第86話:大田 美沙
優勝者として名前が告げられた瞬間、会場が揺れた。
拍手、口笛、歓声――その渦の中心に、秀介がいた。
スクリーンに映し出された彼のメッセージを、私は息を詰めて読んだ。
《私は、世界を変えるのは、技術そのものではなく、人の思いが宿った技術だけであると信じています》
《この資料を、私を諦めずに支援してくれた街丘由佳さん、高瀬彩花さんに捧げます。
そして、かつて一緒に仕事をした高岡香里さんの死に、心からのご冥福をお祈りいたします。
この仕組みの実現によって、こうした悲劇が少しでも減る、新しい世界の到来を願わずにはいられません。》
文字が光に揺れるように見えた。
嗚咽が喉の奥まで込み上げる。
――あぁ、やっぱりこの人はすごい。
私の夫だった人は、本当に世界を変えてしまう人なんだ。
広告のためでも、金のためでもなく、苦しんでいた誰かのために。
私はこの人を、愛しながら、そんな事すら理解していなかったのかもしれない。
※※※
会場の熱狂は止まらなかった。
投資家たちが互いに目配せし、研究者は慌ててメモを取り、記者はシャッターを切り続ける。
人々が総立ちになり、スタンディングオベーションの渦が広がる。
でも――私はただ座ったまま動けなかった。
嵐のような喝采の中で、たった一人取り残された影のように。
歓声が大きければ大きいほど、私の孤独は深く沈んでいった。
※※※
その瞬間、決意した。
――もう私の居場所はない。
妻としても、仲間としても。
ここに残れば、彼の未来の光を曇らせてしまうだけ。
沙奈の小さな手を握りしめ、出口に向かおうとした。
でも次の瞬間――。
「パパー!」
私の指先から、沙奈の手がすり抜けた。
気づいた時には、もう彼女は走り出していた。
一直線に、ステージの上の秀介へ。
「待って!」
声を出そうとしたけれど、喉は震えて声にならなかった。
追いかける力も、もう残っていなかった。
※※※
ステージで沙奈が秀介に抱きつく。
会場がどよめき、無数のシャッターが一斉に光る。
私はただ裾の方で、静かに頭を下げることしかできなかった。
壇上に上がる資格なんて、私にはない。
けれど――。
沙奈は無邪気に、彼に言ってしまった。
「ママが、あそこにいるの」
その言葉に、全身の血が凍る。
お願い、やめて。
私はここにいちゃいけないのに。
黙って帰ることすら、もう許されない。
こんなの、あまりにも残酷だよ……。
※※※
表彰式が終わり、会場は華やかな打ち上げパーティーへと移った。
秀介の周りには投資家や研究者、ファウンダーが群がり、次々に名刺を差し出していた。
笑顔と握手、絶え間ないアプローチ。
その光景はまるで別世界で、私は壁際に立ち尽くすしかなかった。
――帰りたい。
でも、帰れない。
沙奈の「ママがいる」という一言が、もう後戻りを許さなかった。
※※※
少しの合間。
由佳さんが秀介に寄り添い、何かを囁いた。
そして、こちらに視線を向ける。
その視線は鋭くも、どこか慈悲深かった。
逃げ場をなくす視線。
私の心臓が大きく跳ねた。
「……私が日本から、美沙さんと沙奈ちゃんを連れてきたの」
由佳さんの声が会場の喧騒を一瞬かき消したように感じた。
ついに――。
ついに、彼と向き合う時が来てしまったのだ。
※※※
足が震える。
声が出ない。
でも、目の前に立つのは、私が愛し、そして失った人。
――秀介。
でも私はもう決めている。
お腹の子の事は黙っている。
もう迷惑はかけない。
それがせめてもの、私の愛の形。
私が秀介を本当に愛していたことが、嘘にならないように。
私は黙っている事に決めた。
だから、せめて一言だけ。
由佳さんと幸せになってね――それだけを伝えよう。




