無為歌
いつの時代の話か忘れましたが、長安の町に一人の商人がおりました。しかし彼はなかなかの商売下手であり、殊にこの数年は余りに儲けが少なかったそうなのです。そこでこの商人、今度ばかりは一攫千金を狙おうと一計を案じました。彼は一枚の真白な古い紙を持出し、それを携えせっせと市場に向かったのです。
彼は道往く人々を眺めながら、今に誰かこの紙を買わぬかと楽しみに待っておりました。ふと、一人の若い男が通りかかります。
「お、やあやあ兄ちゃん。ちとこの紙だけ見てくだせェ」
「紙? ……何も書かれてないけど」
「何も書かれてねエったらどんな目してンだい、こりゃア唐の時代の有名な詩人・李透明の真蹟ですぜ?」
「李透明。李白や陶淵明なら知ってますが、そんな名前の人聞いたことも……」
男は謂い謂い紙を受取り、表を見て、裏を見て、また表を見返します。
「……やっぱりこれ、ただの紙と間違えてません?」
「おうおう冗談言いなさンなよ。透明の為人は清廉潔白、その詩風ときたら高尚千万。あンまり清らかなモンだから、小人には一文字たりとも見えねエって聞くぜ」
すると男は一瞬ドキリとした顔をして、
「え……あ、ああ! これのことでしたか。またずいぶん風流な詩ですよねえ」
「へへ、ありがとうござりやす」
そうして男は、かの蘇軾も春宵の一刻に支払うこと能わぬような金額を出し紙を買ってしまいました。というのも実は彼、この附近では有名な士大夫の息子だったのです。だから試しに何か面白いものを買う時でも、そんな大金を出すのは訳ないものでした。しかし男の帰ろうとした時、商人は付加えるように謂います。
「そうそう、一つ気ィつけてくれ。透明の詩は透明の肉筆ありきだから、他の奴が臨書とか双鉤填墨しても意味がねえンだ。まして中身の詩だけ写したり、読上げるとか以っての外よ」
□
さてその士大夫の息子──以降は張清陽とでも呼びましょうか。彼は代金を払った瞬間こそうれしい気分でしたが、市場を歩きながら紙をチラチラ見ている内に、だんだん不安になってきます。何度見返しても墨の点一つすら見えず、これを読めない自分は小人ではないのか、或いはそもそも贋作を把まされたのではと心配な気持ちが湧いてきたのです。そこで彼は家路を急ぎ、父親に紙を見せることにしました。
「あの……父さん、ただいま」
「もう帰ってきたのか。どうした」
「いや、骨董品の市場で詩の書かれた紙を買ったんだけど、その字が小人には読めないって聞いて……」
「そんな仕掛けあるもんか。仮にあったとしても、読めん者などこの屋敷にいないはずだ」
「えっと、だったらこれを……」
そう言って清陽は例の紙を取出します。父親はそれを受取るなり紙を裏返し、まじまじと見つめた後にまた裏返し、また眉を寄せつつ目を凝らしていました。そして最後に紙を置いて、
「……なるほど、これはいい詩だ」
「本当!?」
ここでどんな詩だったかと清陽は訊きそうになりますが、それを慌ててグッと飲込みます。
「ちょっと、母さんたちにも見せてくる。こんな素晴らしい詩を分亨せずどうするのだ!」
そうして父親は彼の前を立去り、母親や祖父母から使用人に至るまで屋敷中の人々にその紙を見せて廻りました。詩は忽ち家中で話題となりましたが、肝腎の内容や題材はもちろんのこと、それが五言か七言かとか、更には近体詩か古体詩か等という細かい点に就いては、少なくともその一日は誰も触れませんでした。
□
その紙の複製が不可だとは息子の清陽から聞いていたので、父親が友人に見せると云い持って行ったものも無論原本でした。というのも彼はその日、他の士大夫仲間と食事の予定があったのです。
さて、食事の終わって少焉した後、彼は二人の友人に声をかけます。
「なあ……」
「ん、どうした大哉」
「まさか君たちなら読めるだろうが……ちょっと、この詩を見てくれ」
彼が紙を広げれば二人ともそれを覗込み、暫くするとコソコソ話し始めます。
「あれ裏返しじゃねえの?」
「バカ、裏でも文字くらい逆になったのが見えるだろ」
「でも真白じゃん」
「ならきっと特殊な墨でも使ったんだよ」
ところがこの会話は彼には聞こえず、そのまま続けます。
「実は息子が骨董市で買ってきたものなんだが、なんでも唐の李透明という詩人の真蹟といって、為人が清廉だから小人には文字が見えないと聞いたのだが……」
小人には文字が──と聞いて、二人はハッとします。そして彼の方を向き、
「お、おお! さすが著作左郎・大哉の息子、いい感性してンなあ」
「やっぱり中央官僚ときたら違うね」
「は、はは……」
肩に腕を廻された大哉は、少し引きつったような顔をしていました。
□
士大夫などという方々の耳に入ってしまえば、噂も広がるのは時間の問題です。あれよあれよと思う間に時の皇帝さえも詩の話をお聞きになり、いつしか街の孩子たちから饅頭屋の主人、或いは乞食から富豪に到るまで、誰もがその存在を知ることとなりました。その紙も亦た長安中を転々として、留まることを知りませんでした。最初に紙を手にした清陽も大哉も詩が瞬く間に有名になったことは甚だ驚きましたが、事の発端となった商人は既に遠くへ飛去ってしまったので何も知る由はありません。
しかし、やはり元はただの白紙。手にした人々の中には何も書かれていないと気付く者もいたでしょうが、それをそのまま言ってしまえば自分を小人だと言うのと等しくなり、故にこれがただの白紙だとは誰も謂えなくなってしまったのです。
ある時皇帝は臣下を遣わせ、例の紙を所有していると云う大地主を訪ねそれを買取らせました。あれだけ話題となった詩ですから、必ず一度は拝見しておきたいと思し召されたのです。さて、宰相が皇帝の御前に紙を運んできます。
「陛下、こちらが唐の李透明の書となります」
「大層ご苦労であった。どれ、朕にとくと拝見せしめ給え……」
そうして皇帝は、遂に例の白い紙をご覧になりました。しかし白紙と雖も、もはやその姿は初めのように完全な真白ではありません。有名な蘭亭序や祭姪文稿よろしく数多の文人や蒐集家たちが印を捺し、両端は四角や丸で既に真赤っ赤だったのです。
皇帝はまず初めに紙を裏返され、暫し眺めた後にまた裏返され、そのようにして日の沈む頃まで紙を御凝視されていました。
然後夜も更けてきた頃。皇帝は昼間の宰相を呼出し、
「……其方に問うが、これは確かに李透明の真蹟に違いないな?」
「はい、確かに李透明の真蹟と申されました」
「然れば噂のとおり、小人はこれを読めぬという訳だな?」
「……左様でございます」
「うむ」
次の日、虞慧南という宮廷直属の書家に一つの勅令が下りました。その内容を簡潔に申しますと、真蹟の貴重さなどこの際どうでもいいので小人でも詩の内容を読めるよう書写してほしいというものでした。しかも絶対に小細工などできないように、皇帝も含む大勢の目の前で模写しなければならないのです。この慧南と曰う書家は五絶ありとして積徳・忠義・博学・文藻・書法を称えられており、時代を創った書家の一人とも扱われる程でした。その彼ならば今度こそ詩の中身を解読できるだろうと思われ、勅令を直々に受けたのでしょう。
□
さて、遂にその日がやってきました。会場には既にたくさんの人が集まり、その真中で慧南は筆を持ちながら、机に向かい真新しい半紙と例の紙とを見比べているのです。
周りで見ている人々も、まさか慧南なら詩を読めるだろうと思う者もいれば、もし慧南にも読めないならどうするのだろうと思う者もいたはずです。しかしそのようなことは縦令友人でも迂闊に相談できないので、緊張も手伝い会場は大変静かでした。人々の視線は筆を持つ慧南の手に集まり、さあ何と書くか、どんな文字が現れるのかと今か今かと待侘びていたのです。しかしいつまで経っても慧南は筆を動かすどころか、細い点一つ打つ気配すらもありません。余りに彼が動かないので、さすがに見ている人々も心配になってきました。
ところが突然「虞慧南書」という落款のみを半紙の隅に書いて印を押し、そこで筆を擱いてしまったのです。会場は俄に騒然となりました。当然です。字の見えない者は小人と云われてきた作品を模写するのに、聡明と謂われてきた彼は何も書かなかったのですから。
やがて人々の沈黙からざわめきが生ずると、そのざわめきはやがて怒りとなり、その怒りが罵声や野次として次々と慧南に向かい飛んでいきます。しかし慧南は立ったまま動ずることもなく、
「……この詩は、少なくとも私の知らない形態で書かれています。〇文字で構成される句を〇句並べた総計〇文字、敢えて名付けるなら無言空詩とも呼べる詩形です」
遠くから「なんだよそれ!?」とか「結局お前も見えねーのかよ!」などと声が聞こえてきます。しかし、慧南は続けます。
「確かに皆さまの謂うとおり、私の述べた無言空詩とは即ちただの空白です。もしかすると、単に私が小人故に何も見えないと云うだけのことなのかもしれません。しかし少なくとも私の見た限りで紙には何の仕掛けもなく、本当に何も書かれてはいないようでした。しかし本当にこれがただの白紙なのかといえば、私はそうではないと思います」
つい先程まで将に慧南の声を掻消さんとしていた野次も、ここで少し小さくなります。
「まずこの詩を書いた李透明という方は恐らく道教に造詣が深く、同時に言葉というものを非常に畏れ、亦た愛していた方でした。ところで道徳経には『道の道たるべきは常なる道に非ず、名の名たるべきは常なる名に非ず』という言葉があります。これは万物の根源たる道とは常に時と場によって変化してしまい、明確にこれが『道』だと示せるものは存在しない。そして詮ずるところ後付けに過ぎぬ人為的な区別、即ち名前というものは、その道の上ではまるで意味を為さないということなのです」
すると慧南は原本を掲げ、
「ではこの言葉を『詩の詩たるべきは常なる詩に非ず、字の字たるべきは常なる字に非ず』とすればどうでしょう。今となってはその内容こそ推量ることはできませんが、この李透明と云う詩人は何かすごいことに出会ってしまった。しかし彼はそれを詩にできなかった──いや、敢えてしなかったのです。透明はその出来事に甚く感銘を受けたが、それを有為たる文字に起こすのに余りに障碍が大きかった。文字にしても後世の者が誤った解釈をするかとしれないし、縦令誤解されないとしても字数制限や平仄、いま存在する文字種の限界といった障壁のために、或いは文字そのものが人為であるために、従来の方法だと正確な表現はできないと彼は考えたのでしょう」
この時には、もはや野次を飛ばしていた者も辛い文句を投げかけていた者も、皆黙って話を聞いていました。
「詩というものは大抵文字で書かれたものを読上げますが、その文字とは謂わば人為の象徴。蒼頡から六一居士に到るまで、文字の世界を創り上げてきたのは悉く人間ではありませんか。故に透明は思い切って一切の文字を廃し、その詩を無為の詩、即ち『無為歌』として形にしたのです。これは詩人として最大級の挑戦にして、最大限の表現であったと私は思います」
さて、皇帝は慧南の擱筆の音から締めの言葉を言い切るまで、その一部始終を全てお聞きになっていました。彼はそっと立上り、慧南の顔を見て言います。
「文字にしないことで表現し得るという詩が、よもやこの四海に存在していたとは。真を申せば、朕にはただの白紙にしか見えなかったのだ」
然後この話は李透明の考えを尊重すべきという方針により、詩集や正史にはもちろん野史から説話集にさえ文字としては載せられず、この話は口頭によってのみ伝えられていきました。また慧南の複製こそ無事でしたが、どうも原本の方は清の乾隆年間、某の官僚が誤って書簡の紙にしてしまったと云います。
(了)