第三章 二人のマリア
新しい生活は、壊れかけた夢を繕うように、穏やかに始まった。
兄妹は人々からの余計な注目を避けるため、そして何よりも「死んだはずのマリア・グロウリー」の存在を隠すため、生まれ育った家を売り払い、遠く離れた湖畔の小さな町へと移り住んだ。
「こっちの方が気候も穏やかで身体に良いから」
ジェーンはそう説明し、マリアも素直にそれを受け入れた。彼女にとって、失われた三年間は「長い闘病生活」であり、夫であるバウムは「王宮での重要な任務で遠方にいる」ということになっていた。嘘を重ねるたびに、ジェーンの胸はチクリと痛んだが、母の屈託のない笑顔を見るたびに、その痛みは安らぎへと変わった。
「まあ、リックったら。またそんな難しい顔をして。眉間に皺が寄っているわよ」
昼下がり、陽光が降り注ぐ庭に面した居間で、編み物をしていたマリアが楽しそうに笑う。彼女は以前と何一つ変わらなかった。優しくて、少しおっとりしていて、家族の誰よりも太陽の匂いがした。
「……別に、普通だよ」
ぶっきらぼうに答えながらも、リックの口元はかすかに緩んでいた。十七歳になった彼の表情は、以前の刺々しさが嘘のように和らいでいた。母の存在が、彼の心に凍りついていた氷を、ゆっくりと溶かしてくれていたのだ。
「ジェーン、この毛糸の色、どうかしら? あなたに新しいセーターを編んであげようと思って」
「わあ、綺麗な翠色! ありがとう、お母さん!」
ジェーンは母の隣に駆け寄り、その手元を覗き込んだ。穏やかな時間。取り戻したかった、かけがえのない日常。
この幸せを守るためなら、なんだってできる。リックもジェーンも、そう固く信じていた。
◆
季節が巡り、湖畔の木々が赤や黄色に色づき始めた秋の日のことだった。
その日、リックは街へ買い物に出ており、家にはジェーンとマリアの二人きりだった。マリアが昼食の準備をしていると、玄関のドアをノックする音が響いた。
「はあい。どちら様かしら?」
ジェーンがパタパタと玄関へ向かう。こんな辺鄙な家を訪ねてくる客など珍しい。
ドアを開けると、そこに立っていたのは、ジェーンが忘れたくても忘れられなかった人物だった。
「……お父、さん……?」
三年間、一度も会わなかった父、バウム=グロウリーが、そこにいた。
彼は以前よりもずっと痩せ、目の下には深い隈が刻まれていた。宮廷魔術師の制服ではなく、旅人のような地味なローブを纏っている。だが、その瞳だけは、何か異様な光を宿して、まっすぐに家の中を見つめていた。
「ジェーンか。大きくなったな。さがしたぞ」
低い声には、感情がこもっていなかった。
ジェーンは恐怖と混乱で身がすくみ、言葉を発することができない。なぜ、ここに。どうして、この場所が分かったのか。
「どうしたの、ジェーン? お客様?」
ジェーンの背後から、マリアがひょっこりと顔を出した。そして、玄関先に立つ男の顔を見て、ぱっと表情を輝かせた。
「あなた! バウム! まあ、どうしてここに? 任務は終わったの?」
マリアは何の疑いもなく、夫の元へ駆け寄ろうとした。
その瞬間、ジェーンは咄嗟に母の腕を掴んで引き留めた。
「だめ、お母さん!」
バウムの表情が、凍りついた。
彼は、生きているマリアの姿を見て、驚愕に目を見開いている。その反応は、明らかに「長い任務から帰ってきた夫」のものではなかった。
「……どういう、ことだ……?」
バウムが、絞り出すように呟いた。その視線は、マリアに、そして彼女を守るように立つジェーンに、突き刺さるようだった。
「マリアが……なぜ、ここにいる……?」
その時だった。
バウムの背後からもう一つの人影がおずおずと姿を現した。
ジェーンは息を呑んだ。
心臓が氷の塊になったかのように冷たくなる。
そこに立っていたのは、栗色の髪を持ち、柔らかな翠の瞳をした女性。
自分たちの母、マリアと生き写しの姿をした女だった。
「あなた……?」
ジェーンの後ろで、マリアが困惑した声を上げた。彼女もまた、自分と寸分違わぬ容姿の女性を見て、信じられないといった表情を浮かべている。
時間が止まった。
湖を渡る風の音だけが、やけに大きく聞こえる。
四人の人間が、玄関先で立ち尽くす。二人のマリア。驚愕するバウム。そして、血の気を失い、絶望に打ち震えるジェーン。
そこへ買ってきた野菜を入れた袋を抱えたリックが帰ってきた。
彼は玄関先の異様な光景を見て足を止めた。
憎むべき父の姿。
そしてその隣に立つ母と瓜二つの女。
「……どういう、ことだ……?」
リックの口から漏れたのは、父とまったく同じ言葉だった。袋が乾いた音を立てて地面に落ちる。
バウムはゆっくりとリックに視線を向けた。その瞳には、驚愕、不信、そしてやがてある種の理解が浮かんでいた。
「……リック。お前、まさか……」
父の声が震えていた。
「禁書に、手を出したのか……?」
リックは答えられなかった。ただ、父の隣に立つ「もう一人の母」を呆然と見つめることしかできない。そこにいるのはただの母とよく似た別人などではない。まぎれもなく自分たちの母のマリアだった。
これがどういうことなのか、リックはすぐに察することができた。だが、心がその真実を受け入れられなかった。
三年間、別々の場所で、同じ目的のために。
父もまた、子どもたちと同じように神の領域を侵していたのだ。
兄妹が蘇らせたマリアと、父が蘇らせたマリア。
あり得ないはずの存在が、今、二人、同時にここにいるという現実が、彼らの目の前に広がっていた。




