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空白ノ翼  作者: 堕天王
人形になった少女
14/35

杜若の正体

 杜若(かきつばた)の一撃は、まさにハンマーのようであった。腹部から発生した衝撃は体全体を縛り、いつまでも動きを制限する。椿は、それでもなんとかして立ち上がろうとしたが、結局足が動かず地面を転がる事に。

「見栄を切りながら、この様なんて……」

 たったの一撃で終わってしまった。悔しさで、身が焦がれそうであった。涙で霞む視界。杜若の背中が見える。もうとっくに(さとし)静流(しずる)を押さえ込んでいるかと思っていたが、杜若は何かに怯えるように体を小さくして、動きを止めている。その杜若の視線の先にいる黒い髪の女を見たとき、椿は恐怖で悲鳴を上げそうになった。にこやかに笑い、杜若へと進んでいるその女。確かに美しいが、椿には人外なモノの様に見えていた。


 突如として現れた謎の女性。聡を守るようにして現れた彼女は、ゆっくりと杜若へと歩き出す。杜若は、顔をしかめつつ女性を睨んでいる。今までの余裕の表情がどこにもない。

 緊迫した空気。最初に動いたのは、杜若。

 一息で間合いを詰め、右手を女性の首目掛けて突き出す。ゆらりと女性が動いたかと思うと、女性は杜若の右手を避け、反対に杜若の頭を右手でガシリと掴んでいた。

「捕まえましたわ」

 杜若の動きは早い。右手で女性の肘へと手刀を叩き込もうとするが、やはりそれも当たらない。女性はすっと右手を引くことで避け、こともなげに杜若の腹部を右足で蹴り飛ばした。

 吹き飛ばされた杜若は体を捻って、右手で大地を叩きくるりと廻って着地する。杜若は、内心恐怖を覚えていた。どの攻撃も、杜若が出せる最大の速度で打ち出した。しかし、それがかすりもしない。攻撃を出した後に、それが的外れなものだったように思えるほどの距離感が、常にあった。

「……負けない!」

 弾丸のように駆け抜ける杜若。大地を蹴り上げ、一気に間合いを詰めていく。しかし――。

「はい、また捕まえましたわ」

 気付くと、頭をまた鷲掴みにされていた。いつ動いたのか、それさえ分からない。杜若の残した運動量ごと、女性は右手で相殺してしまった。即座に女性の右手首を持とうと、下から上へと手を伸ばしたが、それは空を切る。やはり、女性の右手は取れない。

「はいはい、何度も捕まえますわ」

 ぽんと頭に右手が置かれる。最早、そこが定位置だと主張せんばかりである。頭を抑えられている以上、その右手をどうにかしない限りは動けない。ならば――杜若は、再び右手で女性の右手を払いのけようとしたが、今度はぱしりとその手を逆に跳ね飛ばされてしまった。

「手を払いのけた後、間髪いれずに廻し蹴りへ。いい策ですわね」

 杜若は驚愕した。女性が口にした事が、杜若が行おうとした事の全てだったからだ。

「もう諦めなさい。私は、相手の僅かな動きから次の動きを予測する事ができますの。予測と言いましたが、経験と知識によりほぼ予知に等しいので、私に攻撃するだけ無駄ですわよ」

「そんなことが出来る人間がいるはずがない……!」

「目の前に、今、存在しておりますわ」

 女性の不気味な笑顔。それを打ち壊すために、杜若は次の攻撃へと転じる。まずは――。

「左手で打ち払おうと見せかけて、右が本命。払った後は、踏み込んで右側腹部への打撃、ですわね」

 動きを止めなければならなかった。女性の言葉の通りだったからだ。

「なかなか認めようとされないのですね。ならば、仕方がありません。ちょっと、お仕置きしちゃいますわ」

 杜若の体が浮いた。女性が杜若を片手で真上に向かって投げたのだ。直後、凄まじい踏み込みで、杜若の腹部目掛けて、謎の女性の右肘が捻じ込まれた。ドン! という凄まじい音がした。地面に叩きつけられた杜若は、バウンドして転がっていき、ぴくりとも動かなくなった。

 これには、見ていた聡も焦った。

「ちょ! やりすぎじゃないのか?!」

 しかし、女性はにこやかに笑うばかり。

「大丈夫ですわ。臓器にダメージが行く所にはあてておりませんので。十分もすれば目を覚ましますわ」

 女性は、ポケットから荒縄を取り出した。それをピシリと鳴らした後、杜若へとにじり寄って行く。

「さてと、亀甲縛りが宜しいですわ」

「あ、いや、普通に縛ってやってくれ。心に傷が残る」

 聡に言えたのは、その程度だった。

 事が一段落した。聡は、椿に手を貸そうとしたが、断られてしまう。椿と共に、杜若と謎の女性の所へ。椿は、女性の方を見ようともしない。それに気付いてはいるのだろうが、やはり女性はにこにこと愛想よく笑うだけである。

「これで私の出番も終わりました。また、何か困った事があれば、私の名前を呼んでください」

「いや、俺、名前知らないし」

「あ、そうでしたわ。なら、『名無しのお姉さま』で宜しいですわ」

「……長い。姉御でいいか?」

 女性は、笑いながら驚いているようであった。器用な事が出来るものだと、聡は純粋に思った。

「姉御……」

「ダメなのか?」

「いいえ! そんなことはありませんわ! あぁ、私は聡様の姉御! 姉御なんて、素晴らしい響きですわ! 可愛い弟分のために、今度はお土産を持参しましょう。では、またお会いしましょう。私の可愛い可愛い、聡様」

 気付くと彼女はもうそこにはいなかった。一陣の風が吹きぬけたように――ただ、甘い香りを残して。

「……可愛いと連呼されるほど、可愛いとは思えませんが」

 椿の的確な突っ込みに、聡は顔を赤くする。

「姉御が勝手に言っているだけだ! 俺だって、可愛いとは思ってない!」

 そんな話をしていると、『夕音、どこに行くの?!』という静流の声が聞こえてきた。

「どうしたんだ?」

 夕音が歩き出している。テクテクと迷わず道路に沿って。静流はどうしたものかとオタオタしていた。

「月野! そのまま、その子の後を付けてくれ! こっちは、杜若の相手をするからさ!」

「わ、分かった。えと……この間のファミレスで合流ね!」

 静流は、慌てて夕音の後を追いかけていく。残された問題は、女性に普通に縛られて転がっている杜若のみ。

「で、どうする? このままだと、俺が逮捕されそうなんだが」

「そうですね。私の家が近くです。道場に運びましょう。専門家の人もついでに呼んで、徹底的に調べましょう」

「了解。う~ん……しかし、縛られた女の子を抱えて運ぶなんて、なんか背徳感があるなぁ……」

「神山さん。汚らわしいので私が運びます」

 椿のような少女に、人一人運べるのか。そう思っていたが、椿はひょいっと杜若を肩に担いでしまった。聡は、しばらくそんな様を信じられないという顔で見守っていた。

「……今時の子はパワフルなんだなぁ」

「何をしているんですか? さすがに私だって恥ずかしいんです。早く行きますよ」

「へいへい」

 椿がおっかないので、聡は大人しく彼女の後に付いて行った。

 長い石段を登り、鳥居を潜って橘神社を迂回し、さらに庭を越えてその先。立派な道場がそこにはあった。杜若をそこに運び込んだ後、椿は『色々と調整をしてきます』と残して、道場を後にした。残されたのは、聡と今しがた目を覚ました杜若のみ。

「……本当に十分ぐらいで目を覚ますんだな」

 女性の正確さに、驚きを隠せない。

 杜若は、じっと聡を睨み付けている。最初はモゾモゾと動いていたが、どう足掻いても解けない事を悟ると、大人しくなった。

「別に煮て食うわけじゃないし、そんなに睨むなよ」

 冗談を交えて話してみるが、答えは返ってこない。聡は頭をポリポリと掻きつつ、胡坐(あぐら)を掻く。

「失礼するぞ」

 間もなくして、白髪の着物を着た強面の老人が入ってきた。まるで、時代劇にでも出てくる侍のようである。聡は、立ち上がって頭を下げた。

「こんにちは。お邪魔しております」

「こんにちは。私は、椿の祖父の勝彦だ。君が、神山聡君だね?」

 老人――勝彦は、その強面な顔に反して、柔らかい表情を浮かべる。

「あ、はい。神山聡です」

「椿から話は聞いている。気を遣わなくていい。座っていなさい」

 聡は、素直に従って座りなおす。ただ、胡坐は掻けないので正座で。

 勝彦は杜若に近づいていき、彼女の前で屈んだ。杜若は、視線を逸らしている。

「これは確かに面妖な。夕音と同じ顔であるが、夕音ではないと主張しているのか」

 杜若が返事をしようがしまいが、彼には関係のないようである。再び立ち上がった彼は、聡の隣に座った。どかっと片膝を付いて。

「足は崩してもいいぞ」

「あ……はい」

 正座から胡坐へ。聡も、さすがに緊張しているようであった。

「夕音が迷惑をかけたようだな。この子は、少々やんちゃ過ぎる気があるのだ」

 いきなり一撃で気絶させられたのが、少々なのか。という疑問が過ぎる。

「いえ、彼女には彼女なりの思いがあったんだと思いますから」

「そうか。君は、そう言ってくれるのだ。本当に、優しい男だな」

 勝彦は、嬉しそうにそう語る。

「夕音よ、自分から話す気はないのか?」

 杜若は、視線を逸らし黙したままである。

「それなら仕方がない」

 勝彦は、深く追求しない。椿が言っていた専門家とは、彼のことではないのだろうか。

 沈黙のまま、時が過ぎる。それから十分ほどして、お盆に五人分の湯飲みを乗せて椿が道場に戻ってきた。

「どうぞ」

「あ、ども。ありがとう」

 一つは、聡に。一つは勝彦に。一つは自分で持ち、残り二つを盆に残したまま、床に置く。杜若の分と――もう一個あるということは、誰か来るのだろうか。

「赤咲道場の師範にお話を伺ってきました」

「そうか。なんと言っていた?」

 勝彦に促されて、椿は赤咲道場の師範――夕音の祖父が話してくれたことを、話し出した。それは、途中までは聡も知っている内容だった。

 三月の下旬に家族旅行中に事故に遭い、夕音だけが生き残った。夕音は、奇跡的にほぼ無傷であった。一旦、そのまま自宅へと帰った夕音であったが、その次の日の朝、道場で倒れているのを発見される。病院へと搬送されたが、原因は不明。極度の過労のためだろう。そう診断されたが――目覚めた彼女を見て、誰もが驚いた。言葉を話せないどころか、自発的な動きがほとんどなくなっていたからだ。それから彼女は、精神科のある櫻町の河島病院へ転院。しかしそこでも原因は分からず、今も治療中とのことである。

「……なら、最初に会った触覚のある方の夕音が、やはり本物なのか」

「そう考えるのだが妥当です」

「なら、この杜若と名乗っているのは、誰なんだ?」

「今、専門家を呼んでおります。すぐに来ると思います」

 と言う話をした所で、道場の扉がガラリと開いた。

「呼ばれて来てやったぞ!」

 言葉はそんな感じであるが、男ではない。青い髪を長く伸ばし、瞳も青色。薄い青色の法衣のようなものを纏った、中学生ぐらいの少女である。彼女が入ってくると同時に、勝彦も椿も正座をして、頭を下げた。聡も慌てて、二人の真似をした。

「ん? ……見知らぬ顔がいる?」

「こちらは、以前ご報告した神山(かみやま)聡です」

 勝彦が変わりに答えてくれた。水及は、少しの沈黙を経て――ゴホンと咳払い。

「そうですか。これはこれは。こんな所でお会いできると思っておりませんでしたわ。顔を上げて、足を崩しなさい。あなたは、私に(かしず)く必要はございません」

 急に態度も口調も変えた少女。恐る恐る顔を上げた聡に、少女は手を差し伸べる。

「私の名は、水及(みなの)。以後、お見知りおきを」

「か、神山、聡です」

 少女であるはずの水及の迫力に負けて、言葉が滑らかに出ない。少女――水及に促されるまま、彼女の手を握った。その瞬間、水及は『ん?』と、何か疑問に思うことがあるような顔をした。しかし、それも一瞬の事。すぐ、優しい笑顔を浮かべた。

「勝彦、椿、あなたたちも頭を上げて、足を崩しなさい」

 水及の言葉に従い、勝彦と椿は顔を上げる。勝彦は胡坐を掻いたが、椿は正座のまま。

「こちらが、その杜若と名乗る、夕音のそっくりさんですね。かつての私の名前をかたるなんて、おこがましいですわね」

 水及は杜若の前で屈み、じっと杜若を見た。ほんの一秒程度。水及は顔を上げ、立ち上がった

「これは、『影』ですわね」

 杜若が驚いたように水及を見上げている。水及は、そんな杜若に背を向けた。

「赤咲家には、私が残した秘伝書が残っているはずです。その中に、『影写し』という術があります。影武者を作る術です。彼女は、その術によって産み落とされた『影』。まさか、なんの訓練も受けていないのに、あの術を再現できるなんて、驚きましたわ。この子の才能は、素晴らしいものね」

「影……えと……う~ん、ようするに夕音である事は、間違いないんですか?」

 聡は、話が分からず難しい顔をしている。

「そうですね。影武者ですから、同じ記憶、同じ人格をしております。ただ、影武者には本体を護るという意思が強く特化されています。その点を除けば、基本本体と変わりはありませんわ」

「そ、そうなんですか。えと、でも、本体の方は……」

 水及の話が正しければ、夕音は夕音であるはずである。しかし現実は、夕音は何も喋れない人形のような存在になっている。

「私の術を再現する際にトラブルが発生したのか、それともまた違う要因があったのか。そう考えるしかありませんわね。ただ、この状況を解決するのは簡単です。元に戻せばいいんですから」

 水及の湖の底のような青く暗い色を映す瞳が、杜若を捉えた。杜若はそんな彼女の瞳を見て、悲鳴を上げそうになる。とてつもなく、恐ろしい。その恐ろしさは、先ほど戦ったあの謎の女性よりも、ずっと――ずっと恐ろしいものだった。

「水及様、可能なのですか?」

 勝彦が聞くと、水及はどこか馬鹿にしたように笑った。ただ、聡の方から見ると影になってその表情は見えていなかったが。

「私が作った術です。私が解けないわけがないでしょ?」

「……待って! 私を……戻さないで!」

 その時になって、ようやく杜若が口を開いた。不安に揺れる瞳。言葉を震わせ、水及に懇願する。

「私が戻ったら……夕音の心が折れてしまう。一人で背負うのが辛かった。だから、二人になって、二人で半分ずつ持ち合えば、楽になるって……そう思ったから、夕音は私を作った。でも、夕音は私を分離した後、結局心を閉ざして、記憶や感情、それらを全て拒否した。だから、今の夕音には何もない……何もないけど、悲しい記憶を持たない彼女は、自由に生きることが出来ている。お願い……! 私を……戻さないで……!」

 杜若は涙を流し、頭を下げる。聡にはその姿が、ただ本体を守るという意思が強調された結果の行動のようには思えなかった。もう一人の夕音の本音。彼女は自分を犠牲にして、夕音の幸せを願っている。

 それが正しいとは、思えない。でも、理屈だけでこの世の中生きていけるわけではない。

「……そのままではいけないのでしょうか?」

 水及が、聡の方へと顔を向けた。杜若に向けていた瞳と違って、穏やかな色合いを見せている。

「お願いします。彼女に猶予を与えてやれませんか?」

 聡は、深々と頭を下げた。

「と、とても優しい青年が懇願していますが、勝彦、貴方はどう思います?」

「水及様、影写しによって弊害は発生しないのですか?」

「ありえません。ただ、影武者を作るだけの術ですから」

「ならば、神山君の言う通りに、猶予を与えるべきだと私も思います」

 水及は、くすりと笑って『そうですか』と呟いた。杜若の方に向き直り、見下ろす水及の表情には、もう恐ろしさはなかった。

「では、このままで。ただ、忘れてはなりません。これは、猶予です。また、しかるべき日に決断を聞きに参ります。それまで、じっくりと自分の在りようを考えなさい」

 水及は(きびす)を返し、道場から出て行った。一気に、緊張が解けてなくなる。一段落して、勝彦も『この場は任せる』と道場を出て行った。残された聡と椿と杜若。

「とりあえず、縄を解きますね」

 椿が、杜若の縄を解いた。杜若は大きなため息をついて、腕を廻している。

「お疲れさん。疲れたな」

「……自業自得だから。ねぇ、神山……さん? それと、椿、お願いがある」

 杜若は表情を改めて、真剣な表情で二人の顔を窺う。

「なんだ? 出来る事なら手伝うぜ」

 椿は無言であるが、話は聞くつもりのようだった。

「私のことを、静流には話さないで欲しい」

「なぜ?」

 椿が端的に聞く。杜若は、少し恥ずかしそうに頬を掻いた。

「あ……ん……静流には、心配をかけたくない。だから、このままでいい」

「そうですか。影写しを実行したのは、そういう理由もあってのことでしたか」

 途端、杜若は暗い表情をした。

「静流は、馬鹿だから。私の悲しみを無理矢理背負って、一緒に泣いてくれる。私は、静流の泣いた顔なんて……見たくないのに。静流が笑っていないと、私は嬉しくない」

 椿が、優しく微笑んでいる。

「分かりました。では、貴方の事はそのまま『杜若』と呼びましょう。たまたま顔が似ているだけの、赤の他人。それが、貴方です」

「それは無理があるんじゃないか?」

「世の中には三人似た人がいるといいます。顔が似ていることで運命を感じて一緒にいた。これで十分です。静流さんは、夕音さん……杜若さんが言うように、あまり頭の回転が良くないんですよ」

 クスッと椿が笑う。

「まぁ、ちょっと話しただけの仲だが、『そうかもしれん』と思えてしまう辺り、なんだか月野が可愛そうだ」

 聡も楽しげに笑った。それを見て杜若も笑い、道場に和やかな花が咲く。

「じゃ、宜しくな。杜若」

 杜若は、憑き物が取れたようなすっきりとした表情で、静かに頷いた。


 少しばかり夕暮れに近づいていく時刻。橘神社の境内まで出てきた聡たち。そこで聡は、あることに気付いた。

「そういえば、杜若は今どこに住んでいるんだ?」

「そう言われてみれば。杜若さん、もし宜しければここで暮らしませんか? 部屋なら十分に余っていますから」

「大丈夫。迷惑をかけても、微塵も心の痛まない奴の家に泊まっているから」

 杜若が、どこか意地悪そうな表情をした。彼女は少し先を歩き、そして聡たちの方へと向き直る。

「……色々とありがとう」

 杜若の素直な気持ち。

「それと……殴ってごめんなさい」

 ペコリと頭を下げて、杜若は階段を降りていった。

「いい子だな」

「変なことをしたら、殺します」

 椿の顔は、冗談を言っているようには見えず、聡は苦笑いを浮かべる。

「いや、待て。俺はロリコンじゃない。月野も橘さんも、なんで俺をそっち方向の人間にしようとするんだ」

「あなたには、前科があります」

「はっ? 前科って……俺、何かしたか?」

「女子高生に手を出しているではないですか。変質者」

 椿が言っているのは、この町で知り合った小泉由紀子(ゆきね)虹野(こうの)夏樹のことを言っているのだろう。確かに見ようによっては、そう見えないこともないかもしれないが、それは誤解だと主張しておかないと、沽券(こけん)に関わる。

「いやいや、待て! 待つがいい。あの二人は、違うだろう」

「どちらにしても、手を出したら殺しますから。それを(わきま)えて、行動してください。私、本気ですから」

 わざわざ『本気』だと主張しなくても、言葉の端々にこもる力で、簡単に察することが出来る。

「とりあえず、静流と合流するか」

 聡は、話を転換させる。このまま付き合っていたら、勢いで階段から突き飛ばされそうである。

「そうだ、橘さんも来るよな?」

「えっ?」

 唐突に振られて、椿が間の抜けた返事をする。

「これから静流と合流するからさ、折角だから一緒に行かないか?」

「わ、私が行ったら、湿っぽくなります。その、迷惑にしかなりませんから」

「そうか? 別にそんなことはないぜ。奢ってやるからさ、一緒に行こうぜ」

「い、いえ。お金は、持っていますから。それよりも、私なんかが本当に?」

「今日は、お世話になったしな。よし。じゃ……あ、俺、携帯持ってないんだよ。橘さん、静流と連絡取れるか?」

「はい。これからファミレスに向かうように伝えますね」

 聡と椿は、共に階段を降りていった。

 ファミレスで静流と合流した聡と椿。夕音は、無事病院まで自分で歩いて戻ったとの事。病院の話では、彼女の徘徊はいつもの事であり、キーパーソンになっている祖父も承認しているとの事。病院に入院しているのに、ゲームセンターにいる理由は、そういうことであった。

 静流に、杜若のことをぼかして伝える。静流は、椿や杜若が言っていた通り、あっさりと聡たちの話を信じてしまった。

 その後は、夜の九時頃まで、ファミレスでたわいのない話をして過ごした。戸惑っていた椿も、いつもと違う表情を見せるほど、楽しんでいるようであった。


 ぽつりぽつりと燈る街灯。帰る方向が同じであるため、聡と椿は共に薄暗い道を歩いていた。橘神社の長い石段の前で来ると、椿は聡の方に向き直り、頭を下げた。

「今日は、ありがとうございました」

「いいって。楽しかったしな。また、行こうぜ。今度は由紀子とか、夏樹とか連れてよ」

「そうですね」

 椿は、すんなりと聡の言葉を受け入れていた。聡の顔を見つめる椿。実は彼女は、彼に言いたい事が一つだけあったのだ。しかし、なかなかそれを言い出す機会がなかった。

「じゃ、気をつけてな」

 聡が、椿のそんな気持ちを知らず、気楽な様子で帰ろうとする。彼が背を向けたその時、椿は意を決して声をかけた。

「あのっ!」

「ん?」

 聡が振り返る。その表情は、とても柔らかい。椿は、迷った。このまま、何も言わず帰した方がいいのではないのか――と。しかし、それではダメだという事もすぐに悟った。少しでも、彼が今日食事に誘ってくれたことに対して報いようと思うのであれば、椿が抱えているものは、彼に伝えなければならない。その結果、彼の表情が曇ってしまったとしても――。

「こんなことを言ったら、きっと神山さんは気を悪くしてしまうと思いますが……」

「なんだよ。言いたいことがあるなら、ずばっと言えよ。らしくないぜ」

「事にもよります。少し、私だって……このことについては、躊躇いがあるんです」

「……もしかして、姉御の事なのか?」

 それをなぜ察することが出来るのか。椿は驚く。そんな彼女の顔を見て、聡は苦笑していた。

「そっか。やっぱりそうなんだな。顔、見ようとしていなかったもんな」

「本当に、よく見ていますね」

 ここまで見抜かれていたならば、もう迷う必要はない。椿は、覚悟を決めた。

「あの人は、危険です。とても、まともな人には見えません」

「……やっぱり、そうだよな。俺も、そう思ってはいないよ」

 聡は、さっぱりとそう言った。椿には、その言葉に少し怒りを覚えた。

「なら何故、あれほど警戒を解かれているんですか!」

「確信があるからさ」

 普段のおどけている時の聡とは、まるで違う顔。まっすぐで力のこもった瞳が、椿を射る。

「あの人は、俺に危害を加えない。本心で、俺のためだと思ってやってくれている。それが、分かるんだ。夢……と言っても、それが過去の記憶なのかもしれないが、姉御の事で分かるのは、その夢で見たことだけだ」

「どんな夢だったんですか?」

「こことは違う所。別の国かもしれない。姉御は、ベッドに寝ていた。俺は、彼女に温かいスープを振舞うんだ。その時の彼女は、正直今よりもずっと恐ろしかった。まるで、狂犬のようだった。同時に、とても寂しそうだったんだ。俺が、姉御って呼んだ時の顔を見たか? 本当に嬉しそうだった。だから、これでいいと思ったんだ。あの人が何者でもいい。あの人が、俺を守りたいというのであれば、守ることで心が満たされるのであれば、それでいいじゃないか」

「そうですか。分かりました。私、余計な事、言ってしまいました」

「全然、余計な事じゃないぜ。改めて、あの人のことについて、認識しなおすことができた。ありがとうな」

 聡の言葉に、椿は照れくさそうに頬を掻いている。深々と聡に一礼して、石段を駆け上がっていく彼女の姿を、聡は見送った。

「じゃ、俺も帰るか。琴菜、怒り狂ってなければいいけどな」

 途中まですっかりと存在を忘れていた、同居人のことを思い出して、身を竦めながら聡は、家路についた。


 後日談


 次の日の夕方。勝彦は自分の部屋へ戻るため廊下を歩いていると、縁側に水及が座っていることに気付いて、驚いた。

「水及様?」

 水及は、右手の甲を太陽にかざしている。真剣な表情で、影を作る手の平を見つめていた。

「ちょっとな……あの神山聡という青年の事を、考えていてな」

「そういえば手を握った際、味のある顔をされていましたね」

「変な感覚だったのだ。彼が神山家の人間なら、私の力が通じにくいのも分かるが……どうも、それとは違うような感じがして……ようは、分からないのだ」

 水及は、渋い顔をしている。

「彼については、どれぐらい調べが付いているのだ?」

「まだ、担当の章吾から追加の情報は来ておりません」

「そうか。出来るだけ急がせろ。こうモヤモヤするのは、気持ち悪い」

 水及の言葉に、勝彦は『御意』と短く呟いた。


 ジーパンを履き、カッターシャツに腕を通す。男物を適当に切り落としているものを使っているため、やはり不恰好なのは否めない。それをしばらく見つめた後、杜若は家の主である、蒼葉武史の部屋を訪れた。

「武史、金。金をくれ」

 杜若が、この蒼葉武史の家に来たのは、夕音と分離してすぐの事。蒼葉家は、もともと赤咲家と対立していた一族であったが、どちらもいまや没落し、関係は途絶していた。しかし、なんの偶然か。夕音が通っていた大学の講師をしていたのが、彼だった。それを思い出して、杜若は蒼葉武史の家に転がり込み、勝手に部屋を拝借していた。

 武史の部屋は、隣である。古い家屋であるため、扉は全部引き戸。襖をガスガスと叩いていると、迷惑そうな顔の青年が出てきた。大学で女性に絶大なる人気を誇る、美形講師。それが、蒼葉武史である。

「黙りなさい。ニートが金だ、金だと何様ですか」

 次の瞬間、杜若の右手が武史の首を掴んでいた。

「金」

「か、金を持って、なにをするつもりですか?」

「服を買う」

 武史は、びっくりして目をぱちくりさせていた。

「誰が?」

「私」

「杜若が?」

「文句あるのか?」

「まったく、それならそう言いなさい。この手をどけなさい」

 杜若は、『ん』と答えて、あっさりと手を離す。武史は溜息を吐きながら、財布から三万円ほど出して杜若の前に差し出した。その額を見て、杜若が固まる。

「何をしているんですか? これぐらいあれば足りるでしょ?」

「待て。多い」

「はっ? 服を買うなら、これぐらい必要ですよ。まさか、いちきゅっぱで済ませようなんて……思っているなら、悔い改めなさい」

「そ、そんなことは思ってない!」

 金を奪うように、強引に受け取る杜若。そんな様を、武史は父親のような顔をで見守っていた。

「ありがとう。感謝する」

 杜若は、素っ気無くそれだけを残して去っていく。武史は、杜若に掴まれた首を擦りながら、微笑んでいた。

「これは驚いた。感謝の言葉が言える程度には、進化したのですね。今回は、私の出番は無さそうだ」

 蒼葉武史。彼は、昔過ちを起こした。その際、彼は二人の人間に救われた。だから、彼も彼らが武史を救ったように、誰かを救わなければならない。そう思うようになっていた。杜若が転がり込んできた時、彼女に手を貸すつもりではあったが、武史の知らない所で、救いの手は差し伸べられていたことを、今察した。

 武史は杜若の背中が見えなくなるまで、柱に寄りかかりながら見送った後、自室へと戻っていった。


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