第77話:街丘 由佳
スーツケースを開け、出張用の荷物を一つひとつ詰めながら、私は笑みを抑えられなかった。
――今度こそ、“わたしの秀介”が世界に認められるのだ。
シリコンバレーの学会で、彼が発表する予定の新しいAIのアイデアは、既に投資家や研究者の間で大きな注目を集めていた。
毎日、チャットアプリの通知が鳴るたびに、胸が跳ね上がる。
「愛している」――私は毎日秀介にメッセージを送る。
送るたびに、私の心は満たされていくのだから。既読がつく度に満たされていくのだから。
だって彼はその都度「心が少しずつ解凍する」のだから。
私はもう確信している。
今度こそ私は、彼の隣に立てるのだから。
そして、世界で最も注目される男―わたしの秀介―に、私は渡米したら思い切り抱かれ、たっぷり愛されるのだ。
私は全身全霊で秀介を愛する。
秀介が望めば、どんな事だってしてあげる。
そして秀介の子どもを私は生むのだ。
私は世界で一番幸せだ。
もう迷いはない。日本GBCのつまらない仕事なんて、もういつでも投げ打ち、私の人生全てを彼に捧げる覚悟を決めていた。
※※※
そのときだった。
日本GBCのオフィスの受付から、私宛に来客があると内線が入った。
「……どなたですか?」
受話器を握った手に、かすかな緊張が走る。
――美沙。
その名前を聞いた瞬間、空気が変わった。
胸の奥で燃え上がるような昂ぶりと、氷のような冷たさが同時に押し寄せる。
彼女が、何故ここに?
※※※
応接室のドアを開けると、そこにいたのは痩せ細った美沙だった。
かつて「副社長の娘」として華やかに立っていた姿は影もなく、目の下には深い隈が刻まれ、両手は落ち着きなく震えていた。
「……由佳さん」
掠れた声が空気を震わせた。
――彼女は壊れてしまっていた。
こんなになって、可哀想。
けれど、同時に苛立ちがこみ上げた。
どうしてこの期に及んで、私たちの世界に踏み込んでくるのか。
秀介を手放したはずの女が。
私は冷静を装い、椅子に腰を下ろした。
心臓の鼓動は、昂ぶる幸福のリズムから、鋭い警戒のリズムへと変わっていた。
――さぁ、美沙。
あなたはいったい、何を言いに来たの?




