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第69話:高岡 香里

 深夜のオフィスに、キーボードを叩く音だけが響いていた。

 画面の光が顔を照らすたび、目の奥が痛んだ。

 寝ていない。食べてもいない。

 でも、止まれなかった。止まったら全部崩れてしまう気がした。


 今日、やっと一つの案件が電報堂デジタルと一緒に成約した。

 「高岡さん、本当に助かりました」――そう言われた時、胸が震えた。

 あの秀介さんに甘えてばかりだった自分でも、やっと少しだけ認めてもらえた気がした。


 けれど、その喜びは長く続かなかった。

 翌日には、電報堂デジタルがネット専業銀行のシステム開発案件で手一杯になり、もう協力はできないと言われた。

 「外部ベンダーに頼んでください」

 突き放すような声が耳に残る。


 外部に頭を下げ、条件を合わせ、深夜に資料を修正し続けても、クライアントは離れていく。

 佐藤局長からは、結果についてだけ叱責された。

 「また落としたのか。何をやっているんだ」

 何もしていない美沙さんはいたわられて、私は怒鳴られる。

 ――世界は、こんなにも不公平なんだ。


※※※


 帰り際、ふと廊下で美沙さんに呼び止められた。

 「……大丈夫?」

 振り向くと、彼女の瞳は本気で心配そうに揺れていた。

 あんなことを言ってしまった私を、まだ気にかけてくれるなんて。

 胸が痛んだ。

 「ありがとうございます。……でも、大丈夫です」

 笑ったつもりだった。でも、声は震えていた。


 優しい人だ。ずっと守られてきた人だから、他人を思いやる余裕がある。

 私とは違う。


※※※


 終電を逃したオフィスに、夜が沈んでいく。

 空調の音さえ重たく感じる。

 ふと窓の外を見ると、街の灯りが滲んで見えた。


 ――秀介さん。

 あなたがいた時、私はどれだけ救われていたんだろう。

 あなたが「大丈夫です」と言ってくれた、その一言だけで、どんな無理難題も不思議と乗り越えられた。


 今はもう、誰も言ってくれない。

 「大丈夫」と、ただ一言。


 気づけば、涙が頬を伝っていた。

 理由なんて分からない。

 ただ、胸の奥から溢れて止まらなかった。


 ――少しだけ、休みたい。

 ほんの少しでいいから。


 そう願った瞬間、闇がすぐ傍にあることに気づいた。

 窓の向こうに広がる、静かな夜の闇が。

 

 私は目を閉じた。

 闇の中で、もう一度「大丈夫」と言ってくれる声を探しながら。

  少しだけ眠りたいな。


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