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空白ノ翼  作者: 堕天王
恭介の帰郷
19/35

邂逅と再会、思い出と約束

 七月三十一日 早朝

 屋敷の中には、たくさんの部屋がある。そのすべての部屋に用途が決まっていた。その一つの部屋の扉を、鏑木(かぶらぎ)恵美子は押し開けた。豪華絢爛な家具や芸術品が置かれた、一般人が入れば、目がチカチカするような部屋。その部屋の中央に置いてあるソファーに、一人の女性がだらしなく寝転がっていた。恵美子の姉、郁子(いくこ)である。

 郁子は恵美子に気付き、体を起こした。淀んだ瞳からは、生気がまるで感じられない。そこにいて、そこにいない。希薄で、どこか気味の悪い女性である。

「姉さん」

 目の前にいるのに、恵美子はそう呼びかけた。そうでもしないと、姉が反応しないのではないか――そう思ったからだ。恵美子が知っている姉の郁子は、確かにどこか世捨て人のような雰囲気を醸し出していたが、今のような半ば死人のような雰囲気ではなかった。そんな郁子の変化に、恵美子は戸惑っていた。

「お元気……そうで……なによりです」

 どんな言葉をかけたらいいのか分からず、舌足らずに言葉を残す。郁子は、笑った。うっすらと、どこか寂しげに。

「恵美子も元気そうね」

「はい……」

 この姉にどのような言葉を伝えればいいのか。本当は、姉に文句の一つでも言いたい所だった。しかし、こんな姿の姉を目の当たりにして、文句も吹っ飛んでしまった。

 自由奔放で、周りを振り回してきた姉。その挙句、全ての責任を投げ捨てて、家を出て行ってしまった。そんな姉を、恵美子は恨んでいたはずなのに――。

「無理に話を繋げる必要はないから。私は大丈夫。少しだけ、今めげちゃっているけど、すぐに元通りだから。だから、しばらくはこんな私を見ない振り、しちゃって頂戴ね」

 姉は、ずっと慕っていた祖父が亡くなったため、この鏑木家に帰ってきていた。


 七月三十日 夕方

 滅多に鳴らない固定電話が、音を奏でた。電話に出たのは、お手伝いとして働いている鏑木恵美子。言葉を紡ぐうちに、その表情に陰りが現れ始めた。

「おじい様が、危篤だって」

 恵美子は、家の主である天野神華(しのか)にそう告げた。

「早く行ってあげてください」

 神華の言葉に、恵美子はためらいを見せていた。神華は、まだ高校二年生。この家には、神華以外誰も住んでいない。誰も神華を守ってくれる人がいないのだ。だから、恵美子はここにいた。そんな彼女を一人残して、大丈夫なのか。しかし、恵美子に選択肢などない。実家が戻れと言っている以上、それに逆らえない。

「私の事なら大丈夫ですから」

 恵美子の事情を、神華は重々承知している。神華は、恵美子のいとこにあたるからだ。恵美子は、直系。神華は、色々とあって直系から外された一族である。そのため、神華が呼ばれることはない。

 恵美子は、ほぼ手ぶらで実家へと帰っていった。実家は、同じ町内である。ほぼ手ぶらで帰れるのは、恵美子の私物が実家にも残っているためであった。

 恵美子が実家へと帰るのを見送った後、居間に戻って来た神華は、がらんとした室内を見渡し、静かに瞳を伏せた。恵美子がいないだけで、リビングは広く感じられた。テーブルの上には、恵美子が作っていった夕食が置いてある。

 さきほどまで、恵美子を気遣う優しい表情をしていた神華の表情が、すっと消えた。酷く冷たく、そしてどこか虚ろな瞳。

「また一人ぼっちね。別にいいけど」

 神華はいつものおっとりとした喋り方ではなく、早口でぼそぼそとそう呟いた。


 八月一日 昼

 窓を全開にした所で、部屋に入り込んでくる風は僅か。猛烈な暑さの中、小泉由紀子(ゆきね)はだらしなく冷たい床に転がり、天井を仰いでいた。

「溶ける……」

 彼女の部屋に、エアコンなんていう文明の利器はない。あるのは、無駄に熱気を拡散することでしか効果を発揮しない据え置きの扇風機程度。風が当たる瞬間のみ涼しいだけである。この暑さの前では、やる気なんてものは湧き上がる前から溶けて流れて行ってしまう。

「こりゃ、あかんわ。本格的に避難しないと……脱水とか熱中症とかで死んじゃうかも。いや、むしろ死ぬ。死んじゃうし」

 ただ部屋に転がっていただけだというのに、すでに体を起こすのも億劫になるほど体力が奪われていた。頬を伝う汗が、フローリングを跳ねる。そんな折、軽快なメロディが流れてきた。由紀子が最近はまっているアニメの主題歌――携帯の着信音である。

「誰?」

 古めかしい木の机。その上に置いてあった携帯電話を手に取り、相手を確かめる。ディスプレイには、『先生』と表示してあった。由紀子は、露骨に嫌な顔をした。

「なんで?」

 先生とは、由紀子の担任である坂田斎(いつき)の事。遅刻の回数が多い由紀子は、ほぼ強制的に連絡先を暴露させられた。しかし、実際に遅刻してもかかってくることはほぼなかった。斎に連絡先を教えて四か月ほどが経ったが、その間にかけてきた回数は、二回から三回程度。どれも、学校を無断欠席した時である。今は、天下の夏休み。補習の日でもない。登校日でもない。電話をかけてくる理由が、さっぱり見えなかった。だからといって、出ないわけにはいかない。理由は分からないが、電話に出なければそれだけ斎にマイナスの感情が発生する。そうなれば、損をするのはどちらにしても由紀子なのである。

「はい」

 通話ボタンを押して、端的に答えた。

『あ、良かった。由紀子、今すぐ天野の家に行ってくれない?』

 挨拶もそうだが、話の過程まですっ飛ばして結論だけを伝えてきた。由紀子は、頭が痛くなった。ちなみに天野とは、由紀子のクラスメートである天野神華の事である。由紀子とはそれなりに仲が良く、由紀子が部長をしているオカルト同好会の唯一の部員でもあった。

「あの、意味が分かりません」

『天野は、両親が今いなくてね、代わりに世話をしてくれている子がいるんだけど、その子も家の事情で実家に帰っていてね。今、一人なのよ。だから、世話をしてくれている子が帰って来るまで、一緒にいて欲しいわけよ』

 神華の両親がいない事を、由紀子は今知った。ふと、体育祭の事を思い出す。神華は、少し年上の女性と一緒に居た。その人が、世話をしてくれている人なのだろう――由紀子は、そんな事をぼんやりと思う。

「別に構いませんけど」

『他にも友達がいるなら、呼んでいいから。夜のご飯はこっちでなんとかするし、適当にお菓子や飲み物を買い込んで行ってくれない? お金は出すから、後でレシート頂戴ね』

 とんとん拍子で、神華の家に泊りに行くこととなってしまった。斎は、伝える事を伝えると早々に電話を切った。そんな斎の横暴さに、渋い顔で携帯を見つめる。

「でも、神華さんが一人って言うのは、確かに心配ね」

 神華は、決してしっかりとした少女ではない。どちらかと言うと、見ていて危うい感じ。見事なまでの、天然系の女の子である。それに加えて、極度の機械音痴だ。その音痴具合は、壊れるはずのないものを一撃で壊すほどである。

「……友達か。沙夜ちゃんは……中学生だしね。椿さん、暇かな」

 しばらく考える。沙夜とは、氷女(こおりめ)沙夜の事。不思議な能力を持っている子で、彼女の能力を封印するために、由紀子が力を貸したことがある。今でも時々会う、年下の友達だ。椿は、(たちばな)椿のこと。由紀子の小学生の頃からの友達であり、二番目に古い仲である。彼女は高校には行っておらず、家業の『除霊屋』という(あやかし)を退治する仕事をしている。そのため、なかなか都合を付けづらい。電話をして迷惑ではないだろうか。仕事中だったりしないだろうか。メールにすべきか。由紀子は、そんなことを悶々と考える。結局、勢いで通話のボタンを押した。

『はい、由紀子さんどうしました?』

 椿は、すぐに電話に出た。

「あ、お願いがあるんだけどね……」

 由紀子は、早速椿に相談してみた。

『なるほど。次の仕事の予定は一週間後ですから、それまでお付き合いします』

 椿は、あっさりと承諾してくれた。ほっと、一安心な由紀子であった。


 椿とは、彼女の家である橘神社の長い石段の下で合流した。

「由紀子さん、実は私お泊りなんて初めてなんです」

 妙に力を込めて、彼女はそんなことを言った。仕事では、長い時は一ヶ月ぐらい帰ってこない事もあるため、この場合友達の家に泊まるのは初めてだと言いたいのだろう。

 神華の家に行く前に、駅前の商店街に足を運ぶ。お菓子や飲み物を買うためだ。斎がお金を出してくれるというのだから、深くは考えずに色々と買った。特に甘いものを多めに。神華は、極度の甘党なのだ。彼女の血液は、きっと甘い匂いがするに違いない。それほど彼女は、甘いものを食べていた。

「糖尿病のトップブリーダーね」

「そう思っているなら、注意してあげたらどうですか?」

 椿の突っ込み。由紀子は苦笑した。

「あれだけ食べてあの体型を維持しているのが、正直悔しかったり」

 神華は、由紀子に比べて胸が大きいうえに、全体的に由紀子より細かった。

「……ちょっと由紀子さんの言葉に同意してしまった、己が虚しいです」

 椿は、由紀子や神華と違って体を絞っている。その影響なのか、胸も同時に絞られていた。そんな椿の本音である。

 買い物袋を携えて、海沿いの道を進んでいく。神華の家は、『丘の上の教会』という説明ですぐに分かった。駅前からでも、少し視線を上げれば教会の姿が見える。これでは、迷えという方が難しい。

「あ、神華さんに電話しとこう。椿さん、袋持ってて」

 両手が塞がれていたため、右手に持っている分を椿に手渡した。片手で携帯を操作し、神華の携帯電話にかけた。神華は、すぐに電話に出た。

「もしもし、もうそろそろ着きそう。あ、先生から話は……聞いているよね」

『はい、伺っています。ごめんなさい、本当にご迷惑をかけてしまって』

「別にそれはいいよ。どうせ暇だったし。暑くて死にそうだったし」

 神華の笑い声。『では、お待ちしております』と神華が締めくくり、通話は終わった。

 長い坂に差し掛かり、途中墓地の横を通って、下から見えていた教会の前に辿り着く。その教会の前に天野神華の姿があり、由紀子たちを見つけて、小さく手を振っていた。

「由紀子さん、椿さん、ようこそです」

 由紀子は手を振り返し、椿は『お久しぶりです』と挨拶した。それから椿は、神華の後ろにそびえ立つ教会を見上げた。

「立派な教会ですね」

「はい、お父さんが亡くなってからは教会として機能はしていないけど……中、見て行きます?」

「是非」

 椿の目が輝いていた。神華は扉を押し開けて、由紀子と椿を教会の中へと招き入れた。綺麗に清掃された室内。祭壇の後ろには大きなステンドグラスがあり、そこから差し込んできた陽光が、鮮やかな色彩を地面に映していた。

 椿と由紀子は、それぞれ周りを見渡しながら、神華の背中を追い祭壇の前まで歩く。

「びっくりしました。綺麗にされているんですね」

「毎日掃除していますから」

 椿と神華が教会の事で話を弾ませている。由紀子は、テーブルに指を這わせていた。まったく埃がつかない。そんな事にびっくりしていた。

「では、家の方へご案内します」

 教会と母屋の連絡口を通り、神華は由紀子と椿をリビングへと案内した。重たい荷物をどさりと床に降ろす。由紀子は、『重たかったぁ』と肩を回していた。神華は、閉め切られていたカーテンを端から開けていく。

 三人は、他愛のない会話で盛り上がる。神華の部屋から見渡せる海を見て感動したり、宿題の進み具合の話をしたり、テレビを見ながら話をしたり――そうしている内に、あっという間に十八時が近づいていた。その頃になって、来客を知らせるベルが鳴った。

「あ、先生かも」

 由紀子は、玄関に向かおうとした神華にそう告げた。由紀子の言葉通り、来客は神華や由紀子の担任、坂田斎であった。

「はい、どうもこんばんは!」

 いつもと変わらないテンションの高さである。

「あの、この度は……」

「固いのは抜き抜き。今はプライベートだから、変な気遣いは無用って奴よ。由紀子たち、来てる?」

「はい、来ています」

「じゃ、上がるね」

 神華の言葉を待たずして、斎は家の中へと入っていった。神華は慌てて斎をリビングへと案内する。

「由紀子、今日は急に悪かったね」

 部屋に入るなり、斎は由紀子に謝った。

「いえ、全然問題なしです」

「えと、そっちの子は……」

 斎は、椿へと視線を向ける。椿は、小さく会釈をした。

「橘椿です。由紀子さんと仲良くしています」

「そっか。まぁ、そんなに固くならなくていいから。今日は先生として来ているわけじゃないし、由紀子もリラックスね。はぁ、しっかし外暑いわぁ」

 斎は、ソファーに座ると持っていたスーパーの袋からビールを取り出した。

「先生、いきなり酒ですか」

 由紀子が、嫌そうな顔をしている。

「こんな暑い時に、ビールを飲まずして何を飲むって言うのよ!」

 斎は、一気にビールをあおった。由紀子たちが、呆れた顔をしていたのは言うまでもない。

「あ、先生」

 斎が来て、ざわめいていた室内が少し落ち着いた頃、由紀子が思い出したように口を開いた。

「ん?」

 すでに三本目のビールを片手にしている斎。

「ご飯はどうするんですか? 先生が用意するとかいう話でしたけど」

 斎は確かに電話越しで、『夜のご飯はこっちでなんとかする』と言っていた。しかし、斎は酒を飲むばかりで、何も用意しようとはしない。斎の持ってきたスーパーの袋には、酒とつまみしか入っていなかった。

「神華、米は炊いてくれた?」

「あ、はい。言われた通りに」

「なら、待つだけよ」

 釈然としないが、待つしかないようだ。空きっ腹のお腹を押さえて、由紀子は時計を見上げた。もうすぐ、十九時になろうとしていた。

「しっかし、遅いわね。電話してみるかな」

 斎がテーブルの上に置いてあった携帯を手に取った、その時である。再び、来客を知らせるベルが鳴った。

「来たか!」

 ソファーから立ち上がる斎。神華を手招きする。

「一緒に行くよ」

 説明がなされていないため、斎以外は疑問符を浮かべるばかり。なにか出前でも頼んでいたのか。由紀子と椿は、神華と斎がリビングを出て行くのをじっと見送っていた。

 斎に押し出されるようにして、玄関へとやってきた神華。ドアを開けると、その向こう側には体の大きな男が一人立っていた。両手にこれまたスーパーの袋をぶら下げている。前屈姿勢になっており、呼吸が荒い。神華は、顔をひきつらせていた。

「はぁ……はぁ……えと、天野神華さん?」

「あ、はい……」

 と、神華が答えようとした時、斎が彼女を押しのけた。

「遅い! 空腹で殺す気?!」

 男が、息を喘ぎながらも作り上げていた笑顔が見事に凍りついた。

「言われた通り、全力疾走で来たわ! そんなに待つのが嫌なら、自分で作ればいいだろうが!」

「なんで、私がそんな面倒くさいことしないといけないわけよ!」

「面倒臭い?! それでも、お前は女か!」

「あ、今の発言、差別! (さとし)が、そんな時代錯誤の人だとは、思わなかったし!」

「なら、訂正してやる。それでも、お前は先生か!」

「なにそれ! 先生という職業に、料理スキルなんてものは付加しないし!」

 顔を合わせただけで、この有様な二人。神華は、どうしたものかと困り果てていた。そんな神華に、男の方が気付いた。

「あぁ、やめやめ! 悪いな、玄関前で騒いで」

 男は、途端に柔和な表情を作る。

「そうね、聡が悪い」

「お前は少し黙っていろ」

「今日の夕ご飯を作ってくれる、私の幼馴染。神山聡ね。昔、光のコーチをしていたことがあったから、名前ぐらい聞いたことがある? ないわね」

 神華の表情を見て、斎はそう結論付けた。実際、神華にも聞き覚えのない名前だった。

 男の名前は、斎が紹介した通り、神山聡という。斎の幼馴染であり、神華の姉、天野光(ひかる)が中学生時代に所属していた陸上部の臨時顧問をやって来た事もあった。そんな彼であるが、厳密にはその頃の事を覚えていない。彼は記憶喪失なのだ。そのため、彼の知っている過去は、すべて斎というフィルターを通したものに過ぎない。

 『黙っていろ』と告げたのに、結局全部話してしまった斎に、聡も溜息を零す。基本的に、人の話を聞かない事をつくづく感じていたのだ。

 聡を連れて、リビングへと戻る。すると由紀子と椿が、ソファーからそれぞれ立ち上がった。

「神山さん?!」

 由紀子の発言。

「神山聡!」

 椿は、フルネームで呼ぶ。

「なんだ、お前たちも来ていたのか。悪いな、待たせて。すぐにメシ作ってやるからな」

「私の時と全然態度違うし。ロリコン? ねぇ、ロリコン?」

「お前は、さっきからうるさい」

 食い下がるように、『ロリコン?』と聞いてくる斎を押しのける。そんな二人の姿を見ながら、由紀子と椿はお互いに囁き合う。

「幼馴染に会ったという話は聞いたけど、それが先生だったなんて」

 由紀子は、六月ごろ聡から『幼馴染に会えた』と聞いていた。それが、まさか自分の担任であったとは、と驚きを隠せない。

「ここで彼が現れるのは、さすがに予測できませんでした。しかし、彼が料理?」

 聡が料理を作れるのかと、椿は疑問に思っているようである。

「神山さん、料理上手いらしいよ。夏樹が言っていた」

 夏樹とは、虹野(こうの)夏樹の事。虹野印刷所の娘であり、由紀子のクラスメート。そして、聡が勤めている会社の社長の娘でもある。今は、七月中旬に車に轢かれて入院中だ。

「あ、私、手伝ってくる」

「えっ?」

 止める間もなく、由紀子は聡の下へと走っていった。由紀子は料理が出来ない。多分、まともに包丁を握ったこともないのではなかろうか。そんな彼女が、積極的に『手伝う』と口にしたことに、椿は驚きを隠せなかった。

 由紀子は、楽しそうに聡に話しかけている。そんな表情の輝きに、椿はすっと目を細めた。

「気の……せいよね」

 椿は、静かに顔を伏せた。


 聡がこしらえた夕食会。聡の料理は、特筆するものはないが素朴で優しい味がした。まさに、母親の手料理ならぬ、父親の手料理といった趣である。たった一人、椿だけが悔しそうな顔をしていたのは、『彼の料理がこんなに美味しいなんて……!』という、思いがあったからであった。

 由紀子、椿、斎の三人は泊まっていくが、聡はさすがに泊まってはいけない。彼はある程度片づけた後――。

「お姉ちゃんに線香をあげていいか?」

 と、神華に告げた。神華の姉である光は、ちょうど一年前に事故で亡くなっていた。聡には、光と過ごした記憶はない。しかし、光との接点があったことは、斎から聞き及んでいた。そのため、せめて線香はあげたいと思ったのだ。

「あ、はい。姉も喜ぶと思います」

 神華に案内された部屋には仏壇が置いてあり、太陽のように眩しい笑顔を浮かべる少女の写真が飾られていた。天野光。享年十七歳。あまりにも短すぎる一生である。

 聡は、『仏壇なのか』と思っていた。表の教会から、キリスト教だと考えていたからだ。そんな疑問を心の中に仕舞いこみ、線香をあげる。たなびく白い煙と、田舎をほうふつとさせる香りが広がる。聡は静かに手を合わせ、閉眼し、光の冥福を祈った。

 聡が帰る際、見送りは斎だけとなった。斎が、由紀子や神華が見送りに来るのを拒んだからだ。

 聡は、ここまで走って来た自転車のスタンドを外す。そんな聡に、斎はどこか照れくさそうに告げた。

「今日は、ありがとうね」

「なんだ? 急に」

 聡は、露骨に『気持ち悪いな』という顔をしていた。

「ご飯の事もだけ、光ちゃんに線香をあげてくれたんでしょ? 記憶、ないのにね」

「当然だろう。記憶がなくても、あの子と過ごしていたことは事実なんだからな」

「そういう真面目な所、本当に変わっていない」

 斎が言わんとしていることが、いまいち分からない。首を傾げていると、急にどんと押された。

「うお!? あぶねぇ! 何しやがる!」

 倒れそうになった聡は、慌てて踏ん張った。

「また、明日も頼んだからね!」

 斎は、大きく手を振りながら家へと戻って行った。聡はそんな斎の背中を見送った後、一つため息を残し、自転車にまたがって夜道を走って行った。


 八月二日 昼過ぎ

 刈谷(かりや)恭介は、事故に遭った虹野夏樹のお見舞いのため、済会病院を訪れていた。受付に面会の申請をして、病棟へと上がる。ナースステーションで、部屋の場所を再度確認して、恭介は夏樹が使っている四人部屋に辿り着いた。

 夏樹のベッドは、入ってすぐ右側。そのため、すぐに夏樹の姿を認める事が出来た。夏樹は腹這いになって、雑誌を読んでいた。

「夏樹」

 ノックの代わりに壁を叩く。

「ん……えっ? 刈谷先輩?!」

 夏樹は雑誌を閉じて、ベッドの上に正座――しようとして、『にゃー!』とまた引っ繰り返った。夏樹は、両足を痛めているのだ。今の彼女に、正座なんて出来ない。それを忘れるぐらい、夏樹は慌てていた。

「だ、大丈夫?」

「うん、大丈夫、大丈夫。それよりも、先輩、いつ帰って来たんですか!」

 事故に遭ったと聞いて、落ち込んでいるのではないかと心配していたが、夏樹は前と変わらない明るくて元気な彼女のままであった。その事が、恭介にとって何よりも嬉しかった。

「光さんの一周忌が近いからね。だから、里帰り。ここ、座っていい?」

「どうぞどうぞ」

 寝頭台の前に置いてあったパイプイスに腰掛ける。

「そっか、もう天野先輩が亡くなって一年なんですね」

「時が経つのは早いよ。夏樹が事故に遭ったと聞いた時、本当にびっくりしたよ。怪我の具合は、どうなの?」

「順調ですよ。新学期には、なんとか歩いて学校に行けるみたいですし。前みたいに、走れるようになるには相当時間がかかるみたいだけど、別に急ぐこともないかなって」

 夏樹の言葉に、少し驚く恭介。夏樹は、走る事に対する執着が凄まじい子であった。その理由を、かつて聞いたことがある。夏樹はその時こう答えた。

『恥ずかしい話だから、他の人に言っちゃダメですよ。私、このリストバンドをくれた人を探しているんです。その人に会った時、おかげさまですんごく足が速くなりました! って、言いたいんです』

 それが、夏樹が走る動機。その執着がなくなったということは――。

「夏樹は、もしかしてリストバンドをくれた人に会えたの?」

「えっ? あっ、覚えていたんですか。恥ずかしいなぁ、もう」

 夏樹は頬を染めて、自分の髪の毛を引っ張っている。

「持ち主は分かりました。足が治ったら、このリストバンド、返しに行こうかなって思っているんです」

「そっか」

 恭介は、優しく微笑む。そんな姿を夏樹がじっと見つめていた。不思議に思い、恭介が『どうしたの?』と尋ねると、夏樹は――。

「先輩も、元気そうでよかったです!」

 元気一杯、そう答えた。夏樹は夏樹なりに、恭介のことを心配していたことの表れだった。

 恭介は、一時間近く夏樹と話をして過ごした。

 夏樹の面会を終えて、(さくら)町へと戻って来る。この後、商店街で神山聡と合流することになっていた。神山聡は、恭介にとってはかけがえのない大先輩である。そんな聡との待ち合わせの時間は、十七時半。駅前のコンビニに集合となっている。今は、十五時半。もうしばらく時間があった。

「あ、一旦家に帰って、夕ご飯の準備だけしとかないと」

 今日は、聡と合流した後、天野神華の家に行くことになっていた。なんでも、昨日から聡が夕ご飯だけ作りに行っているらしい。その手伝いとして、恭介も呼び出されることになったのだ。そうなれば、家に帰るのは遅くなってしまう。ある程度下ごしらえさえしておけば、妹の加奈華が何とかしてくれるはずだ。加奈華も、家事全般問題なくこなせるのである。

 そんなこんなで家に一回戻った恭介。加奈華には、昨日聡から連絡があった時点で、今日帰りが遅くなることを伝えておいたが、もう一度伝えておく。それから、夕食の下ごしらえを済ませて、その事を加奈華に伝えてから、駅前のコンビニへと戻った。

 時間は、十七時少し前。時間を潰すため、コンビニの中へと入った。しかし、昨日も坂田斎との待ち合わせで、一時間近く時間を潰したため、読む雑誌がなかった。結局、雑誌コーナーの前で、表紙を眺めるだけの作業となってしまう。

 聡は、それから二十分ほどしてやってきた。

「よっ、早いじゃないか。待ったか?」

「いえ、先輩こそ、早かったですね」

「定時でダッシュ余裕だからな。走ればこんなもんさ」

 聡は、汗ダクダクである。彼の職場は、商店街の裏側にある。歩いたとしても、十分から十五分程度の道のりであるが、それをわざわざ全力疾走してきたようだ。

「じゃ、買い物に行くか」

 聡は、いつものように快活に笑って見せた。

 聡と共に、商店街を練り歩く。その中で、今日の献立を決めて行った。人数が多いため、結構まとまった量となった。それでも男二人。四等分すれば、それほど重いというわけではなかった。

 買い物を終えた後、二人は再びコンビニの前に戻ることに。そこで、斎と合流することになっていたからだ。そして、コンビニの前で二人は、鏑木郁子と出会った。


 怪訝な表情の郁子。返答に窮している聡。そんな聡を不思議そうに見つめている恭介。鏑木郁子は、恭介が通う京都の大学の先輩である。ここで会ったのは、偶然だ。恭介自身、郁子がこの町の出身であったことを知らなかった。そんな郁子が、聡の事を知っていた。しかし、聡の方は記憶喪失であるため、郁子の事が分からない。記憶喪失の事は、記憶があった時に親しかった人たちには出来るだけ明かさないと、斎と相談して決めてある。そのため、恭介も聡が記憶を失っている事を知らなかった。

 そんな現状が、ここに緊迫感を発生させていた。

「よっ、久しぶりだな」

 なんとか言葉を紡いだが、それは非常に残念な言葉と表情だった。

「あなたは……」

 郁子の黒い瞳に宿る光が、ただならぬものになっていることに気付き、聡は失言を悟った。これは無理だ。この人をごまかす事は、自分には出来ない。聡は、白旗を上げる覚悟を決めた――その時だった。

「いっちゃん! どうしたのさ、辛気臭い顔しちゃってさ!」

 走り寄って来た斎が、郁子を抱きしめた。

「ふやぁー!」

 郁子は、妙な奇声を上げつつ、斎のハグから逃げ出そうとする。

「離せよー。気持ち悪い、気持ち悪い! あっち行け! 超キモイ!」

「久しぶりね! ほっぺ、舐めてあげようか?」

「やーだー! 触るな、変態!」

「よいではないか、よいではないか~」

 斎は、その鍛えられた剛腕で、か細い郁子を振り回している。まるで暴風が、小枝を破砕しようとしているような、そんな光景であった。

「お~い、やめとけ。死ぬぞ」

「いやいや、久しぶり過ぎて、リミッター振り切れたね。本当、久しぶり。この町に帰ってきていることは知っていたから、会いに行きたいってずっと思っていてね!」

「私は、別に斎ちゃんとは顔会わせたくなかったし。変態だし。そろそろ離してよー、人目を気にしろー」

「別にいいじゃん。それよりもいっちゃん、ほら聡だよ、『超』聡。モノホン聡だよ。今年の四月に帰って来てさ、いっちゃんにも会わせなきゃって思っていたところだったんだよ。ねぇ、聡?」

 斎が、郁子に気付かれないように目配せをしている。きっと、『今はノリでごまかせ』と言っているのだろう。斎が来た以上、聡も彼女に頼るしかない。

「そうか、お前郁子か。すんげぇ美人になっていて、あの頃の郁子だとは思わなかったぜ」

 聡も勢いで笑った。そんな中、郁子はどこか冷めた瞳をしていたことに、二人は気づいていなかった。

「恭介、この子、私と聡の幼友達ね」

 門外漢になっていた恭介に話を振る。恭介は、『そうなんですか』と納得した様子だった。

「僕と鏑木先輩は、同じ大学なんです。世界って狭いですね」

「あら、そうなんだ。本当、世界は狭いね」

「私、そろそろ帰らないといけないから、離して」

「あ、ごめん。忙しいのに呼び止めて」

 ようやく郁子を離す斎。解放された郁子は、心底うんざりした顔をしている。そんな郁子の様子は、いつも見ている彼女の姿とは違っていると、恭介は感じていた。郁子は、恭介の隣の部屋に住んでいる。いつも無駄に元気で、空気を読まず、他人を振り回してそれを生きがいにしているのではないかと思えるほどの、トラブルメーカーだ。人を苛立たせるような、間延びした話し方と、回りくどい言い方。それが、郁子の持ち味だった。しかし、今の郁子は、それらが演技だったのではないかと思えるほどであった。

『本当、こんな時には会いたくなかったんだよ』

 そう郁子は言っていた。わざとらしく見える普段の郁子は、本当に『わざと』だったのだろうか。恭介は、そんな事を思っていた。

「斎ちゃんと会ってしまった不幸を呪うばかりだよ」

 斎は苦笑している。

「じゃ、バイバイ」

「うん、バイバイ。あ、いっちゃん、後で連絡するから。この町にいる間に、一回ぐらい飲みに行こう」

「あ~い、そっちに合わせるから、決まったら連絡して」

 郁子はそのまま振り向かず、手だけを振って帰っていった。聡は、一難去ってほっとしていた。


 郁子の件が落ち着いて、聡たちは神華の家を改めて目指す事となった。道中、斎は恭介に郁子の事を訪ねていた。

「へぇ、文芸部の部長ね。あの子、小説とか書けたんだ。隠してやがったな」

「そりゃ、お前に見つかると格好の獲物だからな」

「はぁ? なにそれ、聡が私の事をどう思っているのか、今ので分かった。分かったから。後で、しばく」

「て、恭介の心の中を代弁してみた」

「先輩! 人のせいにしないでくださいよ!」

 冗談じゃないと、恭介が慌てる。

 神華の家に向かう海沿いの坂道。恭介は、二人と話をしていたため、昨日墓を参った時と違い、軽い足取りで登っていた。かつては、恋人の光と並んで歩いた道。そこは、彼女の記憶が残る坂。それを意識せずに登れているのは、彼にとっては幸運でもあった。

 神華の家に辿り着く。当然、応対に姿を現したのは、家の主である神華である。彼女は、恭介の顔を見ると、目を丸くして『なんでっ?!』と一喝した。普段の彼女からは想像が出来ないほどの、大きな声だった。それに一番驚いたのは、恭介ではなく斎。恭介の方は、いまいち状況が把握できていない顔をしていた。

「なんでと言ってもね、私が誘ったのよ。色々と積もる話もあったしね。神華も、恭介の事を知らないわけじゃないでしょ?」

 神華は、恭介を見つめる。彼女が何を思っているのか、恭介には察する事も出来ない。当たり障りなく、『お邪魔しています』と声をかけた。

「やっぱりタイムなんです!」

 神華は、二階へと駆け上がって行ってしまった。斎は、それを見送りつつ、恭介の方へ怪訝な表情を向けた。

「なんか、エッチな事でもしたの?」

「していません」

 恭介は、きっぱりとにべもなく答えた。

 家の主である神華が二階に上がってしまっても、斎には関係がなかったようで、問答無用で上がっていく。聡も、『お邪魔します』と上がった。一人玄関に立っているわけにもいかないので、恭介も後に続いた。

 二階へと続く階段。恭介は、誰もいないその階段を見上げた。

 天野神華。光の妹。引っ込み思案で、まともに話しはおろか、顔も見た覚えがない。ただ、この家に来た時、彼女の姿を見ない日はなかった。視界の影に過ったり、人の気配を感じて振り返ると、誰もいなかったり。

「……ごめんね。普段は、あんなに人見知りをする子じゃないんだよ。ただ、恥ずかしがっているだけだと思うんだけど、一度、ちゃんと挨拶させなきゃね」

 そう、生前光は言っていた。だが、神華はそれ以降も恭介の前に姿を現すことはなかった。

 気持ちを切り替えて、リビングへと足を踏み入れようとしたその時、恭介はあることを思い出した。

「ねぇ、もし私に何かあったら、神華の事をお願いしてもいいかな。恭介君になら、あの子の事、託すことが出来るから」

 それは、光が事故に遭う一週間前に恭介に言った言葉だった。今まで完全に忘れていたその言葉。忘れていた要因は、間違いなく神華の事を忘却していたからであろう。亡き光との約束。あの時は、『そんな縁起でもない話はしないでよ』と返した記憶がある。

「恭介? どうしたの、早くこっちにきなよ」

 斎が手招きをしている。

「ごめん、ちょっと行ってくる!」

 恭介は両手に持っていたスーパーの袋をどさりと床に降ろし、階段を駆け上がっていった。

 二階に上がり、迷わず神華の部屋の前に立つ。何度も来ているため、部屋の位置は熟知していた。一つ呼吸を置いて、恭介は神華の部屋のドアを叩いた。

「神華さん」

 反応はない。恭介は、一方的に話をすることにした――が、勢いでここまで来たものの、話す内容を決めていなかった。

「えと……そうだ、僕は君に謝らないといけない。本当にごめん。光が亡くなって、辛かったのは君も同じだというのに、僕は君を……そう斬り捨てた。そんな僕を、責めているのかな。そうだよね、自分でも身勝手だと思う。こんなことを言うと、もっと傷つくと思うけど、僕は君の事をずっと忘れていた。それも含めて、本当にごめん。そんなどうしようもない自分だけど、思い出したからには、君と関わっていきたい。もう一度、チャンスをくれないかな? でも、どうしてもダメだというなら……」

 しどろもどろ、自分でも何を言っているか分からないような話を綴る。その話は、扉の向こうから返って来た、二回のノックで中断した。

「私は、刈谷さんの事を一度も責めたことなんてないです。あの……ただ、顔を合わせるのが恥ずかしかっただけ……なの。私の方こそごめんなさい。そんなに刈谷さんを追いつめるようなことをしていたなんて、気付けなくて」

「あ、いや、別にそれはいいんだけど」

「私、もう少しだけ頑張るから。だから、少しだけ時間をください」

 恭介は、『下で待っている』と答えて、階段を下りて行った。


 部屋の中。神華は、扉を背にして座っていた。顔を両手で覆っている。しかしその両手では、頬を滴る涙までは隠せていなかった。

「神華は、お姉ちゃんになる。お姉ちゃんになる。お姉ちゃんになるんだから……消えてしまえ。神華なんて、消えろ。消えろ。消えろ……」

 それは、まるで呪詛のような呟きであった。


 聡と恭介が中心になって、料理を作る。その合間、どこか吹っ切れたような表情で、神華もリビングに顔を出した。大人数となった食事の場。談笑が絶え間なく続く。神華も、どこかまだぎこちなさが残るものの、恭介と言葉を交わす事が出来ていた。

 夕食を食べ終わった後、聡は斎に引っ張られて、外へと出た。突然で、説明もなし。怪訝そうにしている聡に、斎は『私が昨日言ったこと、覚えている?』と尋ねてきた。昨日――聡は、考えを巡らす。色々と言われた気がするが、彼女はどの答えを所望しているのだろうか。それを正直に口に出すことにした。

「どれのことだ?」

「恭介の事を話したよね? 私、その時、郁子のことも話したよね」

 昨日の夕方、恭介と会うにあたって、記憶が欠如している聡は斎に恭介に関することを教え込まれた。その際、鏑木郁子も帰ってきているから、うっかりと会わない事。そして、会った場合は、顔色一つ変えずに対応するようにと言われた。その事を聡は、今さらながら思い出した。

「あっ、そう言えば聞いたな。あまりにも突然だったから、頭が真っ白になって、うっかり忘れていたぜ。でも、なんとかなったんだし、別にいいじゃねぇか」

「この大馬鹿っ!」

 背中を向けていた斎は、振り向きざまに強烈なローキックを放った。照準は、聡の左大腿部。遠心力を得た斎のローキックを受け、聡の体は若干『く』の字に曲がった。

「つっ……あ……い……おぉ……」

 言葉にならず、蹴られた足を引きずりながら聡はその場をぐるぐると回る。完全に涙目だ。そして、蹴飛ばした斎の方も、『あいたぁ……この馬鹿固いのよ! 死ね!』と右足を抱えてうずくまり、罵っていた。

「急に何しやがる!?」

 聡の怒鳴り声。斎も負けていない。

「あれでごまかせたと思っているの?!」

 斎の鬼気迫る表情に、聡は言葉を飲み込んだ。そう、聡の方が迫力負けしたのである。男一人を怯ませる坂田斎の姿がそこにあった。

「郁子はね、あぁ見えて物凄く頭の回転がいいのよ! こっちの演技なんて、きっと気付いている! もう手遅れなぐらい、彼女は何かしら察している! だから、あれほど気を付けてと念を押したのに、この大馬鹿っ!」

 二度目の大馬鹿である。

「郁子は、思い込みが激しくてね。あんまり言いたくなかったんだけど、一度、自殺未遂もしたことがあって……今回の事で、妙な勘繰りをして、また自分を追いつめて……分かるよね。もしかしたら、最悪の結果を招くかもしれないってこと!」

「それは……俺のミスだ。ごめん」

「私に謝ってもどうしようもない。疑心暗鬼になっている郁子のこと、なんとかしないと」

「なら、もう話そうぜ」

 斎は、聡の顔を見上げた。呆気にとられていたのだ。しかし、すぐに険しいものに戻った。

「それが出来れば苦労しない!」

「でも、正直俺は頭の回転良くねぇし、斎もあの子を上手くごまかせるほど、弁がたつとは正直には思えねぇ」

「正直に言うわね」

「今回だって、勢いでごまかしただけだろう、あれ」

 斎は視線を逸らした。

「……否定しない。私だって、テンパっていたのよ」

「だから、俺が話す」

「聡が?」

「今回は、斎が折角事前に話をしてくれていたのを、忘れた俺のせいだ。だから、俺が話す。あの子と真正面から向き合う」

 斎は、聡をじっと見つめていた。

「俺が話すから。なんとかする。なんとかしてみせるさ」

 そう話すと、斎は苦笑した。

「まっ、そこまで言うなら聡に託す。正直、今回は私もあまり役に立てないからね。その代わり、舞台だけは整えてあげる」

「すまん、頼むわ」

 斎は早速携帯電話を取り出した。

「なんとかしてくれたら、さっきの蹴り、貸しにしといていいから」

 携帯の画面を見ながら、斎はぼそりと言った。彼女もやり過ぎたと反省しているのだろうか。聡は、そんな意地っ張りな斎の言葉に苦笑しつつ、斎と共に神華の家に戻って行った。


 楽しい時間が過ぎていく――。


 一方、鏑木家では――。

 恵美子は、大きなため息を吐いてソファーに座った。ようやく祖父の葬儀にまつわることが一段落ついた。すでに、二十時を回っている。時計を見上げてそれを確認した恵美子は、再度大きなため息を吐いた。

「そんなにため息ばかりついていたら、魂、落ちちゃうよー」

 郁子が部屋に入って来た。左頬が腫れているのは、父に叩かれたせいだ。昨日は祖父の葬式。そして今日は、祖父の残した遺産についての話し合いや質素な形の食事会などが開かれていた。その最中に逃亡したため、怒られたのだ。恵美子には、とてもそんな真似はできない。姉の行動力には驚かされるばかりである。

「姉さん、頬、大丈夫?」

「女性の顔を叩くなんて、最低でしょ? 顔を叩いても、私があの人の事を好きにも嫌いにもなる事なんてないのにね」

 姉にとっては、父は空気だと言いたいようだ。そんな態度だから、余計父は姉を必要以上に疎ましく思っているのではないか――恵美子は、そんな事を思う。

「それよりも恵美子、あなたは明日帰りなさい」

「えっ? でも、まだ一週間はここにいろって……」

「さっき、あの人に話してきたから。私はともかく、恵美子がずっとここに居る必要はないんだよ。いつまでも、お友達や先生にご迷惑をかけるわけにはいかないでしょ?」

 今、恵美子が世話をしている神華の家には、神華の担任である坂田斎と、神華の友達が泊まっている。それを手配したのは、郁子であった。祖父が亡くなって落ち込んでいると思えば、そういう所には気を配っていた。昔から感じていた。姉は優秀なのだと。しかし、それは必ずしもプラスではなかったのだろう。そうでなければ、彼女が『道化』を演じている理由がない。

「それと家に帰る前に、恭介君に電話する事」

「えっ?」

 意外な名前が出てきた。なぜ、姉が恭介の名前を知っているのか。面識はなかったはずであるがと疑問に思っていると、その理由を郁子が説明してくれた。

「大学が同じなのよね」

「そう……だったんですか。って、恭介、帰ってきているんですか!」

「さっき会っちゃった。タイミングが悪いことのこの上なし」

 郁子は、複雑な顔で笑っている。

「伝えていない事、色々とあるんでしょ? 二人が仲違いしたままだと、光ちゃんが悲しむよ」

「……ありがとうございます。明日、恭介に会います」

「そうするといいよ。あと、光ちゃんの一周忌の準備は私がしているから。それも心配しなくていいからね」

「姉さん……」

「あ、感謝の言葉は不要ですよ。私は私で、色々と忙しさにかまけて、ごまかしたいことがあるだけだからー」

 郁子は、明るく振舞っている。だが、それは明らかに無理をしている姿であった。

「それでも、姉さん。色々とありがとう。助かるよ」

「恵美子には、迷惑をかけたからね。これぐらい、させて頂戴よ」

 その言葉は、恵美子にとってはもっとも驚きだった。その驚きが、彼女の瞳を潤ませ、容量を超えた涙は頬を滑り落ちて行った。

「あれ?! なんで泣くのさー!」

「別に。姉さんは、ずっと姉さんだったんだって……思い出しただけだから」

 長女である事の責任から逃れて、鏑木家を出て行った郁子。その時恵美子は、郁子に裏切られたような気持だった。ずっと、郁子のことを憎んでいた。しかし、その憎しみは『願い』の裏返しだった。姉が変わって家を出てしまった――ではなく、姉は昔のままの姉として家を出て行った。そこには大きな隔たりがある。

 恵美子の涙は、安堵の涙だった。



 間もなく、光の一周忌になろうとしていた――。


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