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空白ノ翼  作者: 堕天王
恭介の帰郷
18/35

思わぬ再会

 2005年8月1日――。

 夏休みの宿題を適当な所で切り上げ、刈谷(かりや)加奈華(かなか)は大きく背伸びをしながら立ち上がった。加奈華は、今年の春から高校に入学したばかりである。気の強そうな瞳に、肩にかかる程度まで伸ばしたサラサラの髪。やや幼さを残しつつも、十分美人で通る整った顔つきをしている。

 時刻は、十一時を回っている。休憩した後、昼ご飯を作ろう――そんな風に彼女は考えていた。

 部屋を出ると、締め切られた部屋が他にも二つ。左側の部屋は、弟の哲也の部屋。朝早くから、どこかに出かけて行った。彼の場合、勉強が目的なんてことはまずない。学校で引っ掛けた女の子と遊びに行っているのだろう。反対側は、兄の恭介の部屋。この扉は、今年の三月から開かれていなかった。加奈華は、少し悲しげな表情で閉じられた兄の部屋の扉を見つめている。

 丁度、一年前の話。恭介の恋人であった天野光(ひかる)が事故で亡くなった。仕事でほとんど家に帰ってこない両親。そのため、この刈谷家の兄弟は身を寄せ合って、協力して日々を過ごしてきた。それが崩れたのも、光が亡くなってから。一旦家を出た恭介は、十二月頃に戻って来たが、学校と部屋を往復する時だけにしか部屋から出て来ることはなく、ほとんど話も出来ないまま、今年の三月上旬に(さくら)町を離れて行った。

 あれから半年。兄は元気にしているのだろうか。そう思わない日はない。

 階段を下り、居間へ。居間は、蒸し風呂のような状態になっており、『暑い』と思わず口から言葉が漏れる。冷房のスイッチを入れ、それからテーブルの上に置いてあったリモコンを手に取りテレビをつけた。そのまま冷蔵庫に向かい、冷たい麦茶を出すつもりだったが、加奈華はリモコンを持ったままテレビに釘づけとなった。

「……鏑木(かぶらぎ)って確か」

 丁度、ニュースが流れていた。鏑木グループの会長が亡くなったことを伝えている。その苗字に、加奈華は聞き覚えがあった。恭介の友達に、そんな苗字の人がいた事を覚えていたのだ。

 リモコンをテーブルに置き、そのままソファーに腰をかける。とりあえず、冷たい麦茶は保留にした。恭介の友達が、テレビに映ったりはしないか。それが気になったのだ。そんな折である。ガチャンという音。重たい玄関の扉が閉まった音である。加奈華は、ソファーに寄りかかりながら、玄関の方に顔を向けた。当然、壁で仕切られているため、玄関が見えるわけではない。哲也が帰って来たのか。しかし、こんなに早く帰って来るものだろうか。不思議に思っても、この家に帰ってくるのは哲也だけ。加奈華は、興味を失いテレビへと視線を戻す。すると、居間の扉が開く音がした。

「なんか忘れ物?」

 視線を向けずに、加奈華は言う。そんな彼女の耳に、思わぬ声が届いた。

「ただいま、加奈華」

 加奈華は、慌てて振り返った。居間の入り口には、両手に買い物袋を持ち、右肩には大きな旅行用バックを抱えた青年が立っていた。整った容姿は、一見中性的にも見える。愁いを帯びた瞳を滑らせ、加奈華を見つめ――そして、優しく微笑んだ。

「に、兄さん……!」

 加奈華は、飛び上がるようにソファーから立ち上がり、わたわたと両手を動かしている。まさに挙動不審。加奈華自身も、自分の動きを制御しきれていないようだった。

 兄の突然の帰郷。それは、加奈華が待ち望んでいたことでもあった。


 去年の八月六日。また学校で会おうと別れたのを最後に、二度と天野光と会う事は出来なくなってしまった。連絡を受けて、病院へ。すでに彼女は、地下の霊安室へと移動していた。不自然なほど綺麗に化粧をされており、それはまるで死んでいるようには見えなかった。

 幸せな日々が、砕け散った瞬間だった。

 それから一年の月日が経った。恭介は、決意を胸に櫻町へと帰って来た。彼女の葬式にも出ず、彼女の死を今まで直視してこなかった。そんな自分との決別をするための帰郷であった。

「ただいま、加奈華」

「に、兄さん……!」

 半年ぶりに会う妹の加奈華。驚いて、目を丸くしている。恭介は、そんな妹の反応が楽しくて、つい笑ってしまう。

「帰って来るなら、連絡ぐらい入れてよね!」

「加奈華の驚いた顔を見られたから、黙って帰って来たかいがあったよ」

 恭介は荷物を降ろして、白い包装紙に包まれた箱を加奈華に手渡した。

「はい、お土産の八つ橋」

「ありがとう……」

 加奈華は、素直に受け取った。お土産を渡した恭介は、スーパーの袋を冷蔵庫の前に持って行き、中身を冷蔵庫に仕舞い始める。

「一週間ぐらいいるから。僕がいる間は、家事は僕がするよ」

「そんなの私がするし! 兄さんこそ、折角帰って来たんだから、ゆっくり休んだ方がいいよ!」

「今まで加奈華が頑張って来たの、分かっているから。だから、僕がいる間ぐらい、休みなさい」

 不服そうな顔であったが、加奈華はそれ以上は何も言わず、じっと恭介が荷物の整理をしている姿を見つめていた。恭介の言葉に納得したわけではない。ただ、もっと彼に聞きたいことがあったのだ。

「ねぇ、兄さん」

「ん?」

「……もう大丈夫なの?」

 恭介は手を止めて、加奈華の方へと振り返った。彼は、光を失ってから見る事が出来なくなっていた、優しい表情をしていた。

「少しはね」

「そっか」

 万全の答えではなかったが、加奈華はほっと胸を撫で下ろしていた。

 昼食の準備は、恭介がメインで加奈華はその手伝いへと回った。手伝いもいらないと恭介は言ったのだが、加奈華がそれを良しとはしなかった。

 料理が終わり、テーブルにセッティングをし始めた頃、加奈華は先程のニュースの事を思い出した。

「兄さん、さっきニュースで鏑木グループの会長が亡くなったとか流れていたけど」

「鏑木グループって、恵美子の家か」

 やはり恭介の友達の家であったようだ。一旦作業を中断して、加奈華はテレビを付けてチャンネルを変える。三回切り替えた所で、先程のニュースと同じものを見つけた。

「これこれ。やっぱり兄さんの友達?」

 恭介は、テレビをじっと見つめている。

「……多分。金持ちだったし、恵美子が言っていた鏑木グループが櫻町に二つもあるわけないし。そっか、恵美子のおじいさん、亡くなったんだ」

 そこで恭介は、浮かない顔で溜息を一つ吐いた。

「恵美子、元気にしているかな。謝らないといけないこともあるし」

 持っていた食器をテーブルに置いた後、台所へと戻って行く恭介。加奈華は、その背中を見送りながらテレビの電源を切った。

 弟の哲也がいないが、久しぶりに揃った兄と妹の食事。恭介は今通っている大学の話をし、加奈華はそんな恭介に色々な事を聞いていた。

 昼食も終盤に差し掛かった時、加奈華はあることを思い出した。

「あ、そう言えば、虹野(こうの)夏樹さんって、兄さんの後輩?」

 意外な名前が出てきて、恭介は不思議そうに首を傾げた。虹野夏樹、彼女は恭介の陸上部の後輩である。当時、男で実力が飛びぬけていたのが恭介。女で実力が飛びぬけていたのが夏樹であった。

「そうだけど。虹野さんがどうしたの? 全国大会にでも出られた?」

「あ、そんないい話じゃないんだけど……先月車に轢かれたって聞いたから」

「虹野さんが?!」

「う、うん。今も入院中って聞いた。詳しい事は、知らないけど」

「そっか。なら先に、先生の所に顔を出すかな。虹野さんのお見舞いにもいかないと。なんだか、やることが増えて来たな」

 昼食が終わると、加奈華に追い出されるような形で恭介は家を後にした。本当は片づけをしてから家を出るつもりだったのだが、『そんなのは私がするから、やるべきことを先にやって!』と、加奈華に言われてしまう。加奈華の気遣いに感謝しつつ、恭介は足早に母校である櫻高校へと向かった。

 久しぶりに潜る校門。白亜の校舎を見上げていると、光と過ごした日々が蘇ってきたため、直視できず視線を逸らしてしまう。目的の運動場には、校舎の中――下駄箱を通過するか、左右どちらかから迂回するしかない。恭介は人が少ない、道路に面した左側を迂回する。

 遠くから、元気な声が聞こえてきた。運動場を何人かの生徒が走っているのが見える。恭介は運動場まで来ると、周りを見渡して陸上部の顧問をしている恩師であり、古い知り合いでもある坂田斎(いつき)の姿を探した。

 坂田斎は、部室が作る影の下で、だらしなく地面に座っていた。陸上部の顧問をやっている彼女であるが、実は陸上の経験がない。そのため、基本『お飾り』であり、主な仕事はただ(げき)を飛ばすだけ。後は、『自己を尊重する』という名目の放置である。それでもこの部活が成り立っているのは、比較的真面目な生徒が多いのと、虹野夏樹と言う地区大会の記録保持者がいるせいだ。ちなみに男子の記録保持者は、今の所恭介のままである。

「坂田先生、相変わらずやる気がなさそうですね」

「このクソ暑いのに、どこからやる気なんて湧いてくるというのよ」

 心底そう思っているような顔で言う。そして、今声をかけたのは誰だ? と、ようやく恭介の方へと顔を向けた。その表情が、みるみると変わっていく。

「恭介!!」

 勢いよく立ちあがったかと思うと、恭介を指さす斎。

「久しぶりで、グハッ!」

「心配したじゃないか!」

 斎の右ストレートが、恭介の腹部に突き刺さった。崩れ落ちる恭介。昼食を吐き出さなかったのは、奇跡である。涙を溜めた瞳で、悪鬼と化した斎を見上げた。

「な、なにするんですか、いきなり」

「卒業してぱったりと連絡もなく、人様に心配をかけた奴への当然の行為よ! 本当に、この馬鹿! 死ぬほど心配していたんだからね!」

 斎は、恭介をぎゅっと抱きしめた。照れくさかった恭介であったが、拒否するとそのまま絞められるので、大人しくしていた。

「いつ帰って来たの?」

「今日の朝です」

「そう、しばらくいるの?」

「はい、一週間ぐらいは」

「そっかそっか」

 恭介から離れた斎は、なにやら含みのある笑みを浮かべていた。そんな恭介と斎のやり取りを見ていた陸上部の生徒たちが、集まってくる。恭介は、陸上部のエースであったため、二年生と三年生は恭介の事を全員覚えていた。

「あ、刈谷先輩がいる!」

「きゃー! 刈谷先輩よ!」

「先輩、また坂田先生に締められているぞ」

「刈谷先輩? うわ、マジだ! 元気でしたか、先輩!」

 恭介は陸上部の後輩たちに挨拶をして、少しの間話をする。その後、斎が人払いしたため、再び二人きりとなった。

「あ、先生。聞きたいことがあって、今日は来たんです」

 ようやく話を切り出せると、恭介は言葉を紡ぐ。

「ん? 聞きたいこと?」

「夏樹が事故で入院したって本当ですか?」

 斎の表情が急に曇る。その表情だけでも、本当の事だと物語っていた。

「大会前にね。つくづくこの時期は何かあるのよね。(さとし)は、腹痛。恭介は足を怪我して、夏樹は事故。聡が発端だから、聡のばらまいた『聡の呪い』かな」

「それ、先輩が聞いたら怒りますよ」

 聡――神山(かみやま)聡は、櫻高校の陸上部OBである。恭介は中学時代に、臨時コーチとしてやってきていた聡と出会い、そして聡に気に入られた。今は、ある事件を契機に行方が分からなくなっている。

「だから、からかうのが面白いんだけどね」

 斎は、楽しそうに聡の話をしている。そんな斎を見るのは、久しぶりだった。聡が行方知らずになってからと言うもの、斎の口からその名前が出て来ることはほとんどなく、恭介も敢えて触れないようにしていた。恭介は、斎が聡に好意を抱いているのを薄々感じており、聡が失踪したのを一番悲しんでいたことも知っていたからだ。そんな斎が、楽しげに聡の話をする。彼女もようやく吹っ切れたのだろうか。

「それで夏樹はどこに入院しているんですか?」

 少し突っ込んで聞きたかったが、今は他にも用事がある。話を進める事にした。

「天妙にある済会病院よ。見舞いに行ってあげて。きっと喜ぶから」

「はい」

「これからどこに行くの?」

「光の墓参りに」

「そう、そっか。頑張るのよ」

 斎に応援されて、少しためらいのあった気持ちがぐっと前に進んだ。『はい』と恭介は再度しっかりと答え、斎はその返事に満足して深く頷いた。

「恭介、十七時過ぎぐらいに櫻駅前のコンビニ前に待機ね」

 斎は、突然そんな事を言った。

「別にいいですけど。今日は、帰ったばかりだからあまり遅くまで外には出ていられませんが」

「そっか。そうよね、家族は大切にしなきゃね。まっ、大丈夫よ。ただ、ちょっと会わせたい人がいるだけだから。じゃ、光ちゃんの所にいってらっしゃい。妹の神華(しのか)ちゃんにもちゃんと挨拶するのよ」

 斎の言葉に送られて、恭介は櫻高校を後にした。


 一旦商店街へ赴き、墓前に捧げる花束を買う。花束には、ユリ科の花を混ぜてもらった。ユリは、光がこだわっていた花だったからだ。海沿いの道を進み、長い坂を登っていく。潮の香りが昔の事を想起させるたびに、胸が苦しくなる。一歩、一歩、陽炎で揺らぐ道を歩んでいくが、その足はやはり重い。

「刈谷、こっちに来い!」

 臨時のコーチとして呼ばれていた神山聡に呼ばれて、彼の下へと駆けつけた時、その傍にいたのが、天野光だった。元々聡は、光のために呼ばれていたことを、後から知ることになる。

 光は成績優秀な生徒であったが、基本『妥協』しない生徒でもあった。相手が先生であろうが、間違えていたらとことん突っ込んで行く。普段は大人しいが、血が上ると見境がなくなり、職員室の扉を蹴破った唯一の生徒として、今でも先生たちに覚えられているほどである。故に、大人しい時を『白い方』、荒れている時を『黒い方』と識別されているほどだった。彼女が、精神疾患を患っていたというわけではない。実は、『黒い方』が光の本来の姿だったのだ。血が上ると、化けの皮が剥がれてしまうのである。その事に気付いたのは、恭介と光の親友であった鏑木恵美子だけであった。

 恭介もまた、学校では好かれるようにと演技をしていた。家庭内でのストレスが激しく、学校内では出来るだけストレスが発生しないようにと、考えた上での演技だった。演じている理由は、光と恭介では違っていたが、お互い似た者同士、心を寄せ合うようになっていった。光にとって恭介がなくてはならない存在であったように、恭介にとっても光はなくてはならない存在だった。

 それなのに天野光は死んでしまった。

 恭介は、ぐっと花束を強く掴む。花束がかさっと小さく音を立てた。彼女の死を受け入れられないまま、もう一年が経過しようとしている。光の死を受け止めて、前に進もう。そう決意してここまで来た恭介。しかし、その道のりは思ったよりも困難だった。

 重たい足を引きずって、共同墓地の入り口まで来た。西洋式の墓が並んでいるのが見える。恭介は額を伝う汗を拭い、大きな溜息を零した。

「……多分、ここだよな。あ……」

 来ることばかり考えて、光がどこに埋葬されているのか、知らないことにこの時気付いた。恭介は視線を滑らせて、道の先を見る。そこには小さな教会が立っていた。天野光の家は、この教会の裏にくっついている。

「神華さんか光のお母さんに聞くのが早いか」

 無闇に探して歩くのは辛すぎる。光の父親は早くに亡くなっているが、その母親と妹はまだ存命である。記憶が正しければ、神華の母親は働いていない。神華も夏休みであるため、家に誰もいないということはないはずだ。

 教会の前まで来ると、教会の扉が開いていることに気付いた。ここにいるならば手っ取り早い。恭介は、開いた方から教会の中へと入る。この教会の中に入ったことは、何度かある。光が、敬虔なクリスチャンだったからだ。この教会は元々、神父だった光の父親が建てたもの。光の父親が亡くなった後、教会として機能はしなくなったが、家族の手で綺麗に掃除をされていた。それは光が亡くなった後も変わらないようで、教会は一年前に訪れた時とほとんど変わらない姿を留めていた。

 奥に教壇と大きなステンドグラスがある。そこから差し込んできた光りが、地面に鮮やかな色をつけていた。その教壇の前に、ステンドグラスを仰ぐセミロングの髪の少女が立っていた。白いワンピースを着ている。その姿が――。

「光?」

 天野光に見えた。セミロングの髪の少女が振り向く。既視感は、嘘のように砕け散った。光じゃない。髪型は光と同じだが、妹の神華である。

「刈谷さん……?」

「久しぶり。元気だった?」

 そう気軽に声をかけた。神華は、しばらくじっと固まっていたが、その表情が急に赤くなり――。

「ちょっとタイムです!」

 教会の奥には家に繋がる連絡口があるのだが、神華は脱兎の如くその扉を潜って行ってしまった。止める暇もない。

「……タイムって」

 どうしたものかと、嘆息を吐く。神華は、昔からあまり印象に残るような子ではなかった。その理由が、会っても逃げるからだ。会わないときは、視線に入らないように逃げ回っている時である。今、そのことを恭介は思い出した。

「しょうがない。光のお母さんに話を聞くか」

 ここにいないなら、家の方にいるのかもしれない。連絡口を使うわけにはいかないので、いったん外へと出ようとした時、僅かに扉が開く音が聞こえてきた。振り返ると、連絡口の扉が少し開いており、神華がその扉の影からこちらを窺っていた。

「お久しぶりです」

 消え入りそうな声。恭介の耳に届いたのが、奇跡のようである。近づいていいものだろうか――と考えを巡らせて、結局その場から動かないことにした。また逃げられるのは面倒である。

「姉さんの墓参りですか?」

「そうなんだ。案内してくれると助かるけど」

「ちょっと待ってください……」

 神華の姿が見えなくなる。しばらくそのまま待っていると――。

「こっちです」

 と、背後から声がかかった。振り返ると、神華はいつのまにか外に居た。しかも、また結構離れた位置に立っている。まっすぐに出てくればいいのに、わざわざ迂回してきた理由が恭介には分からなかった。嫌われているのかな? そんな事を思いつつ、決して近づこうとしない神華の案内に従って、共同墓地へと向かった。

 神華は共同墓地へと入ると、すぐに左へと折れた。立ち並ぶ十字架と石の台座。その列を通り過ぎると、奥に白い木の柵で区切られた場所に出た。そこには先程並んでいたものと同じ十字架と石の台座が、二つ安置されていた。右側は、天野信也とローマ字で書かれており、左側は天野光とローマ字で記載されている。

「姉さんのお墓は、左側です」

 恭介が墓前に建つと、神華は後ろへと下がった。花束を墓前に捧げ、それから彫られた文字を右手で擦る。火に照らされて、じんわりと熱い。恭介の瞳から涙が零れ落ちた。

 光は死んだ。もうどこにもいない。押し殺そうとしても、漏れ出てしまう嗚咽。その嗚咽の狭間、恭介は言った。

「なんでだよ……!」

 その時初めて、恭介は世界を呪った。彼の後ろに立っていた神華の姿は、この時にはもうなかった。

 墓前で泣くだけ泣く。それはまるで、自分の心に沈殿していたものを、一気に吐き出しているかのようでもあった。少しずつ、少しずつ。落ち着きを取り戻し始めると、恭介は涙をぐっと右腕で拭いた。その表情には、悲しみだけではない強い決意が宿っていた。

「光、僕は教師になるよ。光がなりたかった教師に。そう言ったら、鏑木先輩に『誰かの夢を叶えようなんて、そんな馬鹿な事は止めた方がいい』と言われたけど、それでも僕は決めたんだ。光の遺志を継ぐのもそうだけど、僕自身も教壇に立ってみたくなったんだ。光や、神山先輩や、鏑木先輩みたいに、誰かにとって指針となるような、そんな人になりたいから」

 瞼を閉じれば、微笑む光の姿が見える。彼女はもう何も言わない。心の中で、同じ姿のまま残り続けている。それで十分。それだけで頑張れる。そう気付いた時、恭介は光の墓前に立つ事を決意した。

 ゆっくりと立ち上がる。重たい荷物を下ろし終えた彼の表情からは、僅かばかり陰りが消えていた。

「すいません、神華さん……」

 振り返ると、神華の姿はそこにはなかった。気を遣ってくれたのかもしれない。

 共同墓地を出る。神華の姿は、相変わらず認められない。家に戻ったようである。一言挨拶して帰りたいという気持ちもあったが、心底疲れていたため、一旦帰ることにした。

 斎との待ち合わせの時間まで少し余裕がある。かと言って、夏樹のお見舞いに行くと、待ち合わせの時間までに戻って来るのが難しくなる。中途半端な時間。恭介は少し考えた後、部屋に戻って少し休むことを決める。恭介は、自宅へと直帰した。


 虹野印刷の前。定時を過ぎ、帰宅していく社員たち。その社員の一人である草壁順子は、壁に背を預けて立っている坂田斎の姿を認めて、意地悪そうな笑みを浮かべた。

「おっ、先生。また彼氏待ちですか?」

 斎は、虹野印刷の社長の一人娘、夏樹の担任である。そのことは社員全てが知っており、そして斎がこうやって外で待っていることも今日が初めての事ではない。一緒に帰っていた、兼田由梨も無邪気な笑みを浮かべて、斎の顔を覗き込む。

「いいなぁ~、私も彼氏が欲しいよ」

 斎は軽く頭を下げ、はにかんで右手を振る。

「おい、聡! 彼女が待っているぞ!」

「そいつは、彼女じゃねぇ!」

 順子が会社に向かって言うと、そんな返事が帰って来た。それからすぐに、体つきのがっしりとした青年が姿を現す。彼の名は、神山聡。虹野印刷の社員の一人であり、斎の幼馴染でもある。彼自身は記憶を喪失しているため、幼馴染については知識として知っているだけであるが。

「会社の前で待つのは止めてもらいたいんだけどな」

 嫌そうな顔の聡。他の社員にからかわれるのが嫌なのだ。しかし、斎は全く気にした様子はなかった。

「私は気にしないし」

「そりゃそうだろうよ。ちゃっちゃ行くぞ。話があるんだろう?」

 聡は、斎の返事を待たずに足早に歩きだす。後ろから(はや)し立てられる言葉は、聞こえていない事にした。

「あ、待ってよ。そんなにカリカリしなくてもいいじゃない」

 虹野印刷の前から離れ、草壁順子たちの姿も見えなくなった辺りで、聡は足を止める。場所的には、もう少し歩けば町の本道に出る辺り。周りは住宅街で、細い道を時々車が走り抜けて行く。邪魔にならないように壁際に寄ると、斎もその横に立った。敢えてこんな中途半端な場所に止まったのは、斎の提案次第では、本道に出てからの進む方向が違ってくるからである。

「で、なんか話があるとかメールに書いていたけど?」

 仕事が終わって、メールを確認した時、斎からメールが届いていた。今までの斎なら、『飲みに行こう』か『デートするゾ』という内容。さすがに聡も、不思議に思っていた。いつもはふざけているのか、大真面目でその状態が常なのか分からないぐらい、騒々しい彼女であるが、今日ばかりはその表情が真剣そのもの。かつて聡が斎の事を思い出せず、彼女と揉めた時と同じぐらいの真剣さだ。

「恭介が帰ってきている」

「恭介?」

「ほら、話したでしょ? 刈谷恭介。聡の弟子みたいな奴って。陸上部の後輩の」

 記憶喪失の聡は、今も現在進行形で記憶がない。その記憶を、知識として聡に教えてくれたのが、聡の幼馴染でもある斎であった。

「あぁ」

「あぁ、じゃない! 今から、恭介の事を叩きこむから、すぐに覚える! この後、恭介に会うんだから、ボロを出すわけにはいかないのよ!」

「はっ? この後って、マジかよ?!」

「今から色々と話すから。だから、協力して。聡が必要なの。お願いだから」

 斎のまっすぐな視線。それは彼女が、どれだけ恭介を大切に思っているのか、如実に示していた。聡は、苦笑する。

「別に協力しないとは言ってないだろう。ちょっと驚いただけだ。どこまで覚えられるか分からないが」

「大丈夫、こっちもフォローするから。聡が記憶喪失であることがバレなければ、それで十分」

「そっか」

 聡は斎の言葉に従い、斎を信じる事にした。斎主催の作戦会議が開かれる。


 十七時過ぎという曖昧な時間指定であったが、恭介は十七時きっかりに駅前のコンビニへと辿り着いた。まだ、斎の姿はない。暑さが身に染みるため、コンビニで雑誌を読みながら待つことにする。

 夏真っ盛り。夕暮れは、まだ遠い。時々時計を確認しながら雑誌を読んでいたが、なかなか斎は現れない。すでに十七時三十分を回っている。斎が約束をすっぽかしたことは一度もないので、『何かトラブルかな』と不安げに待つばかり。

 雑誌を置き、もう一度時計を確認する。十七時四十分。難しい顔で文字盤を見ていると、『恭介、ゴメン!』と声が聞こえた。コンビニの入り口に斎の姿を認めて、恭介はほっと胸を撫で下ろした。

「坂田先生、遅いっす」

「ごめんごめん。ちょっと手間取っちゃって」

 斎は右手を縦にして頭を下げ、それから手招きをする。斎と共にコンビニの外へと出ると、コンビニのゴミ箱の近くにがたいのしっかりとした男が立っている事に気付いた。その男は、とても優しい笑みを浮かべ、『よぉ、恭介』と声をかけてきた。

「久しぶりだな。元気そうで何よりだ」

 恭介は、驚いて固まる。何か夢を見ているのだろうか――恭介はそう思っていた。少し見た目が変わっているが、それは年相応の変化なのかもしれない。

 夢なんかじゃない。間違いなくそこにいる。行方が分からなくなっていた恭介の先輩、神山聡。彼との突然の邂逅は、恭介の思考を麻痺させるには十分すぎるインパクトだった。

「せ、先輩……」

 ようやくそれだけを絞り出した。彼になにを言えばいいのだろうか。積年の思いが喉に引っかかり、言葉が出てこない。そんな恭介を見て、聡は昔と変わず無邪気に笑った。

「驚いている、驚いている。随分と大きくなったな。まぁ、十代の四年は大きいからな」

「先輩こそ、元気そうでよかったです」

 恭介は、なんとかそう言葉を紡いだ。恭介が聡に出会ったのは、中学生の頃である。その頃陸上部に入っていた恭介は、臨時顧問として呼び出されていた聡と出会い、聡に気に入られることとなった。しかし恭介が高校に進学する前に、聡は櫻町を離れ、それっきりとなっていた。脳裏を過る、ある事件。聡が巻き込まれた重大な事件だ。今まで何をしていたのか。そう尋ねたい気持ちはあったが、彼にそれを聞いていいのかが分からない。迷っている内に、聡は話を進め始めた。

「しばらくはこっちにいるんだろう? 俺は、もうこの櫻町を離れることはないと思うから、こっちにいる間は、色々と遊ぼうぜ」

 聞く必要はない。聡がここに居る。それだけでいいではないか。恭介は、そう割り切ることにした。実際、彼に何が起こったのかを知る事は、その事に比べれば些細な事である。

「はい、ほどほどにお願いします。あ、もうそろそろ帰らないと」

「おう。じゃ、連絡先だけ教えてくれ。明日、時間があったら会おうぜ」

「はい」

 連絡先を交換し、恭介は聡と斎に挨拶してから家へと帰った。家に帰ると加奈華から『なんだか嬉しそうね』と言われる。

「本当に帰って来たよかった」

 そう語る恭介を、加奈華は今にも泣きそうな顔で見守っていた。


 八月二日

 次の日の夕方。聡と恭介は、商店街で大量の食料を買い込み、斎との待ち合わせ場所である駅前のコンビニの前へとやってきていた。コンビニの前に差し掛かると、恭介が急に立ち止まった。

「ん? どうしたんだ?」

 コンビニの建物で出来た僅かな影の中に、一人の女性が体を丸くして座っていた。まだ年は若い。二十代前半といった所か。黒いスーツを着ている。線の細い、若干病的にも見える白い肌の女性である。

「鏑木先輩?」

 女性は顔を上げて、恭介の姿を認めると目を丸くした。

「キョウちゃん……?」

 ふらりと立ち上がる女性。

「あっちゃぁー、なんでエンカウントしちゃうかな。もう、もう」

「どうしてここに?」

「乙女には、色々と秘密があるのですよ」

 恭介は、苦笑する。

「先輩が乙女って、酷いですね」

「酷いってなんだぁー」

 間延びした声。子供のように両手を縦に振って抗議している。彼女の名は、鏑木郁子(いくこ)。恭介が通っている大学の先輩である。

「本当、こんな時には会いたくなかったんだよ」

 郁子は、普段見せない暗い顔でそう呟いた。いつもと違う彼女の様子に、恭介は戸惑いを覚える。そもそも郁子がなぜ櫻町に居るのか。そう思った時、郁子から実家の話を聞いたことが一度もない事を知る。そして、『鏑木』という姓が指し示す意味。その事に気付いた時、恭介の耳にはもっと意外な言葉が届いた。

「サトちゃんだ……」

 郁子が、聡を見上げてそう言った。彼女の表情、そしてその瞳の揺らぎは、恭介が今まで見たこともない、どこか弱々しい姿だった。まるで縋るような郁子の言葉を聞いた聡は、心中穏やかではなかった。目の前の女性が誰なのか分からないからだ。これは、坂田斎と会った時と同じパターンだ。向こうは知っているが、聡はまるで分らない。斎の時は、『君は誰?』と聞いて、相当怒られた。そして、斎からその文言を知り合いに向ける事を禁忌とされた。斎が見せてくれたアルバムに映っていた人たちを一生懸命思い出そうとするが、一致する人にぶつからない。それもそうだ。あのアルバムは、少なくとも七年前のもの。恭介が大人びたように、あのままの姿であるはずがない。

「あれ? 鏑木先輩、神山先輩の事を知っているんですか?」

 恭介が不思議そうに聡を見る。郁子の方は、何も答えない聡を見て、何かを察したのか怪訝な表情をしていた。何か答えなければならない。だが、どう答えればいい。どう行動すればいい。二人に記憶喪失であることをばれるのは避けなければならない。どうする。どうする。聡は、そう繰り返す中『斎、助けてくれ』と呟いていた。


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