12:幾星霜を同じ部屋で
当たり散らされたモーリスを申し訳なく思う気持ちと、当たり前だろと怒る頭が、少しずつ過剰な油分と糖分と、 下らない話の応報に、ゆるり、ゆるりと溶かされていった。
けれどやはり、部屋で一人窓辺で涼み、遠い月を見上げていると気持ちは再び揺らぐ。
忘れている訳ではないが、例えばいつもはそれを大事にしまい込んでいた引き出しを、一度開けて覗いてしまったら、中々閉められずにいるような、そんな心地をヒルデガルドは抱えていた。
彼女には、歳の離れた姉が一人いた。
いつも太陽のように溌剌として闊達で、笑ってなんでも許してしまう器の大きな、大らかな人だった。
笑うと左頬にだけ浮かぶ笑窪がとても愛らしくて、幼い頃抱き上げられてはよく姉の頬を突いて更に笑い声が溢れるような、そんな愛しい交遊の時だった。
眠るのが怖くて一緒に眠るのも母ではなくていつしか姉になって、それが彼女の当たり前で。
姉はヒルデガルドにとって、日差しで、揺り籠だった。
お揃いの柘榴色の髪を梳き合い、悪戯に結んではこんがらがったと笑い合い。
姉が剣を振る勇ましい姿に憧れて自分もと素振りをすれば転がって、ヒルディが溝に落ちたと大騒ぎした。
大好きな姉だった。
忙しい母よりも当時の記憶を彼女が埋める程、どれほどの時間を共にしたのか分からない。
ただ、調子がおかしい子守歌をいつまでも慣れない様子で歌う、姉が可笑しくて、笑っている内にいつの間にか夢に落ちたのは数えきれない程の夜。
自ら志願して冒険者の道を進んだ姉を、当初は応援した。
でも、真夏のあの日、とある地方でスタンピードが発生し、徴兵された彼女は帰らぬ人となった。
その亡骸さえ魔物に喰い散らかされ、誰が誰であるのか判別も難しくなるような、考えたくもない壮絶な戦場で果てたそうだ。
せめてダンジョン内であれば、魂までは復元できなくとも遺体は綺麗に戻るのに。
何一つ帰って来れないなどあんまりじゃないか。
認識票がなんだ、そんなもの、私のお姉ちゃんじゃない!
当時六歳のヒルデガルドには辛すぎる、唐突な別れだった。
十年以上経った今でも、涙が止まらなくなるほど胸が苦しくなる。
「ヒルディ」
そっと、風呂から上がった温かい身体でリリが包み込んでくれる。
ほのかに香る安らかな匂いに鼻を埋め、ヒルデガルドは甘えるようにぐりぐりと顔を擦り付けた。
縋る様に伸ばしかけた手は、ぎゅっと膝の上で握り締めて堪える姿をリリがそっと見ていた。
「遺された人が、どれだけ冒険者が偉大なのか分かっていれば良いのよ。
重んじる事の出来ない奴に、あなたのその心の柔らかさを分け与えてやる義理なんて無いの」
「私のお姉ちゃんは偉人よ、だって私のお姉ちゃんなんだから」
「そうよ、私達のヒルデガルド・デイビアのお姉ちゃんだもの」
リリの柔らかい手が、ヒルデガルドの頭をゆったりと撫でた。
揺蕩う心地に落ち着いたのか、少女は自らの膝を軽く叩き顔を上げる。
濡れそぼった瞳を拭い、鼻を啜りながらもその口元はいつものように太々しいのを見て、リリが笑う。
「やだ、あなた偽物?私達のヒルディはもっと可愛いわ!」
「人の泣きっ面を見る度にそれを言うのやめなさい!」
「そうそう、その泣き怒り顔よ、可愛いわ」
「ありがとう、そうでしょう?」
笑い合い揺らす肩を寄せ、二人で窓辺から月を見上げる。
どちらともなく、指を絡ませて手を繋いでいた。
「…私は、セルやヒルディから聞いた話しか知らないから、辛さは分かり切れない」
「それでいいのよ、リリに背負わせるものじゃないし、セルだって背負わせる気はないわ」
「でも、やっぱり、支えたいと思うじゃない」
友達だし、恋人だもの、と小さく口を尖らせるリリが愛らしくて、愛おしくて自然と笑みが深まる。
「セルはリリで人生の運を全て使い果たしたわね」
「なら今後は私の運で生きていくのね、彼。
安心して尻に引けるわ」
「そうじゃなくても尻に引いているじゃない!」
声を出して笑い合えば、自然と夜風は寒くなかった。
ふと、沈黙を縫ってリリがヒルデガルドを覗き見、小首を傾げる。
「…ねぇヒルディ、本当に卒業後は南に戻っちゃうの?」
その問い掛けに少女は少し考えるそぶりを見せて、緩く首を振る。
「王都でやりたい仕事も特にないし」
「それは南なら猶更じゃないの?王都ならウチで働く?」
「セルだけじゃなくて私の世話までするのリリ?手広くやり過ぎだわ」
「じゃあセルを追い出すしかないわね、どう考えたってヒルディの方が有能よ」
「もう」
すぐそばまで夏が来ているから、余計に未来の事を考えてしまうのだろう。
姉が冒険者に登録したのも卒業してからすぐだった。
自分は今後、どの道を選ぶのか、ヒルデガルドはまだ見えていなかった。
姉のような冒険者になるには、悔しいがモーリスの言った通り運動神経が悪いので無理だ。
かと言って、セルが心配して引き込んだ生徒会の内申では王宮魔導師の採用には及ばない。
どこかで引き続き魔導の研究でもできれば御の字だが、中々それを仕事と出来るのは難しいだろう。
地元に帰って、兄の領地経営を手伝う片手間に趣味で勉強して、誰かと結婚して、暮らす。
そんな未来を望んで私は此処に来たのだろうか。
(学園に入学する前は、そんな事を考える事も無かったし)
好敵手に打ち勝つのだと直向きに机に向かい書を開いていた時は、考える余裕すら頭に無かった。
今だって彼に勝てるなら勝ちたい。
けれど、何故だろうか、以前よりもその場を想像しても高揚出来なかった。
きっとモーリスがこちらを見向きもしないと、分かってしまったからだ。
幾ら此方が気を揉み、好敵手として遇しようとも彼は気に留めず、彼のありのままで生きる。
そんなの当たり前の事なのに、今更気づいては、一人空しさを覚えてしまう。
「あーダメ、折角蓄積した糖分を良くない考えに使ってるわ」
「あははじゃあ寝よねよー」
「ちょっとリリ!自分のベッドで寝なさいよ!」
「何よぉ、毛を抜き合った仲じゃないのぉ」
笑いながらヒルデガルドのベッドに横たわり、そっと両胸を手で隠すリリの姿に一瞬相手は黙るものの我慢できずに大笑いして同じベッドに倒れこんだ。
そうだ、自分にはこんな素晴らしい友人が居るんだ。
冒険小説のような展開が無くたって、十分じゃないか。
横たわり、リリを真似てヒルデガルドも自分の両胸を手で隠して、二人して眠りに落ちて行った。




