第二章 禁忌
歳月は悲しみを癒すという。だが、グロウリー家の兄妹にとってそれは、嘆きを執念に、そして絶望を狂気じみた希望へと変えるための時間に過ぎなかった。
三年が過ぎた。
リックは十七歳に、ジェーンは十五歳になっていた。
かつて暖かな光に満ちていた屋敷は、今や彼らだけの研究室と化していた。昼夜の別なく開かれたままの書斎の窓からは、古文書の黴臭い匂いと、正体不明の薬草を煮詰める奇妙な香りが漂う。陽の光が差し込むリビングのカーテンは固く閉ざされ、二人が多くの時間を過ごすのは、蝋燭の灯りが揺れる地下室だった。
リックはその類稀なる魔術の才能のすべてを、たった一つの目的――母の復活――に注ぎ込んでいた。
「ジェーン、触媒の調合は終わったか」
地下室の床に描かれた巨大で複雑な魔術陣の中心で、リックが低い声で尋ねた。彼の指先が、術式の一部をなぞるたびに、淡い魔力の光が燐光のように走る。
「ええ、兄さん。純度は完璧よ」
ジェーンは兄の傍らで水晶の乳鉢を手にそう答えた。彼女もまた、泣き虫だった少女の面影はなく、今は兄の最も信頼できる助手として、冷静沈着に禁忌の研究を支えている。腰まで伸びた金髪を一つに束ね、その青の瞳には年齢にそぐわない深い覚悟が宿っていた。
しかし、その瞳の奥には、消えない不安の色が揺らいでいた。
彼らがやろうとしていることは、世界の理を根底から覆す大罪だ。成功する保証などどこにもない。むしろ、失敗すれば術者である自分たちがどうなるか分からない。魂が砕け散るか、あるいは人ならざるものに変貌してしまうか。禁書には、成功例はなく、おぞましい失敗例ばかりが記されていた。
「……兄さん」
「何だ」
「もし……もし、うまくいかなかったら……」
リックは、術式から顔を上げることなく答えた。
「うまくいく。俺が、いかせるんだ」
その声には、微塵の疑いも揺らぎもなかった。それはもはや信念というより、呪詛に近いものだった。この三年、リックは寝る間も惜しんで古文書を解読し、独自の理論を構築してきた。過去の先人たちの失敗を乗り越え、必ず成功させるために。
「母さんの遺髪と、火葬されずに残った骨の欠片……肉体の情報を持つこれらを使えば、生前の姿を完璧に再現できるはずだ」
リックは魔術陣の隅に置かれた、黒曜石のオベリスクに目を向けた。それは彼らが作り上げた、周囲のマナを強制的に集束させるための装置だった。
ジェーンは兄の横顔を見つめた。兄はどこまでも自分の信じた道を突き進もうとしている。であれば、その側で彼が道を誤ろうとしたとき、止めるのが自分の役割だと彼女は自負していた。
だが、ジェーンはもう兄を止めることができなかった。彼女自身もまた、あの優しい母にもう一度会いたい、その温かい腕に抱きしめられたいという、断ち切れない願いに囚われていたからだ。
「……分かったわ。信じてる、兄さんを」
ジェーンは覚悟を決め、調合した触媒を術陣の決められた位置に注いでいく。液体が術式に触れると、しゅうっと音を立てて蒸発し、甘く、そして少し血生臭いような匂いが立ち込めた。
準備は整った。
リックとジェーンは、魔術陣を挟んで向かい合って立った。二人は互いの目を見つめ、無言で頷き合う。
そして詠唱が始まった。
それは現代では失われた古代の言語だった。一つの単語がいくつもの意味を持ち、発音の僅かな違いが術の効果を大きく変えてしまう。二人の声が重なり合い、地下室の空気がビリビリと震え始めた。
床の魔術陣が、まばゆい光を放ち始める。最初は白く、やがて青へ、そして深紅へと色を変えていく。黒曜石のオベリスクが唸りを上げ、周囲のマナが嵐のように術陣の中心へと吸い込まれていった。
彼らの額には汗が浮かび、魔力の過剰な行使で顔が蒼白になっていく。術陣の中心、母の遺髪と骨片が置かれた場所で、光が渦を巻き始めた。
空気が捻じれ、空間が歪む。ごう、と風が吹き荒れ、壁の蝋燭の炎が一斉に消えた。闇の中、輝く魔術陣だけが、二人の顔を不気味に照らし出す。
「兄さん……!」
ジェーンの悲鳴に似た声。術の制御が、限界に近づいていた。膨大なエネルギーが暴走しかけている。
「まだだ! まだ足りない! ジェーン、もっと魔力を!」
「でも、これ以上は……!」
「やるんだ!」
リックの叱咤に、ジェーンは奥歯を食いしばった。彼女は己の生命力そのものである魔力を、限界を超えて術陣に注ぎ込んだ。視界が白く霞み、意識が遠のきそうになる。
その瞬間だった。
術陣の中心で渦巻いていた光が、一際強く閃光を放った。
すさまじい衝撃波が二人を襲い、リックもジェーンも壁まで吹き飛ばされた。
そして、まるで何事もなかったかのように、光は急速に収束していく。
静寂が戻った。
魔術陣の光は消え、地下室には再び闇が訪れた。荒い呼吸を繰り返しながら、リックはゆっくりと身を起こした。全身が鉛のように重い。
「ジェーン……無事か?」
「……ええ。なんとか」
壁に背を預けたまま、ジェーンが弱々しく答えた。
リックは、震える足で立ち上がり、術陣の中心へと歩み寄った。
闇に目が慣れてくると、そこに人影が横たわっているのが見えた。
リックは懐から魔道具の小石を取り出し、呪を唱える。小石が、太陽のように柔らかな光を放ち、周囲を照らし出した。
そして、彼は息を呑んだ。
そこにいたのは、紛れもなく、彼らの母、マリア=グロウリーだった。
三年前、最後に見た時と寸分違わぬ姿。波打つ栗色の髪、穏やかな寝顔。白い寝間着を身にまとい、ただ深く眠っているようにしか見えない。胸が、かすかに上下している。
生きている。
「あ……」
ジェーンが、かすれた声を上げた。彼女は這うようにして兄の隣まで来ると、その光景を信じられないといった表情で見つめている。
「お母、さん……?」
リックは、ゆっくりと膝をつき、震える手で母の頬に触れた。
温かい。
血の通った、人間の温もりだった。
その事実に、リックの張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
「……やった」
彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「やったんだ、ジェーン……! 母さんが、帰ってきた……!」
彼は、幼い子供のように、その場で泣き崩れた。ジェーンもまた、母の手にすがりつき、声を上げて泣いていた。三年間、押し殺してきたすべての感情が、涙となって溢れ出してくる。
父を憎んだ日も、術式の解読に行き詰まり絶望した日も、すべてはこの瞬間のためにあったのだ。
しばらくして、二人はようやく落ち着きを取り戻した。
彼らは協力して、眠り続けるマリアを地下室から運び出し、彼女の寝室のベッドにそっと寝かせた。
どのくらい時間が経っただろうか。窓の外が白み始めた頃、ベッドの上のマリアの瞼が、ぴくりと動いた。
ゆっくりと、その目が開かれる。
リックとジェーンは、固唾を飲んで見守った。
「……リック……? ジェーン……?」
掠れた、しかし紛れもなく懐かしい母の声。
マリアは、不思議そうに自分の子供たちの顔を見つめている。その瞳には、状況が理解できないといった当惑の色が浮かんでいた。
「……おかしいわね。なんだか頭がぼんやりしているからかしら。あなたたちが急に大人びて見えるわ……」
彼女は自分が事故で死んだときのことを、まったく覚えていないようだった。
リックは、ジェーンと目を見交わし、準備していた言葉を口にした。
「……そうだよ、母さん。事故にあったんだ。それで、ずっと眠ったままだった」
「事故……?」
「うん。でも、もう大丈夫。僕たちがずっと看病していたから。身体が少し弱っているだろうけど、魔法薬ですぐに元気になるよ」
ジェーンも、兄の言葉に頷く。
「心配したんだよ、お母さん。でも、目が覚めて、本当によかった……!」
マリアは、まだ少し混乱しているようだったが、愛する子供たちの顔を見て、安堵したように微笑んだ。それは、リックとジェーンが夢にまで見た、陽だまりのような笑顔だった。
「そう……大変な思いをさせてしまったのね、ごめんなさい。ありがとう、二人とも」
そう言って、彼女は二人に手を伸ばした。
リックとジェーンは、その温かい手に吸い寄せられるように、母の胸に顔をうずめた。懐かしい、優しい匂いがした。
失われたはずの幸福が、今、確かにここにあった。
禁忌を犯し、世界の理を捻じ曲げた代償。
そんなものは、この温もりの前では些細なことに思えた。
この幸せが続くのなら、どんな罰でも受け入れよう。
リックは母の背中を抱きしめながら、固く、そう誓ったのだった。




