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【秋の文芸展2025】嘘を分け合った夏  作者: 妙原奇天


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1/1

タイトル未定2025/10/07 16:18

 体育館の裏口を開けると、むわっとした熱が、舞台の匂いを連れてきた。

 照明の埃、木材の粉、先週塗り直したばかりの黒い床。呼吸のたびに、緊張が鼻の奥に貼りつく。


 「成瀬。配役、出た」


 相模が台本の束を片手で持ちながら立っていた。髪を上げているから、額が少し光って見える。

 掲示の紙の前に集まっていた一年生たちが、ワッと声を上げ、すぐ散っていく。


 ――主演:相模 陽。相手役:成瀬 湊。

 演目は『八月の残響』。男子ふたりの、夏に別れる恋人たち。


 「恋人役、だってさ」

 相模が、わざと何でもないみたいに言う。

 「稽古、よろしく」

 「……うん。よろしく」

 言ってから、喉の奥が少しひりっとした。

 演劇部の二年になって、はじめての恋人役。それも、相手が相模だ。


 顧問の橘先生は言う。「台詞は嘘。だけど、嘘に息を入れるのは本当の呼吸」

 その言葉は好きだった。

 でも、今だけはやたら重たく聞こえる。


 稽古初日、読み合わせ。

 相模は、紙の端を折る癖のある指で、まっすぐ台詞を拾っていく。

 僕は、軽く笑いながらそれに合わせる。

 舞台監督の一年・桐野が鉛筆で進行をメモしていく音が、やけに大きい。


 問題のシーンは、二十ページめ。

 「好きだ」と相模が言い、僕が相模の手を握って黙る。

 黙るのが台詞。沈黙を置くのが指示。


 「この“好きだ”、どう置く?」

 休憩時間、相模が台本の該当箇所に付箋を立てて見せた。

 「合図にする?」

 「合図?」

 「稽古で決めとく“鍵”。この“好きだ”が入ったら、手を握る。呼吸をひとつ吸って、二拍置く。……それで、板に残す」

 相模の声は落ち着いていて、言葉に無駄がない。

 僕は、冗談みたいに返す。

 「鍵、ね。ロマンないな」

 「ロマンは最後に取っておくものだよ」

 「じゃ、鍵は仮で。あくまで“稽古の嘘”」

 「嘘は稽古の燃料だよ」

 相模は、そう言って笑った。

 笑い声は短く、でも体温は残る。


 “稽古の嘘”。

 鍵を決めると、稽古は進む。

 体育館の奥まで届く、合図としての「好き」。

 合図としての手の重さ。

 沈黙の二拍。

 

 僕はうまく、嘘を言っている――はずだった。


     ◇


 期末テストが終わると、稽古は毎日になった。

 舞台を黒に染め、客席の位置をテープで印する。

 桐野が「ここ、照明の影が落ちます」と小声で言い、相模が「了解」と即答する。細かい調整。繰り返し。汗。水。

 僕は、台詞を笑いに逃がす癖を、少しずつ手放していった。


 問題は、二十ページめが近づくと起きる。

 「好きだ」

 相模の声が落ちる。

 鍵が回る。

 僕の手が相模の手を取る。

 沈黙――のはずが、喉に何かがひっかかる。


 黙るのが台詞、だ。

 なのに、黙るのが難しい。

 息を吸って二拍。

 相模の手の骨の形が、二拍のあいだにくっきり伝わってくる。

 上演台本の“黙る”は、紙の上では軽い。

 舞台の上の“黙る”は、重い。

 嘘の言葉を、嘘じゃない場所に運ぶからだ。


 稽古終わり、体育館の扉を閉めると、湿った夜気が入ってくる。

 「成瀬」

 呼ばれて振り向くと、相模が水のペットボトルを差し出していた。

 「さっき、二拍半になってた」

 「え」

 「“黙る”のとこ。二拍半。……好きなだけ黙っていいわけじゃない」

 「知ってるよ。知ってるけど、さ」

 言いかけて、言葉が繋がらなくなる。

 相模は、僕の目をまっすぐに見ない。少し外してから戻す。

 「——大丈夫。稽古だから」

 それが、慰めなのか、釘なのか、わからない。


     ◇


 七月の終わり、脚本の言い回しの調整が入った。

 演出の橘先生が指摘する。「“好きだ”の位置、ひと文字だけ早く」

 「一音、早く?」

 相模がペン先で該当箇所を軽く叩く。

 「“す”の立ち上がりを、呼吸の手前に置く。そうすると、次の黙りが活きる」

 僕は台本に小さく丸を付けて頷く。

 「——了解」

 紙の上の一音が、舞台の上の二人の距離を変える。

 それは何度も見てきたことだし、僕はそれに従うのが好きだった。

 でも今回は、その“一音”が、喉の奥でざらついた。


 稽古が終わって、片付けの手を止めたとき。

 相模が唐突に言った。

 「成瀬はさ。嘘が上手いよ」

 「……褒めてないだろ、それ」

 「褒めてるよ。舞台上の嘘って、観客を守るための嘘でもあるから」

 「守る?」

 「うん。舞台は約束だから。約束の外に本音を置くと、みんな足を取られる」

 相模は、ペンキャップを外して、付け直す。

 「俺はたぶん、嘘が下手なんだよ。だから練習してる」

 その言い方が、ふいに可笑しくもあり、怖くもあった。

 僕は笑ってごまかし、相模の肩を軽く叩いた。

 そのまま叩いた手を下ろすのに、一瞬だけ時間がかかった。


     ◇


 本音。

 稽古の外側に置く本音が、日に日に重くなっていく。

 気づけば、二十ページめが近づく前に、僕の胸は先に走って苦しくなった。

 自覚は、いつも遅れて追いつく。

 たぶん僕は、鍵を回すたび、合図に助けられ、合図に追いつめられていた。

 “好き”を合図として言っているうちに、合図じゃない“好き”が、奥に沈んでいく。


 桐野に言われた。「成瀬先輩、最近“黙り”が綺麗です」

 「そう?」

 「はい。二拍ぴったり。相模先輩の“好き”の後の空気が、きれいに止まってて」

 「……ありがと」

 褒め言葉は、重い。

 桐野が去ったあと、僕は舞台の中央に立って、何もない客席を見た。

 “観られる”ということは、嘘に責任を持つことだ。

 わかっている。

 でも、責任は、心を軽くしてくれない。


     ◇


 本番三日前。

 橘先生が「通しで止めない」と宣言した。

 緊張が部室の空気を均一に固くする。

 安全ピン、小道具、照明の熱。

 通しの最中、二十ページめ。

 「好きだ」

 相模の一音は、いつもより静かだった。

 鍵が回る。

 手を握る。

 二拍。

 ぴったり、のはずなのに、目の前の相模の瞼が、ほんの一瞬だけ揺れた。

 光のちらつきかと思った。

 でも、照明はフラットのままだった。


 通しが終わると、橘先生が短くまとめた。

 「二人とも、いい。あと一段だけ怖くなっていい」

 「怖く?」

 相模が訊く。

 「約束は守る。でも守る前に、守りたくなるくらい、怖くなりな」

 わかったような、わからないような。

 帰り支度の廊下で、相模がため息をひとつ吐いた。

 「怖くなる、ね」

 「怖いのは……嫌い?」

 「嫌いじゃない。でも、怖さで約束を壊すのは嫌い」

 「うん」

 それから少し歩いて、相模は言葉を落とす。

 「稽古だから、ね」

 その“だから”が、やけに遠かった。


     ◇


 本番前夜。

 台本の一行が、問題を起こした。

 僕が提案した。「“好きだ”の強さ、半音だけ落としてみない?」

 「落とす?」

 「うん。言葉の輪郭をちょっとぼかす。聴こえるけど、拾われないくらいに」

 相模は首をかしげた。

 「それ、観客への裏切りにならない?」

 「裏切りじゃなくて、委ねる」

 「委ねるのは、観客がその準備を持ってるときだけだよ」

 噛み合わない。

 僕は苛立ちを隠せなかった。

 「相模は、なんでそんなに“約束”にしがみつくの?」

相模は少し黙って、それから言った。

 「俺が、嘘が下手だから」

 「下手じゃないよ」

 「いや、下手なんだよ。本音が混ざるの、怖いから」

 「混ざってるの?」

 相模は目を伏せる。

 答えないという答え。

 僕の喉の痛みは、たぶん同じ場所にあった。


 「……明日、決めよう」

 相模は短く言って、台本を閉じた。

 それが合図のように、会話はそこで終わった。


     ◇


 本番当日。

 客席が埋まり、空調の音が小さくなる。

 開演ベル。

 幕が上がり、僕らは“役”になった。


 序盤は、身体が覚えている。

 目線、立ち位置、尺。

 相模の声が近づき、離れ、照明が肌の表面を一枚厚くする。

 観客の気配が、呼吸の後ろに糸のように張られる。

 僕は、その糸を切らないように歩く。


 問題のシーンが来る。

 「好きだ」

 相模の声が落ちる――はず、だった。


 その瞬間、相模は一瞬だけ吸い込み、言わなかった。

 代わりに、視線で僕を射抜いた。

 眼差しが台詞になる。

 空白が、台詞の位置に来る。

 鍵が回らない。

 僕の手は、空を掴んだ。

 沈黙は、二拍の予定だった。

 でも今、二拍の中に、別の言葉が生まれた。


 僕は、脚本にない一音を選んだ。

 「——ありがとう」

 小さく、でもはっきり。

 観客には、たぶん届くか届かないかの音量。

 相模の瞳が、ほんの少しだけ震えた。

 それで充分だった。

 相模は続ける。台詞を、何事もなかったように。

 手を取って、予定通りに黙る。

 沈黙は、二拍。

 今度はぴったり。

 でも、そのぴったりは、昨日までのそれとは違った。


 幕が下りる。

 客席の拍手が、遠い。

 舞台袖の暗さが、目に優しい。


 橘先生が短く言う。「よかった」

 桐野が泣き笑いで親指を立てる。

 誰かが肩を叩き、誰かが水を差し出す。

 僕は深呼吸を二回してから、相模を探した。


 渡り廊下、夕方の風。

 相模は窓にもたれて、手のひらを見ていた。

 「相模」

 僕が声を掛けると、相模は手のひらを握りしめて、ポケットに入れた。

 「鍵、回さなかったね」

 「うん」

 「俺も、“ありがとう”、聞いた」

 「聞こえた?」

 「うん。俺にだけ届く音量で、言ったよね」

 「そう」

 それから、ちょっと間を置いて、相模は笑った。

 「ずるいな」

 「ずるいのはお互い様でしょ」

 「そうだね」

 風が、カーテンみたいに廊下を通り抜ける。

 蝉の声が遠ざかって、空が少しだけ薄くなる。


 「——これで、友達に戻れるね」

 相模が言った。

 僕は、すぐには頷けなかった。

 でも、頷いた。

 約束を守るために。

 それが、最後の嘘だと知りながら。


     ◇


 打ち上げの喧噪の中、僕らは離れて座った。

 乾杯の声、氷の音、ピザの匂い。

 橘先生が「お前ら、よくやった」と肩を叩く。

 桐野が「相模先輩、あの“黙り”、神でした」と言い、相模は照れ笑いをする。

 僕も笑う。

 笑いながら、胸の奥に小さな鍵をしまう。

 鍵には名前が刻んである。

 “ありがとう”。

 開ける相手は、ひとりだけ。


 帰り道、星は見えなかった。

 街灯に切り取られた夜空は、舞台の黒より浅い。

 信号待ちで、スマホが震えた。

 相模からメッセージ。

 《二拍、ぴったりだった》

 《うん》

 《稽古、終わり》

 そこでメッセージは止まった。

 僕は画面を暗くし、ポケットに戻した。

 返事は要らなかった。

 約束は、もう舞台で交わした。


     ◇


 夏休みが終わる頃、相模は髪を少し切った。

 教室で会っても、部室で会っても、僕らはふつうの友達だった。

 台本のないところでは、ふつうの言葉しか使わない。

 嘘も、合図も、鍵も、どこにも置かれていない。

 それは、守るべき“約束の外”だ。


 いつか、相模は別の誰かに“好き”を言う。

 いつか、僕も。

 その“いつか”のために、夏のあいだ、僕らは嘘を分け合った。

 嘘は、燃料だ。

 稽古の間だけ燃えて、跡に熱だけを残す。

 その熱が、心を壊す前に、夏は終わった。


 九月の風が、ページを一枚めくるみたいに、僕らの時間を進める。

 忘れられるものと、忘れられないもの。

 舞台の上で言った“ありがとう”は、観客にとっては聞こえないまま過ぎ去った一音だったかもしれない。

 でも、僕らにとっては、夏の終わりを決める合図だった。


 嘘を分け合った夏。

 鍵はもう回らない。

 でも、握手の強さだけは、少しだけ覚えている。


 舞台袖の匂いは、冬になっても抜けない。

 その匂いを嗅ぐたびに、僕は、あの二拍を思い出す。

 二拍ぴったりの沈黙。

 その中に浮いた一音。

 ——ありがとう。

 友達に戻るために、恋を名乗らずに済ませた、最後の嘘。


 それでいい、と言い合ったことも、嘘のままでいい。

 “いい”と“痛い”が、同じ音で響く季節を、僕らはひとつ共有したのだから。


(了)


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