第64話:高岡 香里
朝の会議室に座っていても、心はずっとざわめいていた。
クライアントからのメール、デジタルへの要請、そしてなんといっても、ナショナルクライアントの代表格、栗田自動車対応――。
どれも火の手が上がり、誰も消そうとしない。いや、消せないのだ。
消す能力がない。
営業第2局の主たる関心は栗田対策に集中していた。
「ここを落とせば全部終わりだ」――そんな空気が蔓延していて、他の案件は後回し。
そのために、彩花さんは名古屋に短期滞在となり、唯一頼れる存在をも失った。
私は完全に板挟みになっていた。
クライアントは待ってくれない。納期は迫る。
でも社内からは誰もサポートしてくれない。
デジタルに相談しても「標準的な負荷の範囲を超えています」と冷たく切り返されるばかり。
私はただ、薄い机に額を押しつけそうになりながら、どうすればいいのかを考えていた。
※※※
報告しても、佐藤局長から返答はほとんどなかった。
「分かった」と短く言うだけで、次の瞬間にはもう別の栗田案件の資料に目を落としている。
――私が抱えている案件のことなんて、誰も気にしていない。
そんな時、美沙さんがふと目に入った。
デスクで資料をめくっているけれど、その目はどこか遠くを見ていて、まるで抜け殻のように見えた。
気づけば、言葉が口から飛び出していた。
「……なんで、旦那さんをもっと大切にしなかったんですか?」
その瞬間、美沙さんの肩がびくりと揺れた。
顔を覆い、嗚咽が洩れる。
周囲の視線が一斉に突き刺さる。
――ああ、言ってはいけないことを言った。
分かっていたのに。
その日から、私は職場で一層浮いた存在になった。
「また高岡が余計なことを…」と小声が飛ぶ。
空気の壁が、私の周りだけを囲んでいくのが分かった。
※※※
なんとか立て直そうと、再びデジタルに頭を下げた。
「お願いします、この案件だけは……」
しかし返ってくるのは冷徹な返答だった。
「今は栗田の件で手一杯です。他のことは受けられません」
扉を閉じた瞬間、胸の奥に冷たいものが広がった。
――もう、どうしようもない。
取り込む予定だったクライアントは、結局ライバル代理店に流れてしまった。
その報せを受けたとき、体の芯が崩れ落ちるようだった。
※※※
だが、局長室に呼ばれた瞬間、それ以上の冷たさが待っていた。
「高岡。どういうことだ?」
佐藤局長の声は氷のようだった。
「クライアントが離脱したと報告を受けたぞ。お前、何をやっていたんだ」
言葉を失った。
――助けもなく、背中を預けられる人もいないまま、必死で走ってきた結果だった。
「すみません……ですが、あの状況では……」
震える声で答えかけたが、佐藤は遮った。
「言い訳はいらない。結果がすべてだ」
胸が音を立てて砕けた気がした。
――やっぱり、私はこの場所では誰にも守られない。
秀介さんが去ったあの日から、すべてが変わってしまった。
私はただ、小さく頭を下げることしかできなかった。




