表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
88/98

第86話:大田 美沙

 優勝者として名前が告げられた瞬間、会場が揺れた。

 拍手、口笛、歓声――その渦の中心に、秀介がいた。


 スクリーンに映し出された彼のメッセージを、私は息を詰めて読んだ。


 《私は、世界を変えるのは、技術そのものではなく、人の思いが宿った技術だけであると信じています》

 《この資料を、私を諦めずに支援してくれた街丘由佳さん、高瀬彩花さんに捧げます。

 そして、かつて一緒に仕事をした高岡香里さんの死に、心からのご冥福をお祈りいたします。

 この仕組みの実現によって、こうした悲劇が少しでも減る、新しい世界の到来を願わずにはいられません。》


 文字が光に揺れるように見えた。

 嗚咽が喉の奥まで込み上げる。


 ――あぁ、やっぱりこの人はすごい。

 私の夫だった人は、本当に世界を変えてしまう人なんだ。

 広告のためでも、金のためでもなく、苦しんでいた誰かのために。

 私はこの人を、愛しながら、そんな事すら理解していなかったのかもしれない。


※※※


 会場の熱狂は止まらなかった。

 投資家たちが互いに目配せし、研究者は慌ててメモを取り、記者はシャッターを切り続ける。

 人々が総立ちになり、スタンディングオベーションの渦が広がる。


 でも――私はただ座ったまま動けなかった。

 嵐のような喝采の中で、たった一人取り残された影のように。

 歓声が大きければ大きいほど、私の孤独は深く沈んでいった。


※※※


 その瞬間、決意した。

 ――もう私の居場所はない。

 妻としても、仲間としても。

 ここに残れば、彼の未来の光を曇らせてしまうだけ。


 沙奈の小さな手を握りしめ、出口に向かおうとした。

 でも次の瞬間――。


 「パパー!」


 私の指先から、沙奈の手がすり抜けた。

 気づいた時には、もう彼女は走り出していた。

 一直線に、ステージの上の秀介へ。


 「待って!」

 声を出そうとしたけれど、喉は震えて声にならなかった。

 追いかける力も、もう残っていなかった。


※※※


 ステージで沙奈が秀介に抱きつく。

 会場がどよめき、無数のシャッターが一斉に光る。

 私はただ裾の方で、静かに頭を下げることしかできなかった。

 壇上に上がる資格なんて、私にはない。


 けれど――。

 沙奈は無邪気に、彼に言ってしまった。


 「ママが、あそこにいるの」


 その言葉に、全身の血が凍る。

 お願い、やめて。

 私はここにいちゃいけないのに。

 黙って帰ることすら、もう許されない。

 こんなの、あまりにも残酷だよ……。


※※※


 表彰式が終わり、会場は華やかな打ち上げパーティーへと移った。

 秀介の周りには投資家や研究者、ファウンダーが群がり、次々に名刺を差し出していた。

 笑顔と握手、絶え間ないアプローチ。

 その光景はまるで別世界で、私は壁際に立ち尽くすしかなかった。


 ――帰りたい。

 でも、帰れない。

 沙奈の「ママがいる」という一言が、もう後戻りを許さなかった。


※※※


 少しの合間。

 由佳さんが秀介に寄り添い、何かを囁いた。

 そして、こちらに視線を向ける。


 その視線は鋭くも、どこか慈悲深かった。

 逃げ場をなくす視線。

 私の心臓が大きく跳ねた。


 「……私が日本から、美沙さんと沙奈ちゃんを連れてきたの」


 由佳さんの声が会場の喧騒を一瞬かき消したように感じた。

 ついに――。

 ついに、彼と向き合う時が来てしまったのだ。


※※※


 足が震える。

 声が出ない。

 でも、目の前に立つのは、私が愛し、そして失った人。


 ――秀介。

 でも私はもう決めている。


 お腹の子の事は黙っている。

 もう迷惑はかけない。

 それがせめてもの、私の愛の形。


 私が秀介を本当に愛していたことが、嘘にならないように。

 私は黙っている事に決めた。


 だから、せめて一言だけ。

 由佳さんと幸せになってね――それだけを伝えよう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ