人質は誘拐犯に怯えなくてはいけないらしい
ぼくは人質らしい
人質は誘拐犯に怯えなくてはいけないらしい
“自称”誘拐犯の言うことにも一理あるかもしれない
ある時、ぼくは誘拐犯に殴り倒されて部屋から引きずり出された
ぼくのこめかみからはあのぼくの嫌いなにおいのする赤い液体が滴っていたが、誘拐犯はお構いなしにそれを踏みつけて鼻で笑った
誘拐犯はとても無口だ
ぼくはよく怒鳴られたり怒られてたりしているが、それも極力声を抑えた怒鳴り声とか、ぼそぼそと呟かれる言葉とか、そんなものだ
誘拐犯は声から自分の正体がバレるのを避けているらしいが、その為に相手に求められる技量と言ったら、熟年夫婦並の阿吽の呼吸が求められる
勿論ぼくは誘拐犯と夫婦なんかではないので、よく誘拐犯との会話が食い違うが、誘拐犯は意味が伝わっていなくても結果が良いならなんでもいいらしい
放置されることもよくある
とにかく部屋から引きずり出されたぼくは、窓から放り投げられた
ちなみに二階の窓だ
下からは獰猛な唸り声がしていて、地面に落ちる衝撃を感じたと思った瞬間別の痛みが肩から奔った
何か獣に噛みつかれたのだと知ったのは新たな痛みが足と腕にも生まれてからだった
ぼくがもがく間にも獰猛な毛玉たちは飛び離れてはぼくに襲いかかり、荒々しい息遣いが耳朶を噛み破る。
首筋に生暖かい液体が伝って、気持ち悪い。
ぼくが腕を振るうと鼻面を叩かれた毛玉が数匹後退するが、別の毛玉がまた襲いかかってくる。
きりがないとはこういうことを言うのだとぼくは思った
ぼくはまたひとつ賢くなったが、正直あちこち痛いので本格的に逃げる算段をしなければならないかもしれない
そう思っていると、口笛の音がした
毛玉たちは呆気ないほどの勢いで消えた。
あれだけ居たように思われたのに、気づいたらもう一匹もいない
あっけにとられてぼくが立ち上がると、横っ面に強烈な衝撃が来てぼくは再び地面に転がった
誘拐犯が押し殺した笑い声を洩らしながら、手に持った鎖を鳴らしている
どうやらその鎖でぼくの頬を張り飛ばしたらしい。
口の中にぼくの嫌なにおいが充満した。
毛玉たちに散々齧られたせいでぼくは満足に走ることもできなくなっていたが、とりあえず逃げた方がいいと判断してよろめいて立ち上がった
口の中に溜まった、ぼくの嫌いなにおいのする液体を吐き捨てた
口元を拭う手の甲も、毛玉に齧られた傷がぱっくりと口を開けていてあまり布巾の代用にはならなかった
ぼくが立ち上がると、誘拐犯はまた鎖を鳴らしてぼくをぶん殴った
紐や鞭ならわかるが、重量のある金属でできた鎖があれほど速く動くことをぼくは初めて知った。
重量があるだけにその衝撃は半端ではなく、ぼくは簡単に地に転がった
何度も振り下ろされる衝撃のせいで誘拐犯の表情を感じ取ることはできなかったが、躊躇いも興奮もなかったと思う
例えるなら、手慣れた作業をこなす際の退屈な雰囲気と最低限の警戒。
ぼくは気絶してしまったのでその後は知らないが、気づいたら土まみれで床に転がっていた
じくじくと傷が痛んだ
こういう痛みの時はさっさと処置をしないと後が面倒なのだ
絶妙な距離をおいたソファで誘拐犯が暗い悦びを湛えた眼でぼくを見ていた
どこか愉しそうな空気すら纏って、誘拐犯はぼくを注視していた
誘拐犯がぼくと目を合わせることは滅多にない
それが物珍しく、ぼくも誘拐犯を注視した
確か人の気持ちを知るには目と目を合わせればいいと女将さんが教えてくれたことがあった
それを誘拐犯に話したら鼻で笑われたが
今の誘拐犯の目は赤だった
仮面の装飾が緑色なので目に痛かったが、こんな珍獣、間違えたこんな珍事を見逃す馬鹿はいない
そうしてお互いまるで珍獣を眺めるような眼つきで見つめあった後、誘拐犯は何か呻いて額に手をやった
声の調子からして呆れているらしいが、どうやらぼくの反応を待っていたらしい
反応をしようにも体が痛くて動かないのに
と言ったらお前の神経はおかしいと断言された
本格的に宇宙人の親戚か、それとも神経の配線が生まれつきイカレているのか、どっちだと叫ぶ誘拐犯の服は血が飛び散って赤の斑になっていた
とりあえずそのマント早く洗濯しないと後でシミ抜きが大変だからさっさと洗濯した方がいいんじゃないのかと言うと、誘拐犯は暫く無言になった。
その後、ぼくの頭を思いっきり踏みつけてから流しの方へ消えて行った
後日、誘拐犯に行為の意味を聞いてみると、誘拐犯ってのがどういうものなのか理解したか?と逆に質問を返された
勿論分かる訳がないので、誘拐犯は教え方がド下手だと思う
と言ったら殴られた
わざわざ痣になっているところを殴られた
とりあえず辞書で誘拐犯の性格について調べてみた
誘拐犯は“性悪”らしい。