第62話:高岡 香里
――秀介さん。
彼の退職の知らせを聞いた日の衝撃を、私はまだ引きずっている。
涙が止まらなかった。胸の奥にぽっかりと穴が空いたようで、呼吸が浅くなった。
思い返せば、どれだけ無理難題を彼にお願いしてきただろう。
ネット広告キャンペーンはいつだって時間が足りない。修正、追加、突発のオーダー――まともなスケジュールなど組めるはずがなかった。
けれど私が「お願いします」と頭を下げれば、秀介さんは必ず「分かりました」と答えてくれた。
決して声を荒げず、文句を言わず。淡々と、ただ“なんとか”してくれた。
もちろん、それが彼の膨大な残業や、休日を潰した労働によって支えられていたことを、私は知っていた。
だからいつも申し訳なくて――それでも頼らざるを得なかった。
その人がいなくなるなんて。
だから私は涙が出るほどショックだったのだ。
※※※
私は努力してきた人間だ。
ふつうの家庭に生まれ、ひたすら勉強して東都大学に入り、必死に頑張って、やっと大手代理店の電報堂に就職した。広告だけでない、新しい文化を創る世界があると信じていた。
でも待っていたのは「見えない格差」だった。
コネ入社の同期は、派手で戦略性の高い案件を任される。多少結果が出なくても、企画が“華やか”なら評価された。
その一方で、私はネット関連という、もっとも地味で、もっとも厳しい領域に回された。
専業ネット代理店との熾烈な競争。常にギリギリの納期。予算は絞られ、要求だけはエスカレートする。
潰れる者も多かった。
それでもなんとか回してこれたのは――全部、秀介さんがいたからだった。
※※※
けれど、もう彼はいない。
後任のデジタル担当者に相談を持ちかけると、返ってきたのは冷たい一言だった。
「出来ないことは、出来ません」
私は唖然とした。
その口調は容赦なく、まるで釘を打ち込むように冷たかった。
「……あのね」
彼女の声が震えている。それが私達に対する怒りである事も、もう分かっている。
「秀介さんだから、辛うじて出来ていただけなの。それも、ものすごい秀介さんの犠牲によってね」
「でもその人に対して、あなたたちの会社って何をしてくれた?」
後任担当者の電報堂批判の言葉は止まらなかった。
「私は怒っているの。だから、これからは“標準的な負荷の範囲”で、“妥当なスケジュール”と“正当なコスト”が要求できなければ、全部お断りする。もうこれは、ウチの社長にも了解を取っているからね」
にべもない返答。
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた気がした。
――秀介さんの不在は、こんなにも残酷に現れるのか。




