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第89話:大田 秀介

 搭乗手続きを待つ列。

 巨大なターミナルの天井から差し込む光が、磨き上げられた床に反射し、人々の足音とざわめきが響き渡っている。

 その雑踏の中で、俺たち四人は島のように取り残されていた。


 ――由佳が、寡黙だ。

 さっきから一言も喋らず、じっと何かを抱え込むように沈黙している。

 その横顔が気になって仕方がなかった。


※※※


 突然、由佳が顔を上げた。

 俺の瞳を真っ直ぐに見据え、そして次に美沙へと視線を移す。

 唇を噛みしめ、決意を込めた声で言った。


 「……秀介。美沙さんのお腹の中には、新しい命が宿っているの」


 空気が凍りついた。

 周囲のざわめきが遠のき、耳鳴りのような音だけが響いていた。


 「……何だって?」

 思わず声が掠れた。


※※※


 頭が真っ白になる。

 背筋を汗が伝い、心臓が暴れるように打ち始める。

 信じられない。

 どうして、そんな大切なことを――。


 「……なんで黙っていたんだ!」

 気づけば声を荒げていた。

 周囲の視線などどうでもよかった。

 俺の胸を焼いていたのは、怒りと、混乱と、裏切られたような苦しみだった。


※※※


 美沙はその場に崩れ落ちるように肩を震わせ、涙で濡れた顔を上げた。

 「いいの……この子は、もう私が育てるから。だから秀介は……由佳さんと幸せになって……」


 嗚咽で言葉が途切れ、掠れた声が胸を抉った。


 俺は思わず言葉を投げつけていた。

 「それは……本当にオレの子どもなのか?」


※※※


 瞬間、美沙の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 「……あなた以外の男の人なんて……知りません」

 声は震え、呼吸さえも掠れていた。

 「本当に、それだけは信じて……。検査してもいいの。でも……でも、もうそんなことどうでもいいの」


 その声が、喉の奥で何度も崩れ落ちていく。

 「私は……秀介に幸せになってもらいたい。あなたの邪魔をしたくない。私にそんな価値は全然ない……」


 嗚咽に掻き消されながらも、必死に言葉を絞り出していた。

 「本当に駄目な妻で……ごめんなさい。でも……でも、私は……本当に秀介、あなたを愛していました。今も……でも、もうそんな事どうでもいいの。どうか幸せになって、――そして、あなたの力で世界を少しでも良くしてください。信じてる、信じています……」


※※※


 俺は、立ち尽くした。

 膝から力が抜け、足元の床が揺れているように感じた。

 言葉を探しても、喉が塞がれて出てこない。


 愛されていた。

 不器用に、歪んだかたちでも、確かに。

 その事実が胸を締め上げ、呼吸を奪っていく。


 目の前で泣き崩れる美沙。

 その傍らで沙奈が不安げに母の手を握っている。


 ――どうすればいい。

 俺は何を返せばいいんだ。


 答えのない問いだけが、胸の奥で暴れ続けていた。


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