面影の王子様
陸上部に所属する虹野夏樹。神山聡と出会った彼女は、夏樹に走るきっかけを与えた少年の面影を見る。そんな彼から、短距離走の勝負を挑まれる。はたして、どちらに軍配が上がるのか?
空白ノ翼の説明書
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各話の紹介、登場人物、用語などを載せています。ネタバレを含みます。
琴菜の祖父のスーツを借りて、身に纏う。ネクタイをきっちり締め、聡は居間へと赴いた。
居間には、琴菜がいる。ごちゃごちゃとした部屋の中央で、真っ白なキャンバスに彼女は向かっていた。
「……似合ってない」
最初の一言に、カチンと来るが聡は耐えた。
「うるせぇ」
「仕事、本当に探しに行くの?」
琴菜は、再び真っ白なキャンバスに向き直る。真剣な顔。しかし、鉛筆をクルクルと回しているだけで、一向に彼女は描こうとしない。
「あぁ、いつまでもお世話になるわけにもいかないしな。……それ、何も書かないのか?」
「書くわよ。そのうちね。お金なんて、いくらでもあるから、気にすることはないわよ」
聡は、頭をボリボリと掻いた。
「お前、箱入り娘とかそんなのか?」
「そう見えるなら、嬉しいわね」
聡は諦めた。琴菜になにを聞いても無駄である。
「……ここにいても何も変わらないからな。それに、なにかしていないと気が滅入りそうだ」
「そう。頑張る必要はないから。私のためにとか、そんなこと必要ないから。全ての時を、自分のために有効に使いなさい」
琴菜は、ただ淡々と微笑むこともなくそう言った。気を遣っているのか、ただ距離を置こうとしているのか。はたまた両方なのか。今の聡では、全く判断がつかなかった。
櫻町の南側、櫻町商店街の外側の密集した住宅街に虹野印刷所という、小さな印刷所がある。かつては結構繁盛していたが、人手不足と人材のチョイスに失敗し、いい感じに看板が傾いてしまった。社長の虹野美津子は、いつも眉間を寄せ、帳面と向き合う。
「お母さん、学校行ってくるね!」
明るい笑顔を振り撒いているのは、娘の夏樹。母親の辛気臭さも、彼女の笑みの前では吹き飛んでしまう。
「おう、気をつけなよ。アンタまで先に逝ってしまったら、世界を恨んで魔王にでもなっちまうよ!」
「にゃははは……お母さん、心配しすぎー」
貧乏は貧乏なりに。父親を早くに亡くした虹野一家は、それなりに幸せな毎日を送っていた。
夏樹の朝は、とても早い。町内を一周してから、学校に向かうからだ。母親の心配も、そこに起因している。それが分かっていても、この日課を止めるわけにはいかない。彼女には、彼女なりの『走る』理由があるからだ。
夏樹は、左手首に古ぼけたリストバンドを付けている。七歳の時に、とある少年からもらった『足の速くなるお守り』である。その頃の彼女は、とても『ノロマ』だった。何をするにも動きが遅くて、他の子からは『カメ』と評されるほどであった。その日も、彼女は他の子供たちに『カメ』と呼ばれ、からかわれていた。そこに現れたのが、リストバンドを付けた少年だった。
「もう泣くなよ。あ、そうだ! このリストバンドをあげるからさ。足の速くなるお守りなんだぜ」
彼は、他の子供たちを追い払った後、リストバンドをくれた。少年の笑みとその優しさを、今でも夏樹は忘れる事ができない。リストバンドを付けて走っていれば、いつか彼に会うことが出来るのではないか。それが、彼女の『走る』理由である。
中学生の時から陸上部に所属し、高校生になってからも陸上部を続けた。もともと才能があったため、夏樹は多くの賞を取り、現在も期待のエースである。しかし、少年とはあれから一度も出会えていなかった。
いつも通りに町内を一周して、いつも通りに大木公園の中央に聳え立つ守り木の下のベンチで一休みを取る。
四月もまだ中旬。風がとても心地よく、春の匂いを感じる。夏樹は、大きく伸びをして、心行くまで一休みを堪能していた。
「もう高校二年生か。もうあの人には会えないのかな。はぁ……もう会っても、分かんないよね。十年も過ぎちゃったし」
少年が何歳だったのかは、記憶もおぼろげになっているからはっきりしない。それでも、十年も経てばかなり相手の容姿も変わっていることだろう。正直、最近どんどんと自信がなくなりつつあった。
そんな折である。公園の中央に一人の青年がやってきていた。その青年は、近くにあった空き缶をやけくそ気味に蹴飛ばした。空を飛ぶ空き缶。クルクルと回転し、それは――あろうことか夏樹の頭に直撃した。
「あだっ!」
妙な奇声を上げ、頭を抱えてうずくまる夏樹。スチール缶の硬さは、半端ない。痛くないはずがなかった。さすがに缶を蹴った青年も焦った様子。慌てて駆け寄ってきた。
「うわぁーー! すまねぇーーー!! 大丈夫か? 救急車呼ぶか? その前に止血か?!」
「なんてことするのよ! 頭がカチ割れるかと思ったよ!」
夏樹は、慌てる青年をきっと睨み付けた。髪を刈り上げた、随分と立派な体つきの青年である。青年が慌てふためく姿は、どこか滑稽でもあった。だからといって、許すわけにはいかない。断じて。
「ねぇ! 普通、周り見るよね?! 考えなしに、空き缶とか蹴らないでくれるかな! すんごい、気分悪いんだけど! おじさん、謝ってすむならね、警察なんかいらないのよ、この馬鹿!」
「まったくその通りだな。本当にゴメンな。ちとイライラしてて」
言えば言うほど、ショボーンとしていく青年。怒っているうちに、夏樹もなんだかあんまり言うのも可哀想かな? と思えてくるほどであった。
「たんこぶ出来なかったか? 本当にゴメン」
「……もういいよ。今度から気をつけてよね。私みたいに、寛大な人ばかりじゃないんだから」
言うだけのことは言ったので、夏樹は早々にその場を後にしたが――少し気になって、公園を出る前に後ろを振り返った。しかし、もう青年の姿はなく、何が気になったのかも、結局は分からないままだった。
その次の日のことである。
いつもの日課を終えて大木公園へと来ると、昨日の青年がベンチに座っていた。驚く夏樹に、青年は気軽な様子で『よぉ!』と声をかけてきた。
「昨日は本当に悪かったな。あ、これやる」
良く冷えた、スポーツドリンクの500mlのペットボトルを手渡される。一っ走り終えたところで、これは嬉しい。夏樹は、快く受け取った。
「ありがとう。昨日の事は、本当に良く反省してよね。すんごい、痛かったんだから」
「反省しております。猛省しております」
深々と頭を下げる青年。どことなく憎めない人である。彼に対しての怒りは、いつのまにか消失していた。
「おじさんは、何かスポーツでもしているの?」
青年の隣に座って、スポーツドリンクを飲みながら、彼と雑談する。座るといっても、青年がほぼ真ん中に座っているのに対して、夏樹はベンチの端であるが。
「う~ん、分からん」
青年は困っていた。
「分からん?」
夏樹も困って、そのままオウム返し。
「……分からないんだ」
青年はただそう繰り返した。その表情は、冗談を言っているようにはまるで見えなかった。なにかしらの事情があるのだろう。夏樹もそれ以上は聞かなかった。
「そういう……えと、名前、聞いていいかな。俺は、神山聡」
「虹野夏樹だよ」
「虹野さんは、なんのスポーツをしているの?」
「陸上の短距離」
「へぇー、短距離か」
青年――神山聡は、どこか嬉しそうに立ち上がった。
「なんだか、懐かしいな。なぁ、俺と競争しないか?」
「へっ? 言っとくけど、私、滅茶苦茶速いよ。勝負にならないと思うんだけど」
相手が成人男性であろうが、夏樹は負ける気などさらさらなかった。それだけ、短距離には自信があった。
「それでもいい。なんだか、今無性に走りたいんだ!」
拳を握って、熱血な聡。そこまで言われると、断るのも可愛そうだと、夏樹は彼に付き合うことにした。
場所は、そのまま大木公園。中央から外の大通りまで伸びる道は、長さ100m前後。丁度いい長さなのである。
「位置について……」
夏樹が掛け声をかけることになった。聡は、軽く腰を沈める。夏樹も彼に合わせて、少しだけ腰を沈めた。わざわざ、正式のスターティングポーズはとる必要もないと判断したのだ。
「よーい、どん!」
夏樹が少し早く出た。軽やかにそして力強く大地を蹴り上げ、夏樹の体が加速していく。いつも通りの走り。手加減は最初からするつもりはなかった。引き離されていくであろう聡の姿を見るために、後ろを振り返ろうとしたその時、目の前を聡が走り抜けていった。
「えっ?」
驚いている間に、グングンと引き離される。慌ててスピードを上げようともがくが、距離はただただ離されるばかり。その後姿が、夏樹には一瞬リストバンドをくれた少年の姿と被って見えていた。
結局夏樹は、圧倒的な差をつけられて敗北してしまった。
「うそっ……」
肩で息をしている夏樹には、それしか言葉にならなかった。聡のほうは、もうすっかり息を整えている。体力も彼の方が桁違いに上のようである。
「よっしゃ、大勝利! やっぱ、間違ってなかったぜ」
彼が何を言っているのか、やっぱり分からない所がある。だが、今はそれどころではない。夏樹は、意を決めて、彼にリストバンドを見せた。
「ねぇ、このリストバンドに覚えがない?」
願うように、夏樹は言葉を紡ぐ。『yes』と言って欲しい。そんな彼女の思いは――。
「ん……悪い。今、分からないわ」
叶わなかった。知らないではなく、分からないであったが、彼女にとっては同じ意味も当然だった。
「そっか。せっかく会えたと思ったのに……」
悲しかったが、夏樹はすぐに気持ちを切り替えた。
「なんでもない! それにしても、神山さん、足速すぎ! なにが分からない、だよ。いい感じに、騙された! 責任取れ!」
「またジュース買ってきてやっから、そんなに怒るなよ」
「物で釣ろうとしている! 大人ってズルイんだ!」
口でそう言いながらも、夏樹はとても楽しそうに笑っていた。
夏樹と別れた聡は、すっとその表情を引き締めた。
「……自分の足が速いというのは一つの収穫だったが……」
あの夏樹という少女の顔と、リストバンド。夢に出てきた異形の一人に似ていた。
「気にしすぎか……」
聡は苦笑し、商店街のほうへ足を向けた。
「今日も面接だ」
大きく背伸びをしながら、歩いていく。