第88話:街丘 由佳
空港へ向かうハイウェイ。
西海岸の陽射しが車内に斜めに差し込み、窓越しに照らす。
運転席には秀介。隣に座る私は、言葉を失ったままハンドルを握る彼の横顔を盗み見ていた。
後部座席には、美沙と沙奈。二人の姿がバックミラーに映るたび、胸の奥が痛んだ。
※※※
――どうして、こんなにも重たい沈黙なのだろう。
沙奈は無邪気に外の景色を見つめ、「あれ何?」「飛行機見えるかな?」と指を差す。
その声が、車内の張り詰めた空気をかろうじて和らげていた。
けれど美沙は、微笑もうとしても口元が震え、すぐに伏し目がちになってしまう。
私は知っている。
美沙は秀介に、お腹の子のことを――結局、伝えなかった。
※※※
最初、それは臆病さだと思った。
けれど違う。
あれは、あまりにも残酷な覚悟の形だった。
秀介に余計な負担をかけたくない。
今は彼に、世界を背負わせるべき時。
そのために、たとえ自分が産む子どもであっても、彼の未来から遠ざける。
――それは、自己犠牲という言葉ですら生ぬるい。
自らの存在を切り裂いてでも、彼を守ろうとする想い。
私はその深さに、同じ女として圧倒されていた。
※※※
秀介が、かつて美沙に「佐藤と幸せになってほしい」と願ったことがあった。
それがどれだけの美沙への思いの末の言葉であったのかを私は知っている。
それがどれだけの秀介自身にとって残酷なまでの自己犠牲を強いる決断であったのかも私は知っている。
だが今、美沙自身がその残酷さをなぞるように――「由佳と一緒に幸せになって」と願っているのだ。
新たな命の存在すら隠し、告げないことで。
その選択は、愛を失った女のものではない。
むしろ、それは本物の愛だった。
※※※
私は彩花と共に、ずっと秀介を信じ、待ち続けてきた。
それは、本当の彼を知っていたから。
かつて大学の研究室時代に輝いていた彼の本当の姿を。
だから、信じていられた。
でも――美沙は知らなかった。
それでも、ここまで彼を愛していた。
その事実を、私が否定できるのだろうか?
胸の奥で葛藤が渦を巻いた。
私が「秀介の妻になる」と思い描いてきた夢が、今ひどく揺らいでいた。
※※※
「……もうすぐ着くな」
ハンドルを握る秀介が、小さく呟いた。
前方には巨大なガラス張りのターミナルが近づいてくる。
サンフランシスコ国際空港――出発と到着が交錯する場所。
人々の希望と涙が同じ空気に混じる、旅立ちと別れの象徴。
エントランスに車を寄せ、停める。
スーツケースを降ろし、ロビーに入ると、天井高く伸びる吹き抜けに声と足音が響き渡った。
人々が行き交うざわめきの中で、私たち四人だけが孤島のように立ち尽くす。
※※※
手続きを待つ列に並びながら、私は後ろを振り返った。
沙奈の肩を抱く美沙の姿。
その頬は白く、でも静かに微笑んでいる。
あぁ――この人もまた、秀介を愛してきた人なんだ。
その愛は、形を変えてもなお続いている。
私がその愛を憎むことはできない。
でも、受け止めることも、たやすくはできない。
目の奥が熱くなる。
心が、引き裂かれるように痛んだ。
――もうすぐ、飛行機が出る。
美沙と沙奈は日本へ。
私も、一度帰国する。
だけど――心の中の答えはまだ出ないまま。
ただ、愛と愛が交錯するこの空港で、私は立ち尽くしていた。




