山
夜子は、初めて入るはずのその山の、頂までのルートがわかっていた。
わかっていたが、途中で歩を止めた。
「朝日……」
何度か、後ろを振り替える。もしかしたら、いや、確実に来ている。あの朝日が、夜子を追いかけないわけない。
もう、陽は落ちきっていて、月は雲に隠れている。まさに、闇夜というに相応しい状態だ。こんな時に、何の装備も無しに山に向かうのは自殺行為だ。
そのため、夜子は何度か後ろを振り返り、朝日を待っていた。けれど、それ以上に、山に、そこにいる何かに、引っ張られる。
「待ってて、まだ彼が来てないの」
何度も呟くが、足は前に進む―――。
「夜子!」
朝日は、夜子を捜すため、深夜と二人で山に入っていた。
「夜子ー! いたら返事してくれ!」
やたらに叫ぶ朝日に、深夜は呆れた目を向けた。
「闇雲に叫んでいても仕方ないだろう」
「うるせえよ、おっさん!」
「うるさいのはお前の方だ。だいたい、俺の名前はおっさんじゃない」
「そんなことはわかってる。ていうか、偽名使ってたくせに、今さら名前に固執するのかよ? 夜子の質問にだって、答えてないし……」
質問。何故、他の人達に、本名を教えていないか。
「俺は、わかってたよ。あんた、産まれた時から、鵺になる定めだったからな」
朝日に言われ、深夜は下唇を噛んだ。
「お前に、何がわかる」
「わかんねえよ。俺は朝で、お前は夜だから」
「なら、何故、彼女を救おうとした? 朝と夜は相容れないはずだ」
「……夜子は違う」
足を止めた。
「これは、坂本家の問題だ。夜子の名前には、そりゃ、初めて聞いた時は驚いたけど、でも、夜子は関係ない」
「だが、現に彼女は、鵺になった」
「それは、何かの、偶然で……」
「偶然? ここにきて、そんなことを言うのか?」
「……」
深夜の言うことも、一理ある。そう思った朝日は、それ以上、何も言えなかった。
「とにかく、今は彼女を捜すぞ。山頂にいるはずだ」
「何で、山頂にいるってわかるんだよ?」
「鵺は、元々山頂にいた。彼女がここに向かったということは、向かう場所は山頂しかない」
そう言って、道なき道を進んでいく。
「……」
朝日は、深夜の言うことに、不満がありはしたが、仕方なくついていった。
夜子は、もう既に山頂についていた。
開けた場所には、小さな祭壇があった。そういえば、真昼の祖母が、鵺に年に一度、食べ物をあげて、村を守ってもらっていたと言っていた。でも、それは村の中で行われていたことで……もしかして、それよりも前は、ここで、何か行っていたのだろうか。
祭壇をあちこち見回して、夜子は気付いた。
「この祭壇、まだ使われてる……」
人が来た痕跡がある。多分、つい最近のものだ。
「夜子!」
不意に、名前を呼ばれた。
振り替えると、朝日が駆け寄ってきた。
「勝手に走り出して……心配したんだぞ!?」
「ご、ごめん」
凄い剣幕で言うものだから、怯んでしまった。
「鵺が、私を呼んでいたの」
「鵺が? まさか、さっきの、引っ掻き音みたいな?」
「うん……」
「鵺は、何と言っていた?」
深夜が訊いた。
「『おいで、返して』と……」
「……やっぱり、そうか」
残念そうな顔で言う。
「ここは、"名に夜を持つ者"しか、入ることが許されない。朝日、お前は今すぐ下山しろ」
「なっ……登ってた時は、そんなこと言ってなかっただろ!」
「知っていると思っていた」
「知らねえよ!」
夜子には、二人が漫才コンビに見えてきていた。
「深夜さん、この祭壇には、最近使われた痕跡があります。もしかして、ここに?」
「……鵺祭りの時、ここにいた」
深刻な顔をする夜子と深夜。だが、朝日には、何が何だかよくわからなかった。
「ちょっと待ってくれ、夜子、何が起きてるんだ?」
困惑する朝日に、夜子は言った。
「蔵にいた時、私の中の鵺が教えてくれた。鵺祭りは、元々、村を守ってもらうための祭りじゃない。本当は―――鵺になるための、儀式だった」
「鵺に、なるため?」
「鵺には、色々な力がある」
自分の身体を見下ろした。
「坂本家では、代々、夜にまつわる名を持つ子が産まれている。朝日、家系図見せて」
「え? あ、ああ……」
朝日から紙を受け取り、それを地面に広げた。
朝日より前、深夜よりも、ずっと前、一番始めに、『闇夜』という名があった。
「恐らく彼が、一番最初……」
「そこまでわかったのか?」
深夜が訊いた。
「鵺は、全てでは無いですけど、わかっていたみたいです。この闇夜という人物は、朝日達のご先祖で、一番初めに、鵺になった人。鵺になって、村を守った人」
それを聞いて、朝日は合点がいった。
「鵺に守ってもらう祭りじゃなくて、鵺になって、村を守る祭りだった?」
「祭りというか、儀式ね。守るかどうかは、その人次第だったみたいだけど」
「その人次第って?」
「しきたりとかって、長くは続かないものだよ。それに不満を持つ人は、必ず現れる……
元々はこの場所で儀式を行い、鵺を迎えて、鵺になって、村を守るはずだった。でも、わざわざ、こんな山まで登りに行くのは面倒だから、村の中で、儀式を行うようになった。多分、その過程で、言い伝えが歪み、いつの間にか鵺を、捕らえるようになってしまった……深夜さん、あなたは今の代の"夜"のはずですが、何故、鵺になれなかったか、わかりますか?」
夜子の雰囲気は、明らかに、先程と異なっていた。
「……俺に、資格が無かった」
「違う」
即答した。
「資格が無かったんじゃない。鵺に、力が無かった」
深夜に向き直った。
「あなた、年齢は?」
「……」
答えない。いや、答えられない。
「この家系図は、嘘っぱちだ」
夜子はその場で、家系図を破り捨てた。
「深夜さん! あなたの、本当の名前を教えてください!」
深夜に掴みかかった。
「夜子―――」
朝日は咄嗟に止めようとしたが、そこにいるのが、もう既に"夜子ではない"ことに、やっと気付いた。
「あ、ああ……」
間近で夜子の顔を見た深夜は、その場に崩れた。
「お許しください、鵺様……」
すすり泣いて、赦しを乞うた。




