第90話:大田 美沙
手に握っていた搭乗券が、突然、奪い取られた。
由佳さんの指先がそれを掴むと、ためらいなく音を立てて引き裂いた。
――えっ?
破り捨てられた紙片が、私の目の前で宙に散った。
舞い落ちていく小さな白い破片を、呆然と追いかけるしかなかった。
※※※
「……秀介」
由佳さんの声が震えていた。涙が頬をつたっていた。
「美沙さんを赦してあげて。そして、幸せにしてあげて。沙奈ちゃんと……それから、生まれてくる子も」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
私の胸を貫いて、呼吸を奪った。
※※※
秀介は驚愕に目を見開き、そして私を見つめた。
その瞳に浮かんでいるのは、動揺、困惑、そして――痛み。
「……美沙……」
低くかすれた声で名前を呼ばれた瞬間、胸の奥で何かが爆ぜた。
――赦してほしいなんて、思ってなかった。
――幸せにしてほしいなんて、願ってなかった。
ただ、この人にもう迷惑をかけたくなかった。
それだけなのに。
※※※
「……だめ……そんなこと、だめ……」
自分でも驚くほど弱々しい声が漏れた。
「私なんか……赦される価値なんてない。幸せになんて……なってはいけないの……」
嗚咽が喉を塞いで、声にならない。
でも、止められなかった。
――だって本当は。
心のどこかで、ずっと赦されたいと願っていたから。
秀介に「大丈夫だ」と言ってほしかったから。
※※※
視界が涙で滲む。
沙奈が不安そうに私の袖を握っている。
小さな手の温もりが、かろうじて私をこの場に繋ぎ止めていた。
けれど、由佳さんの言葉が、私の心を深く抉り続けていた。
――秀介に幸せにしてもらう?
そんな資格、本当に私にあるの?
沙奈にも、お腹の子にも……。
※※※
秀介が一歩、私に近づいた。
その瞳は揺れていた。
「……佐藤さんと一緒にならなくて、いいのか?」
胸の奥が締めつけられた。
その問いは、彼がまだ誤解している証。
でも――それも当然だ。
私が今まで選んできた愚かな言葉と行動のせいなのだから。
私は首を振った。涙で視界が揺れる。
「……ちがうの。私は……ずっと……愛していたのは……秀介だったの」
嗚咽で声が途切れる。
それでも、伝えずにはいられなかった。
「でも……そう信じてもらえないのは……全部……私が悪いの」
肩を震わせながら、必死に言葉を絞り出す。
「だから……由佳さん……私は幸せになる資格なんてないの」
喉の奥が焼けるように痛い。
涙が止まらず、床に落ちていく。
※※※
秀介は、困惑した顔で私を見ていた。
言葉を探しているのに、何も出てこない。
その沈黙が、余計に胸を締め上げた。
――やっぱり、私は駄目な妻だった。
愛していたと言っても、もう届かない。
彼に信じてもらえないのは当然のこと。
でも、由佳さんは分かってくれている。
彼女の瞳には、憎しみではなく、理解と痛みが映っていた。
むしろ由佳さんの方が、私の秀介への愛を「本物」だと認めてしまっている。
その事実が、いっそう胸を裂いた。




