるそうだ。氷女さんの瞳は、そういうことだ。皆と色が違うからと言って、からかったりしないように。氷女さん、皆に挨拶を」
「あ、はい。えと、氷女沙夜です。よろしく……お願いします……」
か細い声で、最後の方はほとんど聞き取れない。沙夜は、顔を隠すように深く頭を下げた。
そんな沙夜を興味深そうに見つめている、どこか品のある少女が一人。そして、教室の隅で沙夜を見もせず、窓から見える景色を眺めているポニーテールの髪型の少女。
この三人の物語は、ここから始まった――。
氷女沙夜。彼女は、特殊で強力な『霊媒体質』の持ち主である。他の人には見えないものを見て、感じない事を感じ、それに恐れをなして、パニックになる。異質な青い瞳の事も合わさり、彼女は社会に適合する事が出来なかった。親にも厄病神扱いされた彼女は、追い出されるような形で、ここ櫻町に住む祖母の家に引っ越してきた。それが、今年の四月上旬のことである。
沙夜は、祖母の家からほとんど出ず、日がな一日何もせず過ごしていた。祖母は、沙夜が持つ能力を理解しており、祖母だけが沙夜を沙夜らしく扱ってくれた。そのため沙夜は、久しぶりに心穏やかに日々を過ごせていた。
そんな沙夜の生活に変化が訪れたのが、五月のゴールデンウィークの時である。沙夜は、両手に包帯を巻く不思議な少女を『視て』――今となっては、彼女が『人』だったのかどうかも分からない、それを追いかけて外に出た時、ツインテールの少女とぶつかった。少女の名前は、小泉由紀子。由紀子の傍には、彼女の友達である天野神華の姿もあった。
由紀子と神華は、沙夜の瞳を異質に思う事もなく、沙夜が『霊媒体質』を露わにした時も、その事実を受け止めた。そういう意味では、非常に稀有な少女たちであったと言える。沙夜は、そんな二人と接することで、ほとんど諦めていた己の能力の封印――その事について、もう一度考える事となった。
青い瞳は仕方がない。しかし、奇怪で奇妙な行動を誘発させる『霊媒体質』さえ何とか出来れば、過去、沙夜が受けて来たような酷い迫害を受ける事はなくなるかもしれない。
そんな『希望』を抱き、そして沙夜は能力を封印することが出来るかもしれない人物に辿り着く。
櫻町は、元々沙夜の一族の発祥の地である。サトリという、沙夜と同じ能力を有していたと思われる女性を始祖としており、そのサトリという女性に能力を制御する術を与えた人物がいたとされていた。その人物の名が、伝承に残っていたのだ。
『水及』。
櫻町の北側に位置する歌宝山に住まう巫女――と、伝承にあった。沙夜は、駄目元で由紀子と神華の協力を仰ぎ、歌宝山へと向かった。
水及は実在した。『水及は世襲制』と語る、青い髪、青い瞳の年頃は沙夜と同じぐらいの少女。しかし、沙夜は『感じ』ていた。目の前の少女は、どこか『異質』。到底、人には思えなかった。そのため、由紀子と神華が鵜呑みにしていた『世襲制』については、沙夜は信じていなかった。直感的に、伝承に記されていた『水及』、そのものだと思っていた。
水及の手によって、沙夜の能力の鑑別が行われる。そこで分かったことが一つ。沙夜には、能力をコントロールすべき『堰』というものが存在していないということ。そのため、その『堰』を外付けして、封印することとなった。しかし沙夜の能力は、強大で異質。並大抵のものでは、完全に抑え込むことは不可能。そんな時、水及はある事を思い出した。沙夜の能力を封印する事が出来るものを、かつて自分が作ったことがあるということを。それは、今は亡き人の品であり、橘家に管理されていた。
沙夜は、由紀子と共に橘家へ赴き、そこで橘櫻と出会う。沙夜はこの時能力の暴走により、櫻の過去を追体験してしまう。その事に気付いた櫻と揉め事になりそうになるも、その場は櫻の姉である椿が、上手くとりなしてくれた。
橘家の当主である勝彦から、『鎮めの契り』という数珠を受け取り、沙夜の能力は完全に封印された。沙夜は、ようやく普通の人の生活を取り戻したのだ。
能力が封印された以上、外に出る事を恐れる必要はなくなった。年相応の日常を取り戻すためにも、沙夜は復学する決意を決め、そして現在に至っている。
復学するにあたって、驚いた事があった。沙夜が通うことになった櫻中学には、表向きには公開されていないが、『霊的な特殊学級』というものが存在していた。ようは、特殊な能力や霊的な力を持つ子たちが集まっているクラスである。本来は、どこの小中学校にもそういうクラスを作るように、霊的な環境を管理する除霊屋から通達されているが、中には通達を無視する学校も存在する。沙夜は、たまたまそういう学校に通っていたのだろう――と語ったのが、現在の沙夜の担任である、小泉錬牙である。小泉錬牙は、除霊屋の一つである小泉家が派遣してきた除霊士であった。
錬牙と面談したのは、復学する一週間前。その際、錬牙から紹介されたのが――。
「鏑木優子です。よろしくね」
沙夜が編入されるクラスの委員長をしている、鏑木優子だった。同じ年とは思えないほど落ち着いた、そしていて精錬された面持ちの少女である。優しい笑顔は、見るものを幸せにする慈愛に満ちていた。しかし沙夜は、そんな優子を見て、たじろいでいた。
得体が知れない――。
沙夜の優子に対する第一印象は、それだった。
転校生の初日は、現実でも漫画やアニメでもテンプレートな様式でもあるのか――そう思えるほど、休み時間となれば色々な質問が沙夜に寄せられた。出身から血液型、病気のことまで聞かれた。病気は、先生と話をして決めた架空のものなので、その質問が一番心臓に悪かった。少しして、優子が介入して解散させられ、その後はずっと優子が沙夜のサポートをしてくれることなった。サポートしてくれることはありがたい事であったが、正直、優子には馴染めそうにもない――沙夜はそんな事を内心思っていた。
沙夜は、学校には嫌な思い出しかない。そんな彼女にとっては、今の学校生活は驚く程平穏な日々であった。能力を封印している『鎮めの契り』には、感謝で一杯である。
櫻町は、田舎町。閉鎖感の強い田舎町では、縄張り意識が強く働くかと思われたが、沙夜のクラスメートは、おおらかな子が多かった。沙夜は、瞳の色が違うという理由で不当な扱いを受ける事もなく、コミュニケーション能力の欠如が著しい沙夜でも、クラスの中に少しずつ溶け込むことが出来ていた。
一週間が何事もなく過ぎた。久しぶりの復学のため勉強に追いつくのは大変であったが、沙夜はそれを苦痛とは感じてはいなかった。そんな沙夜の今の悩みは、二点。復学するにあたって、目的の一つだった『橘櫻にあの日の事を謝る』が達成できていないこと。櫻の過去を、意識したわけではないが結果的に『視て』しまったことを、沙夜は謝りたいとずっと思っていた。もう一点は、鏑木優子である。一週間経っても、まったく慣れない。他の人には慈愛に満ちた笑顔であろうが、沙夜にとっては何を考えているか分からない得体の知れないものにしか見えないのだ。そろそろ、鏑木優子から離れたい――それがもう一つの悩みであった。
午前中の授業。休み時間を挟んで、移動教室。一階の視聴覚室へと向かうことになった。やはり優子と一緒である。他の生徒と共に、視聴覚室を目指している途中、沙夜は筆箱を持ってきていない事に気付く。
「私のを貸しますよ」
と優子が言ったが、沙夜は丁寧に断って教室へと急いで戻った。しかし、教室の鍵はすでに閉められていた。教室の鍵は、その日の日直が管理しており、教室を離れる時は職員室に預けてある。職員室は二階である。職員室に赴き、担任がいたので事情を説明して、鍵を借り、教室へと戻った。
誰もいない教室。両隣の教室のざわめきがあるため、そこに寂寥感はなかった。自分の机の引き出しから筆箱を取り出し――その時である。
「……ん?」
両隣の教室のざわめきが消えた。完全なる無音状態。筆箱の中を転がるシャーペンの音が響くほどの静けさ。同時に、物凄い寒気が走った。沙夜は直感した。この現象は、久しく忘れていたものだ。沙夜は、筆箱と教科書を胸に抱き、勢い良く振り返る。
誰もいない。教室の扉は閉まっている。沙夜は、開けっ放しにしてきた記憶があるため、『何か』が閉めたのだろう。唾を飲み、扉まで走ろうとしたその瞬間、沙夜は背後から頭を掴まれ、目の前にあった机に叩きつけられていた。
暗転する世界。続いて、机と衝突した右頬から痛み、そして血液の味が口に広がる。
『ヤット……掴マエタ』
地を這うような低い男の声だった。沙夜の位置からは、自分の頭を固定している存在の姿は見えない。ただ、自分の頭を固定している手から石のように冷たい感触が伝わって来ていた。
確信する。背後にいるのは、人ではない『何か』だ。沙夜は何度も彼らと接触してきた。だからこそ間違えようがない。淀んだ気配、冷たい石のような体――幸いだったのは、鎮めの契りの効果で、人ではない『何か』の感情が流入してこない事。暗く冷たい井戸の底。渦巻く黒い炎は、内部から体を焼く。それは、生きている内に味わう苦痛の中ではまさにトップクラスと言っていいだろう。
『ズット……視テイタ……寄コセ……オ前ノ……目……人ノ心ヲ見通ス……ソノ千里眼……寄コセ』
目の前に黒い手が伸びて来る。ゆったりと鎌をもたげるカマキリのように、人差し指を一本、まっすぐに伸ばした。恐怖で両の眼を瞑る。頭を押さえられている今、沙夜の非力な力では抜け出す事が出来ない。そんな沙夜の瞼に、人差し指が密着する。このまま押して、目玉を抉り取るつもりなのだろう。
沙夜は、心の中で叫ぶ。『助けて』、『助けて』――と。沙夜は知っている。こういう状況に陥った時、必ず彼女を助けてくれる存在が現れる事を。その存在は、死神の面を付け、黒いマントを羽織った不気味な存在である。しかし、そんな不気味な存在でありながらも、今まで何度も沙夜を助けてくれた。名前を名乗らないため、沙夜はそれをそのまま『死神さん』と呼んでいた。
今回もきっと来る。いつも通り助けに来る――。
『ギッ! 貴様……ヒィ!』
頭が軽くなった。押さえていた手がなくなったのだ。その後すぐに、耳を劈く断末魔が響いたかと思うと、急に喧噪が戻って来た。寒気も消失する。
目を開けて、沙夜は驚いた。そこにはいつものように件の死神が突っ立っていると思っていたからだ。沙夜から少し離れた位置、沙夜は教室の中央付近に居たのだが、中央寄りの窓側にポニーテールの少女――橘櫻の姿があった。手には、手の平ほどの刃の短刀を持っており、丁度それを鞘に納めてセーラー服の中に押し込んでいる所であった。
「た、橘さん……?」
「もう安心していい。妖は、滅敵した」
沙夜は、力が抜けて滑り落ちるようにして床に座り込んだ。櫻は傍に近寄って来たが、手を差し伸べる事はしなかった。
「早く行こう。授業が始まってしまう」
「あ、あの……腰が抜けて……」
櫻は、大きな嘆息を吐いた後、隣の席の椅子を机から出して座った。
「手を貸してあげたいけど、あなたにはもう触りたくない。例え、能力が封印されていようともね」
「だよね……あの、ありがとう。助けてくれて。す、すぐに立てるように頑張るから。先に行っといて」
「妖に襲われたばかりのあなたを、このまま放置していくわけにはいかない。ここで治るまで、待っている」
「ご、ごめんね……」
「謝らなくていい。あなたは被害者なのだから」
「ち、違うの。そうじゃなくて……」
櫻は不思議そうな顔をする。
「違う?」
「こ、この前の事も含めて……あの、過去を見てしまった事も含めて、ごめんなさい。ごめんなさい……ずっと、橘さんにそう言いたかった」
沙夜は涙を流した。それは悲しいからとか悔しいからとかそういう理由からの涙ではなく、感情の昂ぶりがそうさせていた。
櫻は、静かにそんな沙夜を見つめる。その表情には、憐憫も憤りも何もない。ただ、淡々としていた。
「その件なら、私も悪かったと思っている。手を上げるなんて、私もどうかしていた。だから、それもあなたが謝る事じゃない。むしろ、私があなたに謝らないといけない事。ごめんなさい。あの時のあなたに非はなかった」
櫻は、大きなため息を吐いて、苦笑していた。
「やっと言えた。あなたに近づけば迷惑になると思っていたから、なかなか言い出せる機会がなかった」
「迷惑に……なる?」
「私、クラスで孤立しているから。そんな私が傍にいると、折角新しい生活を初めたあなたの障害になる」
沙夜は、再び驚いていた。てっきり櫻に嫌われているものだと思っていたからだ。
「……前言撤回する」
櫻は、立ち上がると沙夜をひょいっと軽々と抱きかかえた。沙夜は、三度目の驚きである。
「た、橘さん?!」
「本当は少し、あなたに対して苛立ちもあった。だから、つい『触りたくない』なんてこと口走ってしまった。でも、あなたはそんな私を責めるどころか、あなたには非がないのに、私の過去を見た事まで謝ってくれた。私はただ……違う、苛立っていたのは、あなたに対してではない。私自身だ。事実を受け止めきれない、意固地な自分自身に苛立っていただけ。ごめんなさい。私は、あなたを傷つけてばかり。この通り、性格ねじ曲っていてね。犬にでも噛まれたと思って」
櫻は、再び苦笑していた。話している内に、少しずつ気持ちの整理が付いて来て、その結果己自身の滑稽さに気付いた――そんな感じであった。
「橘さんは、優しい人なんですね」
「……私が?」
意外な言葉を投げかけられて、驚く櫻。
「だって、こんなにも私の事、気遣ってくれている。橘さんは、優しい人です」
「わ、私が優しいわけ……ない」
櫻は顔を染めて、視線を逸らした。
「保健室に運ぶから。先生には、私から説明しておく」
それが、沙夜が櫻とまともに話した初めての日だった。
櫻の態度はそれ以降もさほど変わらなかった。沙夜に近づいてくることもなく、沙夜もまた櫻の気持ちを汲んで、進んでは近づかなかった。ただ、沙夜は櫻ともっと話がしたいと強く思っていた。
櫻とまともに話した日から、三日が経った日の事である。沙夜の下駄箱に、手紙が入っていた。質素な白い封筒に入れられている。表書きには、『氷女沙夜さまへ』と書いてあり、裏には『相談したいことがあります。刈谷哲也』と書かれてあった。
刈谷哲也。聞いたことのない名前である。これがいわゆるラブレターという物なのか? そう思いはしたが、それにしては色気のない封筒であり、『相談したいこと』とも書いてある。周りの目を気にして、とりあえずポケットの中に封筒を押し込んだ。
休み時間、トイレの個室で封筒を開封した。中に入っていたのは、味気のない便箋だった。
『放課後、二年七組で』
真ん中辺りにそれだけ書いてあった。二年七組とは、沙夜のクラスのことである。ますます分からない内容だ。無視してしまってもいいが、どんな内容かは気になる。その時、沙夜の視線に鎮めの契りが映りこんだ。
「……ちょっとだけなら」
鎮めの契りを外し、便箋を握る。便箋に残る思いを辿ろうとしているのだ。時間としては、ほんの数秒。すぐに鎮めの契りを付け直す。さすがに外した状態で長くいるのは、怖かった。その外している間に感じられたことは、『悪意はない』ことと『複雑な心境』だった。複雑な心境の方は、もっと辿っていれば分かったのだろうが、僅かな時間では感情が混ざり合い過ぎてよく分からなかった。この手紙を書くにあたって、散々悩んだのだろう。
沙夜は、とりあえず『悪意がない』ため、指示に従ってみる事にした。
放課後、残って勉強をしたいと言って、日直から鍵を預かり、日直を見送った。二つある出入り口の教壇と反対方向の扉の前の席に座り、その扉の鍵を閉めた。これで、手紙の相手は教壇側からしか入って来られない。不審な動きをすれば、鍵を開けて逃げるだけである。廊下から鍵を開けるには鍵を差し込まないといけないが、中から鍵を開ける場合は、鍵を下から上にスライドさせるだけでいい。
時刻が、十六時半を回ろうとしている。日直が帰ったのが、十六時前。三十分も経つと、さすがに廊下に生徒の気配がなくなる。遠くから、部活動の生徒の声が響いてくる。静かで物悲しい、放課後の教室。
それから間もなくして、教壇側の扉が開いた。入って来たのは、息を呑むほどの美少年である。沙夜は、その顔を見て思い出した。クラスメートが、この学校には『王子』がいると話しており、少し離れた場所を歩いていた少年を指さし、『あれが王子よ』と話してくれたことを。その少年こそ、教室に入って来た少年だった。少年――刈谷哲也は、沙夜を見つけて優しい笑みを浮かべる。それは、鏑木優子が浮かべる欺瞞の笑みと違い、沙夜を安心させようとする優しさを帯びていた。
「こんな形で呼び出して、ごめんね。どうしても手紙っというのは苦手で、色々と書くよりは直接話した方がいいと思ったんだ。まぁ、我ながら見事に不審な手紙だったから、待っていてくれるか心配だったけど、良かった」
沙夜は、相手が美少年だからと言って、あっさりと警戒を解いたりはしない。悪意はないが、今の所はそれだけである。
「時間を取らせるわけにはいかないから、単刀直入に話をするね。君に協力してもらいたいことがあるんだ。鏑木優子、彼女の事でね」
哲也は、入り口から動かず話を進めた。
「鏑木さんのこと? あの、私、鏑木さんの事で協力できることなんて……」
「君が鏑木のことを苦手としているのは、遠目に見ていて気づいていたよ。だからこそ、君に相談することにしたんだ」
沙夜は気づいた。この刈谷哲也と言う少年、沙夜と同じで人の表情から感情を読み抜くことに長けていることに。
「鏑木は、僕の許嫁でね」
「……えっ? 許嫁って、ようは結婚するってこと……ですよね?」
「そういうこと。親同士の取り決め、政略結婚だね。こんな田舎の中学校でも、あるんだよね、こんな話が。信じる信じないはこの際どうでもいいから、話を進めるけど、僕は正直、鏑木が嫌いでね。あんな女と将来結婚するなんて、いくらなんでも絶望的な未来さ」
鏑木優子は、刈谷哲也が『王子』と呼ばれているように、彼女も『お姫様』と呼ばれるほど男子の人気を集めている。その優子を、『あんな女』とカテゴリーする哲也。話が理解できず、沙夜は目を白黒させるばかりであった。
「僕が鏑木を嫌いな理由は、多分君と同じさ。鏑木は、自分が鏑木グループの会長の孫娘だから、その会長の孫娘に相応しい優等生を演じている。さらにタチが悪いことに、『演じている事を理解しながらも、それが正しい』と完全に思い込んでいる事。僕から見れば、あんなのは『人形』だよ。面白さも欠片もない」
沙夜は、優子に抱いていた疑問が氷解していくのを感じていた。哲也の話し通りならば、優子のあの得体の知れない笑顔は説明が付く。空っぽ――中身がないことを、沙夜は『怖い』と感じていたのだ。
「立場的に、僕は許嫁の約束に抗えない。大人たちの気持ちが変わって話が流れない限りは、僕は彼女と結婚せざるを得ない。ならば、彼女を変えるしかない。それは分かってはいるんだけど、鏑木は僕のことを嫌っていて、よっぽどの事がない限りは会話が成立しないんだよね、これが。話にならないから、協力者を探している時に、氷女さんが転校して来てくれた。まぁ、協力者と言うよりかはお願いかな。これからも鏑木と一緒に居て欲しい。僕の感だけど、氷女さんは鏑木を変えてくれるような気がするんだ」
「あの……話は分かりました。でも、私に鏑木さんを変える事なんて、出来るとは思えないし、その、鏑木さん苦手だし……」
「鏑木は、あの作り上げた外面は鬱陶しいけど、心根は優しい奴なんだ。僕はそれを知っている。だから、あまり嫌わないでほしい」
哲也は、そこまで話すとまた笑顔を浮かべた。
「氷女さんにこの事を伝えただけで、僕の目的は達成された。無理強いはしないし、これから催促もしない。後は、氷女さんに任せる。長い間、話を聞いてくれてありがとう。話を聞いてくれたお礼は、なんらかの形で返すよ。じゃ、さようなら」
哲也は、話す事を話すとすぐに教室から出て行った。沙夜は、唖然としており、情報の整理が上手く行っていないようであった。
「……鏑木さんか。あの話を聞い後なら、少し見方も変わるかな」
難しい顔で呟いていると、扉をノックする音が響いた。
「いつまでそうしているつもり?」
先程まで哲也が立っていた所に櫻が立っていた。気配も何もなかった。哲也が話している時も、近くで待機していたのだろう。
「この間妖に襲われたばかりだと言うのに、あなたには学習能力がないの?」
「ご、ごめんなさい!」
櫻の傍へと走っていくと、櫻は呆れた顔をして一言。
「鞄。置いていくの?」
「あぁ! 鞄、鞄!」
沙夜は自分の机に鞄を置いて行っている事に気付き、慌てて取りに戻る途中、机の脚に引っかかり、机をなぎ倒しながら派手に倒れた。櫻は、頭を抱える。
「急がなくていいから。ほら」
差し伸べられた手。沙夜は、しばらくその手を見つめていた。
「なに?」
「やっぱり橘さんは優しいな……と思って」
「だから、私は優しくないって言っているだろう!」
櫻が突然大きな声を出した。沙夜は何事かと目を丸くして、自分が何か彼女を怒らせることを言ってしまったと、酷く反省した。
「あ、あの……ごめんなさい。わ、私……えと……」
櫻は差し伸べた手を引っ込め、教室から走り去って行った。
教室を片づけて、職員室に鍵を返しに行くと、担任から小言を言われた。平謝りした後、大きなため息を吐きながら学校を出る。
日が傾いている。寂しげな夕日は、沈んだ心をなおさら重くさせた。校門まで重い足を引きずっていくと、そこには走り去ったはずの櫻が立っていた。腕を組み、不機嫌そうな顔をしている。
「一緒に来て」
櫻は沙夜の返事を待たず、歩き出した。沙夜は、櫻に付いていくことにした。急に怒鳴った理由が分かるかもしれない――そう期待して。
沙夜が毎日通っている通学路から外れて、商店街へと向かう道からも外れ、櫻は一回左折した後は、ずっと直進し続けた。黙々と歩いていく。公園の横を通り過ぎ、道路を渡り、それからすぐの民家の前で足を止めた。古くもなく新しくもない。ただ、人が住んでいる気配がない。表札には、『藤堂』と記されてあった。
櫻の家は、橘神社だ。沙夜には、この家と櫻にどんな繋がりがあるのか、全く分からなかった。
「ここは私の家よ」
櫻は、駐車場の入り口を仕切っている柵を掴む。その手は震えていた。顔は、沙夜の位置からは見えない。
「私の本当の苗字は、『藤堂』。十年前に両親が殺されてね、今の橘家に引き取られた。両親を殺したのは、あなたも見たでしょ? 私の兄よ」
「えっ……?」
櫻の過去を追体験した、その時のことを思い出す。台風の後のように何もかもがなぎ倒されたリビングの中央に、男の子が一人立っていた。両の腕に荒縄が巻かれており、その荒縄から血液が滴り落ちている。櫻は、その男の子に手を伸ばし、小さく囁いた。『お兄ちゃん……どうして……?』と。あの光景が、十年前両親を殺された時の記憶だったのだろう。しかし、疑問点がある。男の子は、小さかった。小学校の低学年、いやまだ小学校にも入っていないかもしれない。そんな年頃の子に、両親を殺害する力も動機もあるとは思えない。そんな疑問を抱きはしたが、沙夜がそれを口にする暇はなかった。
「私は! 両親を殺した兄に復讐するため、橘家を利用している! 兄を殺すためだけに、私は剣を習っている! 除霊士をしている! 私の『今』は、全て『復讐』に費やされている! そんな私が優しいとか、冗談にもほどがある! あなたの傍にいるのは、当主の命令。あなたに何かあれば、私が責任を負わなくてはいけなくなる。そんな面倒を避けるためだけに、あなたの傍にいただけ。私が優しいとか、勘違いも甚だしいのよ!」
櫻の言葉に、どう返答したものか。様々な感情がない交ぜとなり、沙夜は混乱していた。そんな中、それでも沙夜はある言葉をきっかけに、伝えたいことを手繰り寄せた。
「私が、櫻さんを優しいと思っている事実まで、否定しないでください……」
櫻は、『事実を受け止めきれない、意固地な自分自身』と話をしていた。今もそうだ。沙夜の言葉を、櫻は色々な理由をつけて受け入れようとしていない。その事を的確に突いたその言葉に、今度は櫻が困惑した。
一体、自分は何を言っているのだ。これでは前と同じではないか。沙夜が悪いわけではない。結局、悪いのは都合の悪い事実を突っぱねて来た自分自身ではないか――そんな櫻の逡巡。
「私は……!」
櫻にも思う事があり、受け止めたくない事もいくつもある。界隈に紛れ込んでしまった思考は、そう簡単に出口を探り当てる事が出来ない。戸惑う櫻。そして沙夜は、感情の昂ぶりから、遂に顔を両手で覆い、座り込んで泣き出してしまった。
そんな時だった――。
「……どうしたの? 二人とも」
二人に、髪型をツインテールにした少女が声をかけた。この町に来て初めて、沙夜の手を引いてくれた、沙夜にとっては特別な存在。名前は、小泉由紀子。由紀子は、沙夜の事は当然ながら、櫻の事も知っている。櫻の書類上の姉である椿は、中学の時まで同級生であり、今も親友同士だからだ。
場所を目の前の大木公園に移す。中央にそびえ立つ『守り木』と呼ばれる大樹を囲むようにベンチが設置してあり、そこに沙夜と櫻が座り、前に由紀子が立っていた。由紀子は、公園内の自動販売機で缶コーヒーを買い、二人に手渡した。
「一体何があったの? 喧嘩?」
由紀子の問いに、櫻は俯いて答えない。沙夜の方は、どう答えていいものか分からなく、視線を泳がせていた。二人の様子に、由紀子は大きなため息を吐いた。
「まぁ、二人が喧嘩する理由なんて、櫻さんの過去に関連する事ぐらいしかないんだろうけど」
由紀子の言葉に、櫻が強く拳を握った。それを見て、由紀子は自分の推測が正しかったことを確信する。
「櫻さんの過去について、ほとんど知らない私には正直分からない話だけど、過去に縛られて沙夜ちゃんを傷つけるのは、あまり気持ちがいいものじゃない」
「違うんです! わ、私が……その、私が悪いんです。きっとそうなんです」
涙を浮かべ、己の胸倉を掴み、沙夜はそう訴える。それは、他人に対して発しているというよりかは、己を戒めているかのような――そんな訴えだった。
「沙夜ちゃんが悪いとか、そういう話も事情の分からない私には判断できない。櫻さんは、多分知っているよね、神山聡という人の事」
「……何故、そう思うのですか?」
神山聡。記憶を失っている男の名前。今は虹野印刷所という所で仕事をしており、記憶を失っている以外は普通の男である。そんな神山聡を、橘家は最重要人物として監視していた。それには色々な理由があるが、最も大きな理由は、この小泉由紀子と接点を持ち、彼女を『アカネ』と呼んだためである。『アカネ』――その名前は、一般人が知っていていい名前ではなかった。十年前、『尼崎家の崩壊』と呼ばれる案件の中心人物であり、『アカネ』はその案件の最中、亡くなっている。そして、その『アカネ』は尼崎家に隠匿され続けていたため、橘家がその存在を実際に確認したのは、死体になった彼女を見たその時だった。そんな一般社会との縁なんて全くなかった彼女を、ただの一般人である神山聡が知っていた。そのため神山聡は、現在も橘家の監視付きである。ちなみに、何故由紀子を『アカネ』と呼んだのかは、定かになっていない。
「色々と分かってくることもあってね」
由紀子の言葉には含みがあった。しかし、今その事を追求できる時間はないため、櫻も聞き流した。
「その事はともかく、神山さんの事だけど、彼には今年の四月からの記憶しかない。それでも、神山さんはなんとかかんとか、自分の生活というものを形作って来た。過去は確かに自分そのものだけど、それに振り回されてばかりだと、前に進めない。そう、神山さんを見て私は感じた。最初に会った時の神山さんは、過去に固執するあまり、暗い顔をしている事が多かった。でも今の神山さんは、どこか吹っ切れた顔をしている。あの顔を見た時、『これが過去に縛られていない、純粋な前向きな表情なんだな』って、私は思った」
由紀子は、穏やかな顔でとつとつと語る。それは、沙夜と櫻に言い聞かせていると同時に、自分自身へ還元し、己にとって神山聡とは一体どんな人なのか――それを再確認しているようでもあった。
「櫻さんがどんな過去を背負っているかは分からないけど、重要なのは過去の出来事じゃない。沙夜ちゃんも良く聞いて。きっとね、二人に必要なものは、『自分がどうしたいのか』、それだけ。そう、それだけだと思う」
『後は二人で話し合いなさい』と由紀子は話を締めくくって、二人の前から去って行った。話を済んで早々足早に去ったのは、照れもあっての事であろう。沙夜は、普段ならそんな由紀子を呼び止めるが、今回ばかりはそのまま見送った。今は由紀子よりも、櫻との間柄をなんとかしないといけない――そう思ったからだ。
由紀子が去って、再び沈黙が訪れる。次の沈黙は、それほど長くは続かなかった。沙夜が、決意と共に口を開く。
「私は……橘さんともっと色々なお話がしたいです」
顔を伏せていた櫻は、その格好のまま目を大きく開いて、驚愕していた。
「それが、今の私が一番したいこと。でも、それを橘さんに押し付けるのも、違うような気がして。橘さんが私の事を疎ましく思うのは仕方がないことだし、私……人と話すの得意じゃないし……私、帰るね。橘さん、本当にごめんなさい!」
沙夜は、立ち上がって深く頭を下げた。すると、櫻も立ち上がり、そんな沙夜の頭をポンポンと軽く叩いた。
「だから、氷女さんが謝る事はないと、この間から言っている」
沙夜が顔を上げると、櫻の不安そうな表情が飛び込んできた。
「私は、氷女さんを傷つけてばかりだ。私と一緒に居ると、氷女さんをもっと傷つけてしまうかもしれない。小泉さんの言葉の意味は私にも分かる。私が抱えている重大な欠陥を見事に言い当ててくれた。でも、私はそういう風に生きて来て、いまさら修正が利かない。そんな私と話をした所で……」
「だから、私は何度も言っています。私の思いを否定しないでください」
その時、櫻は静かに苦笑していた。
「ごめん、私、こんなんばっかだ。今から帰るのよね。心配だから、送っていく」
それは、不器用な櫻がようやく口に出来た、沙夜を受け入れるという意味の言葉だった。
六月の上旬。櫻は沙夜の護衛という名目で送り迎えをするようになり、学校でも一緒に居る事が多くなっていた。元々櫻はクラスから孤立していたため、沙夜もセットで孤立しているのが現状である。嫌われているというよりかは、二人の仲が良すぎて近寄りがたい――そんな印象だった。それでも、二人と言葉を交わす人は何人か居て、沙夜の学園生活は安定していると言って良かった。しかし、問題はあった。鏑木優子である。相変わらず、最初の時と状況が全く変わっていない。沙夜は、刈谷哲也の言葉が気になりはしているものの、結局は何も出来ないまま日々を過ごしていた。
そんなある日の家庭科の授業。二週間後に調理実習がある旨伝えられた。男女別々で、五人ずつの班。沙夜と櫻は一緒で、さらに優子も班が一緒となった。
「これはチャンスかもしれない」
学校の帰り道。櫻がそう言った。沙夜は、不思議そうに首を傾げる。
「チャンス?」
「鏑木さんは、多分料理なんて出来ないはず。沙夜は、料理できる?」
櫻は、沙夜を苗字ではなく名前で呼ぶようになっていた。沙夜たっての願いでもあり、それを櫻が受け入れた形である。
「えっと……出来ません」
祖母が家事の全てをしており、それの手伝いをすることはあるが、祖母から積極的に料理を習おうとは今までしてこなかった。沙夜にとって、興味のある事ではなかったのだ。
「なら、丁度いい。私が、調理実習までに教えるから、それに鏑木さんも巻き込もう」
櫻は、家の家事を一手に担っている。それは、養女であるが故の遠慮もあったが、大きな理由は、橘家には家事が出来る人間が皆無――ということである。元々はお手伝いさんがいたとのことであるが、櫻が養女として橘家に引き取られた時には、もうそのお手伝いさんの姿はなかった。後は、当主の祖父。姉の椿。二人とも仕事人間で、家事はまるで出来ない。椿の母親である五十鈴は、夫を亡くしてからというもの、離れに籠って出てこない。結局、櫻がその役目を担う他なかったのである。
「櫻さん……協力してくれるの?」
「話は私も聞いていたし、それに鏑木さんは大切な依頼主の一人でもあるし。彼女と私が接点を持つことは、家のためにもなる。それに私は……」
櫻が沙夜を見つめ、沙夜は不思議そうにそんな櫻を見返す。
「別になんでもない」
櫻は、『沙夜のためなら、協力を惜しまない』という言葉を照れと共に隠した。
次の日の放課後。優子を人が滅多に来ない、屋上の扉の前に呼び出した。この時櫻から声をかけたので、優子はなおさら疑問に思ったようである。
「橘さんが私を呼び出すなんて。仕事のお話かと思いましたが、氷女さんもいらっしゃるのですね。一体、何のお話ですか?」
「今度の調理実習に向けて、氷女さんに料理を教える事になって。同じ班だから、鏑木さんもどうかと思って。鏑木さんは、料理は?」
「料理は……できません。ありがたい申し出ですが、何分習い事が多く、とても時間を取れそうにありません。調理実習は、橘さんが主導で進めてください。私は、私の出来ることでバックアップいたしますから」
淡々と優子はそう言った。
「気に食わない」
「気に食わない?」
「あぁ、気に食わない。最初から努力する気もない。面倒臭いことは他人に押し付けかよ。私は、アンタのために点数なんて稼ぐ気はない。何もしなければ、何もしなかったことを先生に伝える。家庭科の成績は、テストだけじゃない」
「何もしないとは言っていません」
「何もしないと宣言したようなものだろう、さっきのは!」
「橘さん、落ち着いてー!」
沙夜が、櫻にしがみ付く。そうでもしなければ、櫻は優子に掴みかかりそうな勢いだったからだ。
「刈谷哲也に言われなければ、こんなことをアンタに提案する気はなかったんだ!」
「た、橘さん……それは……」
沙夜は慌てる。
「刈谷哲也……彼に何か吹き込まれたのですか?」
「私じゃなくて、氷女さんがだ。氷女さん、別に彼を庇い立てする理由はないし、そもそも口止めもされていない。話してしまえ」
「それはそうなんですが……」
「氷女さん、是非聞かせ下さい」
優子にも促されて、沙夜は渋々と哲也の話を優子に伝えた。優子は、刈谷哲也の名前が出た途端、表情を歪めた。それは沙夜が初めて見る、露骨に感情を孕んだ顔だった。
「まったく余計な事を。後で、正式に抗議しなければ」
聞き終わった後、優子はぼそりとそう言った。
「私には彼の言葉の意味する所が分かる。鏑木さん、あなたは知っておくべきだ。この世の中には、確かに肩書でしか相手を見られない人もいる。しかし、そうではない人間も確かにいる。氷女さんにとっては、鏑木さんの持つステータスなんてものは、何の価値もない」
「私の……ステータスに価値が……ない」
優子は、驚いていた。
「私にとっては、鏑木さんは大切な依頼主。家のためには揉め事を起こしたくはなかったけど、もうそんな事はどうでも良くなった。私も、今のあなたが嫌いだ!」
「はっきり言いますわね」
「けど、鏑木さんの気持ちは私にも分かる。私は、橘家の養女。本当の家族じゃない。そんな私が認められるためには、彼らの望んだ人にならなければならない。認めてもらえなければ、私は生きている事が出来なかった。そう思っていたけど、氷女さん……沙夜と出会って、それが違う事じゃないのか……そう思えてきた。そしたら、色んなことが腑に落ちて来て……ねぇ鏑木さん、今回だけでもいいから、一緒にいて。その後の事は、鏑木さんの好きにすればいい」
両親を失い、橘家に引き取られた。勝彦と椿は、不器用な人ではあったが、とても優しい人であり、離れに暮らす五十鈴も、櫻の事を可愛がってくれた。櫻には、兄に復讐を果たすという大きな目的があったが、当面は橘家の庇護がなければ生活が適わない。見捨てられてしまったら、兄への復讐も結果的には果たせなくなってしまう。そう思い、必死に彼らに媚びて来た。しかし、頑張れば頑張るほど、困った顔をするのだ。なぜ、彼らが困った顔をするのか。頑張りが足りないからか――そう思って、櫻はずっと自分を追いつめ続けてきた。しかし、沙夜と話すようになって、頑張れば頑張るほど二人を突き放していたのではないのか、そう思えるようになってきた。沙夜は、自然体の櫻を好きでいてくれる。少し頑張り過ぎると、遠慮して泣きそうな顔をするのだ。新しい視点と新しい発見。それは、櫻だけではない。きっと、優子にも必要な事なのだ。そう、櫻は確信したからこそ、本気で優子を説得していた。その櫻の思いが、優子にも届いた。
「分かりました。それほどまでまっすぐに言われては、断る事が出来ません。それに、前言を撤回させてください。大変失礼な事を言ってしまいました。私にも、料理を教えてください。出来るか分かりませんが、それでも精一杯やってみたいのです」
「言っておくけど、私はもう容赦しないから」
「それは頼もしい」
優子は笑った。それはいつも見せる彼女が作った笑顔ではなく、自然な彼女の本当の笑顔だった。
優子は、月曜日と金曜日の習い事を休み、それと土曜日の昼間を櫻の料理教室に費やした。会場は、橘家の台所。櫻が友達を連れてくることなんてなかったため、勝彦と椿は、柔らかい表情でそんな櫻たちを見守っていた。
沙夜も優子も、実に手先が不器用だった。包丁を持たせれば危なっかしい事この上ない。櫻は頭を悩ませながらも、そんな二人を熱心に指導した。覚えは優子の方が早かったが、意外な事に彼女はドジっ子属性だった。大事な所で色んなものをひっくり返してしまうのだ。結局、覚えはゆっくりであるがそつなく丁寧にこなす沙夜のほうが、優子よりも早く上達していた。
そして、調理実習当日。櫻が本領を発揮した事もあるが、沙夜も優子もしっかりと彼女をサポートした結果、クラスの中で一番の出来を誇る結果となった。優子の株は、ますます上り、沙夜と櫻も、これを契機に少しクラスに溶け込む事が出来た。
その日の放課後、反省会を櫻の部屋で行う事となった。
「とりあえず、お疲れ様でした」
櫻の労いの言葉に、沙夜と優子は『ご指導ありがとうございました』と返した。
「これほどいい結果を残せるなんて、本当に頑張って良かった」
優子が、柔らかい表情で言う。
「うん、肉じゃが、美味しかった」
「まだまだ橘さんには遠く及ばないという事も、実感しました」
櫻は照れくさそうにしている。
「おだてるの禁止。それよりも、どうだった?」
櫻が、優子に話を振る。
「まだ分からないというのが本音です。でも、本当に楽しかった。しかし不安がないとは言えません。こんなに楽しく過ごしていいのか。そんな風に思う私もいて……」
「重要なのは、『自分がどうしたいのか』。だと思う」
沙夜は、由紀子に言われた言葉を優子に届けた。優子はその言葉を咀嚼し、飲み込み、そして答えを出す。
「……私は、これからも氷女さんと橘さんと、一緒に居たいです」
「なら、とりあえず私の事は『櫻』と呼んでくれると助かる。橘は、どうも私には重たく聞こえるし」
「私も、沙夜でいいよ」
「分かりました。櫻さん、沙夜さん、これからもよろしくお願いいたします。私の事も、優子と呼んで下さい。二人には、そう呼ばれたいです」
鏑木家の優子ではなく、一人の優子として、扱ってほしい。そんな彼女の思いを表した言葉であった。