第73話:高瀬 彩花
香里の死からまだ数日しか経っていない。
私は大きな喪失感で到底仕事できる状況ではなかった。
なのに、営業局のフロアには哀悼の気配など一片もない。
耳に入るのは、責任逃れの言い訳と、他人を嘲る薄笑いばかりだった。
「まぁ、結局はデジタルが下手打ったせいだろ」
「ウチの責任じゃない。香里だって抱えすぎてたし」
言葉の一つひとつが胸を抉った。
――香里は、そんな人じゃなかった。
抱えすぎたんじゃない。
彼女を支え、守るべきだった人たちが、誰一人として支えなかったんだ。
そして――あの若造。
かつて秀介を殴り、罰も受けずにのうのうと残った、あの若造が机にふんぞり返っていた。
彼の口から出た一言が、私の中の最後の何かを完全に壊した。
「結局さ、香里が勝手に潰れただけだろ。迷惑な話だよ」
――その瞬間、視界が真っ赤に染まった。
※※※
気づいた時には、拳が若造の頬を叩き割っていた。
乾いた衝撃音。
若造が床に倒れ込み、周囲がどよめく。
だが止まらなかった。
机にあったノートPCを掴み、全力で振り下ろす。
液晶が割れ、鈍い音と共に彼の腕が赤く染まった。
「所詮、文系出身の――何の役にも立たないクズの分際で!」
喉が裂けそうな声が、自分のものとは思えないほど鋭く響いた。
「何を偉そうに言ってるの! お前が香里を殺したんだ! お前が!」
PCが机に、床に、倒れた若造の体に叩きつけられ、壊れていく。
フロアの誰一人として近寄らず、制止すらできなかった。
私の怒りは、もう止まらなかった。
「香里がどんな思いで案件を回してたか、知りもしないで!
お前みたいな無能が、現場の血を吸って踏み台にして!
笑っていられるなんて――地獄に落ちろ!」
涙で視界が歪み、喉の奥が焼ける。
殴りつけるたび、胸に溜まっていた哀しみと怒りが爆発していった。
※※※
「……やめろ!」
怒声と共に、佐藤が現れた。
私は息を荒げ、乱れた髪を振り乱しながら振り返る。
彼の顔を見た瞬間、怒りは再び燃え上がった。
「あなたのようなクズが、こういうクズを育てたんです!」
声は震えていなかった。鋭く、はっきりと突き刺した。
「だからここはクズだらけになった! 香里を殺したのは、この腐った構造そのものじゃないですか!」
佐藤は何も言い返せなかった。
口を開きかけては閉じ、周囲の社員の視線を浴びながら、ただ立ち尽くしている。
私はもう一歩踏み出し、彼を真正面から睨んだ。
「私は暴力を行使しました。さぁ、どうぞ告発してください。それがあなたに、この電報堂グループにできるというなら!さぁ、それが出来る資格があるヤツがいるなら……告発してみろ!この下劣なクズ共が!」
声がフロアに響き渡った。
社員たちの沈黙を切り裂くように。
「私は栗田自動車に転籍します。そして――私が栗田に居る限り、もう電報堂には一切発注しません」
吐き捨てるように言った。
「あなたのような下劣なクズが駆逐されない限り、ここに未来はない!」
※※※
沈黙。
壊れたPCと、血の気を失った若造。
呆然と立ち尽くす同僚たち。
その中心に、私は立っていた。
胸の奥が燃えていた。
悲しみと怒りと絶望が混じり合い、すべてを焼き尽くそうとしていた。
――香里、ごめんね。
私はあなたを、この下劣な世界から守れなかった。
でも、せめてここで、あの腐った笑い声を叩き潰した。
あなたを馬鹿にする奴は許さない。もう二度と笑わせない。
背を向け、私はフロアを後にした。
背後に残ったのは、怒号も拍手もなく、ただ凍りついた沈黙だけだった。




