第一章 失われた温もり
夕暮れの陽光が、グロウリー家の居間を柔らかく染めていた。古い石造りの家屋は、この田舎村には似つかわしくもなく壁際に並ぶ書棚が天井まで届き、埃っぽい革装本がぎっしりと並んでいた。窓辺のテーブルには、母マリアが摘んできた野花が、素朴なガラスの花瓶に活けられ、淡いピンクの花弁が揺れている。
細身の体躯に黒く長い髪を無造作に後ろで束ねた十四歳の若者、リックは窓から差し込む光に目を細めながら、本のページを追っていた。彼は若くして難解な魔術書を読み解く英明さと、魔術への高い適性を見せていた。
こんな田舎の村ではなく、もっと早い時期に王都かどこかの魔術の専門機関がある都会へと送り出してやるべきだったのかもしれない。しかしリックにどんな優れた才能があろうとマリアにとって彼はただの愛しい息子だった。リックがこの家から出たがらないこと、そして妹のジェーンも兄であるリックと離れ離れになるのを嫌がったのをいいことに、ついつい手もとに置き続けてしまった。
しかし息子の将来を思えば来年こそは送り出すべきだろう。マリアはそう思った。
「リック、その本は面白い?」
マリアの声は、優しい風のように柔らかく、茶色の巻き毛が肩に落ちる姿は、三十八歳とは思えぬ穏やかな美しさを湛えていた。
「まあまあね。ちょっと術式の構築理論が古臭いところがあるけど、視点が独特で参考になるよ」
リックは本から少し目を上げたが、すぐに本へと視線を戻した。彼が今読んでいるのは、十年ほど前の魔道士が書いたものだ。その本で示された理論は当時は画期的で、現在まで続く魔術体系に大きな波紋を与えた。今でもこの本に書かれた理論をもとに研究を進めている魔道士も少なくない。
部屋の隅で、妹のジェーンが床に寝そべりながら本を読んでいた。十二歳の彼女は、金色の髪を三つ編みにし、大きな青い瞳を輝かせてページをめくる。兄と同じく天才の片鱗を見せていたが、ジェーンはまだ魔術を一種の遊戯のように楽しんでいた。
「お兄ちゃん! 見て見て、この術で花が踊るんだよ!」
彼女は突然立ち上がり、手を振ると、花瓶の花がふわりと浮かび、空中で軽やかに回転した。呪文を唱えていない。呪文を用いず、直接自身の魔力を制御し、事象を改変する無詠唱術だ。一流と呼ばれる魔術師でも使えるものは決して多くは無い高等技術である。マリアは拍手して笑った。
「すごいすごい! とてもきれいね、ジェーン」
母の誉め言葉にジェーンは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
その夜、家族の食卓はいつも通り母、息子、娘の親子三人の賑やかなものだった。主にジェーンが話し、それに母が楽しそうに相槌を打ち、ときおりリックが意地悪そうに口をはさむといった具合だ。
「お父さん、いつ帰ってくるの?」
ジェーンがフォークを弄びながら尋ねると、マリアは優しく首を振った。
「バウムは仕事が忙しいのよ。なかなか帰ってこれなくても仕方ないわ。気長に待っていましょう」
リックは皿を睨んだ。
「ふん、何やっているんだか。案外、王都で遊んでいるんじゃないの?」
「リック! バウムは宮廷魔術としてこの国のみんなのため、わたしたち家族のためにがんばっているのよ。それぐらい、あなたならわかるでしょ?」
リックはそっぽを向いて何も答えなかった。マリアはそんな息子の様子に仕方なさそうにため息をつき、ジェーンは自分が話題を選び間違えたことに気づいて、あわてて別の話題を出すのだった。
そんなちょっとしたすれ違いもあったりはするものの、おおむねグロウリー一家は田舎の村で穏やかに、幸せに暮らしていた。
しかし事故は、そんな一家の日常を一瞬で引き裂いた。
ある朝、マリアは森の奥に薬草を探しに出かけた。いつものように薬草をとっていたが、前日の大雨で地面がぬかるんでおり、彼女は足を滑らせ、坂道を転がり落ちた。そしてその先には大岩があり、不幸にもマリアはその岩に正面から頭を打ち付けてしまった。
ふらふらしながらも立ち上がり、頭から血が出ていることに気づいた彼女は治癒の魔術を使おうとしたが、意識がもうろうとして定まらず、上手く術を使えない。しかたなく彼女は布で出血しているところを押さえながら、なんとか家に戻ろうとした。
まともに歩くことすら簡単ではなく、普段の何倍もの時間をかけてなんとか村までは戻ることができたもののそこで彼女は力尽き、倒れた彼女に気づいた村人が近づいてきたときには既に彼女はもう息を引き取っていた。
「お母さん……お母さん、起きて!」
母の遺体を前にしたジェーンの悲痛な叫びが村中に響き、リックは膝をついて母の頰に触れた。冷たい。母の肌はすでに冷たく硬くなっていた。
葬儀の日、村の墓地は灰色の空の下、黒い服の人々で埋め尽くされていた。マリアの棺は、白い花で飾られ、静かに土に還るのを待っていた。リックは棺の前に立ち、拳を握りしめていた。
ジェーンは兄の袖を掴み、涙で腫れた青い瞳を伏せていた。
「お兄ちゃん……お母さん、痛くなかったかな……」
マリアがいなくなった家の中はまるで太陽が無くなったかのようだった。暗く、陰鬱な雰囲気に沈み込み、温もりが感じられず、寒々しい。それでも兄妹は互いに支え合った。リックは自分より幼いジェーンが母を失った悲しみを乗り越えられるようにと気遣い、ジェーンはそんな兄の気遣いに応えて兄に心配をかけまいとできるだけ明るく振る舞おうとした。
葬儀の日から十日以上たった日のこと、兄妹が母の墓参りに行くと、母の墓の前にはこんな田舎の村には似合わぬ豪奢なローブを身にまとった男がいた。
「……バウムっ!」
「お父さん!」
兄妹がそろって声をあげる。ただし、その声に込められた感情は真逆のものだった。
その声に墓の前でひざまずいていた男――バウムがふりかえって兄妹の方を見た。
「リック。それに、ジェーンか」
動いたのはリックの方が先だった。すぐに父バウムとの距離を詰め、その胸ぐらをつかんだ。
「てめえ、今まで何してやがった!? 母さんが、……母さんが、いなくなったって時に!!」
「お兄ちゃん、やめて!」
バウムを絞め殺さんばかりに手に力を入れ、怒鳴りつける兄を、ジェーンは止めようとする。だが、当のバウムはまるで気にした様子は無かった。いや、その目には何も映っておらず、別のとこかを見ているかのようだった。
「マリアは……本当に、死んだのか……?」
「てめえ……今さら、そんなことを……!!」
バウムのその言葉にリックはついに怒りを抑えきれなくなって、父を力の限り殴った。バウムが倒れ、ジェーンが悲鳴をあげた。
「そうか……死んだのか……」
バウムがよろよろと立ち上がる。彼の唇の端と、鼻から血がこぼれ落ちていたが、殴られた痛みも血のこともバウムはまったく気にした様子を見せなかった。
「俺は必ずあいつを取り戻す」
その一言だけを残すと、バウムは兄妹に背を向けてそのまま去ってしまった。
「お父さん、待って!」
ジェーンの言葉にもバウムは振り向こうとしない。その異様な様子にジェーンは追いかけることができず、ただ立ち尽くすことしかできない。
リックは去っていくバウムの背中に、火が噴き出るような憎しみの眼差しを向けていた。
「お兄ちゃん……」
ジェーンが、おずおずとリックの腕に触れる。その指先は氷のように冷たかった。
「お父さん、行っちゃった……」
「……いいんだ」
リックは、吐き捨てるように言った。
「あんな男、もう父親でもなんでもない」
そう言いきった彼の声が、わずかに震えていることに、ジェーンだけが気づいていた。
◆
その夜、リックは眠れなかった。
父への怒り。母を失った悲しみ。そして、たった二人きりになってしまったという途方もない孤独感。それらがごちゃ混ぜになって、彼の心を苛んでいた。
眠ることをあきらめた彼は書斎に足を踏み入れた。そこは、かつて母が使っていた部屋であり、壁一面が魔術に関する書物で埋め尽くされている。
リックは、蝋燭の灯りを頼りに、本棚をゆっくりと眺めて歩いた。攻撃魔術、防御魔術、治癒魔術……ありとあらゆる魔術の知識が、ここには詰まっている。母が教えてくれる魔術の話が大好きだったリックにとって、この場所は宝の山だった。
しかし、今、彼の心は少しも躍らなかった。
どんなに強力な魔術も、死んだ人間を生き返らせることはできない。それが、この世界の絶対的な法則。覆すことのできない真理。
――本当に、そうだろうか?
ふと、脳裏にそんな考えがよぎった。
リックの視線が、本棚の奥、埃をかぶった一角に吸い寄せられる。そこは、母が「決して触れてはならない」と厳しく禁じていた領域。禁忌とされる魔術に関する古文書が収められている場所だった。
『生命創成と魂の定着に関する一考察』
『死者の蘇生――その理論と禁忌の歴史』
背表紙の文字が、悪魔の囁きのようにリックを誘う。
ゴクリと、乾いた喉が鳴った。父への反発心もあった。だが、それ以上に強い衝動が、彼を突き動かしていた。
もし。
もし、母さんを、もう一度この手に取り戻せるのなら。
リックは、震える手で、その書物の一冊を抜き取った。
ずしりと重い革の装丁。ページをめくると、黴臭い匂いと共に、古代の文字で書かれた難解な術式が目に飛び込んできた。
成功例はない。古来より、数多の魔術師が挑み、そして失敗してきた。神の領域を侵す、最も重い禁忌。
だが、リックの蒼い瞳には、絶望の色に代わって、狂気にも似た光が灯り始めていた。
これだ。これしかない。
「お兄ちゃん……?」
いつの間にか、ジェーンが書斎の入り口に立っていた。彼女は、リックが手にしている禁書を見て、はっと息を呑む。
「それ……お母さんが、触っちゃいけないって……」
「ジェーン」
リックは、妹に向き直った。その目にはぎらぎらとした異様な熱気を放っていた。
「オレは、母さんを生き返らせる」
「え……?」
「この禁術を使えば、可能かもしれない。いや、可能にしてみせる。オレだったら、きっと……」
ジェーンの翠の瞳が、恐怖と、そしてわずかな希望に見開かれる。兄が何を言っているのか、ジェーンも察したようだった。
「そんな……だめだよ。お母さん、言ってたじゃない。死んだ人を生き返らせるのは、絶対やってはいけないんだって。だれも成功したことないんだって」
「もう一度、母さんに会いたくないのか、ジェーン」
「それは……」
ジェーンの両目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。せきを切ったかのように止まらない。
「……あいたい……会いたいに、決まってるじゃない……お母さんに、会いたいよお……」
そのまま泣き続けるジェーンをリックがそっと抱きしめた。
「……だいじょうぶだ。むかしは魔道理論がまだ不十分だから失敗した。でも現在の魔道理論なら成功の可能性は十分ある。オレが、必ず成功させてみせる」
ジェーンには兄の言っていることが、どれほど途方もなく、そして危険なことか、彼女にも分かっていた。
でも。
もし、本当に。
あの優しい母の笑顔に、もう一度会えるのなら。
「……あたしも、手伝うよ、お兄ちゃん」
少女は覚悟を決めて兄に宣言した。
冷たい雨が降り続く夜、グロウリー家の書斎で、二人の兄妹は神に背くことを決めた。




