聡の足跡
六月の末、小泉章吾は橘家の召喚を受けて、橘家へとやってきていた。
「えっ? 神山聡の再調査ですか?」
当主の間で、橘家の当主勝彦から告げられたのは、それだった。
「彼の経歴は、粗方調べ終えたと認識しておりますが」
「水及様が違和感を覚えている。私もあの報告で十分かと思ったのだがな、水及様が『否』という以上、もう一度調査をしなければならない」
白髪のいかにも強面の侍という容姿の勝彦が、渋い顔をしている。
「また一から洗い直せとは言わない。そうだな、まだ謎のままになっている所が二か所ある。聡と茜の接点と、後は記憶喪失に至るまでの経過だ」
「分かりました。ただ、その二つはどこまで調べられるか、正直自信がありません」
神山聡の経歴を調べた際、その二つも念入りに調査はした。しかし、手掛かりらしいものはほとんど得られなかったのである。
「もう一度調査すれば、水及様も納得されるだろう。それに、これで納得してもらえないのであれば、後は自分の狗を使って調べてもらう他あるまい」
こうして、神山聡の再調査をすることとなった。
大手町の武者ヶ岳と呼ばれる地区。櫻町からは、南の橘山を挟んで反対側の町だ。どこまでも田園風景が続く、のどかな田舎。その田園風景の奥に、空気を読まない陰気な小高い丘が鎮座していた。うっそうと茂った森に覆われたその丘を、章吾は忌々しそうに見つめる。
かつて、あの丘には尼崎家という除霊屋の一族がいた。除霊屋とは、『この世の理から外れしモノたちを調整する者』たちの集合体だ。要は、妖を退治している一族である。ここ大手町を含む、福岡県、そして九州全体の除霊屋を管理しているのは、橘家である。その橘家に、十年前のある日まで反旗を翻し続けていたのが、尼崎家だ。橘家を守護する一族の一つである小泉家の人間にとっては、宿敵中の宿敵であった。
現在は、屋敷は残っているものの、管理を任された一人の女性が住んでいるだけで、他はもぬけの殻だ。十年前に起こった事件の結果、橘家によって解体されたのだ。
章吾がここを訪れたのは、勝彦が言っていた『聡と茜の接点』を調べるためである。そもそも、なぜそんなことを調べなければならなくなったのか。それは聡が、橘家が保護している『赤飯』というコードネームで呼ばれている少女を、『アカネ』という名前で呼んだからである。『赤飯』の名前は、『アカネ』ではない。しかし、全く関係がないというわけでもなく、またただの一般人が知っていていい名前ではなかった。
『アカネ』は、『茜』と漢字で書く。その正体は、尼崎家がずっと隠し続けていた『赤鬼』という特殊な霊障――霊的な病を患った、当主の次女である。尼崎家の人間ならば露知らず、それ以外の人間が知っているはずがない名前。対立していた橘家や小泉家の人間でさえ、『そういう存在を隠している可能性がある』程度にしか把握していなかった。経歴上、除霊屋とは全く無縁だった聡が、知っていること自体が謎であった。
章吾は、大きな庭を持つ一軒の農家の前で足を止めた。表札には、『神山』と表記されてある。ここは、神山聡の父親の実家である。今は、その父親の兄が住んでおり、家業である農業も引き継いでいる。神山聡は、中学生の頃までこの父親の実家に、父親と共に訪れていた。そう、尼崎家が解体されることとなった事件、十年前の『尼崎家の崩壊』の日にも、聡はここに居たのだ。
接点があるならここしかない。章吾は、そう確信してここを訪れたのである。
呼び鈴を鳴らす。しばらく待つと、奥から高校生ぐらいの女の子がやってきた。章吾は、笑顔を浮かべ彼女に頭を下げる。
「こんにちは。新聞記者の竹島章吾というものですが」
名前以外は、全部嘘。高校生ぐらいの女の子は、露骨に嫌そうな顔をしている。情報通りなら、彼女は神山聡の父親の兄の娘、神山愛美だ。彼女が表情を曇らせた理由を、章吾はすぐに察する。
「あぁ、そんなに怖い顔をしないでください。彼を悪く書くためにここに来たわけではありませんから。私は、彼を被害者だと思っています! 世の中の彼への間違った評価を正すべく、編集長の渋い顔にもめげずに奮闘しているんです!」
章吾のオーバーリアクションに愛美は驚き、ようやく少し笑った。
「父さん、新聞記者の人が、聡兄さんのことを聞きたいんだって」
畳敷きの広い居間で、神山聡の叔父から十年前の話を聞くことができた。神山聡は、確かに十年前にも、ここを訪れていた。叔父は、その当時の事をこう語った。
「聡君は、近所の子供と仲が良くてね。よく、外で子供たちを連れて遊びまわっていたよ。そういえば、一度だけ弟にこってり怒られていたっけか。確か、立ち入り禁止になっている森に忍び込んだとかで。やんちゃな時期ですからね、大人の言う事なんてなかなか聞く耳持たずですよ」
立ち入り禁止になっている森。尼崎家がある小高い丘の森のことだと、章吾はすぐに察した。長い話に最後まで付き合った後、章吾は愛美にかつて神山聡が忍び込んだという森の入り口まで案内してもらった。
「ここ……だったと思うよ」
狭い路地。金網が道を塞いでおり、その向こう側は、うっそうとした森が広がっていた。獣道なんてものはない。よくもまぁこんな道を通ったものだと、章吾は半ば呆れていた。
「入ったらダメだと言われているけど、ここから少し入った所で、大きなカブトムシが取れるの。十年ぐらい前に、この金網で封鎖されて通れなくなったんだけど……これ、聡兄さんがこの路地で発見されたのをきっかけに、設置されたの」
「発見された?」
「倒れていたって。私は見ていないけど、この路地に。聡兄さんは、何も覚えていないって言っていたけど、森に入ったことを隠そうとしているためだと、怒られていたよ」
十年前、神山聡は森に入った。何も覚えていないというのは、本当なのかそれとも嘘なのか。
「あの」
考え込んでいる章吾に、愛美がどこか心配そうな面持ちで話しかけた。
「聡さんのこと、悪く書かない?」
もう一度、念を押してきた。章吾が、『約束します』と答えると、愛美は深々と頭を下げた。
愛美が帰った後、章吾は今一度フェンス越しに丘を見上げた。これから先は、章吾の独断では進められない。尼崎家の私有地には、許可がない限りは踏み入ってはならないというルールがあるからである。章吾は、持ってきていた地図を広げた。
「ふむ……ここから登れば、尼崎家の敷地に入る事は可能ですね。状況証拠だけなら揃いましたが、本当なら現場に居た人間の証言が得られれば本当はいいんでしょうけどね」
章吾は、森を見上げて溜息を吐く。
十年前に起こった、『尼崎家の崩壊』。尼崎家の当主やその妻を含む六十名ほどの死者を出した、大惨事である。その現場に居て、生き残っていたのは二人だけ。その内、無傷だったのは現在尼崎家を一人で管理している、尼崎月子だけである。しかし彼女は、以前聞いた時に神山聡の関与を完全に否定していた。その気持ち、章吾にも察する事が出来る。
ただの一般人である神山聡。除霊屋は超法的な組織であり、一般人が関与した場合、その記憶に手をかけることもできる。尼崎家が隠匿してきた存在に関与していたとなると、神山聡もただでは済まない。だから、月子は神山聡の関与を否定しているのだろう。
「実際、過去の事で神山君に何かするなんてことはないのですが、尼崎家の人間からしたら、僕たちを信じられないのでしょうね」
章吾は、それ以上何もせず、その場を後にした。彼が次に訪れたのは、山科町という所。櫻町から東の若草山を越えた先にある町である。若草山の近くはさきほどの武者ヶ岳に匹敵する田舎であるが、そこから離れると櫻町よりは栄えた地域が広がっている。
二階建てのアパート。その二階の真ん中の部屋に、章吾は管理人から借りた鍵を差し込んだ。
綺麗に整えられた、3LDKの部屋。章吾は、一番奥のリビングまで足を進めた。
「本当に綺麗にしてありますね」
ここが現在記憶を失い櫻町で暮らしている神山聡が、記憶を失う直前まで住んでいた部屋である。現在も家賃が支払われ続け、部屋は管理人によって週に一回掃除がなされている。普通では、まずないことである。その事について、管理人はこう話していた。
「もうそりゃ凄い美人な人が来てね、家賃と掃除の費用を出すから部屋をこのまま綺麗に維持して欲しい、て言ってきたんだよ。まぁ、お金をもらっているから、そのままにしているけどね」
女が訪れて来たのは、五月頃だったという。丁度、神山聡が戸籍謄本を得た時期に近い。その女については、現在何も分かってはいない。戸籍もどうやって移したのか、分かっていなかった。
「試しに訪れてみましたが、やはりここには何もありませんね」
生活をしていた足跡しかない。特殊な力や結界もなく、本当にただの置き忘れられた記憶が埋まっているだけである。
かつて聡が使っていた部屋へと入る。簡素な机が一つ置いてあるだけで、他にはタンスしか置いていない。引き出しを開けてみると、書類が詰まっていた。給与明細やら保険の書類やら。記憶喪失に至るまでの経過に関与していそうなものは、やはり何もなかった。
章吾は外に出て、鍵を閉めた。それから、真下の駐車場を見下ろす。丁度この下が、聡が使っていた車が止まっていた場所。今は、ぽっかりと空いている。
「彼の車もまだ見つかっていないんですよね」
現在分かっている事は、彼がこの家を出た日に、勤めていた工場に退職届を出していたこと。慌てた様子で、二十時過ぎ頃車に乗り込んでいる所を、目撃されている事。それだけだ。彼が乗っていたはずの車は、現在も捜索中である。
「やっぱり記憶喪失に至るまでの経緯は謎のままですね」
章吾は、大きなため息を吐いた。
章吾から再調査の結果を得た勝彦は、章吾に通常任務に戻るよう命令する。その後、勝彦はその結果を依頼主である水及に報告するため、歌宝山の彼女の家を訪れていた。
森に覆われた、朽ちかけた屋敷。大きな一本の木が、庭から見える空のほとんどを蹂躙している。勝彦は、その木陰に立つ。水及は、十二畳ほどの畳の部屋にだらしなく座っていた。
「そうか。よく調べた。章吾には報酬を」
不遜なしゃべり方。勝彦は、ただ静かに頭を下げる。水及は、中学生ぐらいにしか見えない容姿であるが、実際は人間の数倍は生きており、橘家の後継人という立場でもある。九州の除霊屋家業の頂点に君臨するのが、この水及なのだ。
「記憶喪失に至るまでの経過は、依然不明のままか。少し匂うな」
「はい、彼が乗っていた車もまだ見つかっていません」
「あの妙な感覚、何かしらの術式に触れたものだったかもしれない。そうなると、神山聡の記憶喪失は、誰かの干渉によって引き起こされた可能性も出て来るか。しかし、ならばなぜ神山聡なのだ。彼を記憶喪失にして、櫻町に放り込んで、その真意はなんだ? そもそもこの私に、気配さえ感じさせないとは。考えすぎだったで終わればよいが」
水及は、真剣なまなざしで聡に触れた右手を見つめていた。
「まぁ、今は何も動きがない以上、これ以上は調べようがないか。神山聡から目を離すな。もし、彼が何かしらの事件に巻き込まれているのであれば、それを助けるのも我々の仕事だ」
水及の言葉に、勝彦は『御意』と答えた。