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第72話:大田 美沙

 佐藤局長と他の営業第2局幹部と一緒に、電報堂デジタルのフロアに一歩足を踏み入れた瞬間、空気の重みで呼吸が止まりそうになった。

 社員全員が立ち上がり、こちらを睨んでいる。

 その視線の鋭さに、背筋が凍りつく。


 長谷部社長が前に進み出た。

 「……香里さんの自死の責任まで、こちらに押しつけるおつもりなら、徹底的に対抗しますよ」

 静かな声だった。だがその奥に燃える怒りは、フロア全体に伝わっていた。


 次の瞬間、拍手が鳴り響いた。

 怒りを叩きつけるような、轟音の拍手。

 足元が揺らぐほどの圧力に、私は思わず膝が震えた。


※※※


 「佐藤局長、どう責任を取るつもりだ!」

 「部下を死に追い込んで、何もなかった顔をする気か!」

 「愛人にかまけて、現場を潰したんだろう!」

 「全部お前の責任なのに、それすらデジタルに押し付けるつもりかよ」


 罵声が次々に飛ぶ。

 そして、矛先は私に向かった。


 「そこにいるのは副社長の娘だろう?」

 「お前の“二号”“愛玩具”をまたも同行させているのかよ!」

「秀介さんを放っておいて、いい身分だな!」

 「優遇されて、その陰で誰が死んだと思ってる!」

 「まぁもう元奥さんだもんな」


 耳を塞ぎたい。

 でも、耳の奥までその言葉が突き刺さってくる。


 「違う……そんなの違う……!」

 掠れた声で否定しても、罵倒は止まらなかった。

 「出ていけ!」

 「お前みたいな女に悲しむ資格すらないと思え!」

「なんでお前みたいな女と秀介さんが結婚したのか、全く分からないね」


 胸が引き裂かれる。

 副社長の娘として守られてきた私が、今は憎悪の標的にされている。


※※※


 ――そのとき気づいた。

 ギリギリの均衡は、秀介がいたからこそ成り立っていたのだと。


 彼がいれば、社員たちも黙って耐えていた。

 彼がいれば、プロジェクトも回っていた。

 彼がいれば、香里さんも死ななかった。


 そうだ。

 今、ここで私が浴びている罵声も、全ては――秀介がいないからだ。


 彼がいたから、私も「副社長の娘」という居心地のよい立場のままでいられた。

 彼がいたから、私は守られていた。

 その秀介を失った瞬間、私は丸裸にされ、この下劣な怒号の前に晒されている。


※※※


 隣にいる佐藤に視線を向けた。

 ――助けて。

 私を助けてくれる一言を言ってくれるだけでよかった。


 でも、彼は黙っていた。

 目を逸らし、口を開こうとしては閉じる。

 社員たちの罵声に、長谷部の怒りに、ただ沈黙している。


 ……何もしてくれない。


 私が「愛玩具」と罵られているのに。

 私が泣き崩れそうになっているのに。


 ――そうか。

 やっぱり、私はずっと間違えていたんだ。

 最初からずっと間違えていたんだ。

 本当に守ってくれていたのは、佐藤局長じゃない。

 副社長の娘という肩書きでもない。


 本当は、ずっと秀介が。

 本当に無理をして、誰よりも必死に全体を支えてくれていた秀介が。

 私も、電報堂も、香里さんも――全部彼に支えられていた。


 そしてその人を失った今、残ったのは、この惨状だけだ。


※※※


 涙が頬を伝った。

 罵声の渦に立ち尽くしながら、私は悟っていた。


 ――もう遅い。

 秀介を失った瞬間から、私たちの世界は終わっていたのだ。


 拍手と怒号の響きが、胸の奥をずたずたに切り裂いていった。

 これは思い上がっていた私たちが受けるべき罰なのだ。


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