立てこもり :約3000文字
「……うおっ」
「あっ!」
「黙れ。声出したら首をへし折るぞ」
おれは思わず息を呑んだ。居間でぼんやりとリモコンをいじりながらテレビを眺めていた、そのときだった。突然、窓がカラカラと乾いた音を立てて、ゆっくりと開き始めた。
何事かと思い、テレビを消して前のめりになった瞬間、窓の向こうから男の顔が、ぬっと突き出てきたのだ。
男は部屋に上がり込むと、そっと窓を閉めた。白いTシャツにグレーのスウェット。短く刈り込まれた髪に無精ひげ。その目は血走っている。
今の物言いに、この風貌。この男、まさか――。
「一人か? 他に誰もいねえだろうな」
「は、はい! あの、あなた様は――」
『こちらは防災――です。ただいま、凶悪犯が市内を逃走しております。戸締りを確認し、怪しい人物を見かけたらすぐに通報してください』
「放送の人ですよね……?」
おれは窓の外を指さした。今の防災放送と同じ内容がテレビでも流れていた。警察署から逃走した凶悪犯が市内に潜伏中、と。殺人二件に加え、放火までやったという。
よくもまあ、こんな冴えない町でそんなとんでもない事件が起きたものだなあと、どこか他人事のように思っていた。それが、まさか自分の家に現れるとは。
まるでドラマの登場人物が画面を突き破って現れたようだ。そう考えると、やや時間がズレた壁掛け時計も、角が折れたカレンダーも小道具のように見えてきた。
「わかってんなら大人しくしろよ」
「は、ははい! 狭くて汚い平屋ですが、どうぞごゆるりとなさってくださいませ!」
おれは慌てて正座し、手のひらで部屋全体を示してみせた。
「うるせえな……」
「あ、よろしければ座布団をどうぞ!」
「座らねえよ」
男はきょろきょろと、落ち着きなく部屋を見回しながら歩いている。いったい何をしているんだ。何かを探して――
「あっ!」
おれは声を上げて立ち上がり、台所へ駆け込んだ。
引き出しを開けて包丁を一本取り出すと、柄のほうを向けて男に差し出した。
「ささ、どうぞどうぞ。これをお探しだったんでしょう?」
「そういうわけじゃねえが……」
男は怪訝そうに眉をひそめつつも、包丁を受け取った。
刃を一瞥し、「汚ねえ包丁だな……」と顔をしかめた。おれは「へへへ……」と笑った。
「……まあいい。お前、一人暮らしか?」
「あ、いえ、女房がおります。ただ、今はちょっと出かけておりまして」
「そうか。帰ってきたら俺のことは言わずに、そのまま部屋ん中に引き込め」
「は、はい!」
「だから声がでけえよ!」
「す、すみません……へへへ……」
「お前……俺を舐めてんのか?」
男は怪訝な表情で、じっと睨みつけてきた。おれは慌てて首を横に振った。
「いえいえ、とんでもございません! あなた様のような凶悪犯の方に、こんな小汚い家を立てこもり先にお選びいただけるなんて光栄の極みでございます! 私、これまで人生でスポットライトが当たったことなど一度もなくて……それが今、人質に選ばれるなんて、ああ、感無量です!」
「別にお前を選んだわけじゃねえよ……。廃墟かと思って入っただけだ。いいからそこ座ってろ」
男は包丁を軽く振って、おれに座るよう促した。言われるがまま腰を下ろすと、男もどかっと畳に座った。
おれはほっと息をついた。男はリモコンを掴み、テレビをつけた。ニュース番組が映り、警官たちが慌ただしく行き交う様子が中継されている。男は小さく舌打ちした。
「警官どもが、この辺をうろついてやがるな……」
「普段ろくな仕事しないくせに、こういうときだけ張り切るんですよねえ」
「どの局も中継してやがる」
「マスコミってやつは本当に鬱陶しい連中ですねえ。まるで蠅だ」
「勝手に人の個人情報をばらまきやがって」
「犯罪者だから何をしてもいいと思ってるんですよ。そういう思考こそ卑劣ですよねえ」
「コメンテーターがしたり顔で語ってやがる……」
「ほんと何様なんですかねえ。安全なところから好き放題言って金をもらって。いいご身分ですなあ」
「そこまで言ってねえけどな」
「いい家に住んで、生活の心配もないんでしょうなあ。はーあ……はあああーあ!」
「うるせえな。静かにしろよ……。まだ特定はされてねえみてえだな」
「よろしければ、テレビ局に電話いたしましょうか? ついでに逃走用のヘリと現金も要求しましょう」
「なんでだよ!」
男が声を荒げた、そのときだった。玄関のほうから、ガチャリと鍵の開く音が響いた。
「女房か?」男が声を潜め、喉の奥で唸るように言った。
「ええ、ええ、そうですそうです。おーい、こっちこっち! 早く早く!」
「はいはい……なに? 何かあった――まっ、誰その方? お客さん? こんなときに……」
買い物袋を両手に提げ、ひょっこり顔を出した妻は、男の姿を認めた瞬間、目を見開いたまま固まった。
「こちら、今話題の逃走犯様だよ!」
「おい! ああ、くそっ、お前も座れ!」
男は苛立ったように立ち上がると、包丁の切っ先を妻へ向け、おれの隣に座るよう命じた。
妻はびくりと肩を震わせ、買い物袋を床に置いた。ドン、と重たい音がし、ビニールが擦れた。それから、おそるおそる歩み寄り、おれの隣に腰を下ろした。
「あなた、どういうことなの……?」
不安げな表情で、おれに囁いた。
「どうもこうも……だからな、この方にな――で――して――だ」
おれが状況を説明してやると、妻は一瞬きょとんとしたあと、すぐにぱっと顔をほころばせた。
「まあまあ、そうだったの。でしたら、まずはお茶をお入れしましょう。あ、スーパーでお酒もお惣菜もたくさん買ってきたんですよお。さささ、どうぞどうぞ」
「いらねえよ。黙って座ってろ……」
「いやあ、こんな妻ですが、どうぞ手でも口でもなんなりと奉仕させてやってください」
「いらねえってんだよ。気持ちわりいな」
「では代わりに私めが。さあさあ、ズボンを下ろして」
「気持ちわりいってんだよ! 殺すぞ!」
「おほお!」
「まあ!」
「なんで喜んでんだよ!」
男が包丁を振るい、空を切った。
「いい! 先っちょだけ! 先っちょだけちょうだい!」
「あたしにも!」
「なんなんだよ、くそっ!」
「あ、どちらへ! お帰りはいつ頃に、あの――」
男は悪態を吐き、おれたちを避けるようにして廊下に出ると、おれの呼びかけを無視し、そのまま玄関を抜けて外へ飛び出していった。ドアがぎいと軋む音を立てて止まり、家の中はテレビの音だけを残して静まり返った。開いたままのドアの隙間から薄日が斜めに差し込んでいる。
おれはゆっくりと妻に視線を向けた。妻は眉間に皺を寄せ、口を開いた。
「……どうするの? 行っちゃったじゃないの」
「まあ、大丈夫だろう。あの包丁は持っていったしな」
「でも、まだ警察もマスコミも来ていないのに……」
「まあ、一時的とはいえ、立てこもったのは事実だから大丈夫だろう」
「戻ってきてくれたらいいんだけど……あら? 外が騒がしいわ。もしかして、もう捕まっちゃったんじゃない?」
妻の視線につられ、おれもドアのほうを見た。近くでサイレンの音が重なり、ざわついた気配が漂ってきた。
「じゃあ、急いで通報しないとな」
「あたしがするの? なんて言うの?」
「そりゃあ……『例の逃走犯が家に押し入って包丁を奪い、息子を刺し殺しました』だろ」
おれは押し入れのほうを見ながらそう言った。
「でも、死亡推定時刻とかで、バレちゃうんじゃない? ドラマで見たことあるわ」
「あいつを殺してからあの男が来るまで、何時間も経っていない。細かい時刻は、たぶん誤差の範囲だ。それに駄目でもともとだ」
「それもそうね……あら? 今の、銃声じゃない? ひょっとして、死んじゃってたりして」
「だったら最高だな。ああ、なんだか、全部うまくいく気がしてきた」
「うふふ、最後の晩餐のつもりだったのに、お祝いになりそうね」
「ああ、そうだなあ」
おれは妻と顔を見合わせて笑った。それから、もう一度押し入れに目をやる。
アルコール中毒で引きこもり。どうしようもない息子だが、マスコミの取材では、凶悪犯に勇敢に立ち向かったことにしてやろう。




