表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
二人の母  作者: 八島司
3/4

第三章 二人のマリア

 新しい生活は、壊れかけた夢を繕うように、穏やかに始まった。


 兄妹は人々からの余計な注目を避けるため、そして何よりも「死んだはずのマリア・グロウリー」の存在を隠すため、生まれ育った家を売り払い、遠く離れた湖畔の小さな町へと移り住んだ。


「こっちの方が気候も穏やかで身体に良いから」


 ジェーンはそう説明し、マリアも素直にそれを受け入れた。彼女にとって、失われた三年間は「長い闘病生活」であり、夫であるバウムは「王宮での重要な任務で遠方にいる」ということになっていた。嘘を重ねるたびに、ジェーンの胸はチクリと痛んだが、母の屈託のない笑顔を見るたびに、その痛みは安らぎへと変わった。


「まあ、リックったら。またそんな難しい顔をして。眉間に皺が寄っているわよ」


 昼下がり、陽光が降り注ぐ庭に面した居間で、編み物をしていたマリアが楽しそうに笑う。彼女は以前と何一つ変わらなかった。優しくて、少しおっとりしていて、家族の誰よりも太陽の匂いがした。


「……別に、普通だよ」


 ぶっきらぼうに答えながらも、リックの口元はかすかに緩んでいた。十七歳になった彼の表情は、以前の刺々しさが嘘のように和らいでいた。母の存在が、彼の心に凍りついていた氷を、ゆっくりと溶かしてくれていたのだ。


「ジェーン、この毛糸の色、どうかしら? あなたに新しいセーターを編んであげようと思って」

「わあ、綺麗な翠色! ありがとう、お母さん!」


 ジェーンは母の隣に駆け寄り、その手元を覗き込んだ。穏やかな時間。取り戻したかった、かけがえのない日常。


 この幸せを守るためなら、なんだってできる。リックもジェーンも、そう固く信じていた。



 季節が巡り、湖畔の木々が赤や黄色に色づき始めた秋の日のことだった。


 その日、リックは街へ買い物に出ており、家にはジェーンとマリアの二人きりだった。マリアが昼食の準備をしていると、玄関のドアをノックする音が響いた。


「はあい。どちら様かしら?」


 ジェーンがパタパタと玄関へ向かう。こんな辺鄙な家を訪ねてくる客など珍しい。


 ドアを開けると、そこに立っていたのは、ジェーンが忘れたくても忘れられなかった人物だった。


「……お父、さん……?」


 三年間、一度も会わなかった父、バウム=グロウリーが、そこにいた。

彼は以前よりもずっと痩せ、目の下には深い隈が刻まれていた。宮廷魔術師の制服ではなく、旅人のような地味なローブを纏っている。だが、その瞳だけは、何か異様な光を宿して、まっすぐに家の中を見つめていた。


「ジェーンか。大きくなったな。さがしたぞ」


 低い声には、感情がこもっていなかった。


 ジェーンは恐怖と混乱で身がすくみ、言葉を発することができない。なぜ、ここに。どうして、この場所が分かったのか。


「どうしたの、ジェーン? お客様?」


 ジェーンの背後から、マリアがひょっこりと顔を出した。そして、玄関先に立つ男の顔を見て、ぱっと表情を輝かせた。


「あなた! バウム! まあ、どうしてここに? 任務は終わったの?」


 マリアは何の疑いもなく、夫の元へ駆け寄ろうとした。


 その瞬間、ジェーンは咄嗟に母の腕を掴んで引き留めた。


「だめ、お母さん!」


 バウムの表情が、凍りついた。


 彼は、生きているマリアの姿を見て、驚愕に目を見開いている。その反応は、明らかに「長い任務から帰ってきた夫」のものではなかった。


「……どういう、ことだ……?」


 バウムが、絞り出すように呟いた。その視線は、マリアに、そして彼女を守るように立つジェーンに、突き刺さるようだった。


「マリアが……なぜ、ここにいる……?」


 その時だった。


 バウムの背後からもう一つの人影がおずおずと姿を現した。


 ジェーンは息を呑んだ。


 心臓が氷の塊になったかのように冷たくなる。


 そこに立っていたのは、栗色の髪を持ち、柔らかな翠の瞳をした女性。


 自分たちの母、マリアと生き写しの姿をした女だった。


「あなた……?」


 ジェーンの後ろで、マリアが困惑した声を上げた。彼女もまた、自分と寸分違わぬ容姿の女性を見て、信じられないといった表情を浮かべている。


 時間が止まった。


 湖を渡る風の音だけが、やけに大きく聞こえる。


 四人の人間が、玄関先で立ち尽くす。二人のマリア。驚愕するバウム。そして、血の気を失い、絶望に打ち震えるジェーン。


 そこへ買ってきた野菜を入れた袋を抱えたリックが帰ってきた。


 彼は玄関先の異様な光景を見て足を止めた。


 憎むべき父の姿。


 そしてその隣に立つ母と瓜二つの女。


「……どういう、ことだ……?」


 リックの口から漏れたのは、父とまったく同じ言葉だった。袋が乾いた音を立てて地面に落ちる。


 バウムはゆっくりとリックに視線を向けた。その瞳には、驚愕、不信、そしてやがてある種の理解が浮かんでいた。


「……リック。お前、まさか……」


 父の声が震えていた。


「禁書に、手を出したのか……?」


 リックは答えられなかった。ただ、父の隣に立つ「もう一人の母」を呆然と見つめることしかできない。そこにいるのはただの母とよく似た別人などではない。まぎれもなく自分たちの母のマリアだった。


 これがどういうことなのか、リックはすぐに察することができた。だが、心がその真実を受け入れられなかった。


 三年間、別々の場所で、同じ目的のために。


 父もまた、子どもたちと同じように神の領域を侵していたのだ。


 兄妹が蘇らせたマリアと、父が蘇らせたマリア。


 あり得ないはずの存在が、今、二人、同時にここにいるという現実が、彼らの目の前に広がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ