第2章 — 生活のシミュレーション
時々、思うことがある。
すべては、気づく前から始まっていたのかもしれない、と。
痛みは突然やってきたわけではない。
それはゆっくりと、幸福の仮面をかぶりながら育っていった。
あの年が、決して戻れない何かの始まりだったことを、
その時の私はまだ知らなかった。
思い出そうとしても、すべてが煙と笑いと疲れの中で溶け合っていく。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
――私はかつて、確かに幸福だった。
たとえそれが、崩壊の中での幸福だったとしても。
目覚まし時計が鳴る。まるで、義務としてまだ生きていることを思い出させようとするかのように。
でも、目を覚ますことはない。ただそのしつこさで、世界が虚無から私を押し出そうとしているように感じるだけだ。
私はゆっくりと体を起こす。背中にのしかかる死んだ年月の重みを引きずりながら。
筋肉は抗議し、骨は「ここにいる」と告げる。呼吸して、存在している。ただ、なぜ生きているのかはわからないまま。
部屋を自動人形のように歩き、家具に触れ、物を動かす。見ているようで、見ていない。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、床に線を描く。しかし、それは私を照らさない。ただ、この世界は私に無関心に続いていることを思い出させるだけだ。
街に出る。いつも通り、都市は生きている。
人々が走り、車が行き交い、声や笑いが絶え間ないざわめきとなる。
私はその中を歩く。誰にも気づかれない幽霊のように。
そして、何かが内側を打つ。匂い、音、コートをすり抜ける風。
突然、私は時をさかのぼる。
中学一年生の頃。
どうやって彼と出会ったか、鮮明に覚えている。
高橋蓮。別の学校の少年。いつも乱れた黒髪、暗い瞳。まるで私の知らない秘密を覗き込むような目をしていた。
その笑顔は不思議で、つかみどころがない。しかし現れると、一瞬にして世界を照らした。
なぜか理由もなく、私は彼に近づいた。
初めから直感したのかもしれない。彼は他の誰とも違う、と。
彼となら、すべてがより鮮やかで、より現実的になる、と。
ある日の午後、体育館の裏で出会った。
彼は一人で煙草を吸い、灰色の空を見つめていた。
言葉なく、煙草を差し出された。私は受け取った。
まだマリファナではなかった。でも、あの時からすべてが始まったのかもしれない。沈黙を分かち合い、禁断のものに慰めを見つける、その必要性が。
私たちは切り離せない存在になった。
どんなことでも、何でもないことでも話し合い、誰にも言えない秘密を共有した。
授業を抜け出し、人のいない街を歩き、世界が止まることなく動いているのを見た。
そして好奇心がやってきた。
マリファナを初めて吸ったのは、廃れた運動場の隅。
草の香りは荒く、甘く、そして少し病的だった。
咳をして笑い、蓮は微笑んだ。
その瞬間、私の中で何かが目覚めた。
その後、長い夜が続いた。
冷たい浴室でのコカイン、助けを求めるような笑い声。
私たちは、路地で見る壊れた人間たちにならないと約束した。しかし白い粉は私たちの秘密となり、私たちを蝕みながらも手放せなかった。
薄暗い古いランプの光の下で輝く彼の瞳。
私の肩に頭を預けて眠る彼の姿。
その夜が終わらなければいいのに、と願った。
友情ではなかった。静かな恋、名を呼べぬ愛。
偶然の触れ合い、共に笑う声、煙に揺れる視線が、私の言葉にならない想いを告げていた。
それを彼に告げることはなかった。多分、彼は知らないままだろう。
しかしあの日々、純粋な何かが存在すると、信じられた。たとえ不可能でも。
現実が再び私を打つ。
街を歩き、建物や車、人々が「ここにいる」と思い出させる。でも、私はここにいてもいない。
その時、彼の妹を見た。
虚ろな瞳、震えない声。
封筒を手渡される。宛名は私の名前、勇、蓮の文字で書かれていた。
心が止まる。
封筒を開け、すべてを変える言葉を読む:
> 「もう続けられない。父の暴力も、薬物が私たちに与えたものも、もう耐えられない。ごめん… 他に道はない。君がいつも私にとって最高だったことを知ってほしい。
友でいてくれて、そして最大の愛をありがとう。ずっと覚えている、勇。」
紙が手の中で震える。
息が止まる。
蓮はもういない。
叫びも説明もない。ただ骨にまとわりつく虚無。
私は街の真ん中で立ち尽くす。封筒を開いたまま、人々は何もなかったかのように通り過ぎる。
無感覚のまま家へ戻る。
ポケットの封筒は熱く、歩くたびに体を沈ませる。世界は溶けるようにぼやけていく。
部屋に戻り、ノートの前に座る。書こうとするが、言葉は出ない。
歪んだ線、まだ生まれぬ死んだ文章。
蓮の手紙は机の上にあり、目を離せない。
彼の笑い、手、声、「大丈夫」と告げるあの声を思い浮かべる。
そして、もう戻らないことを知る。
罪悪感が蝕む。
何かできたのではないか。
止めるべきだったのか。
愛を声にして伝えるべきだったのか。
夜が訪れる。
光を消し、闇に身を委ねる。
沈黙が答えのように感じられる。
触れたものは壊れ、愛したものは消える。
おそらく、私もまた。
目を閉じ、虚無に落ちる。封筒を握り、戻らぬ幸せな日々を抱きしめる。
世界が外で回り続ける間、私は沈み始める。
人生そのものが、もう支えられないシミュレーションのように思えた。
あの夜の静けさは、今も私の中に残っている。
蓮は去った。
けれどその影は、私が目を閉じるたび、隣に座り続けている。
時々、街のざわめきの中に彼の声を聞く気がする。
まるで、まだ私に「来い」と呼びかけているかのように。
――たぶん、それが彼の残り方だったのだろう。
私に、彼の不在という重みを、罪という遺産を残して。
あの日から、私のすることすべてが、
彼の代わりに生きようとする不器用な試みのように思える。
だが、それさえも、もはや「生」とは呼べない。
ただの、シミュレーションだ。




