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第75話:大田 美沙

 「電報堂帝国」はもう崩れかけていた。

 いや、そもそもそんなものは最初からなかったのだ。

 栗田自動車からの決定的な決別宣言。博広社への案件流出。電報堂デジタルとの関係の決定的な悪化。

 社内に漂うのは、責任を押しつけ合う声と、諦めの笑い。

 ――あの誇らしい看板―最大手広告代理店―が、音を立てて崩れていく。


 私はその中心にいながら、何もできなかった。

 ただ「副社長の娘」として、誰からも腫れ物のように扱われて。

 哀れみと侮蔑の視線を受け続けるだけ。


※※※


 そして今日。

 彩花が去る日が来た。

 彼女は最後の荷物を手に、フロアを見渡し、凛と立っていた。

 誰も止められない。誰も彼女を咎めない。

 むしろその背に、羨望と安堵の混じった視線さえ送られていた。


 私は胸の奥を掻き毟られるような思いで声をかけた。

 「……彩花さん。お願いです。秀介の居場所を、教えてください」


 声が震えた。

 もう妻であることも、母であることも投げ捨てていい。

 ただ一度でいい、あの人にお腹の子の存在を伝えたい。

 生まれた赤ん坊を、ほんの一度でいいから抱いてほしい。

 それだけなのに。


 彩花は一度だけ振り返った。

 その目は、酷く冷たかった。


 「……秀介は、あなたなんかのものじゃない」


 心臓が止まった。

 その言葉は、刃より鋭く私を貫いた。


 「秀介はね、もうずっと、私と由佳が、この世で一番――自分の命よりも大切にしてきた人なの。

 それを“妻”とか“子ども”とか……何様のつもり?……笑わせないで」


 空気が震えた気がした。

 私の存在を、丸ごと否定する声だった。


 「……そんな……」

 膝が崩れそうになるのを必死に堪える。

 涙はもう出なかった。

 ただ、頭の奥が真っ白になっていく。


 だが、彩花は容赦なく言葉を続けた。


 「ずっとあんたが嫌いだった。ずっと納得できなかった。

 秀介の横にいていいのは、由佳。――それが叶わないなら、その時は私。

 あんたなんて、最初から間違いだったの

 ずっと秀介が可哀想だった。ずっと間違い続けていた」


※※※


 世界が音を失った。

 机を叩く音も、社員のざわめきも、何も聞こえない。

 ただ、彩花の声だけが頭の奥でこだましていた。


 「お願いです……」

 私は縋るしかなかった。

 「教えてください。秀介の居場所を……お願い……」


 その必死さに、彩花は一瞬だけ疲れたように目を伏せた。

 だが、次の瞬間、冷たく切り捨てる。


 「――由佳が赦すなら。由佳が教えるなら。

 でも、もう秀介は由佳のもの。……わたしたちの秀介なの!

もう……わたしたちの秀介の人生を辱めないで、邪魔しないで!」


 最後の言葉は、宣告だった。


 彼女は背を向け、ためらいもなくフロアを去っていった。

 その姿に誰も声をかけられず、ただ見送るしかなかった。


※※※


 私は机に手を突き、立っているのがやっとだった。

 涙は出なかった。

 ただ、胸の奥で何かが静かに崩れていった。


 ――そうか。

 私が失ったのは、夫ではなく、世界そのものだったのだ。


 秀介。

 あなたに会いたい。

 でももう、私には届かない。

 「妻」としても、「母」としても、あなたの隣に立つ資格はないのだろう。


 フロアのざわめきが、遠く、遠くに霞んでいった。


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