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第70話:高瀬 彩花

 東京駅に降り立ったとき、私は心の中でひとつの区切りをつけていた。

 栗田自動車の説得は失敗。副社長も、美沙も、何もできなかった。

 ――でも、もう構わない。

 私は電報堂を見限る。栗田に移籍する。それでいい。


 なのに。

 オフィスに戻った瞬間、空気の異様さに息が止まった。


 ざわめき。

 視線の交差。

 ――そして、そこにいるはずの香里の姿がなかった。


 「……高岡は?」

 問いかける声が、震えていた。

 「それが……今日、まだ見ていないんですよ」

 軽く答える同僚の口調が、逆に恐怖を煽った。


 胸の奥で、冷たいものが音を立てて広がっていく。


※※※


 私はスマホを取り出した。

 香里の番号を押す。コール音が続く。

 出ない。

 もう一度。

 ――出ない。


 指先が汗で滑る。呼吸が浅くなる。

 嫌な予感が、全身を締めつけていた。


 「人事と一緒に確認した方がいい」

 誰かがそう言った。

 気づけば、私は人事部の担当者と共にタクシーに乗っていた。


 窓の外の街並みが流れる。

 こんなにも世界は普通に回っているのに。

 胸の奥の冷たさだけが強まっていく。


※※※


 香里のアパート。

 管理人が無言で鍵を差し出した。

 ドアが開くと、淀んだ空気が押し寄せてきた。


 電気はついていない。

 カーテンも閉ざされている。

 部屋の中は、まるで時間が止まったように静まり返っていた。


 ――そこに、香里はいた。


 声が出なかった。

 足がすくみ、息が止まった。


 眠っているみたいだった。

 けれど、その静けさは永遠のものだった。


※※※


 「……っ」

 目の奥が熱くなり、視界が滲んだ。

 人事部の担当者が慌ただしく電話をかけている。救急、警察、手続き――現実の声が遠くに聞こえる。


 私はただ、その場に立ち尽くしていた。

 香里の姿から目を逸らすことができなかった。


 ――可哀想に。

 あんなに頑張っていたのに。

 寝る間も惜しんで、食事も削って、必死に走り続けていたのに。

 誰も彼女を守らなかった。


 思い出す。

 「大丈夫です」――そう言って、無理なオーダーを飲み込んでいた姿を。

 「ありがとうございます」――そう頭を下げていた彼女の笑顔を。

 すべて、無理して作っていた笑顔だったのだ。


 私だって気づいていたはずだ。

 彼女が限界だったことを。

 でも私は……。


 「……香里……」

 名前を呼んだ瞬間、堪えていたものが崩れた。

 涙が止まらなかった。


 栗田への移籍。

 電報堂の崩壊。

 そんなことは、どうでもよかった。


 ――大切な可愛い後輩を、私は失ったのだ。


 「ごめん……ごめんね、香里……」

 声にならない声で、私はただ泣き続けた。


 彼女の最期に立ち会ってしまったその日を、私は一生忘れることはできないだろう。


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