第80話:大田 美沙
父は、ついに電報堂の副社長を退任した。
とはいえ霞が関からは、すでに複数の天下り先を打診されているらしい。
だから本人はどこか清々しい顔をしていて、しばらくは悠々自適な日々になるのだろう。
時間があるからか、父も母も、沙奈とよく遊んでくれる。
けれど、その沙奈が時々、夜に泣きながら私の胸に顔を埋めるのだ。
「……お父さんに、会いたい」
小さな声でそうつぶやく娘を抱きしめるたび、私も一緒に涙がこぼれてしまう。
全部――全部、私のせいだ。
※※※
数日前、由佳さんに会った。
会う度に思う。本当に綺麗な人だ。
強く、凛としていて、それでいてどこか包み込むように優しい。
そしてずっと秀介を支えていた。
私は悟った。
もう、由佳さんが秀介の新しい奥さんになるのだろうと。
私には、その未来を否定する力は残されていない。
だからこそ、私は心に決めた。
――最後の願いを、どうしても叶えてほしい。
私のお腹の中には、新しい命がある。
その子のお父さんは秀介だ。
生まれたら、一度でいい。ほんの一度でいいから、抱いてあげてほしい。
それだけが、残された私の願いだった。
※※※
そして今日。
由佳さんに会ってから数日後に、一通の連絡が届いた。
――3日後にサンフランシスコに向かいます。
――渡航の用意をお願いします。
短い文面だったが、私はすぐに理解した。
渡米した翌日、秀介にとって大切なコンテストがあるらしい。
その舞台で彼に会える。
きっとこれが最後の機会になる。
だから、沙奈も一緒に連れていこう。
「お父さんに会いたい」と泣いていた娘を、今度こそ会わせるために。
※※※
鏡に映る私は、すっかりボロボロになってしまっていた。
痩せこけた頬、やつれた目元、艶を失った髪。
このままでは、とても秀介に会えない。
だから決めた。
せめて、きれいに着飾って、堂々と彼の前に立とう。
みすぼらしい姿で、彼に迷惑をかけたくない。
せめて最後くらい、彼に愛された女としての誇りを失いたくない。
――秀介。
どうか、私の最後の願いを聞いて。
その思いを胸に、私は震える指でパスポートとチケットを用意した。




