13:一時、空はそぼ降る
日差しは強くも陰に入れば風が涼しい季節、長期休暇前の筆記試験が行われた。
備えていたヒルデガルドは難なくそれをこなしつつも、やはり以前臨んだ時より己の心が高揚感に弾んでいない事に一人溜息を漏らした。
どことなく読み返す自身の論述回答にも覇気が無く思えるも、改める気も起きない。
筆圧の波が穏やかなその文字面はあまりにも静かで、自分の物ではないようだとすら思えた。
あの、王都の冒険者ギルドでの出来事が尾を引いて時折沈む意欲が、新技の開発にも影響をしていた。
未だに導図は真っ新だ。
勉強道具一式を持って図書館に向かっても一向に閃きは降りて来ず、ではいざ切欠をと書棚に手を伸ばすもふらふらと彷徨い、何と無しに眼に留まった書籍ばかりを部屋へ持ち込んでいる。
こうして思案に耽り陰るのはヒルデガルドだけで、モーリスやセシルはいつも通り過ごしているだろう。
相変わらずセシルは学園の実技場を使用している形跡はないし、特に怪我をしただとか休んだとかも噂に聞かない。
彼等が冒険者登録をした事を謗る影もないところを見るに、一般的にそれがどう見做されるのかくらいは把握しているのかと分かるが、であれば何故と思ってしまう自身に少女は辟易する。
図書館で何と無しに話したヒルデガルドの対応が過剰であったからこそ、隠しているのかもしれないが。
纏まらず、終わりの見えない思考の渦と心の波立ちにまた一つ、少女は溜息を零す。
(…良くない、良くないわコレは。
早く夏休みにならないかしら、思いきり気分を変えて新しいものに触れたいわ)
姉の死をきっかけに自ら力を得ようと魔導に触れたように、運動が苦手な自分に合わせて導の改訂に手を付けるようになったり、何時だって言葉に出来ない靄は新しい未知と学びで塗り替え取っ払う。
それがヒルデガルドなりのやり方だ。
静かに瞼を落とし、息を吸い、ゆっくりと吐く。
改めて開いた世界では、同じ世代の学生達が必死に答案へと向かっている背中がある。
一人ひとりが自信を持つ問題も、難問だと躓く問題も、その背中の数だけ違うのだ。
苦悩するのはヒルデガルドだけではない。
苦悩しているのはヒルデガルドだけである。
相反するも共存するそれを、形を確かめるように噛み締めて心に纏わせる。
それを区切るように、試験終了の鐘が鳴った。
珍しく小雨が降る中、その日を迎えた。
湿気漂う廊下に学生が集まると、熱気も伴い何とも肌に張り付く空気がする。
それを煩わしそうにヒルデガルドは髪を手で払い、張り出された順位表を見に来ていた。
いつもは我先にと早足で確かめに向かっていたのに、今日はのんびりと歩く彼女の姿に周囲は既に確認したのだろうかと小首を傾げるも、改めて声を掛けようとはしない。
隣を歩くリリはそれを横目に留めるも気にせずヒルデガルドに話しかける。
「ねぇねぇ今年の夏もヒルディのところ遊び行って良い?」
「ええ、いーわよ。
ただ家族で東に行く予定もあるから、それが終わったら呼ぶわ」
「やった!楽しみにしてる!」
涼し気な外見の割にリリは外が好きだ。
夏こそ暑いところに行かないと!とわざわざ涼しい王都を離れようとする気概は共感出来ないが、こうして地元を好んでくれる人が居るのは素直に嬉しい。
セルゲイとも予定を合わせないとな、と頭の隅にヒルデガルドは予定を書き留める。
ともすれば、見慣れた明るい茶色の頭が人波の中に見えた。
ヒルデガルドより先に気付いたリリが「セル!」と彼の名前を呼ぶ。
振り返った彼は二人を認めると目を驚きに丸くし、何とも言えない顔をして見せる。
「よぉ、先に見させてもらった」
「セルを女子のお手洗いに連れて行く訳にもいかないからねぇ、どっかの誰かみたいに」
悪戯に笑うリリに相手も苦笑して、視線を再び掲示板へと向けた。
それを追うように二人も順位表を見上げる。
「…ええ?」
「流石におかしくない?」
思わず怪訝な声を上げる二人にセルゲイは肩を竦めて見せるだけだ。
前回のものを間違えて掲出しているのではないかと表題を確認するも、間違いはない。
またしても一位の欄に記載された名前は二人。
モーリス・ラゲールと、ヒルデガルド・デイビア、だ。
「俺、さっき職員捕まえて聞いたけど、前代未聞だってよ」
「それでも得点は出さないの?」
「出したところで同点なら意味がないでしょう、開示するなら答案自体よ」
ヒルデガルドの冷静な声にセルゲイもリリも、周囲で耳を欹てていた学生も口を閉ざす。
何か嵐の前触れかと構えられている渦中の少女は鼻で笑い、さっと髪を払う。
「…セルディ、確認しに行くの?」
「何故?講師からの評価はこうして出ているのに?」
「まぁそうだけどよ」
本人よりも友人の方がどこか腑に落ちないようで、お互いに顔を見合わせていた。
それでもヒルデガルド本人が納得し、確認をしないというなら強いる事もない。
ただ、煮え切らない空気は三人だけでなく周囲もそうであるのか、ちらちらと伺う視線は止まなかった。
「ヒル…デイビアさん」
「サティ」
呼ばれ、振り返れば彼が少し緊張が浮かぶ笑顔を添え、珍しくモーリスよりも前に出て立っていた。
かというモーリスはどこか抜けた様子で、うろと視線を彷徨わせた後、少女を見つめて微笑む。
「凄いね、また一位だなんて」
「ありがとうサティ。
でも貴方の後ろの彼も同じく一位よ」
軽く顎で示せば、モーリスはちらりと順位表を見てほっと小さく溜息を吐き出していた。
その様子を苦笑しながらサティが彼の肩を軽く叩く。
何とも奇妙な、一年次とは真逆の光景だった。
「ほらねモーリス、安心した?」
「ああ…」
「今度こそ時間が足りなかったのかしら、モーリス・ラゲール?」
「いや、見直しも出来たよ」
苦笑を浮かべながらもやや俯きがちに彼は頭を振り、ヒルデガルドの言葉を否定した。
ただ、と小さく彼が呟いた吐息は、隣に立つサティにしか聞こえなかった。
「自信が無かったの?貴方が?」
「自信、はあったけれど、別の事で」
そのまま彼の言葉が続くかと周囲は待ったが、モーリスは視線を下げヒルデガルドから逸らしたまま口を閉ざしてしまい、しとしとと雨音だけが辺りを満たす。
急にこんなしおらしさを押し付けられても、と少女が口を尖らす空気を察したのか、そろりと彼が黒い前髪の間から水色の瞳を上げる。
まっすぐにその瞳を、ヒルデガルドが数秒、何も言わず見つめ返す。
「あの、デイビアさん」
「何かしらモーリス・ラゲール」
「今日の放課後、時間、あるかな?」
話がしたいんだ、と言葉を彼が続ける。
未だ少年の軸はどこか揺らいでいて頼りなく、でも確かにそこに立とうとしている気概が見えた。
先日からどうも、この二年間で見知って来たモーリスの印象とは異なる面を目にする機会が多いなと、ヒルデガルドは思いながらその言葉に首肯を返した。
いつも通り、燃え上がると思われた二人の対面は思いの外静かに成された。
奇妙な緊張感を辺りに残して、肌触りの悪い空気を誰もが感じていた。




